第1話 黒曜石の姫
「う、うーん・・・」
去りし日の夢から目覚めた私は、けだるい身体をゆっくりと起こした。
いったいどうしてあんな夢を見たのか・・・朝から最悪の気分だ。
「姫様、おはようございます」
「ん・・・おはよう」
意識が覚醒していくにつれて、部屋に漂うほのかな香りが鼻腔をくすぐる。
私の目覚めに合わせて煎れてくれる彼女のハーブティー。
眠っている間に乾いた口の中が、さわやかな香りとともに潤されていく・・・
寝癖のついた髪をとかして貰いながら一口、また一口とカップに口を付ける。
今の私にとって貴重な安らぎを与えてくれる至福のひとときだ。
カップが空になる頃には先程の夢の事などすっかり忘れ去っていた。
「姫様、痛くありませんか?」
癖の強い私の髪が櫛に引っかかった、もちろん痛い。
でも私は痛がる素振りなど見せない。
「ふふっ、大丈夫よ、手間をかけさせてごめんなさい」
余裕の笑顔を作り彼女に応える。
また引っかかった、すごく痛い・・・しかし私は動じない。
これは決してやせ我慢などではない。
私は彼女を消されたくはないのだから・・・
数ヶ月前、彼女の先任の侍女は処分された。
今のように髪が引っかかった時に私が痛がったのを見た父によって。
先任の料理長も父に処分された。
私の嫌いなにんじんを食事に出したからだ。
おかげで今の私には好き嫌いがない。
食事も服もアクセサリーも、与えられた物は全て笑顔で受け止める。
気付いた時には、それが私の役割になっていた。
「姫様、お召し物はいかが致しますか?」
「?」
髪をとかすのが終わったらしく、そう尋ねてきた彼女に私は首を傾げた。
・・・基本的に私の着る服は父が選ぶ事になっている。
今日は何色の服だとか、そういうおおざっぱな指定ではない。
それはもう、髪飾りから靴まで全身のコーディネートだ。
日頃から政務の傍ら何パターンもの組み合わせを考えているのだと聞いた。
実際にそれらの組み合わせを着た私を見て、自分のセンスにご満悦になるのが、父の趣味と言って差し支えない。
・・・本当に気持ち悪い趣味だと思う。
「ええと、今日は・・・お父様の指定はないの?」
基本的に私には服装の選択の自由などなく、着せかえ人形な毎日だったのだが・・・いったいどういう心境の変化だろう。
娘の意志を尊重する気になった?
いやいや、どうせ何かろくでもない思いつきだろう。
更なる悪趣味が始まる可能性を想像しながら訪ねる私に帰ってきたのは、予想外の答えだった。
「国王陛下でしたら本日は早朝から狩りにお出かけになりました。
今日中には戻らぬということですので、本日の姫様のお召し物は、特に指示を受けておりません」
「えっ・・・それって・・・」
「今日の所は姫様の思うがままに、決して不自由な思いをさせてはならぬ、と命じられております」
「な、なんですって!」
・・・思わず声が上擦った。
これまで父は、何処に出掛ける時も私を同行させてきた。
そりゃもう本当に何処にでも、だ。
もちろん狩りにだって何度も連れていかれた事がある。
得意げに狩りたての血塗れの獲物を見せてくるのは本当にやめてほしい。
しかし、それがいったいどんな風の吹き回しか、私を城に置いて出掛けるなど・・・娘連れでは狩る事の難しいような大物を狙っているのだろうか。
・・・あの父が不在。
いかなる理由であれ、こんな日はそうないだろう。
今日だけは何も気にせず、自由に過ごせる。
そう思うと、少しだけ心が躍った。
「それでは姫様、お召し物はいかが致しますか?」
私が状況を理解したと見て侍女が尋ねてくる。
「ちょ、ちょっと待って貰えるかしら」
いや、本当にいかが致したものか。
なにしろ自分で服を選ぶなんて初めての事だ。
これと言って着てみたい服があったわけでもなく、すぐに選べるものではなかった。
しかも厄介な事に、良さそうな服の組み合わせは全て父によって着せられた事があるのだ。
長年の着せ替えで培われた父のファッションセンスには侮れないものがあった、ということか。
大きなクローゼットに眠る幾多の服を前に、私は必死に考える。
「ここは着たことの少ない赤をベースにして・・・でも赤には下手な色は合わせられないし・・・」
「ふふっ」
「あっ・・・」
気付かぬうちに口に出して呟いていたようだ。
私は慌てて顔を背ける・・・きっと恥ずかしさで顔が真っ赤になっていることだろう。
そんな私の気も知らず、彼女はなかなか笑い止んでくれない。
もし父がこんな場面を見たら「無礼者!」と彼女に極刑が言い渡されるかも知れないが・・・
不思議と私は不快ではなかった。
「申し訳ありません、真剣に考える姫様の様子がおかしくて、つい・・・」
「だからって、そんなに笑わなくたっていいじゃない」
「ふふっ」
「もぅ、また笑った」
「いえ、姫様もそんな顔をするんだなって思って」
「そんな顔って、どんな顔よ」
ここまで笑われるということは、余程変な顔をしていたのだろうか?
不安になってつい鏡の方を見てしまう。
鏡にはもちろん普段通りの私の姿が映っていた。
うん、大丈夫。
むしろ今は目の前の彼女の方が変な顔をしていた。
「ええと・・・ほら、姫様っていつもぽ、ポーカーフェイス?でしたっけ?
何を考えているのかわか・・・じゃなくて、他人に考えを読ませない、みたいな」
ああ、私ってそういう風に見えていたのか・・・
彼女は精一杯言葉を選んでくれているようだが、無表情で無愛想、まるで人形のような不気味な存在といった所か。
・・・私にも思い当たる節がないわけではない。
父の所業に巻き込むまいとするあまり、私は他人と距離を取っていた・・・いや、距離の取り方がわからなくて避けていたと言うべきか。
長いこと父のお人形を演じているうちに、私は本当の人形になってしまっていたのかも知れない。
私なりに笑顔を作ってきたつもりだったが、そんなものは通用しなかったようだ。
・・・そもそも、笑顔は作る物じゃない、か・・・
「姫様?いかがなされましたか?ひょっとしてお身体の具合が・・・」
急に黙り込んだ私を心配そうに伺う彼女。
そんな彼女をこれまで避けていたのかと思うと、私は申し訳ない気持ちになる。
「大丈夫よ、ごめんなさい」
「そんな、姫様が謝る必要なんてありません」
(いいえ、本当にごめんなさい)
そんな謝罪の言葉を心に秘め、私は一つの問いを放つべく唇を動かす。
「そうだ、私あなたから聞きそびれていたことがあるの」
「はい姫様、なんなりとお尋ねください」
自分の発した言葉なのに違和感しかない、白々しいとはこの事か。
いちいち余計な言葉を並べる自分が情けない・・・恥ずかしさで顔が熱くなる。
だがここで引き下がってはいけない、ここで逃げてしまったら一生後悔するに違いない。
・・・私は彼女から目を背けず、声に力を込めた。
「あなたの・・・お名前を教えてもらえるかしら?」
相変わらず、名前を考えるのが苦手な作者です。
はい、誰一人名前が決まってません。
なんとか登場人物の名前を一人も出す事なく、ここまで書き切りましたが・・・
さすがに次の話では名前を出さざるを得ません。
というわけで、第2話は名前が決まり次第の(何)公開となります。