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花の鳥籠  作者: 白基支子
9/23

聖女の初夜 参

 約束の夕方、俺達を乗せた車は学院の正門前に到着した。

 田舎風の町並みは外灯も少なく、逢魔が時、聖柳風女学院前は仄暗い。遠くに仰ぐ山々の狭間に落下する夕日が、木造校舎を赤く差す。郷愁的な朱色は、ともすれば退廃的でもある。

 車のキーを抜く。と、お千代は立体映像から顔を上げた。例の、警察から送られてきた捜査資料である。

「学院の門には全て警報装置と監視カメラが取り付けてあるが、事件当夜、警報は一度も鳴らず、カメラの方では、里見の姿は疎か、不審人物が出入りする映像もない、と。警報装置は夜八時から翌五時迄作動しているが、若しも里見が犯人で、一晩校内に潜伏し、朝方出奔したとするなら、監視カメラのない所から逃げたのかな。警察もそう睨んだのだろう、御大層にも、乗り越えられそうな柵や、抜けられそうな網の破れ目を(ことごと)く調査し、周囲全て山狩りときた。しかし全て空振り。生徒への聞き込みも不充分ときた。手早く放逐された所為か。矢張り時間がまるで足りなかったらしい。其の不足分を我々が埋める訳だ」

 お千代はそう文句を吐き、警察の資料は二度と読まなかった。

 俺とお千代と兎の三人が揃って車を降りれば、待っていたらしい村町先生に出迎えられる。老成した笑みを浮かべた村町先生は、今日も俺達を職員室に案内した。

 其れにしても、と、俺は歩きながら、目の前をガラゴロ行くトランクを眺めた。お千代と兎は重たそうなトランクも苦にせず引っ張って、校内に上がっていた。どうして女性の旅支度はこう大荷物になるのか、理解出来ない。

 放課後らしく、校舎の中にはチラホラと生徒の姿が見える。正門から玄関、下駄箱から職員室へ向かう迄の間、何人かの生徒とすれ違ったが、其の度、此の変わった一行は奇異の瞳で見られた。

 俺も彼女達を見やる……黒を基調としたセーラー服に身を包んだ生徒達。襟と胸当て、其れに袖口部分が白く、リボンは赤。スカート丈は皆長めで、膝上迄短くしている生徒はいない。すれ違い様、彼女達は皆必ず足を止め、会釈と奇異の視線を寄越した。お千代の銀髪金眼、キャスケットから垣間見える兎の白髪赤眼と、見知らぬ男、即ち俺を珍しがっての事だろう。此の奇怪な客人に、彼女達はどんな思いで頭を下げているのか……其の内心を欠片程も覗かせない、鉄仮面が如く揃いの微笑を浮かべながら。

 これは大変な所に来てしまった。

 更に、俺自身もそうだが、兎の精神も案じられる。不特定多数の視線、其れも年の近い少女達の瞳に晒されては、兎の神経が保つかどうか懸念したのだ。が、俺の心配も余所に、兎は存外平気な顔で廊下をひた進んでいた。

 ガラリと村町先生が職員室の戸を開けば、室内の雑踏がピタリと止んだ。職員室に詰めている教職員が一斉に此方を注目したのだ。向けられた教員達の目と目には好奇の色が在り在り浮かび、先の生徒達より余程不躾だ。兎など俺の背後に隠れてしまった。

 嫌な沈黙に支配された職員室を進み、俺達は村町先生の机の前で並ぶ。

「皆さん。改めて有り難う御座います」

 席に着くや否や、先生は慇懃に頭を下げ、

「お千代さんに兎さん……其れに貴方も。私達は皆さんのお力に縋る他ないんです」

「そう畏まらないで下さい。私達は探偵で、こういった事を専門にしているのです。先生は依頼主なんですから、探偵をこき使って下さって結構なんですよ」

 ニッコリと微笑みながらお千代は言う。こういう手際はいつも見事だ。村町先生なんかはこれだけで、老眼鏡の奥にある目を潤ませている。

「言葉も無いわ、お千代さん。昔はあんなに手を焼いたのに……今やこんな素敵な、一人前の大人になってしまって……」

「えぇっと、先生、其のお話は又、同窓会の折にでも」

 思い出話に入る前に、お千代は「其れで」と、話題を透かさず仕事の方へ切り替えてしまう。俺は何とも惜しい気がした。お千代の昔話なら、是非、拝聴したいものだが……。

「其れで、先生、私達の泊まる部屋はどうなっているのでしょう?荷物を置いたら、直ぐにでも調査を始めたいのですが」

 大きなトランケースを見下ろしながら、お千代が訊く。と、先生は徐に頷いて、

「部屋なら、生徒会の方で準備が済んでいる筈です。先程、校内放送で生徒会長さんを呼びましたので、直来るでしょう」

「相変わらずですね、此処の生徒会も」

 お千代が苦笑する。生徒会とは又懐かしい単語だ。が、此の学院の生徒会は、俺の知る生徒会とは一線を画しているらしい事が、今の会話から推し量れた。第一、学生寮の管理迄やっているとは尋常でない。そういった仕事は、普通、教員が片付けるべきではないのか。

 背後では兎も同じく首を傾げている。しかし、此方はきっと理由が違う。兎は「生徒会」という単語を聞くのも初めての筈。

 だからか、兎は白いダッフルコートの袖口から手を挙げ、

「あの、お姉様……あ、いや、所長。案内の方が来る前に、問題の、里見健一の机を調べてみてはどうでしょう?」

 と、生徒会の事は一旦保留し、そう申し出た。

「そうだね。全く、兎の言う通りだ」

 お千代も得心らしく、帽子越しに兎の頭を撫でて褒めている。子供扱い甚だしいけれど、兎は文句も言わずに撫でられている。相手がお千代だから従順なのだ。これが俺だったら、文句どころではない。

 そうしてお千代は兎を撫でつつ、村町先生へ視線を戻し、

「お聞きの通りです、先生。里見教員の席を調べても宜しいでしょうか?」

「構いませんよ。どうぞ御自由に捜査して頂戴。理事長の許可も下りていますから……里見先生の席は彼処です」

 村町先生の指差す先を見やる。職員室にいる教員の何人かも、つられて其の席に目をやった。窓際の空席。これだけ教職員が揃っている職員室の中で、其の席だけが、ポカンと、不自然に空いていた。

 パタパタとスリッパを鳴らし、お千代は其の席へ向かった。黒いプリンセスコート……カシミア生地、金ボタン、Aラインが見事に強調された、スッキリとしたコート……の背で揺れる銀髪は、今日は解かれ、サラサラと、銀糸の様に流れている。

 職員室の窓からは、夕闇に沈む校庭が一望出来た。校庭で蠢く影は運動部か何かだろう。少女達の走る夕映えの校庭を背に、俺達は其の机を調べた。

 里見健一の机は、一見、何の変哲も無い。職員室に並べられた事務机は全て同じ物なのだから、其れが第一容疑者の物であっても、別段、特筆する箇所は無い。其れでも何か言及する点を挙げれば、整理整頓が行き届いている、という事くらいか。

 整然と並べられた書類ファイルには「三年生配布用プリント」だとか、「文芸部活動報告書」だとか、「課題図書一覧」だとか印刷されたシールが、背表紙に貼られてある。

 此の学院は、古風にも紙の書類を用いている様だが、かさばる紙書類の管理も、最前述べた通り徹底されている。又、私物らしき大きめのマグカップが、茶渋も見えない程清潔な状態で置かれ、広々とした机の上は、キチンと書き物のスペースも確保されている。

 片付けのなっていない机の上なんかを見ると、此処は机なのか、其れとも物置なのか判らない、そんな酷い例もあるが、里見の机はしっかり机としての役割を果たしていた。

 そんな机の引き出しをお千代は躊躇なく開け、奥の方へ手を差し入れたり、中を覗いたりし出した。が、発見物は授業用と思しきプリントや教科書ばかり。一応、其れらの中身も確認するも、事件の手掛かりになりそうなものは見付からない。

 お千代は引き出しを閉じ、又別の引き出しを開けた。仕舞われているのは、鉛筆やボールペン、万年筆等の文房具。又別の引き出しを調べる。と、生徒の成績に関する書類一式が出て来る。又別の引き出しを開けて、空振り。最後、一番下の引き出しを……。

「……うん?」

 お千代は其の引き出しを開けて、ある物を取り上げた。

 其れは一冊の古びた文庫本で、カバーも何も掛かっていない表紙には、「ヨハン・ヴォルフガング・フォン・ゲーテ著、森鴎外訳、戯曲『ファウスト』」と明朝体で書かれてある。

 お千代は其の本を手に、パラパラと、ページを捲ってみせ、かと思えば、本の序盤を覗き込み、

「見給え。此処、此の文章にマーカーが引かれてある」

 と、一文を指差した。促される儘、俺と兎も其のページを覗き込む。確かに、其の一文には黄色いマーカーが丁寧に引かれてあって、他の文章から浮き上がっていた。

「――人は務めている間は、迷うに極まったものだからな――?」

 兎が蛍光黄色で塗られた其の一文を読み上げる。其れ切り、俺達三人は黙ってしまう。

 マーカーが引かれているのだから、此の一文は何か重要なのだろう。が、一体全体、どう重要なのか……?

 探偵三人が押し黙ると、職員室は再び静かになった。教職員全員が固唾を呑んで俺達を見守っている。見世物でなし、俺達の活動は傍目に捨て置き、自分の仕事に励んで貰いたいのだが、矢張りそうもいかないらしく、教師全員が、興味津々の気色で俺達を観劇している。

 張り詰めた空気の中、外の音が矢鱈と耳に届く。校庭にて精を出す運動部の掛け声。遠くから響く金管楽器の音。全部が夕日の色に溶ける。

 其の静寂を破る様に、職員室の戸が開いた。

「失礼します」

 次いで明るいソプラノが響く。少女の声。教員達の視線が引き戸の方へ移る。

 ……其の隙を見逃さず、お千代は手に持った文庫本を閉じると、手早く俺に渡した。俺も俺で、さっさと「戯曲『ファウスト』」をコートの内ポケットに仕舞う。教師は全員、戸口の生徒に気を取られているから、俺達の行動に気付いていない。これで重要な証拠品は無事に確保出来た……兎の赤瞳が俺とお千代に非難の色を送っている。まぁ、こういった手並みも探偵職の技巧の一つだと、いずれ兎にも判る時が来る。

 其れはさて置き……遅ればせながら、職員室にやって来た少女を見やる。

 少女は一つ頭を下げると、真っ直ぐ村町先生の席へ向かった。

「先生、頼まれていた学生寮の件ですが、準備が整いました」

「有り難う、(あおい)さん。助かるわ」

 そういった会話が此方迄届く。俺達関係の話題らしい。お千代は早速里見健一の机を離れ、村町先生の席に戻り、

「私からも礼を言うよ……君は生徒会長さんかな?」

 と言って、少女に微笑み掛けた。すると、村町先生は椅子に着いた儘、セーラー服の少女に手を差し向け、

「えぇ、そうよ。お千代さんの言う通り、今、此の学院で生徒会長を務めている葵さん」

(たちばな)葵です」

 少女は名乗り、又腰を折った。顔を上げた橘葵は、朗らかながら、少女独特の寂しさを口許に添え、笑っていた。

 可愛らしい子だ。一目見てそう思った。少し茶色掛かったショートカットが、小柄な身体と童顔によく似合っている。大きな瞳が又格別に可愛らしい。歯並びの良い、白い歯を覗かせて笑う姿は健康的。幼さを残しながら、瞳に宿った行動力と、四肢の健康美が、見た目以上に頼り甲斐を感じさせる。

 しかし……どうしてか、よくよく観察すると、葵の笑顔に僅かに違和感がある。多感な年頃だからか、思春期の孤独がそうさせるのか、柔和な笑顔は作りものの様だ……。

「先輩、先輩」

 一人考え込む俺の横腹を兎が小突く。

「先輩、そんなマジマジと見ないで下さい。橘さんに失礼ですよ」

「あ……」

 指摘されて始めて、葵がソワソワと肩を揺らしている事に気が付く。俺は慌てて手を振り、

「ご、ゴメン、橘さん。いや、俺も悪気があった訳じゃなくて、美人だなぁと、感心していただけで……」

「えっ……?」

 失言。頬を染めた葵は顔を背けてしまう。

 俺は途方に暮れた。何を口走っているのか、自ら針の筵に飛び込んでいる。お千代は肩越しに「む?」と睨んでくるし、況して隣に立つ兎などは言わずもがなである。

 危機的状況下、自業自得の断崖の縁に立つ俺に、助け船を出してくれたのは、村町先生だった。

「あら、困りますよ、ウチの生徒を口説かれては。ふふっ。ほら、葵さんも、照れてしまうのは判りますが、ちゃんと御客様を案内してあげて」

「あっ、はい」

 未だ頬の赤い顔を上げ、葵は「どうぞ此方へ」と俺達を先導してくれる。お千代と兎の二人も、其れに附き従いトランクを持ち上げ、俺達は職員室を出た。職員室の木戸を閉める際、俺は恭しく村町先生に頭を下げた。先生はいつもの穏和な笑顔で小さく此方に手を振ってくれた。

 放課後の廊下を四人で進む。葵を先頭に、お千代、兎、俺の順で附いて行く。木造校舎の廊下や教室を、暮れ泥む夕日は赤く染め上げ、宵闇が校庭の隅から忍び寄る。

「先程は私の助手が失礼した」

 階段を下りる途中、お千代は葵に声を掛けた。

「どうも、此の男は口ばかり達者で、何処で覚えて来るのやら、ああいった事を平気で口ずさむもので」

「いえ……あたしの方こそご免なさい。皆さんに失礼な態度を取ってしまって」

 丁寧に謝罪される。が、其の謝罪こそ俺の肝を冷やした。葵が下手したてに出れば出る程、どんどん俺の立場が悪くなっていく。被害者が殊勝な態度を取ると、相対的に、加害者が一層あくどく見える図式だ。

「いやいや、橘さんが謝る事はない。全部が全部、ウチの鈍感盆暗が悪いのだから」

 お千代に散々言われても、俺に言い返す権利はない。兎は未だ怒っているらしく、キッと、無言で赤瞳を向けてくる。いや、確かに俺が悪いのだが、口が滑っただけだと、どうしたら理解して貰えるだろう。

 男の用いる、美人、という単語の取り扱いの難しさには溜息が出る。

 俺が勝手に気落ちしいる間にも、俺達一行は下駄箱で外靴に履き替え、校舎の裏手へと回った。

 外に出たのを良い機会と、大きなトランクをガラゴロ引っ張りつつ、お千代はやおら口を開いた。

「……ところで、何だがね、橘さん」

「はい?」

 前を歩く葵が、肩越しにお千代を見る。其の大きな瞳も、ショートカットの髪も、セーラー服も、夕日に照らされ、俺には眩しい。

「いやね、付かぬ事というか、早速、私達の仕事に御助力願いたいんだ。君は私達が何者で、何の為に学院に呼ばれたのか、知っているかい?」

「……はい。皆さんが探偵の方々で、此の間教会で起きた、霞さんの事件について調べに来たと、村町先生から聞きました」

「そうか。ならば話は早い。里見先生について幾つか質問したいんだが」

 図書館の前を通り過ぎ、ベンチや東屋の傍を歩く。其のベンチや東屋には生徒達がいて、思い思いに友達と談笑していた。が、彼女達は葵の姿を認めるや否や立ち上がり、「御機嫌よう」と挨拶を寄越す。

「里見先生について……」

 葵はそんな生徒一人一人に手を振っていた。これも生徒会長としての務めだろうか。上品とも言えるが、其れより先に、其の光景は俺の目には異様に映った。

 少女達が列を成し、畏まって御辞儀をする様子は、どうにも奇妙だ。

 が、お千代はそんな光景も意に介さず、質問を続けた。

「そう、里見健一について。君達生徒の間で、里見先生はどんな評判だっただろう?」

「評判ですか。そうですね……」

 葵は一寸考え込み、

「特に、これといって悪い評判は聞きませんでした。寧ろ、里見先生は人気がありました。優しくて、教え方も上手で、物静かな人だって。此処は女子校ですから、そういう、優しくて若い男の先生には人気が集まるんです」

「そう言えば、そうだったね」

 流石は卒業生。お千代は淡々と頷いた。俺や兎なんかには理解し難い世界だ。

 其れから学生寮に到着する迄の間、出会う生徒全員に御辞儀させながら、お千代と葵は幾つかの問答を取り交わした。探偵の質問に、葵は学生とは思えないくらい明快明瞭に応えてみせた……最後の質問以外は。

「では引き続き、里見先生なんだが、ほら、彼は事件の後に消えてしまっただろう?其れについて、学校内ではどんな風に囁かれている?」

「噂、という事でしょうか?」

「まぁ、そんなところかな」

「噂……色んな噂があります。里見先生こそ真犯人なんじゃないかっていうお決まりのものから、事件に巻き込まれたんだろうなんて推理めいたもの迄、色々と」

「ふむ。まぁ、噂の線としては妥当か。じゃあ、話題を里見健一から変えて、竜胆霞に移そう。竜胆について、橘さんは何か知っているかい?人柄とか、最近の私生活とか」

「はい、霞さんにはよく御世話になっていたので。霞さんは、謂わば、生徒達の拠り所でしたから」

「ほう、拠り所」

「えぇ。シスターっていうのも勿論あるんですが、其れ以上に、霞さんはあたし達の味方というか、いつも親身になってくれて。相談とか告解とか、一寸、人には話せない様な事も、皆、霞さんにだけは打ち明けられる、そんな方でした」

「……竜胆は昔から変わっていないね。昔からそんな人間だった」

「お知り合いだったんですか?」

「私が此の学院にいた頃、少しね……私が此処の卒業生だという事は?」

「あ、はい、知ってます。お千代さん……ですよね?在学中のお話は、伝説みたいになっていますから」

「…………」

「え?あっ……す、済みません。お気を悪くさせてしまって」

「まぁ、其れより今は竜胆霞だ」

 俺としては是非に其の「伝説」とやらを拝聴したいのだが、お千代は自分の過去に触れたくないらしく、さっさと本題に戻ってしまった。

「竜胆だがね、此処最近、亡くなる少し前くらいに、様子が変だったとか、そういう事は無かったかい?」

「様子が……そう言われてみると、少し変だったかも知れません」

「と言うと?」

「えぇ、何と言うか……一人で礼拝する時間が増えたとか、一人でいる時、上の空になる事が多くなったとか、そんな話を他の生徒や司祭様から聞いて」

「上の空?あの竜胆が……ふむ。其れは興味深い。其の原因について心当たりは?」

「あたしには一寸……あたしは教会に行く回数が少ないので」

「そうか……じゃあ、今度は又、里見健一についてなんだが、里見先生の方で最近、様子が変だったとかは?」

「いえ、其れはなかったと思います。いつも通りというか、最近はお元気でした。寧ろ、少し前くらいの方が、何か、思い悩んでいる様子で」

「少し前とは、大体、どの位前?」

「二、三週間くらい前……だったと思います」

「少し前迄は何か悩んでいた様子だったが、最近は元気だった、と。ふむ」

 お千代は腕を組みつつ、素早く俺を一瞥した。言い忘れていたが、現在の会話は全て、俺の携帯電話に記録されている。頭の中で携帯電話を操作し、「音声録音」と「メモ」の機能を連結して、会話を全て文章化している真っ最中だ。

 俺は携帯を軽く掲げてみせた。するとお千代は微かに頷き、葵の方に向き直って、

「……じゃあ、又々質問を変えよう。今度のは変な質問なんだが、里見先生は『ファウスト』に何か思い入れがあったとか、そんな事は知らないかい?」

「『ファウスト』?」

「そう。ドイツの作家、ゲーテの書いた戯曲、『ファウスト』。御存知かな?」

「えぇ。ゲーテの『ファウスト』ですね。知ってます。でも、里見先生が『ファウスト』に思い入れというのは……」

 葵は又考え込み、瞳を伏せて、

「詳しい事は判りませんが、先生は最近、授業で森鴎外訳の『ファウスト』を取り扱っていました」

「授業で?」

「はい。里見先生は現代文の先生なので……そう言えば、里見先生が『ファウスト』を授業に使い始めたのも、丁度三週間前くらいでした」

「ほう……」

 奇妙な符号の一致。俺はコートの内ポケットに仕舞った文庫本を、服の上から撫でた。

 さて、問答を繰り返し、ノロノロと歩いている内にも、そろそろ学生寮が見えて来る。夕日は山間から僅かに頭を出すのみで、西洋風の外灯だけが辺りを照らしている。学生寮は、ぼぅっと、其の灯りに浮き上がって、俺達の前に現れた。

「では最後」

 ガラゴロ、ガラゴロ、スーツケースの車輪を転がし転がし、お千代は其の問いを口にする。

「最後の質問だが、此の学院内で最近、変わった事はなかったかな?事件とか事故とか、生徒間のトラブルとか、些細な事でも構わないんだが……生徒会長なら何か、そういった事は聞いていないか?」

 そう変わった質問でもない。他の問い掛けに比べれば、ほんの附録程度の、他愛ない、形式的な質問だ。

 が、これを聞いた途端、どうした事か、葵は大きく瞳を見開き、

「え……?」

 と絶句した。

 お千代の眉が動く。今迄淀みなく、ハキハキと受け応えていた葵の顔色が急変したのだ。誰だって不審に思う。

「……特に変わった事とかは、なかったと思います。生徒会には、そういう相談は寄せられていませんでしたので……では、お部屋に案内しますね。どうぞ」

 俺達の疑念を察したのか、葵は取り繕う様に「第二学生寮」の玄関を紹介した。お千代も兎も黙って葵に附いて行く。女子寮に男が入る訳にもいかず、俺は「此処で待ってるよ」と断って、一人、玄関前に立った。

 寒空の下、俺はコートの襟を立ててから携帯を操作した。「メモ」を開き、今の問答を最初から読み返していく。

 文章を読みながら、先程の葵の態度を思い出す。急に慌て出した葵の、あの取り繕った笑顔。あの作り物めいた笑顔は、職員室で俺達と対面した時に見せた其れと一緒だ。

 村町先生の危惧通り、学院内で何かあったのか……?

 目を開き、空を見上げる。田舎の夜空は暗く、気の早い星々の煌めきがクッキリと見える。月明かり、なんて言葉は都会には存在しない。蒼白く照る月を見ながら、あの色は、写真で見た竜胆霞の死体の肌の色に似ているなと、そんな事を考えた。

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