青年の空白
青年はそれを確認すると、するすると歩きだした。
私はしばらく言葉を失っていた。
何から考えていいかわからなかった。胸の中で、白いもやが渦巻くだけだった。
やることもなく、ただ彼の小さな足音を聞いていた。
トン、トン、トン、と、それにふらふらと続いた。
館の板は、時々ギシりと鳴った。
彼は茶色の革靴を履いていた。
暗くてディテールは見えない。
それが、トントンと歩みを進める。
余韻が優しく起こっては、靴は動いてまた音を生んだ。
薄明かりが彼の革靴を照らして、また暗くなる。
長い廊下ではずっとその繰り返しだった。
その鼓動を聞いていると、ただ静かに壁時計のことを思い出した。
空間に惑わされ、埋もれていく。悪い気はしなかった。
むしろ耳を傾けていると、だんだんと落ち着きの中に身を沈ませることが出来た―――
「大丈夫ですか?」
ハッと、顔を上げる。
青年は階段途中で振り返り、戻ってきていた。
気付けば彼との距離が少し離れてしまっていた。
青年は心配そうに少し顔を傾け、表情に空白をのせている。
「あ、大丈夫です」
「無理はされないでください」
青年は私の肩にぽんと手を当てた、ように見えて、実際そうはしなかった。下を向くかをにひとひらの逡巡が舞い降りる。
どこか思いつめたように、一度上げた腕をそのまま降ろす。
「はい」
答えたものの、私はどうしていいかわからなかった。
「ここに来た人たちは、みんな、初めはそうなんです」
青年はここではないどこかを見るように顔を逸らした。
「ここは、そういう場所なんです。ただ知って、受け入れていくしかない」
それはどういうことですか?
そう言おうとして、止めた。
今ここで質問をしたところで、きっと無駄だと思った。聞きたいことはたくさんあるし、焦らなくていい気がした。そのくらいには余裕を取り戻すことが出来た。
私はぽつんと、一つ瞬きをする。
青年は私を見て、頷く。
「あなたなら、きっと大丈夫です」
彼は微笑んで、それから振り返った。一瞬、彼の横顔に健やかさが滲んだ。
青年はやっぱり私の少し先を降りた。大人しく後に続く。
時間はまた緩やかに動き出す。
ひたひたと階段を下りながら、何度も部屋の中でのことを思い返した。
記憶にないものたちの中で、だけどありありと生きた時間が、あの場所にはあった。
どこか懐かしいようで、虚しいくらい充実した空間だった。
それは束の間の恐れさえも吸い取って、私に何かを語りかけてくれているようにも思えた。
だけど結局どういうことなのか、全てはまだ薄暗くて見えなかった。私は何も思い出すことが出来ない。
前を行く青年の後ろ姿を見つめる。
私よりも少し大きな身長と、落ち着きと、ほんのりとした可愛さが香る。
自分のことはわからないけれど、きっと年齢はいくつも下だった。
ただ耳を澄ませるように、彼の背中を追っていく。
踊り場には、小窓が一つあった。
四角に区切られた光はささやかで、柔らかくなってカーペットに掛かった。
階段はしばらく続いた。
しみじみと、足音が降りていく。
私にはその時間が、遠い御伽噺のように思えた。
リビングと呼ばれた部屋は想像よりもずっと広かった。天井も、ずっと高かった。
二階、三階分はありそうな吹き抜けと、広さも学校教室で言うと二、三個分はある。
壁の端々には、高級そうな傘付きのライトがあった。
「どうぞ、ここがリビングです」
青年は、やけに嬉しそうだった。
入口横の壁は一面が本棚になっていて、途方もない量の本がずらりと並ぶ。
長い梯子が掛けてあって、眼鏡を掛けた真面目そうなおじさんがそこに登って、何やら手探っている。
奥には大きな暖炉が据えられ、オレンジ色の炎に薪がくべられている。
そのすぐ前に年季の入った揺りイスがあって、白髪のおじいさんがうずくまっている。
よく見ると目は閉じられていて、眠っているのだとわかった。
まるで時間が止まっているかのように安らかな姿だった。
「どうですか?」
青年は揚々とした。
「なんだか、不思議です」
「そうでしょう」
やっぱり彼は嬉しそうにする。
中央には長方形の大きなテーブルが置いてあって、全部で八人は掛けられた。
その一つに、ここのつくらいの小さな少年が座って、ゲーム機のようなものを手に、前のめりになっている。
「とりあえず、掛けましょうか」
私は青年の目を見て、こくりと頷く。
暖炉の上には大きな絵画が飾られていた。
一人の白い服を着た女性を前に、黒い装束の男性が何人か膝をついて見上げている。
背後では黒い雲が白い空を覆うように渦巻いている。
暖炉で薪が、パキっと鳴った。
私はテーブルに近寄って、椅子を引く。
小さな少年は三つとなりに座っていて、だけど一度もこちらを見ることはない。
青年は私の向かい側に腰掛けた。
「気分は、どうですか?」
彼は真っすぐな目で私を見た。
「少し、落ち着きました」
「そうですか」
青年はホっとしたように少し目を細め、表情を緩ませる。
それから何かを考えるように視線を右へと逸らす。
そこにはついさっき通った入口のドアがあった。
「あなたがここへ来たのは、今日ですか?」
青年は視線をそのままに言う。
「今日?」
言っていることが、よくわからない。掴みとれない。
私はずっと、あの部屋にいた。
確かなことはそれだけで、それ以上はない。
恐ろしいくらい長く感じる時間を前にして、私はぼうっと、深い谷底で眠るように埋もれていた。
恐れや孤独が入り混じったような、甘いまどろみだった。全てを手放してしまったような無気力だった。
助けを求めるように青年を見ていると、ようやく視線が合った。
小さく開いた薄い唇に、ほんのり戸惑いを浮かべている。
彼はやっぱり、どこか考え事をしているように見えた。
その姿はどこか小動物を思わせた。
「ああ、すみません」
青年の表情に少しの明るさ灯る。
「よく、わかりませんよね」
何と答えていいかわからず、小さく頷く。
頭の中では、まだあの部屋での時間が潮の満ち引きのように静かに訪れていた。
私は言葉を探った。
「この館には、何人かの人がいます」
青年は一度私の目を見て、それから机の上に置いた手に視線を向ける。
両手を冷静に重ねていて、そこには彼なりのリズムがあるように思えた。
「あなたは、新しい住人なようです」
「住人?」
予想外の言葉に驚いて、そう口を突く。
特別さも異常さもない単なる二文字は、ここでは酷くアウェイに思える。
まるで知らない星にでもやってきた気分になった。
私はここに訪れた覚えがない。
「そうです、ここで暮らすことになるでしょう」
「暮らす」
「はい、どうですか?」
青年はとても自然な面持ちで私の目を見る。
私には、彼が楽しそうにも嬉しそうにも見えた。
「シェアハウスか、なにかですか?」
私は素直な言葉を口にしてみる。
青年は可笑しそうに口を開く。
「はは、それは面白いですね」
彼は周りの三人へ視線を巡らせる。
彼らはなんともなかったように、じっとしている。
暖炉の中で、薪が割れる音がした。
「たしかに、ここはシェアハウスですね」
青年は愉快そうに手のひらをひらりと見せる。
「違うなら、そう言ってください」
「ふふ、だけどあなたが言ったんですよ」
私は、黙って頷いた。
からかわれたという気持ちが膨らんで、私は目を伏せる。
気恥ずかしくて、何も言えなかった。
思ったことを口にしたけれど、もちろん本当にそうだとは思えなかった。
私にはまだ、何もかもがわからない。
何をすれば正解で、どう思うことが自分らしいのか。
不安がひらひらとやってきて、私の周りをまわる。
掛け時計がまだどこかでなっている気がした。
「すみません、ふざけがすぎました」
青年は視線を落とし、テーブルの上で自分の手を握った。
そのまま気配が沈んでいくように、しゅんとする。
白い肌が少し曇って見えた。
私はどうしていいかわからず、そのまま彼から視線を離した。
高い天井のてっぺんで、ライトの周りを四枚の羽根が静かに回っている。
三つ隣に座る小さな少年は何も言わず、ただゲーム機のようなものに向かいあっている。
背後で、コト、と音が聞こえれば、背中越しでもおじさんが何かを手に取ったようだとわかった。
薪がパチパチと鳴って、暖かい空気を運んでくる。
青年は重ねた手を見て、じっと固まったままだった。
小高く整った鼻にどこか悲しみの全てをのせているように思える。
それがどのようなものなのかはわからない。
すんと微動だにしない姿は存在感を失くしていって、このまま空間の一部になって消えてしまいそうな気がした。
また背後で、コト、と音がした。
私は一度目を瞑り、それから青年を見た。
「死んじゃったんでしょうか」
彼は、はっと顔を上げた。
黒い瞳の奥が揺れている。
「私は、死んじゃったんでしょうか」
小さく開いた口が少しだけ動いた。
だけど何か言葉を形どることはなく、ただ私の目を見た。
「ここは、死後の世界なんですか」