白い部屋での目覚め
お忙しいなかアクセスくださりありがとうございます。
約2年ほど前に書いた作品です。
少しでも読者のあなたの心になにか力になるものを
残せればなと思っております。
どうぞお楽しみください。
初めてその薄暗い部屋で目が覚めた時、私はどこまでも一人きりだった。
見慣れない古びた家具や小物たちに、私は囲まれていた。
小さな四角い窓が二つ、冷たい光が差し込んでいる。
焦げ付いたような色の空間だった。
何故だか、壁には掛け時計がたくさんあった。
それらは互い違いになって、軽い音を鳴らして、時間を歪めている。
どの音を聞いて、何を基準にしていいのかがわからない。
左右の鼓膜から、ただ何かの暗示のようにやってくる。私の中のリズムが空っぽになって、ひやひやと胸の中から飛んでいく。
私は、自分自身のことがよく思い出せなかった。自分が誰なのかがわからなかった。
一体、これまで何をしてきたのか。何が好きで、嫌いなのか。何が楽しくて、何が悲しかったのか。額の裏の大切な
おぼろげな記憶の影たちが、頭の後ろの方で、暗く蠢いている。
私は恐る恐る辺りを見回して、霧がかった現実に身を沈ませる。
何度考えても、手ごたえの無さが跳ね返ってくる。まるで、井戸に落とした石のようで、それはいつまで経っても反応を返さない。
暗闇から、とぷとぷと混乱が訪れた。ねっとりと、私の中のありあまった余白を埋めていく。
私は不可解さの中へと、成す術なく飲み込まれていった。
次第に背中から恐怖がせり上がって、私はしばらく身動きが出来なかった。そのまま凍り付いているしかなかった。
何か意味を掴もうとしても、透明で、まるで煙みたいに、たゆたうだけで消えていく。
私は、息をするのも忘れていた。
肌を舐めるような光景が、私の心を青白く染めていく。
歩みを止めない掛け時計が、頭の中で白く鳴っていた。
私は、いつしか孤独の底へと沈んでいった。
ただ目に映るのは、限りないほど長く感じられる時間の海だった。
見渡す限りの、今にも溢れそうな黒い海。
重たい空は夜を浮かべて、星明りがささやかに足元を照らしている。
私は途方にくれてその浜辺を歩きながら、じっくりと考え事をするようにした。私は一人きりなのにもかかわらず、それでも一人でいようとした。
砂はざらざらと音を立てて、冷静さを取り戻させてくれる。
だけど自分が誰でどこにいるのかわからない事実が、頭を何度も打ちつける。
黒い波が打ち寄せて、引いて、またやってくる。
暗い浜辺で体育座りになりながら、その波をただ見つめる。
働かせる思考はグルグルと渦巻くだけで、どこにも辿り着くことが出来ない。
私はどうしても、やっぱり、ベッドの上で横たわっている。
天井が、ひたすらに私を見下ろしている。それは白いようにも、灰色なようにも見える。
もう、胸が空っぽになった気がした。
濃く深い青色が私を覆いつくして、布団に張り付いた。
不安にも、哀しくも思えて、それらはぼやぼやと入り混じって、私を心細く、小さくする。
ひっそりと腕を持ち上げて、髪に触れる。少し長い、柔らかい感触。首元でうねって、肩がちりちりする。むずがゆさは、ほんのりと私を落ち着かせてくれる。
カチ、コト、カタ、――
ふと、消えそうなくらい小さな音がやってくる。
やっぱり、掛け時計たちが鳴っている。
鳴り始めたようにも、ずっと鳴っていたようにも思える。
私は目を閉じて、耳を澄ませることにした。
そうすることで、不透明な影から逃れようと思った。
閉じられた視界の中では、時の流れが曖昧に思えてくる。掛け時計たちはそれぞれの音を奏で続けている。
軽やかなリズムが何度も繰り返される。弾きあって、跳ね合って、互い違いになる。
それでも不快感はなくて、むしろどこか特別な調和を保っている気がした。
時計をかたどる木々は色褪せていて、悠々と長い時を思わせるものだった。そこにはきっと古い歴史が詰まっていて、それはありありと浮かび上がってきそうなまでに見えて、聞こえてくる。
私は目を開けた。
ささやかな響きが、そのまま天井へと吸い込まれていく。静かにベッドから起き上がった。
丸いカーペットは赤く、薄明かりが窓から差し込んでいる。
外はひたすらに真っ白で、景色はよくわからない。雨粒らしきものが伝っていることだけがわかる。
ふと、小柄な三段のチェストがあった。
表面にはいくつか白い傷が走っていて 天板には緑色の写真立てと、銀色のリングが一つ置いてある。
リングは波打つようによじれている。
写真立てには、中身がなかった。
私はだんだんと、心が軽くなっていくのを感じた。
それは何にも囚われなくていいという自由だった。
私は吸い寄せられるように、ゆっくりとチェストへ近づいていく。
不思議と、どこか懐かしい気持ちになった。知らない国で、古い映画フィルムを見つけたような、そんな気分。
窓からの薄明かりが、私の足に掛かる。
腕を伸ばしてリングに触れようとして、だけど私は手を止める。
なんとなく、触れてはいけないような気がした。
こん、こん。
ビクりと、反射的に肩が動く。控えめな音だった。
私は左の方を、そっとみる。古びた木製の、不思議な文様の入った扉がある。
どこか、御伽噺を感じさせる。だけど灯りのない部屋では、重たく、化石のようにも思える。
こん、こん、こん。
それは、間違いなく扉の方だった。
一体、誰が?
思うことは、たくさんあった。もし記憶を消されて、連れ去られて、今ここに閉じ込められているとしたら、そんなことも考えた。
私は不安だった。だけど、心は揺れている。まるで、全ては夢のようだった。
それに、扉の向こうの人が悪い人だとして、いちいちノックなんてするだろうか?
ゆらゆらと歩き出すと、自分が素足だということに気が付く。
赤いカーペットから、暗いフローリングへの境目を感じる。足裏にじんわりと浸透する冷たい実感が、今の私には有難く思えた。
背後からしんと薄明かりを受けながら、扉には私の影が映る。朧げな、はっきりとしない姿。
息を呑み、金色の丸いノブに手を伸ばしていく。
こんこん、と目の前でもう一度鳴った。
私は、祈るようにノブを回した。
館は果てしない静けさで満たされている気がした。
ぽうっと、薄明かりの中を埃が上っている。
天井は少し高く、廊下は長かった。
まるで何かの印のように、一定間隔に窓がある。
ただ、その間隔は妙に遠い気がして、どこかぎこちなく不自然に思えた。
薄明かりを過ぎて暗がりの中へ入ると、もうこの通路には窓などない気がしてくる。
その間息を止めているのなら、途中で苦しくて諦めてしまうかもしれない。そんなことを、なんとなく思う。
だけれど、それを埋めるだけの落ち着いた雰囲気があった。
黒く古びた板や柱は妖しい上品さを醸し出して、白い壁との調和を保っている。
築年数が百年と言われても、その数倍と言われても、簡単に信じることが出来ると思う。
一つだけ確かなことは、私はやっぱりこの場所を知らない。そして、この青年も。
彼の姿を、目で追う。
見えそうで見えない横顔のせいで、顔のない人みたいに思える。
「気分は、どうですか?」
丸い目をした青年は私を見つめてくる。
しばらく続く沈黙が、一気に押し寄せる。
私は何かを確かめるように、彼の瞳を見た。
「……わからない」
微かに、足音が響く。
冷ややかさが、私と青年とを包んでいく。
「なんにも、わからないんです」
青年は少し意外そうな顔をして、それから静かに笑った。
「たしかに、僕も初めはそうでした」
「それは、どういうことですか?」
青年は一つ瞬きをする。
「どういうことでもありません」
青年はそう言うと、何やら考え事をするように少し上を向いて、頭の重みを首に預けた。
黒い廊下は、私からじわじわと体温を奪っていく。
素足のままでは、本当に凍ってしまいそうだった。
「あの、少し冷えませんか?」
青年は少しだけ心ここに在らずといった風に、一瞬、唇に間を持つ。
「ああ、ちょっと待っていてください」
青年はするすると先を行き、角を曲がった。
気が付けばそこは廊下の端になって、階段が続いている。
そこは一面、煤けているように沈んだ色をしていた。音も時間も、全てを吸い込んだような色だった。
青年がすぐ傍にあった丸い取ってを引くと、壁からスリッパの入った収納が顔を出した。
羽毛のようなものが付いていて、暖かそうに見える。
「これをどうぞ」
青年はスッと差し出した。
「ありがとう」
彼はニコリとした。爽やかな前髪が、細い眉の辺りで揺れる。
「じゃあ、行きましょうか」
青年は階段を下っていく。
私は何も答えなかった。
彼は親切なように見えるけれど、まだ何者かは知れない。
私は自分が誰でどこからやってきたのかを知らない。
ここがどこなのかも知らないし、彼はそれに対して平静なように見えた。
少なくとも、私よりはいくらかわかっていることがある。
誰かに頼りたい気持ちと、そう出来ないもどかしさとが胸の中で青く広がる。
私はただじっと、歩みを進めた。
階段には赤い絨毯が敷かれてあった。
青年は私の一歩先を降りて行く。
その足取りはスムーズで、躊躇いは見られなかった。
私は彼の背中を追いながら、付かず離れずで足を動かす。
とん、とん、と身体が揺れ降りるたび、記憶が頭の中でじわじわと、呼吸を始める。
目を覚ましてから、青年と目が合った時のこと。
もう、ずっと前の出来事のようにも思える。
私が扉を開けた時、青年は私を見てホッとしたように見えた。
丸い目と涙袋に親しみをのせていて、私に向かって、
「大丈夫ですよ」と、爽やかに笑った。
色白の肌は、館の薄暗い明かりを受けても色褪せず、まっすぐな健やかさを灯しているように見えた。
私はどうしていいかわからなかったし、何を言っていいのかもわからなかった。
少なからず、不安と疑念とが意識を掠めたけれど、一人ではないということの安心さがいくらか勝っていた。
「あなたを迎えに来ました」
「あなたは、誰?」
「すぐにわかりますよ」
青年は無邪気に笑う。
「どういうこと?」
彼は静かに首を横へ振る。
「どういうことでもありません」
当然のように放つ言葉に、私は困惑する。
だけど、彼が持つ落ち着いた雰囲気に、引き寄せられる。
ただこちらを見て小さく頷く様子は、私の中の不安をじりじりと溶かしていく。
「どこに、行くのですか?」
私は扉に置いた手を離せなかった。
青年は私の目を見て、それから廊下の奥へ顔を向けた。
横顔には頼もしさが見え隠れした。
「この先の階段を下りて一階へ行きます。そこにはリビングがあります」
「……リビング」
「そうです、ゆっくりお話ししたいですよね」
青年はじっと私の目を見た。
「あなたも聞きたいことがあるでしょうから」
私は目を逸らして、部屋の方を振り返る。
薄明かりは変わらずに丸いカーペットを控えめに照らしている。
時計の小さな響きたちは、ここまでは届かなかった。
「聞きたいことはあります」
「当然です。それに、きっとみなさんも待っています」
私は青年の丸い目を見た。
「みなさん?」
「さあ、行きましょう」
彼は私の言葉には答えずに、もう歩き出そうと身体を廊下の方へ向ける。
私はもう一度部屋の方を振り返ってから、慎重に扉から手を離し廊下へと出た。