ひとり、またひとり
「ここは、死後の世界なんですか」
青年は、何も言わなかった。
暖炉の火がパチパチと鳴った。
だんだんと全身から血が引いていくのがわかった。
鼓膜の奥で、カタ、カタ、と時が進んだ。
私は彼の目をじっと見つめ続ける。
なにか答えて欲しかった。
青年の丸い目は静止したまま、少ししぼんで見えた。
すると、小さな少年が椅子を引いて立ち上がり、そのまま入口から出て行った。
横を過ぎる時、手に青いものを持っているのが見えた。ゲーム機の色を初めて見た気がした。
暖炉の前が揺れる。おじいさんは眠ったままだった。
「ここは死後の世界なんかじゃない」
突然、重く低い声が降ってきた。
声は天井高く響いて、じんわりと余韻を落とす。
背後でおじさんが梯子を下ってくるのがわかった。
私は、ゆっくりと振り返った。
目元に皺を刻んだ眼鏡のおじさんは、長いしわくちゃな髪を肩の上で揺らしながら近づいてくる。黒い髪に白髪が目立って混じっている。
左腕には分厚い本を何冊か抱えていた。それらは色褪せていた。
おじさんは濃い青のシャツを着ていて、だけど私には遠い昔の人のように見えた。
ずっといたはずなのに、不思議と初めて見る姿に思える。
おじさんはすぐ隣に立ち止まって、私をずしりと見下ろした。
眼鏡の奥から、銀色の意思が見えた。
ひどく落ち着いた、鋭い表情だった。
「ここは、死後の世界なんかじゃない」
彼はちらりと青年の方を一瞥し、すたすたと入口へと歩いていく。
堂々とした背中がリビングから消えた。
私はあっけに取られた気持ちでしばらく扉の方を見ていた。
振り返ると、青年はまだ黙ったまま俯いている。
「あの人は?」
青年はやっと顔を上げ、私を見るとニコリとした。
あまり表情には力がなかった。
「あの人は、エルです」
「エル」
「アルファベットの、Lです」
「……何か意味があるんですか?」
彼はようやく、すくっと姿勢を正し、しっかりと私の方を向いた。
「あの人の部屋の名前です。僕は親しみを込めて、エル、と呼んでいます」
青年は私の目を見る。
「意味なんて、ありませんよ」
青年はそういうと、軽く笑った。
なんだか胸の奥がすっとして、肩の力が抜けた。
部屋の名前、と、頭の中で繰り返す。
「みんな、記憶がないのですか?」
青年は私の目を見て、それから小さく頷いた。
「大体の方はそうです。ただ、何かの記憶を持っている人もいます」
彼は視線を逸らした。
「それがどういうことだかは、僕にもわかりません」
私は、ふう、と息を吐く。
全身から力が抜けて、気持ちが楽になっていくのがわかった。
自分が今見知らぬ場所にいることの実感が、どこか背後からやってきた。
「それじゃあ、あなたは?」
青年は首を振った。
「僕には、ほとんど記憶がありません。ただ、」
彼は一度リビング全体を見渡すように視線を巡らせる。
何か探し物をしているように見えた。
「ただ、どうしてだかはわかりませんが、僕がニ十歳だということだけは覚えています」
「ニ十歳」
私は言葉をなぞる。
その響きはとても特別なように思えて、何故だか嬉しかった。胸の奥がふわふわとした。
「それだけは、確かなことなんです」
青年の丸い瞳に何かが灯った気がした。
「ここでは、気のせいといって片付いてしまうことかもしれません、だけど、僕にはそれが確かなことだということはわかるんです」
私は不思議と微笑みを浮かべていた。
「そんなに、大切なこと?」
静かにこみ上げる可笑しさに、私は身を任せる。随分、久しぶりに笑った気がした。
青年はそっぽを向いて、少し戸惑いの表情をみせた。
「年齢は、大切なことです」
伏し目がちな表情に幼さが滲んだ。
横顔に浮かぶ小さな鼻が、ぽっくりとささやかに咲いた。だんだんと視界がぼやけて、焦点が曖昧になる。
「私は、いくつなんだろう」
ふと、思ったことをそのまま形にする。声はリビング全体に広がる前に、力なく沈んでいく。
私の頼りない声に、青年は少し首を傾げる。
「それは、大切なことですか?」
彼は少年のように笑った。
私は首を横に振った。
「私は、何も覚えてないから」
青年は一つ、頷いた。
それから前かがみになって、またテーブルに腕を置く。
「きっと、大丈夫ですよ」
暖炉の前で、揺りイスが動いた気がした。やっぱりおじいさんはまだ眠っていた。
私は膝の上に手を置いて、青年の顔を見つめる。
清潔感のある印象に、ひっそりと色白さが溶け込んだ。
「大丈夫って、なんだろう」
ぽつりと呟いた自分自身の言葉に、戸惑いが浮かぶ。
私は一体何を言っているんだろう。膝の上で手のひらを握る。
青年は、一つ瞬きをした。
「少し、暖かいものでも飲みませんか?」
「暖かい、もの」
「そう、ここには食堂があるんです」
彼は入口の方を見る。
「同じ一階の、廊下を進んだ先です」
私はハっとして、自分の身体を見た。
食欲なんて、考えもしなかった。今自分がお腹が空いているのかどうかはよくわからい。だけど何かを口に出来る気はした。
その時、自分がグレーの服を身に纏っているのが見える。
とても大きなオーバーサイズのトレーナーだ。その先には緩めの黒いパンツが足元へと続いている。
自分が服を着ているとは思わなかった。目が覚めてからこれまで、何かを身に纏っているということを考えていなかった。
思ってみると、当たり前のことだ。急に芽生えた恥じらいが鮮やかに膨らんで、私は青年の方を見ることが出来なかった。
視線の先は、ただ暖かい木のフローリングだった。
「それじゃあ、行きましょうか」
青年の声が立ち上がって、すたすたと入口へと向かうのがわかった。
私は自分の腕を撫でていた。触り心地の良さが、ふわりと心を揺らした。どこかに意識が飛んで、そのまま帰ってこれない気がした。
青年が振り返って、私を見つめていると思った。
廊下は、ひどく冷え切っているように思えた。
黒い床はただ静かに先へと伸びて、窓から漏れ出した薄明かりを身に受けてひっそりとしている。
空気が澄んでいる、そうなんとなく感じるのは、あの階よりも少しだけ明るいからなのか、何処までも透明な光が無限の粒になって、ガラスの方へと生き生きと浮かび上がっている。
窓の数も多く、一つ一つの間も近い。
青年はやっぱり少し先を歩いて、靴の音がことことと起き上がる。
私はしばらくその音に集中していた。
どのくらい歩いたかはわからなかった。少し寒いな、と思った。
ふと、青年が私の方を見ていた。
ぽつんと、なんだろう、と見返す。
青年は小さく微笑んで、また前を向く。短くも長くもない髪が少年のように揺れる。
私は少し歩みを速めて、彼の左横へと並ぶ。
「もうすぐ着きますよ」
青年はこちらを向いて、一つ瞬きをする。
私は小さく頷いた。靴の音がこつこつと鳴っている。私は窓の方を見つめる。
四隅には植物のようにくるくると巻いた何かの装飾が施されている。影が微かに映っていた。ガラスには薄っすらと自分の姿が映りそうだった。
何気なく青年の方へと顔を向ける。
「どこかに、鏡はありませんか?」
私は髪を触った。毛先が鎖骨のあたりでふわふわと生き物みたいに揺れる。
青年の目が私の方を見ると、だけど眉をひそめて視線を落とす。
ぽっくりと小さな鼻に戸惑いを浮かべる。目を凝らせばそこには、蝶々が浮かんで見えるまでに思える。
彼は薄い唇を開いて、それから閉じた。しばらく言葉を選ぶように黙った。
「実は、一つもないんです」
「・・・・・・え?」
頼りない実感が、胸の中をすとんと落ちていく。思いもよらない言葉だった。
青年は下を向き、そのまま俯いた。
靴の音がこつこつと続く。
じわじわとこみ上げる無力感が私の肩を覆って、ひんやり震えそうになる。何かを言いたくて、だけどなんにも言葉にならなかった。
私はもう一度髪に触れた。少し持ち上げてみて、何度か撫でた。だけど、廊下はひんや
りとした。
ひりひりと、時間が音もなく凍えていく。それでも私の足は動いて、青年は歩いた。
どんより曇った心模様に、さめざめと風が吹きすさぶ。
まるで昔から大切にしていたものがぽつりと消えてしまったような気持ちだった。
私はどこを向いていいのかがわからず、あちこちに視線を巡らせる。それで、身体が左右に揺れた。
混乱は変わらず黒い廊下と四角い窓を映しだすだけだった。
ようやく意識が青年を向いた時、私は口を開くことが出来た。
「鏡がない?」
青年は大人しく足元を見ている。
「鏡はないんです」
「どうして?」
「わかりません」
どうして、と、私はまた言いそうになった。
「鏡一つくらい、だって、こんなに大きな館なんですよ」
私は青年の瞳をじっと見つめる。彼の表情が沈みこんだ。
それでも、青年が口を開くのを待った。何かの手がかりを探している人の気持ちが今ならわかる気がした。
「わかりません、それに、館の大きさも定かではないんです」
青年はやっと私の方を向く。
「例えばこの廊下だって、長い時もあれば、短い時もあります。確かに食堂はそう遠くはないですが、もしかすると辿り着けない日が来るかもしれない」
私には彼が何を言っているのかがよくわからない。
まるでピントの合わないカメラを延々と覗いているみたいだった。頭がぼやけて、目が疲れた。意識が冷えてどうにかなってしまいそうだった。
「ねえ、私はどうしたらいいの」
青年はじっと、ただ私の言葉を待った。
「何が正しくて、間違っているんですか」唇が震えて、言葉が零れ落ちる。
青年はただ丸い目で私を見つめるだけだった。
私が黙ると、青年の歩みが遅れた。
何かを気に留めるのがずんと重たくて、私は歩みを速めていく。
凍っていた時間は少しずつ実感を取り戻し、ゆっくりと進んでいるみたいだった。
光は変わらずにさめざめとしている。
足音は、聞こえない、それは私が前を行っているからなのか、彼がそう歩いているからなのかはわからないし、知る由もない。
黒い廊下がしのびやかに続いている。
木目が見えたり、よく見るとそれは気のせいだったりした。
何かが、ひらひらと舞い降りた。
柔らかい光が浮かび上がったようにも見えた。
私は、顔を上げた。
舞い降りた、と思ったものは、ものではなくて小さな人を形どった。
小さな少女が、薄い水色の服を纏って、静かに立っていた。それは私たちからは少し離れていた。綺麗なオデコの上に、ピンクのヘアクリップが留まっている。手には黒い猫のぬいぐるみが握られていた。
ふらりと吸い込まれてしまいそうだった。
まるでそっといておくだけでも壊れそうなものを見ているような気持ちだった。
今すぐにでも駆け寄って、屈んで、手を握って、語り掛けてあげたい、守ってあげたい、そういう衝動が嵐となって、胸の奥がふんわりとする。
「あの子」
呟くと、青年は私にピタリと近寄ってきた。