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時のまにまに。  作者: ハナ
2/4

青年の空白

青年はそれを確認すると、するすると歩きだした。

 私はしばらく言葉を失っていた。 

 何から考えていいかわからなかった。胸の中で、白いもやが渦巻くだけだった。

 やることもなく、ただ彼の小さな足音を聞いていた。

 トン、トン、トン、と、それにふらふらと続いた。

 館の板は、時々ギシりと鳴った。

 彼は茶色の革靴を履いていた。

 暗くてディテールは見えない。

 それが、トントンと歩みを進める。 

 余韻が優しく起こっては、靴は動いてまた音を生んだ。

 薄明かりが彼の革靴を照らして、また暗くなる。

 長い廊下ではずっとその繰り返しだった。

 その鼓動を聞いていると、ただ静かに壁時計のことを思い出した。

 空間に惑わされ、埋もれていく。悪い気はしなかった。

 むしろ耳を傾けていると、だんだんと落ち着きの中に身を沈ませることが出来た―――

「大丈夫ですか?」

 ハッと、顔を上げる。

青年は階段途中で振り返り、戻ってきていた。

 気付けば彼との距離が少し離れてしまっていた。

 青年は心配そうに少し顔を傾け、表情に空白をのせている。

「あ、大丈夫です」

「無理はされないでください」 

 青年は私の肩にぽんと手を当てた、ように見えて、実際そうはしなかった。下を向くかをにひとひらの逡巡が舞い降りる。

 どこか思いつめたように、一度上げた腕をそのまま降ろす。

「はい」

 答えたものの、私はどうしていいかわからなかった。

「ここに来た人たちは、みんな、初めはそうなんです」 

 青年はここではないどこかを見るように顔を逸らした。

「ここは、そういう場所なんです。ただ知って、受け入れていくしかない」

それはどういうことですか?

そう言おうとして、止めた。

今ここで質問をしたところで、きっと無駄だと思った。聞きたいことはたくさんあるし、焦らなくていい気がした。そのくらいには余裕を取り戻すことが出来た。

私はぽつんと、一つ瞬きをする。

 青年は私を見て、頷く。

「あなたなら、きっと大丈夫です」

 彼は微笑んで、それから振り返った。一瞬、彼の横顔に健やかさが滲んだ。

 青年はやっぱり私の少し先を降りた。大人しく後に続く。

 時間はまた緩やかに動き出す。

 ひたひたと階段を下りながら、何度も部屋の中でのことを思い返した。

 記憶にないものたちの中で、だけどありありと生きた時間が、あの場所にはあった。

 どこか懐かしいようで、虚しいくらい充実した空間だった。

 それは束の間の恐れさえも吸い取って、私に何かを語りかけてくれているようにも思えた。

 だけど結局どういうことなのか、全てはまだ薄暗くて見えなかった。私は何も思い出すことが出来ない。

 前を行く青年の後ろ姿を見つめる。 

 私よりも少し大きな身長と、落ち着きと、ほんのりとした可愛さが香る。

 自分のことはわからないけれど、きっと年齢はいくつも下だった。

 ただ耳を澄ませるように、彼の背中を追っていく。

 踊り場には、小窓が一つあった。

 四角に区切られた光はささやかで、柔らかくなってカーペットに掛かった。

 階段はしばらく続いた。

 しみじみと、足音が降りていく。

私にはその時間が、遠い御伽噺のように思えた。



 リビングと呼ばれた部屋は想像よりもずっと広かった。天井も、ずっと高かった。

 二階、三階分はありそうな吹き抜けと、広さも学校教室で言うと二、三個分はある。

 壁の端々には、高級そうな傘付きのライトがあった。

「どうぞ、ここがリビングです」

 青年は、やけに嬉しそうだった。

 入口横の壁は一面が本棚になっていて、途方もない量の本がずらりと並ぶ。

 長い梯子が掛けてあって、眼鏡を掛けた真面目そうなおじさんがそこに登って、何やら手探っている。

 奥には大きな暖炉が据えられ、オレンジ色の炎に薪がくべられている。

 そのすぐ前に年季の入った揺りイスがあって、白髪のおじいさんがうずくまっている。

 よく見ると目は閉じられていて、眠っているのだとわかった。

 まるで時間が止まっているかのように安らかな姿だった。

「どうですか?」

 青年は揚々とした。

「なんだか、不思議です」

「そうでしょう」

 やっぱり彼は嬉しそうにする。

 中央には長方形の大きなテーブルが置いてあって、全部で八人は掛けられた。

 その一つに、ここのつくらいの小さな少年が座って、ゲーム機のようなものを手に、前のめりになっている。

「とりあえず、掛けましょうか」

 私は青年の目を見て、こくりと頷く。

 暖炉の上には大きな絵画が飾られていた。

 一人の白い服を着た女性を前に、黒い装束の男性が何人か膝をついて見上げている。

 背後では黒い雲が白い空を覆うように渦巻いている。

 暖炉で薪が、パキっと鳴った。

 私はテーブルに近寄って、椅子を引く。

 小さな少年は三つとなりに座っていて、だけど一度もこちらを見ることはない。

 青年は私の向かい側に腰掛けた。

「気分は、どうですか?」

 彼は真っすぐな目で私を見た。

「少し、落ち着きました」

「そうですか」

 青年はホっとしたように少し目を細め、表情を緩ませる。

 それから何かを考えるように視線を右へと逸らす。

 そこにはついさっき通った入口のドアがあった。

「あなたがここへ来たのは、今日ですか?」

 青年は視線をそのままに言う。

「今日?」

 言っていることが、よくわからない。掴みとれない。

 私はずっと、あの部屋にいた。

 確かなことはそれだけで、それ以上はない。

 恐ろしいくらい長く感じる時間を前にして、私はぼうっと、深い谷底で眠るように埋もれていた。

 恐れや孤独が入り混じったような、甘いまどろみだった。全てを手放してしまったような無気力だった。

 助けを求めるように青年を見ていると、ようやく視線が合った。

 小さく開いた薄い唇に、ほんのり戸惑いを浮かべている。

 彼はやっぱり、どこか考え事をしているように見えた。

その姿はどこか小動物を思わせた。

「ああ、すみません」

青年の表情に少しの明るさ灯る。

「よく、わかりませんよね」

 何と答えていいかわからず、小さく頷く。

 頭の中では、まだあの部屋での時間が潮の満ち引きのように静かに訪れていた。

 私は言葉を探った。

「この館には、何人かの人がいます」

 青年は一度私の目を見て、それから机の上に置いた手に視線を向ける。

 両手を冷静に重ねていて、そこには彼なりのリズムがあるように思えた。

「あなたは、新しい住人なようです」

「住人?」

 予想外の言葉に驚いて、そう口を突く。

 特別さも異常さもない単なる二文字は、ここでは酷くアウェイに思える。

 まるで知らない星にでもやってきた気分になった。

 私はここに訪れた覚えがない。

「そうです、ここで暮らすことになるでしょう」

「暮らす」

「はい、どうですか?」

 青年はとても自然な面持ちで私の目を見る。

 私には、彼が楽しそうにも嬉しそうにも見えた。

「シェアハウスか、なにかですか?」

 私は素直な言葉を口にしてみる。

 青年は可笑しそうに口を開く。

「はは、それは面白いですね」

 彼は周りの三人へ視線を巡らせる。

 彼らはなんともなかったように、じっとしている。

暖炉の中で、薪が割れる音がした。

「たしかに、ここはシェアハウスですね」

 青年は愉快そうに手のひらをひらりと見せる。

「違うなら、そう言ってください」

「ふふ、だけどあなたが言ったんですよ」

 私は、黙って頷いた。

 からかわれたという気持ちが膨らんで、私は目を伏せる。

 気恥ずかしくて、何も言えなかった。

 思ったことを口にしたけれど、もちろん本当にそうだとは思えなかった。

 私にはまだ、何もかもがわからない。

 何をすれば正解で、どう思うことが自分らしいのか。

 不安がひらひらとやってきて、私の周りをまわる。

 掛け時計がまだどこかでなっている気がした。

「すみません、ふざけがすぎました」

 青年は視線を落とし、テーブルの上で自分の手を握った。

 そのまま気配が沈んでいくように、しゅんとする。

白い肌が少し曇って見えた。

 私はどうしていいかわからず、そのまま彼から視線を離した。

 高い天井のてっぺんで、ライトの周りを四枚の羽根が静かに回っている。

 三つ隣に座る小さな少年は何も言わず、ただゲーム機のようなものに向かいあっている。

 背後で、コト、と音が聞こえれば、背中越しでもおじさんが何かを手に取ったようだとわかった。

 薪がパチパチと鳴って、暖かい空気を運んでくる。

 青年は重ねた手を見て、じっと固まったままだった。

 小高く整った鼻にどこか悲しみの全てをのせているように思える。

 それがどのようなものなのかはわからない。

 すんと微動だにしない姿は存在感を失くしていって、このまま空間の一部になって消えてしまいそうな気がした。 

 また背後で、コト、と音がした。

 私は一度目を瞑り、それから青年を見た。

「死んじゃったんでしょうか」

 彼は、はっと顔を上げた。

 黒い瞳の奥が揺れている。

「私は、死んじゃったんでしょうか」

 小さく開いた口が少しだけ動いた。

 だけど何か言葉を形どることはなく、ただ私の目を見た。

「ここは、死後の世界なんですか」


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