聖女の初夜 壱
これは其の年の暮れ近く、クリスマスの夜に執り行われた推理劇である。
探偵の指差す先には犯人が佇んでいた。其の全ての犯罪を曝かれ、凶行の全貌が明らかになったにも関わらず、犯人は探偵の推理を極めて穏やかに拝聴し、聞き終えれば恍惚と笑ってみせた。
教会の床を冷え冷えとした空気が這い回る。犯人は探偵達……俺と兎、そしてお千代の三人を前にして、聖者の吊された十字架を背に、彼女の遺体が横たわっていた場所を踏み締め、微笑んでいる。昼間、賛美歌が歌われた教会も、今はしんっと静まり返り、お千代の推理の余韻だけが耳に残っていた。
犯人は……其れから告白を始めた。其れは己が殺人の告白であったのだが、俺にはどうしても、其れが愛の告白に聞こえてならなかった。
星降る聖夜の出来事である……。
事の始まりは一週間前に遡る。
十二月十八日、火曜日の昼下がり、「蓼喰探偵事務所」は、いつも通り平和な時を刻んでいた。
俺の作った昼食を摂り終え、皆が皆、思い思いに昼休みを過ごしている。兎は応接用のソファに座ってファッション雑誌を読み耽り、お千代は所長机で銀の長煙管を吹かしている。俺はといえば、お千代の吐き出す紫煙が天井近くへ立ち上り、シーリングファンに吸い込まれ掻き消える儚い様子を眺めていた。
仕事場の大きな窓から差し込む冬の日光は薄く、庭に植えられた木々の枯れ枝の合間を縫ってか細く届く。床暖房の生み出す空気は部屋に薄膜を張り、暖かな其の膜に全身を包み込まれる様だ。満腹感も合わさり、程良い眠気に苛まれる。
要するに、退屈なのだ。
此の時期、探偵業には閑古鳥が啼く。
探偵の仕事と言えば大半は浮気調査だが、クリスマス前は其の仕事が激減する。春の節目、夏の盛り等は人の心も浮つき、過ちも増える。が、其の反対、恋人達の一大行事であるクリスマスを前に浮気を試みる豪胆者は存外少なく、従って俺達探偵は御役御免、依頼もパタリと止んでしまう。
だからか、此の時期を狙い澄ましたかの様に、毎年十二月の頭には探偵業の一大試験が執り行われる。「探偵免許取得試験」……其の名の通り、探偵免許を取る為の試験が。
其の昔、俺も此の試験を受けたけれど、これが容易でない。何せ、「国家公務員一種より難しい」とも言われている試験だ。其の噂に違わず、俺なんかは頭がおかしくなるくらいに勉強して、やっとギリギリで合格したものだ。今思い出すだけでも寒気がする。お千代が勉強を見てくれたお陰もあるが、今こうして探偵を名乗れている事は奇蹟に近い。
其の試験に、今年は兎が挑んだ。
そして、兎は難なく合格を勝ち取ってきた。合格通知の入った郵便には、試験の点数も同封されていたのだが、其処には「満点」と、そう記されてあった。
これで晴れて兎も正式な探偵、「蓼喰探偵事務所」の所員だ。兎は嬉しそうに、
「ようやく、苦しい試験勉強から解放されました」
と宣っていた。が、俺は怪訝に首を傾げ、
「いやいや、兎、受験勉強は?」
と訊いた。そう、兎には未だ試験が残っている。大学入試……来月には共通一次試験もある筈。其の為の勉強は大丈夫なのか、と、父性的意見から質問したのだ。
が、兎は赤い瞳を細め、
「平気ですよ。毎晩、ベッドへ入る前にやってますから」
と、面倒そうに応えるばかり。
「そんな調子で本当に大丈夫なのか?」
つい、そんな言葉が口を突きそうになる寸前、お千代から一枚の紙を差し出される。其れは模試の結果だった。俺は其れを見た瞬間、思わず叫びたくなった。
此の世の理不尽!天才に凡人の口出しは野暮だろう。
そんな、色々な理由が絡み合い、俺達は細々とした事務仕事を片付けながら、師走と言われる世間を横目、退屈な日々を受け流していた。本日も目星い仕事は皆無、唯々漫然と時間を潰す……。
そんな一日になる筈だった。
彼の報せが鳴る迄は。
……リィン……リィーン、リィーン、リィーン……。
生温い静寂を破る呼び鈴は所長机から、其処に置かれた、今時珍しいダイヤル式の、木と金メッキで出来た固定電話が鳴る。自然、俺と兎の視線は其方へ向く。
俺達が見守る中、お千代は悠然と紫煙を吐き出し、其れから受話器を取り上げた。
「はい、『蓼喰探偵事務所』」
長い銀髪を撫で付けつつ、銀の長煙管を弄びながら、お千代は椅子の背に小柄な身を預けた。其の口振りは明らかに不真面目だ。
「えぇ、はい……私が千代だが……私に用かな?個人的な用件ならお断りだ。探偵が御入り用なら、話は別だが……え、え?」
しかし、不真面目はものの数秒も保たず、お千代は金瞳を丸くしたかと思うと、煙管も持った儘、矢庭に立ち上がった。
「本当ですか?本当に村町先生……いえそんな、滅相もない。お声を忘れるなんて……はい、はい、勿論覚えております……いいえ、先程は言葉の綾というか、何せいきなりでしたから驚いて……はい、はい」
お千代は背筋をピンッと伸ばし、不気味なくらい丁寧に応対している。
「えぇ、私は元気です。仕事も順調で……はい。先生もお元気そうで……えぇ、そうです。はい……はい。御無沙汰しております」
滅多に見ない光景。お千代がこんなにも謙る姿など、中々お目に掛かれない。況してや、電話に向かって何度も頭を下げている姿など。
「はい。えぇもう、手は空いております……何か、私に依頼でしょうか……は?今、何と……?」
不意に、其の艶やかな声に不穏な色が混じる。お千代は丸くしていた金瞳を細め、鋭く研ぎ澄ました。
「其れは本当ですか?……えぇ、はい、判りました。警察は……はい……あぁ、そう言えばそうでした。成程……概ね承知しました。詳しい事情は其方に着いてから……はい。今から其方へ向かいます。大体、一時間もあれば到着するでしょう……では又後ほど。失礼します」
チンッ。
受話器を置くと、お千代は倒れ込む様に椅子に座った。フーッと、深い溜息も吐いている。何やら難しい顔で、手に持った煙管の灰を、カンッと、落とし、煙草盆諸共片付け始める。
「依頼ですか?」
いつの間にやら雑誌を放った兎が興味津々に訊けば、お千代は一瞬顔を曇らせ、
「どうもそうみたいだ。事態は急を要する……のだが……しかしどうしようか。人手は欲しいけれど、君達を同伴させるのは……其の……少し……」
歯切れが悪い。お千代は何か悩んでいるらしかった。一体何を悩んでいるのか、判らないが、しかしどうにも唯事でない雰囲気、何より暇な折に舞い込んだ仕事だ、不謹慎ながら惹かれてしまうのが人情だろう。
俺も俄に席を立つ。
「急ぐんだろ?なら早く行こうぜ。移動は車だろ?」
「あ、あぁ、そうだけど……」
「だったら俺が運転するよ。兎も附いて来るか?」
「はい、支度してきます」
兎は机の上に置いてあったキャスケット帽を素早く被り、そそくさと立ち上がって、二階の自室へと駈けて行った。外出嫌いの兎には珍しく乗り気である。探偵免許を取ったばかりのトコロへ舞い込んだ依頼に、居ても立ってもいられなくなったらしい。早く探偵らしい仕事をしたくてしたくて堪らないのだ……但し、依然、人目が苦手な事は、常に帽子を傍に置いておく習慣や、咄嗟に帽子を取った滑らかな手付きが、雄弁に物語っていた。
其れでも兎がやる気になった事は喜ばしい。お千代もこれに水を差すのは気が引けると見える。
「お千代も、ほら」
「……うむ」
未だハッキリしないお千代であったが、終に観念して渋々車のキーを投げ寄越した。
俺達三人を乗せた赤色テントウムシは、首都高に入り、ナビが語る通りの走行路を辿って、二十三区を離れ、一路、東京を西へ向かっていた。
此の車が型落ちのアンティークカーと言っても、エンジンやら何やらは全て最新式に取り替えられている為、馬力や足回りは最新車に見劣りしない。
グングンとスピードを伸ばす車上にて、俺はハンドルを握った儘、今聞いた事実を聞き返した。
「母校?お千代の?」
「そうだ……其処で何か、凶悪な事件があったらしい」
助手席に座るお千代は複雑な顔で嘆息した。後部座席の兎は黙っていたが、関心は充分にあるらしく、じっと、俺達の会話に聞き耳を立てている。
「母校ねぇ。お千代にも学生時代があるんだな」
「まぁね。私が引き取られた時、無理矢理通わされたんだよ……私は嫌だったんだが」
「ハハハ」
俺は愛想笑いを返しながら、チラと、バックミラーを覗いた……後部座席に座った兎が、長い白髪をスッカリ帽子に仕舞い込んだ頭で、何度も頷いている。
車は渋滞に巻き込まれる事も無く快走、目的地を目指した。頭の中に響くナビの案内で高速道路を降りる。と、料金所を抜けた先は、同じ東京都とは思えない程、山と森に恵まれた風景が広がり、何処か、遠くの田舎へ来た様に錯覚する。
大きな公園や疎らな民家、図書館、美術館の脇を通り抜け、テントウムシは並木道を走る。恐らくは桜並木であろう。今は枝葉も落ち、寒々しい枝が露わになって、其の向こうから冬の青空が垣間見える。
此の並木道を抜けた先に、其の学校はあった。
「間もなく目的地、『聖柳風女学院』前です」
カーナビが告げる。走行時間は大体一時間。俺は辺りを見回した。正門前に設けられた来客用の駐車場を見付けると、徐行で以て其処へ入り、車を停めた。
……バッタン……。
お千代と兎は早々車を降りる。俺もキーを手に二人の後を追う。車外は十二月の寒さが身に沁みて、思わずコートの襟を立てた。
寒さに打ち震えているのは俺一人のみ、お千代と兎の二人は平然と、眼前の門扉を仰いでいた。「聖柳風女学院」と刻印された、重々しい鉄板。其の鉄板の嵌め込まれた漆喰の塀と、頑丈そうな鉄の門。女学院という看板にしては、些か厳めし過ぎる様な正門は、冬空の下、部外者を拒否する様にそびえている。
お千代は黒いトレンチコートのポケットに手を入れて、吐息も白く、正門を仰いだ。
お千代の服は此のコートと、白い細身のスラックスと、黒のフリルブラウス、其れからダークグレーのカシミアカーディガン。良く似合っている。靴はオペラパンプス。長い銀髪を、珍しくシュシュで一つに纏め、ポニーテールにしている。久し振りの母校だからか、いつもよりフォーマルな恰好だ。
対して、兎はモスグリーンのモッズコートのポケットに手を入れていた。キャスケット帽はいつも通りとして、今日はアンバーの膝上丈プリーツスカートに色を合わせアンバーのジレを着、タブカラーのワイシャツを第一ボタン迄しっかり閉め、茶色いジョッパーブーツを履いている。
で、俺は……いや、俺の服装はどうでも良いか。
兎も角、俺達は女学院前に立っていた。此の学院がミッション系の女子校であると事は、此処に来る道中、お千代から説明を受けた。だからか、俺みたいな男には、どうも二の足を踏むというか、侵し難い神聖さを敷地内から感じ、此の鋼鉄の門が決して自分を歓迎していない様に思われた。正門の両脇に設置された二台の監視カメラが無意味に怖ろしい。
冷たい風が頬を掠める。此処で待っていても寒いばかり、そろそろお千代に声を掛けようか。そう考え始めた時、正門が、キィと、擦れた音を立てた。
「お千代さん?」
開いた門の隙間に初老の女性が立っている。女性は白髪交じりの髪をパーマにし、年季の入ったツイードスーツを身体に馴染ませた恰好で、丸眼鏡の奥にある目を見開いていた。
「貴女……お千代さん、よね?」
「はい。村町先生、お久し振りです」
お千代はニッコリ微笑んだ儘、初老の女性に歩み寄る。と、村町先生と呼ばれた女性は「あらあら」と嬉しそうに、お千代の手を握った。
「本当にお千代さんだわ。こんな立派になって……本当に、何年振りかしら。貴女ったら同窓会にも顔を出さないんだから」
「済みません。探偵業が忙しく、時間を作れなかったんです。私も久し振りに村町先生のお顔を拝見して、安心しました。お元気そうで何よりです」
「えぇ、えぇ、私は元気ですよ。貴女も元気そうで……そうそう、今日は同窓会で来て貰った訳じゃなかったわね。お千代さんに頼みたいお仕事があって……あら?其方の方々は?」
此処でようやく俺達の存在に気付いたらしく、村町先生が此方を向く。俺は「どうも初めまして」と会釈を返した。兎は帽子のツバで顔を隠しつつ、無言で頭を下げていた。
「彼らは私の同僚です」
お千代は俺と兎を紹介した後、村町先生に手を向け、
「そして此方は、此の学院で教鞭を執っておられる村町先生。私の元担任で、恩師でもある」
「村町文恵です」
村町先生は、小皺の一つ一つを優しく刻んだ笑みを浮かべ、深々腰を折った。
「皆さんにはお千代さんが御世話になっているとの事で、どうぞ御礼を言わせて下さい」
「いえ、そんな。御世話になっているのは、寧ろ俺達の方でして……」
慌てて頭を下げ返し、俺も先生の許へ近付く。兎は依然顔を隠した儘、俺の背にぴったりくっ付いていた。
「其れにしても、貴方もお千代さんの同僚でいらっしゃる?」
村町先生は俺の顔を覗き込み、丸眼鏡の奥にある目を光らせた。
「え?……えぇ、はい、そうですけど。あの、俺に何か?」
急な質問に俺が困惑する。と、先生は口に手を当てて上品に笑った。
「ご免なさいね。唯、皆さんがお千代さんの同僚と聞いて、少し驚いてしまったから」
「はぁ……」
「私の早合点なの。最初に貴方達を見た時、お千代さんも到頭家庭を持ったのかと、そう思ってしまったものだから」
穏和な顔でとんでもない事を言う。俺は唖然とし、お千代も同じく返事に窮した。
が、一人、苛立たし気に声を上げる者がいた。
「違います」
声の主は顔を隠すのも忘れ、俺の背中から、ズイと身を乗り出した。
「違います。お姉様と先輩は、決して、決して、夫婦ではありません。第一、私がお姉様の娘なんて、年齢的にあり得ません」
「こ、こら、兎」
突如饒舌になった兎を、我に返ったお千代が窘める。
「兎、私は『お姉様』じゃなく『所長』だ。散々言ったろう。其れに、先生に向かって失礼じゃないか。済みません先生。ウチの新人がとんだ失礼を……」
「いいえ、良いんですよ。勘違いした私が悪いのですから。其れに、在学中の貴女に掛けられた迷惑に比べたら、こんなのは何でもありません」
流石教師、お千代より村町先生の方が一枚上手の様だ。こんな会話だけでも力関係は見て取れる。何しろ、此の程度言い返されただけで、あのお千代が、決まり悪そうに閉口しているのだから。
そうして先生は兎に向き直った。其れでようやく、兎は自分が顔を隠していない事に気が付き、急いで帽子のツバを掴んだ。が、先生は優し気な微笑を湛え、帽子越しに兎の頭を撫でた。
「貴女も苦労しているのね……兎さん、と、そう仰言ったかしら?兎さん。そんなに若くて、探偵をやっておられるなんて、きっと優秀なのね。良かったわ。貴女みたいな優秀な人が、お千代さんの傍にいてくれるのなら、私も安心出来ます。有り難う」
村町先生はそう言って、兎の頭を撫で続けた。老齢の目は澄み、心からの感謝を示しつつ、兎の白髪や赤瞳について決して触れようとしない。
然しもの、反抗期の兎とて、こう迄されては城門を開ける他なく、
「あの……此方こそ、済みません。先程は失礼な事を……」
と、俯き勝ちに謝った。
俺は眼前のやり取りに再び唖然となった。あの兎が、こうアッサリ謝罪するなんて……これがお千代の元担任か。或いは教師という職のなせる業だろうか。
村町先生は一頻り兎の頭を撫で終えると、今度は俺を見やり、
「貴方も大変ですね。けど其れも、其のお顔じゃ仕方ないかしら?」
と、訳の判らぬ事を言った。
……コホン。
と、お千代が聞こえよがしに咳払いをして、
「済みません、先生。そろそろ中に……」
「あらいけない。私ったら、こんな所で話し込んで、ご免なさいね」
村町先生は学院の正門を開け、俺達を手招いた。
「折角こうして、探偵さんが三人も来て下さったんですもの。いつ迄も立ち話をしていては駄目ね。どうぞ、皆さん。詳しい事は中で」
俺達は先生に導かれ、聖域を守る重々しい門を潜った……。
聖柳風女学院の敷地に入って先ず目に付くのは、築二百年、木造三階建ての校舎だ。此の校舎は、当然、修繕改築を繰り返してきたであろうとはいえ、普通一般のコンクリート製校舎に比べ、風格というものがまるで違った。歴史、伝統……深い木目の外観からは、そういった、長い時代の深味めいたものが染み着き、又、御嬢様学校独特の清楚さ、静謐さに支配され、堅苦しいながらも、学舎としては高級、そんな雰囲気を感じさせる。
くの字型の校舎。玄関口の手前には噴水があり、噴水の頂上には聖母のブロンズ像が置かれてある。其の像の向こう側、丁度校舎の中心には尖塔式の時計塔が造り付けてあり、緑色の屋根と,西日を照り返す白い文字盤が美しかった。
午後の此の時間、生徒達は授業中との事で、学校内は静寂に包まれていた。
古き良き女学院は、田舎風の土地柄とも相まって、近代文学の舞台にでもなりそうな、正しく深窓の令嬢御用達といった雰囲気を醸している。内装は大正時代の女学校を思わせる造り。歴史の教科書でしか見た事のない、古めかしい内装が物珍しく、俺はキョロキョロとしてしまう。兎などはより顕著で、初めて見る「学校」というものを、おっかなびっくり、見物していた。
大人になって訪ねる学校は中々新鮮で、下駄箱にて来客用のスリッパに履き替えると、浮き足立ってしまう。お千代はそんな俺より余程落ち着いていて、母校の校舎を懐かしむでもなく、淡々と村町先生の後ろを歩いていた。
一同は下駄箱を過ぎると廊下を右に歩き、突き当たりの階段を上った。踊り場の大きな姿見鏡の表面には曇り一つ無い。古い学校だというのに、不潔感はなく、廊下や階段の隅の隅迄清掃が行き届いている。矢張り御嬢様学校だからか。俺は不思議な感動に襲われた。「これが女子校かぁ」と。
二階の廊下を静々と進む。木板の廊下は歩く度に軋むが、其れも静けさを演出する一つの要素。黒ずんだ木目は天然の模様。見目にも森閑としている。
村町先生はとある引き戸の前で立ち止まった。俺が視線を上げて見ると、戸の上には「職員室」と表札が掲げてある。
ガララッと、木の引き戸はそんな音を立てて開いた。
「さぁさ、お入りになって」
村町先生に促され、俺達は職員室に足を踏み入れた……しかし、どうしても、職員室という場所は緊張してしまう。勿論、俺は学生ではないのだが、其の昔、職員室に呼び出された時の緊張が蘇る。村町先生は、そして、自分の仕事机に向かった。お千代も迷わず後を追う。どうやら、お千代は村町先生の席を覚えているらしい。本人は飽くまで無意識に足を動かしているのだろうが、つまりは、無意識に動くくらい足が覚えているのだ。これは学生時代、相当呼び出しを喰らったに違い無い。俺はお千代の背で揺れる、一つに纏められた銀髪を眺め、そんな事を思った。
「其れでは改めて、皆さん、よく来て下さいました」
村町先生は自分の机……書類などよく整理された、小綺麗な机……に着くと、徐に頭を下げ、言い継いだ。
「本当に困った事になって……此の平和な学院で、まさかあんな痛ましい事件が……どうすれば良いのか、私達には皆目見当も付かず……其れでお千代さん、貴女に連絡させて頂きました。都合の方は大丈夫かしら?」
「はい。何より村町先生の御依頼ですから、断る理由もありません。不祥の教え子としましては、偶には恩返しもしたいですし」
お千代にしては随分と殊勝な物言いだ。これも母校だからか。村町先生は依頼承諾の旨を聞くと、顔に浮かんだ沈痛な色を和らがせ、少し涙ぐんだ。
「本当に有り難うね、お千代さん。校長先生も、教頭先生も、此の事は貴女に一任すると仰言っています」
と、村町先生は職員室の奥、大きな黒板のある壁際に目を向けた。俺達も其方を見やる。と、其処には老齢の男女が一人ずつ立っていて、此方の視線に気付くと、二人共腰を折った。どうも、彼らが校長と教頭らしい。俺と兎も会釈を返す。が、お千代は一瞥に済まし、早速本題に踏み込んだ。
「其れで村町先生」
刹那、お千代の声に悔恨と哀悼の響きが混じる。
「電話口でも伺いましたけれど、竜胆が、あの竜胆霞が殺されたというのは、本当なんでしょうか?」
「……残念ながら」
村町先生は、眉間に皺を寄せ、苦悶の表情を浮かべて語った。
「竜胆さんが亡くなったのは数日前です……何者かに殺害されたと、警察の方から伺いました。私は未だに信じられないのですが……だって、あの竜胆さんが……」
竜胆霞。
其の名が話題に出た途端、職員室全体の空気が暗く、重くなったのを肌に感じる。校長、教頭の他、職員室に詰めている数名の教員迄も顔を伏せている。察するに、相当な重大事件であるのは確からしい。
が、一つ、判らない事がある。
「あの」
其れは兎も一緒だ。兎はお千代に顔を寄せ、そっと、耳打ちした。
「あの、済みません。其の、竜胆霞さんという方は、お姉……コホン……所長のお知り合いですか?」
そう。そも、殺された「竜胆霞」という人物を俺達は知らないのだ。先ずは其処から説明して欲しい。
「あぁ、うん、そうだ。君達には未だ、被害者の事は話していなかったか」
お千代は振り返り、委細を語った。
「竜胆霞というのは、私と同じく此処の卒業生で、私の二つ下の後輩だよ。彼女とは特別親しかった訳ではないが……というか、在学中、私に特別親しい友人はいなかったが……其れは兎も角、まぁ、顔見知り程度の間柄だったけれど、其れでも竜胆の噂はよく耳にした。何せ彼女は、あの時から既に完成された人格者で、付いた渾名が……」
「『聖女』」
と、お千代の台詞を引き継ぐかたちで、村町先生が呟く。
「竜胆さんはお友達皆に『聖女』と呼ばれていました。此処がミッション系の学院であるのも少しは関係していたでしょうが、そうでなくとも、竜胆さんは『聖女』と呼ばれるに相応しい女性でした。清く、優しく、朗らかで、誰にでも分け隔てなく平等に接し、美しく、そして気高かったのですから」
「そうでしたね」
お千代が頷く。話を聞くだけでは何とも言えないけれど、お千代が否定しないならば、事実として、そんな「聖女」は存在したのだろう。驚くべきというか、現実味のない人物像に、俺と兎が呆けている間、お千代は更なる聞き込みを村町先生相手に続行した。
「で、竜胆が殺されたのは此の学院内との事ですが……竜胆は大学を卒業した後、此の学院に戻って来たのですか?」
「えぇ。竜胆さんは去年の春から此の学院に勤め始めました。此の学院付きのシスターとして」
「ふむ……其れは確かに、あの竜胆らしいですね」
お千代は自分の顎に手をやって、思案に耽っている様子だ。其の隙に、兎は小さく手を挙げて、
「えっと、良いですか?」
と、村町先生に訊いた。
「はい、どうぞ」
村町先生は微笑み頷いた。其の笑みの力無さに、被害者がどれだけ慕われていたのかが忍ばれる。
「済みません、お話の途中……けど、気になったんですけれど、殺人事件なら警察の捜査もあると思うんですが、どうしてあたし達に依頼されたのでしょう?」
其の言葉に、俺も、お千代すら兎を見やった。当の兎は、突然俺達が注目したものだから、赤瞳を瞬かせて「え?」と首を傾げていた。
兎の疑問は尤もだ。確かに其の通り。殺人があったのならば、当然、警察だって動いている筈。其れを差し置き、俺達探偵に電話したのは、其れなりの理由があって然るべき……兎はそう考えたのだろう。
が、そういった理由は訊かないというのが、此の業界の暗黙のルールになっている。殊、刑事事件に関しては、依頼人がどうして探偵を雇ったのか、其の理由を質す事は禁忌とされている。理由の大概が表向きには出来ないものばかりだからだ。
昔々、俺が探偵を始めた頃、今の兎と同じ過ちを犯した時に、
「探偵なら、依頼人の心中すら推理出来るようになり給え」
と、お千代からお叱りを受けた覚えがある。
現に、依頼者の村町先生は困った顔をして、どう応えたものやら、悩んだ挙げ句、書類棚から一通の茶封筒を取り出し、お千代に其れを手渡した。
「ご免なさいね、兎さん。其の理由は少し……此処は女子学院ですから、警察の方に捜査をされると生徒達も混乱して、学院生活に支障が出ますし、其れに……其の……多分、其の中身を見れば判ると思いますので」
「これは?」
封筒を受け取ったお千代は中身を取り出すや否や、
「……成程」
と呟き、其れを仕舞った。金瞳に不敵な光を過ぎらせながら……。
封筒の表面、差出人の箇所には「検察事務局」と記されてある。という事は、つまり、あの封筒の中身は被害者の検死結果か。
「村町先生」
お千代は茶封筒を持ちながら、
「殺害現場は教会でしたね。今から、其処に行っても構わないでしょうか?」
と、鋭利な声で以て訊いた。あぁ、いつものお千代だ。いつもの、探偵らしいお千代の声である。
「え、えぇ、構いませんよ。私が案内しましょう」
村町先生が立ち上がると同時、お千代は踵を返す。案内は先生がすると聞いたばかりなのに、お千代はもう先頭を歩いて、サッサと職員室から出て行った。兎も黙って其れに附いて行く。俺も慌てて追い掛けようとして、振り返った。此方の背を見詰める校長、教頭の二人に頭を下げる。二人の老人の目には縋る様な思いが宿っている。俺は其の視線に急き立てられ、ガララッと、後ろ手に職員室の戸を閉めた。




