透明な依頼 参
其れから数日を掛けた調査の結果は、俺をうんざりさせるには充分だった。椿山夫人の男リストを順番に一人ずつ訪ね、聞き込みを繰り返したが、どういう訳か全員白、リストの中に間男はおらず、どころか全員が間男の心当たりすらないという体たらく、つまり前任者と同じ轍を踏んだのだ。
とてもじゃないが、これでは依頼人に顔向け出来ない。俺達はリストに挙げられた男達だけでなく、椿山夫人の過去一切、今現在は交友のない男達をも悉く探し出し、同様に聞き込みを断行した。
が、結果は覆らなかった。間男は見付からなかったのだ。
昔、椿山夫人と熱愛疑惑を報じられた俳優、阿部充を訪ねた際など、頭から否定されてしまった。
「彼女が僕と浮気?有り得ないなぁ。一時そんな噂も流れたけどね。まぁ、時効だろうから打ち明けるけど、僕もあの噂に流された一人なんだ。お忍びデートだ何だと、報道にしつこく附き纏われている内に、周りの熱に浮かされたのか自分も其の気になって、彼女に迫った事がある。けど駄目だった。当時から彼女は今の旦那さんに惚れていたから、僕が入り込む余地は全くなかった……あれも彼女一流の演技だったのかな……だとしたらゾッとするね。浮気の末、自殺だろう?僕の所に来た記者が全部教えてくれたよ。相手は誰だか知らないけど、若しかすると、現役時代から浮気してたのかもね……」
此処迄聞き出したところで、俺達は阿部の付き人に追い払われてしまった。探偵と長々話し込まれては外聞が悪い、という事らしい。
自白はあれど、一向に見付からない間男。まさか透明人間でもあるまいに、椿山夫人が告白した浮気は、一体、何処の誰とのものか?
正直、是以上の捜査は難しい。手詰まりだ。俺はそうお千代に進言した。が、所長机の椅子に悠々座ったお千代は、腕を組んだ儘、黙り込んでしまった。依頼を請けてから六日目、十一月十二日、月曜日の夕方の事だ。
所長机の背後には巨大な本棚が悠然と据えてある。其の大きな本棚、知識の殿堂は、覆い被さる様に見る者を圧倒する。そんな本棚を背に、お千代は憂い顔、机に置かれた煙草盆から煙管……銀製の長煙管……を取り上げ、煙草を火皿に詰め込んでいる。
「方針を変えよう」
俺は所長机の前に立ってそう提案した。煙管に火が入り、紫煙が薄布みたく揺らめく向こうで、お千代の金瞳が伏せている。
「リストに載ってる男達は一通り調べたけど、何にも判らなかった訳だし、やり方を変えるべきだろう。奥さんの相手はきっと交友のある人間じゃないんだ。これだけ知人に当たっても相手が判らないんだから、見ず知らずの男に一目惚れでもしたんじゃないか?ファイルが役に立たない筈だよ」
机上のファイルを見下ろす。「イセ顧問探偵事務所」……表紙に記された此の事務所も終に間男の正体は掴めなかった。其れは無能だからでなく、依頼が難し過ぎたのだと、今なら判る。俺には椿山夫人が空恐ろしく感じられた。世の犯罪者の内、探偵を二度も欺き、己が罪をこう迄隠し通せる者が、果たして何人いるか。
「手掛かりもなくなったし、本人もいないから尾行も出来ない。なら、もう一度椿山の家に行って、奥さんの所持品を検めるのが定石だと思う」
そも、椿山邸を最初に訪問した際に、済ませておくべき事だったのだ。家探し、物証確保は、浮気調査の初手ではないか。
煙管の吸い口を咥えるお千代の唇が、長々紫煙を吐き出す。煙が部屋に溶け込み見えなくなる頃、パンッと、煙管を握った右手を左の手の平に叩き付けて灰吹きに灰を落とし、お千代は口を開いた。
「確かに君の言う通りだ。此処はもう一度、椿山家へ御邪魔しようか」
艶やかな声。お千代は六日前、初めて椿山邸を訪ねた時と同じ服装、即ち黒のロングジャケットと、揃いの黒いショートパンツを着ていた。が、インナーは違っていた。ボタンラインと襟、カフスの白い、黒のクレリックシャツ。ブーツも革のロングブーツに変わっている。これだけで、前回の可憐さは鳴りを潜め、代わりに凜々しさが備わる。衣装とは不思議だ……と、俺が見惚れていると、お千代が椅子を立ち、「行くよ」と、一人玄関へ行っていまった。
俺とお千代を乗せた赤いアンティークカーが、夕日沈む都内を静かに走って行く。助手席のお千代は、椿山に電話を掛け、今から訪ねる旨を伝えている。
地平線を赤く染める夕日はビル群の影に隠れ、天蓋を覆う藍色には気の早い一番星が煌めいていた。秋の日は短い。薄暗い道路は車のライトに照らされ、白と赤の人工灯が列をなす。店先のネオンや看板が灯り出し、前から後ろに流れ、流れ、赤信号で止まる。空の色も移ろい、燃える様な夕映えも直に夜空に変わる。
お千代が電話を終えれば、車内は静まり返った。
「透明人間、か……」
思わず呟く。青信号と共に車列が動き出す、其の緩やかな弾みに、つい、思考が言葉になって出た。
「透明人間なんかいないよ」
思いの外キッパリと否定するお千代の声に、俺はドキリとした。
「いや、別に、いない事は俺も知ってるよ。譬え話じゃないか。間男が全然見付からないから……」
お千代は何とも応えず、黙ってフロント硝子の向こうを見詰めていた。
車は大通りを外れ、車の少ない住宅街を走っていく。街灯と、家々の灯りが、薄闇に混じり合って、ぼうっとした前方に、目的地が見えてくる。大小幾つもの正立方体を規則的にくっつけた、元は美術館だったという建物は、宵闇と悲嘆に暮れ、纏った芸術性も負に働きかける。「悲劇」と題された白一色の画の様に、椿山邸は陰鬱と佇み、塀に車を寄せれば、此方迄暗澹に飲み込まれそうだった。
車を降りる。十一月も半ばとなれば夜気は肌寒い。俺は二の腕を擦りつつ辺りを見やった。家々の明かり漏れる通りは安寧だ。が、椿山邸の玄関に回ってみると「立入禁止」を示す黄色いテープが未だ残り、其の蛍光色が闇中に際立っていた。
暗がりの道、ふと、新たに鮮やかな色が横切る。長く滑らかな銀髪が、黒ジャケットの背で揺れたのだ。小柄なお千代は、ロングブーツの高いピンヒールをカツン、カツンと、鳴らし、玄関の階段を上った。
……ピンポーン……。
場違いに平和なインターホンの音。玄関戸が開く。家の中から現れたのは、六日前より更に窶れた男。椿山朔太郎は、逆光を浴び影の掛かった顔、身体が、今にも崩れ出しそうなのをどうにかドアノブで支えつつ、俺達を出迎えた。此の翳り、傷心は未だ癒えていないらしい。
「お待ちしていました。どうぞ、中へ」
「……どうも」
挨拶を済まし、俺とお千代は暗い玄関にて靴を脱いだ。ピンヒールのブーツを脱げば、お千代の背は一段低くなる。其れでもお千代の威厳は損なわれず、寧ろ家に入って益々増していく様だった。
しんとした廊下を、椿山の案内で進む。玄関を上がって直ぐ正面に見える中庭は、もうスッカリ夜が満ち、真っ暗闇、窓硝子は壁に埋め込まれた照明を反射し、黒地に俺の顔が映り込む。ひっそりした家の中。
そんな廊下の途中、又しても湖畔の情景を描いた画の前を通る。其の際、俺は無意識に足を止め、二度見した。見間違いかと思ったが、矢張りそうだ、六日前に見た時と画の内容が変わっている。
大きな変化ではない。殆どは以前と同じ、山間に湛えられた湖畔の様子が幻想的に描かれ、輪郭は全て朧気、優しいかたちを持った霧漂う森の中、水面は夕日を照り返し、水辺には女が一人、裸身を洗っている。
変わったのは、唯一、裸婦だけ。嘗て腰周りを赤く縁取られていた女は、今や其の挑発的な赤い腰付きをなくし、代わりに水面と同じ淡い青色が彼女を包み、清廉と印象を新たにしている。だけでなく、其れは最早人間ですらなかった。何しろ、彼女の背中から、鱗粉を完璧に落とした蝶にも似た、透明な羽根が生えていたのだから。
……こう考えるのは、ロマンチシズムが過ぎるだろうか?つまり、画が夜の顔を見せている、と。昼は腰の赤い女の姿、夜は妖精の姿となって、彼女は我々の前に現れる……。
勿論、本気で考えている訳ではない。変更点は椿山が描き加えたものに相違ない。なのに、こんな世迷い言を思い付いたのは、そう思わせる程の、何か、妙な気配が、家中に充満しているからだ。
「申し訳ないけれど」
と、廊下の先で声がする。お千代だ。お千代は出し抜けに立ち止まり、椿山を見据えて、
「今日はアトリエでなく、現場……奥さんの亡くなった部屋でお話し出来ませんか?」
と、言い出した。
「え……?えぇ、構いませんが」
椿山は面喰らいながらも拒否はせず、俺達を事件現場に通した。
其処は矢張り、事件当日、沢山の警官が出入りしていたあの部屋であった。
二十畳はあるだろうか。家の中でも一等広い部屋。正面の壁は、其の儘大きな一枚硝子になっていて、本来は庭と繋がっているのだろうが、此方も中庭と同じ、窓は横長の黒一色にしか見えない。部屋は深い緑色の壁紙に囲われ、其れが森林を思わせ、広さの割に酸素を濃く感じる。左の壁にはマントルピースが、部屋の中央には大きな丸テーブルが据えてあり、テーブルの周りには椅子が並べたあった。ダイニングなのだろうか。
しかし奇妙なのは、其のテーブルの上に、一脚の椅子が横たわっている事だ。
テーブルの上に転がる椅子。其処から視線を真上に向ければ、天井を横断する太い梁があった。
慌てて視線を逸らす。テーブルの上で転がる椅子、太い梁、足りない物は丈夫な縄くらいか。此の三つを組み合わせれば、ある風景が浮かぶ。実際に見た訳ではないが、十一月六日の早朝……此処は自殺現場だった。
直視に堪えず視線を外しても、猶、ダイニングに似付かわしくない物が視界に入る。イーゼルだ。イーゼルが部屋の右隅に立っている。ちゃんとキャンバスも乗っている。キャンバスには画が描かれている。当然だ。キャンバスは画を描く下地であり、此処は著名な画家の家なのだから。
問題は画の主題。
画はダイニングの入口に背を向けていたので、此処からだと裏側の骨組みしか見えない。
「拝見しても?」
お千代が訊く。
「途中ですが、どうぞ」
椿山は頷いてから、
「今日一日、ズットこれを描いてました。描いていれば気も紛れますから……実は構想自体は先週からあったんです。けど、他のものの修正が立て込みましてね……今日やっと取り掛かれたので、未だ未だ荒い部分が多いから、あまり他人様に見せられる物じゃないんですがね」
と、言い訳めかしい事を付け加えた。
俺とお千代は、丸テーブルに沿ってイーゼルのある場所迄行き、画の正面に回り込んだ。そうして黙り込んだ。
途中だと椿山が言った通り、画は描きかけ、端々に白い素地が残っていた。が、題材は此のダイニングに相違ないと直ぐ判る。深い緑色の壁、画面奥にはマントルピース、丸テーブルと、其の上に転がる椅子。
唯、画の中心に描かれたものだけが、現在、存在しない。
画の中心には人間が描かれていた。椿山朔太郎が描く人物は一人だけだ。が、俺は一瞬、其れが誰か判らなかった。判りたくなかった。
見た儘を伝えれば、寝間着姿の女だ。
彼女は首を吊っていた。
苦悶の顔は鬱血し紫色。彼女は自分の首に掛かった縄を両手で必死に掴み、引っ掻いている。が、縄は容赦なく其の細い首に喰い込み、喉を潰さんばかりだ。長い黒髪と白いネグリジェは重力に従いストンと真下へ流れている。にも関わらず、両足は宙に浮き、足先はフラフラと、宛も無重力の上に爪先立ちしている様だ。
間違いない。此の女は椿山夫人だ。
そして此の輪郭をぼかした描き方は、間違いなく椿山朔太郎の作風である。
其れにしても、何と鬼気迫る画面だろう。輪郭はぼやけているのに、其れが却って夫人の生命を稀薄にし、背景の緑色に吸い込まれる様に死んでいく姿は、彼女がもう絶対に助からない、そんな仕様のない絶望を突き付けてくる。
「最悪中の最悪だ」
囁く様なお千代の声に、俺はハッとして其方を見やる。
お千代は椿山を真っ直ぐ見ていた。
「其れで、今日はどのような御用件でしょう?調査は順調でしょうか?」
当の椿山は、相変わらず、悲嘆の淵に立った様な声で訊く。落ち窪んだ双眸も、血の気の失せた唇も、未だ妻の死から立ち直っていない事を示している。
ならば此の画は?悪趣味が過ぎる。自傷行為である上に、これは死者への冒涜だ。哀しみに堪え切れず、気を違えたとしか思えない。俺は怖ろしいものを見る様に椿山を眺めた。
が、お千代は硬質な声音を用いたものの、平時と変わらぬ流暢な語り口でこう言った。
「突然御邪魔して申し訳ありません。捜査は全く順調ですよ」
「そうでしたか!」
椿山の目に光が射す。俺は再びお千代を見やった。どうしてこんな事を言うのか。捜査は順調どころか、難航していると、最前事務所で話し合ったばかりなのに……。
訝しむ俺の視線も構わず、お千代は真剣な口調で以て言い継いだ。
「解決は後一歩のところ迄来ています。本日は其の大詰めの為に伺った次第でして、本来なら初手ですが、今回は事が事だけに詰めの工程に回しました。と言うのも、椿山さん、貴方にお訊きしたい事があるのです」
「協力は惜しみません。私で良ければ、幾らでも。其れで妻の浮気相手が見付かるなら」
椿山は大きく頷き、テーブルを囲む椅子の一脚に腰掛けて、
「お二人も掛けて下さい……で、私は具体的には何をお応えすれば?」
「いいえ、此の儘で結構です」
お千代は椅子を断り、コホンと、態とらしく咳払いを挟んでから、
「先ず、奥様に浮気を告白された状況を、詳しくお願いします」
「妻に浮気を告白された状況、ですか?」
「えぇ」
お千代はゆっくり頷き、
「どうにも腑に落ちない。貴方が、どうやって、浮気を聞き出したのか。出来れば、これ迄の奥様との生活についても、心情も含め詳しく話して頂きたいのですがね……」
「探偵さんがどんな疑問を抱かれているのか、判り兼ねますが、そういう質問でしたらお安い御用です」
椿山は窶れた頬を引き攣らせた。微笑んでいるらしい。其の際、えくぼの作る微妙な影が顔に差した。其の影が不吉なものを暗示している様に見え、俺は思わず鳥肌を立てた。
俺と、お千代と、画の中の首吊り夫人を前に、椿山は斜め上の虚空を眺めながら、事の詳細を語り始めた。
……一年程前でしょうか。不安が現実の姿を手に入れたのは……。
結婚当初から、私は妻の美しいのが怖ろしかった。私の画より数段上等な芸術品である彼女は、私の画の数倍の盗賊に狙われていたのです。私は結婚当初から、自分の妻が誰かに心盗まれるのを怖れたのです。不釣り合いと、世間に言われる迄もなく、私自身が一番に理解していました。けれど一緒になったのです。「一緒になりたい」と妻の方から請われましたから。
結婚してもう五年になりますが、私は此の五年間、一日たりとて休みませんでした。天上の日々でした。浮かれ切った私は、毎日の様に妻をモデルにして画を描いた。あれは愉しかった。殆ど熱狂でした。妻の顔を成る丈精巧に描こうと必死だった。皮や肉や骨の髄から湧き出る本物の色彩を掴もうと、何度も何度も妻を描きました。
けれど、到頭私は何も掴めなかった。
欲しいものは遠くにありました。近付いている気もしなかった。描けども描けども、失敗作ばかり、世間に晒される駄作の一群……妻の姿を表すのに、私の力量は足りていなかった……益々惨めでした。画の描けない画家にはどんな値打ちもないのです。一年前、私は終に、妻を前にして一筆も塗れなくなりました。
キャンバスは真っ白い儘、私は何も出来ず、唯立ち尽くして……そしてあの時、私は妻の瞳に欠けた箇所を見出した……抽象的な物言いですが、私は確かに見たのです。あの時、妻の瞳に兆した憐憫が、まるで冬の空気の様に虹彩を透かし、妻の心を私に見せた。愛情の欠けた妻の心を。
そうです。何が足りないか、あの時理解したのです。勿論、私の技術も至っていなかった。しかし、其れ以上に、モデルである妻に、愛が欠けていたのです。
妻を責める気持ちはありません。最初から不釣り合いは承知の上、寧ろ安堵しました。妻の愛を得るべきは私じゃない……これでは私が描けないのも仕方がない。妻が私を愛していないなら、当然、私に真実の色彩を見せる訳もないのです。
なので、私は別れを切り出しました。いいえ、少しも憎んではいません。君に好きな人が出来たのなら、潔く身を引こう、優しくそう言った積もりです。
なのに、画の描けない私にも、妻はこれ迄以上に優しく接しました。酷いじゃないですか。私は別に怒っていないのに、未だ隠そうとするだなんて。今は浮気を禁ずる法律がありますから、其の所為もあるのでしょうけど、私に妻を訴える気はなかったのです。キチンと其の事も伝えました。
其れでも妻は心変わりを教えてくれなかった。
自分を偉いと思ったのは、此処から半年間も我慢した事でしょうか。優しい妻の態度は、私の無価値に対する同情の仕打ちに思え、堪え難かった。其れでも半年は堪えたのです。半年も……限界が来たのは自然な事でした。あの儘では私が破綻してしまう。妻の不貞を一刻も早く曝かなければいけなかった……其の為には、今迄の様な生温いものではいけません。もっと苛烈な訊問をする必要がありました。
一切加減しない方法に、妻は時に怒りましたし、時に涙を流しました。しかし、到頭観念したのか、三ヶ月前、終に浮気を自白したのです。嘘は赤いと言いますから、妻の唇や舌先を私が白い絵の具で塗っていた時、早速其の効果が現れたのか、妻は静かに「貴方以外に好きな人がいる」と告白したのです。
椿山が述懐を終えると、宛も秋夜の外気が紛れ込んだ如く、切ない寒気が俺の全身を包んだ。
「……其れで、貴方はどうしましたか?」
寒々しいダイニングに、お千代の声が虚しく響く。俺は静かに進み出、お千代を庇う様に前に立った。椿山の視線に、お千代を晒したくなかった。
「どうしたって、決まっているでしょう?」
応える椿山の声には依然悲哀の色が浮かんでいる。
「勿論悩みましたよ。妻本人の口から浮気を告げられたのです。聞き出したのは私ですが、其れでもショックは大きかった。私は毎日妻に詰め寄り、跪いて泣き叫び、説得を繰り返し、懺悔し、懺悔され、夜も……まぁ、これは他人様に聞かせる事ではありませんね、夫婦の事ですから」
「罰か……其の一環として、奥様の罪を他人に晒した訳ですね?」
お千代の言う「他人」とは、宅配員の前原達彦の事だろう。三ヶ月前、前原は夫人の浮気公開に付き合わされたと証言していた。
椿山は頷き、
「何しろ、妻が度々嘘を吐くものですから、他人様に知って貰って、事実を補強しなければいけなくなったのです」
と、鼻を突く絵の具の匂いの中、寂しく言い継いだ。
「『あれは嘘だった』と。『私は浮気なんかしていない』、『愛しているのは貴方だけ』……そんな嘘を吐くのです。しかし誰が信じられましょう?妻は女優なのです。其れに、私は妻を愛していましたが、其れだけに、妻の裏切りを許す事が出来なかった」
「……其れで」
俺は自分の肩越しに背後のお千代を眺めた。お千代は質問を重ねつつ、手を上着のポケットに突っ込んでいる。
「其れで、貴方はどうしましたか?」
ポケットの中に俺は小さな光を見た。恐らく携帯端末だろう。お千代は此の会話を録音しているのだ。
「どうしたって、決まっているでしょう?」
そうと知らない椿山は、悲哀の声で以て素直に応え続けた。
「勿論、姑息な嘘に耳を貸す私ではありません。断固として妻の嘘を撥ね除け、不貞の責任を追及し続けたのです。相手の名前を聞き出そうと躍起にもなりました。相手を見付け出して、きっと後悔させてやる……嗚呼、あの頃か、妻が『死にたい』とぼやき始めたのは……そして妻は、相手の名を明かさず、到頭自殺してしまった……」
「……そうですか」
今、お千代の心中にどんな想いが巡ったか、次の質問に移ろうとした其の時、お千代の金瞳に過ぎった哀悼を、俺は見逃さなかった。
「では次の質問を。其方の画の事で」
お千代はそう言うと、視線を椿山から件の油絵の方へ移した。
「其の画を描かれた経緯について、教えて頂けないでしょうか?」
「経緯ですか?」
「えぇ、そうです。其の油絵を描こうと思った動機、と言い換えても宜しい。拝見しましたところ、其処に描かれているのは奥様とお見受けします。しかも其の画は、奥様が今正に亡くなろうとしている瞬間の様だ」
お千代の口調に非難と反発の色が交じる。
「どうにも腑に落ちないんですよ。どうして貴方がそんな画を描いているのか……いえ、描けるのか。だって其の画の奥さんは、未だ生きてらっしゃる」
お千代の声はハッキリ響いた。
「其の画はまるで、奥さんが首を吊った直後の情景を、目の当たりにしたかの様だ。首に縄を掛け、宙吊りにされ苦しんでいる奥さんを、静観している様な……まるで、奥さんが貴方の目の前で亡くなったかの様だ。どうして貴方は其の情景を描けるのか。画家の習性でしょうか。衝撃を受けた光景は、キャンバスに描かずにはいられない、といった」
お千代の言わんとしている事をようやく察しても、俄には信じられず、俺は椿山を凝視した。まさか、此の男、妻が首吊り自殺する姿を、黙って見守っていたというのか。
「えぇ、貴女の言う通りです。よくお判りになりましたね。流石は探偵さんだ」
椿山はアッサリこれを認めた。俺には、眼前の男が、急に怖ろしいものに見え始めた。
「私はあの朝、妻が自殺するのをじっと見ていました」
こんな事を平気で宣う椿山が、現実界を遠く離れた悪夢の住人に思えたのだ。
「……首吊りの支度は奥様が?」
感情を抑えた平坦な声音でお千代が訊けば、椿山は「いいえ」と首を振り、
「支度は私が済ませました。大分以前に……妻が『死にたい』とぼやき出した頃、ならばと私が梁に縄を掛けてやり、テーブルに椅子を置いたんです。いつでも首が吊れるように」
「其れから此処で食事された事は?」
「勿論。ダイニングですから、食事は決まって此処です」
「成程、毎日此処で食事を……そして奥様は自殺を決心した」
「そうです」
「きっと悩んだ末の自殺だったでしょうね」
「そうなんです。あの朝、妻は終に椅子の上に立ち、首に縄を通した。矢張り浮気相手を庇う目的があったのでしょう。しかし不思議だったのは、首に縄を掛けた途端、妻が泣き出した事です。浮気を自白してから、あんなに毎日『死にたい』と呟いていた妻が、事此処に至って『死にたくない』と泣き出したんです。だから私は、此の期に及んで嘘を吐く妻に代わり、足場の椅子を蹴飛ばしてあげました」
椿山が天井の梁を仰ぐ。どんな幻影を見ているのか、落ち窪んだ双眸はひたすら虚空を眺めている。
椿山は告白し続けた。
「あの光景は今も目に焼き付いて離れない……妻が死んでしまった。此処で、私の目の前で、自殺した。私は哀しかった。雷に打たれたみたく……私は無意識に筆を取っていました。描かずにはいられなかった。戒めを解かれたんです。家中の妻を描き直した。そうしないといけなかった。其の間も、ズットあの光景が在り在りと目の前に浮かんで……やっと今日、其の光景をキャンバスに写せました。これが此の画を描いた動機です」
そう言う椿山の表情……哀しみの底に沈みながらも、底の底には僅かに輝くものが潜む、恍惚とした其の表情を見た時、俺はようやく合点がいった。廊下で見た画が修正された理由……蠱惑的な赤い腰付きの裸婦が、清廉な妖精に変身した理由について。
椿山は、きっと、夫人が死んで安心したのだ。自分以外の生者は何をするか判らない。どんな約束があったとしても、我々は本当の意味で他人を縛る事は出来ない。が、死人は違う。死人は決して裏切らない。勿論浮気もしない。これで本当に自分のものになった、其の安堵が画に表れたのだ。
……真実はどうあれ、椿山朔太郎は其れを信じた……。
「成程ね」
不安定な混乱の最中だった。今しも倒れそうな、眩暈のする、風邪のひき始めの悪寒の様な空気を断ち切る、頼もしい一声が、俺を貫き、椿山に投げられた。
「お千代……」
俺は首だけ動かし、背後のお千代を見やった。身の内の激情を堪えたお千代は、長い銀髪も相まって、一本の鋭い刃物の様に見えた。
「成程、成程……」
お千代はチラと首吊り画を窺ってから、
「無理な力を掛けて歪んだレンズが結んだ虚像、か」
と言って、一度息継ぎを挟み、
「椿山さん、貴方は五年も結婚生活を過ごしながら、一体、奥様の何を見ていたんだ?ジョージ・ウエルズの読み過ぎでは?透明人間はいなかった。奥様は潔白だ。浮気などしていない。当然、間男もいない。なのに、貴方は奥様の見え透いた嘘すら見抜けず、在りもしない浮気を憎んだ。或いは、非凡な作品を作る為、魂を悪魔へ売渡したか。全く芥川の言う通りだ。貴方は此の画を描く為だけに、奥様を殺したんだ。たった其れだけの為に、貴方は貴方を一途に愛した奥様を殺したんだ」
此の言葉を最後に、お千代はジャケットの裾を翻し、ダイニングを出て行こうとした。
が、去り際、お千代は肩越しに椿山を見やり、
「最後に一つだけ」
と、人差し指を立てた。
「椿山さん、此度の依頼は破棄させて頂きます。未だ一週間経っていませんので、調査費はお支払い頂かなくて結構……しかし、最後に一つ、質問があるのです。若し間男が見付かったとしたら、貴方はどうするお積もりでしょう?」
じっと椿山の返事を待つ。時間も死んだ無音に部屋は支配される。
椿山は一連の非難を放心気味に聞いていたが、やがて哀しみの淵に立った儘こう応えた。
「どうするって、決まっているでしょう?」
椿山は笑っていた。笑いながら、壊れていた。
「浮気相手の目の前で、私も首を吊る積もりでしたよ。此処で、此のテーブルに立って、妻と同じ様に……妻はもうお前のものじゃない。私のものだと、判らせてやる為に」
「そうですか……」
お千代は深く、深く、溜息を吐いたらしかった。そうして別れも告げず、ダイニングから出て行った。俺も小さく会釈してから、お千代の背中を追った。
玄関に行き、靴を履く。お千代はロングブーツのジッパーを摘まみ上げた後、上着のポケットから携帯端末を取り出した。何処かに電話を掛けるらしい。玄関を出るや否や、お千代は送話口に語り出した。
「警察か?私は探偵の千代だが、とある事件に関する重大な証言を手に入れた。録音データを今から送るから、其れを再生したら、指定された住所にパトカーを寄越せ……どんな証言か、ねぇ……自殺が他殺に取って代わるものさ……あと、報奨金は後日しっかり頂くから、キチンと用意しておき給え。こっちも商売なんだから」
お千代が電話口に椿山邸の住所を告げる。俺は其の隣に立ちながら近所を見回した。スッカリ暗くなった住宅街。閑静な宵闇も、今夜はパトカーのサイレンと赤色回転灯に包まれる。
「君」
と、物思いに耽っていれば、電話を終わらせたお千代が俺を見上げていた。小柄な名探偵の、物憂げな表情、人形の様な造形美と、キレ長の金瞳に見惚れる。
「君、警察が来る前に、サッサと事務所へ帰るよ。事後処理なんて面倒は勘弁だ」
「……了解」
確かに、事情聴取だ何だと、ゴタゴタに巻き込まれては敵わない。キーを取り出し、俺達は急いで車に乗り込んだ。赤いテントウムシは逃げ出す様に椿山邸を去る。
こうして悲劇の幕は閉じた。
事務所に戻り、玄関を入った所、階段下から二階にいる兎へ、
「ただいま」
「お帰りなさい」
眠た気な返事を聞いてから、俺とお千代は仕事場に入った。
「これで一件落着な訳だけど」
と、お千代が所長机の椅子に着くのを待って、俺は疑問を投げ掛けた。
「未だ俺には判らないな。お千代は、いつから、奥さんが浮気してないと睨んでたんだ?」
「おや、気になるかい?」
お千代は煙管の準備をしながら小さく笑った。
「気になるさ。無実を信じるのは難しいじゃないか。してない事の証明は難しい。『悪魔の証明』って呼ばれるくらい……しかも今回は奥さん本人の証言もあったし」
「『悪魔の証明』は真実の一側面だが、しかし傾倒し過ぎると危ない。今回みたいな冤罪の元になる」
煙草に火を点ける時、お千代は金瞳を細める。癖の様なものだ。お千代は一服、紫煙を味わってから、
「推定無罪、という言葉を知っているかな?疑わしきは被告人の利益に、とも言うね」
と、煙草の余韻もそこそこに、言い継いだ。
「自白法則は知ってるね?今回の件は自白強要の良い見本だ。嘘を吐く動機の一つに、己の身を守る為というのがある。椿山の病的な詰問は殆ど拷問だった。そんな精神的拷問から逃れる為、夫人は咄嗟に虚偽の告白をした。自分は不倫している、と……家庭内冤罪だね」
「けど、旦那は、自白した時奥さんは開き直った態度だったって……其れに、運送屋の前原も、奥さんは浮気を肯定した時、いつもの様子で、堂々としてたって証言したけど」
「其れこそ彼女一流の演技だろうよ。妄想症に罹った夫を欺す為、彼女は前職の技術を駆使したのさ。在りもしない浮気を椿山に信じ込ませる為、即ち己が身を守るために、彼女は美事、悪女を演じてみせたんだ。椿山の奥方が、昔、映画『痴人の愛』のナオミ役を演じたのは有名な話だ。しかし、名演も考え物だね。今回の皮肉な顛末を考えると……さて……話題を戻そう。自白法則に従えば、強制された自白には証拠能力がない。司法の基本だ。となると、自白とは別の証拠が必要になる」
「其の証拠がなかった」
俺の言葉に、お千代は頷き、
「証拠というか、今回捜したものは、目撃情報だ。椿山夫人の不貞に関する何か、例えば男と二人でいたとか、ホテルに入るトコロを見たとか、そういう情報を求めたが、これが全くなかった。そんな事が可能だろうか。近所や世間の目を完全に欺くなんて事が」
「場合に因っては可能なんじゃないか?」
賢い悪人なら、自らの悪事を晒さない工夫くらいするだろう。そういう場合を言った積もりだったが、お千代は不敵な笑みを浮かべて、
「隠し通すというのは、君が思う以上に難しいものさ。特に、椿山夫人の様な有名人は、普段から耳目を集めている。そうなれば猶更だ」
と、美味そうに紫煙を吸い、「何より」と続けた。
「週刊誌はかなり手強い。不防法が制定されてからこっち、記者の浮気調査は探偵以上だ。にも関わらず、どの誌面も、夫人の浮気を報じていなかっただろう?」
此の指摘に、六日前、宅配員の前原を訪ねた時の事を思い出す。あの時、通された休憩所に週刊誌が何冊かあったが、其のどれにも椿山夫人に関する記事はなかった。
お千代は語り続ける。
「夫人の自白は三ヶ月前。とすれば、浮気はもっと以前からあった筈だが、此の間、世間が放っておく筈もない。浮気が本当なら、ね」
「そうかなぁ……」
説明されても腑に落ちない。世間だって、近所だって、記者だって、人間ならば見落とす事くらいある。お千代は、些か、週刊誌の能力を過信してやいないか。椿山邸を見張っている者でもいたなら未だしも……。
「納得出来ないか。私とて、記者がどんな地平からでも醜聞を嗅ぎ付ける、とは思ってない。しかし椿山家は別だ。あの家を見張っている記者、或いは記者に通ずる情報屋がいたのだから」
まるで此方の思考を見抜いた様に、お千代が平然と言う。不意を突かれた俺は、暫しポカンと口を開け、「情報屋?」と、やっとこれだけ訊いた。
「そう、情報屋。いたじゃないか」
「何処に?」
「最初に行った喫茶店に。主婦達に紛れて。夫人の浮気と自殺を仄めかしたら、簡単に尻尾を出した。語るに落ちるとは、ああいうのを言うのだろうね」
ウェイターの辻井湊を訪ねた喫茶店は覚えている。気不味い昼食、ガレットと、お千代が食べたラズベリータルト。あの店内に情報屋が?一体誰か、終に俺には判らなかった。
と、俺が腕を組み考え込めば、急にお千代が、クスクス、笑い出し、
「ご免ご免。私も別に千里眼じゃないよ。夫人の浮気を疑い始めたのは、先人のお陰さ」
お千代はそう言うと、ファイルを指差した。表紙に「イセ顧問探偵事務所」と印字されたあのファイルだ。
「御丁寧にも、解答は最初からこれに記されていた。『浮気はなかった』と幾ら説明したところで、依頼人、椿山朔太郎が信じない事は、前の探偵も判っていた。だからこんなものを拵えたんだ。自分達の後に雇われる探偵に向けた暗号、という程ではないが、符牒を残す為に」
「つまり、お千代は此のファイルを受け取った時から、浮気は嘘だと知ってた、という事か?だから奥さんの無実を信じられたと?」
「最初は半信半疑だったけどね。確信したのは矢張り捜査してからだ。君と共に、彼方此方、聞き込みに回ったが、得られた情報はどれも間接的な噂ばかり、直接的なものは一つとてなかった。これが何を意味するか。要するに、誰一人、真実を知る者はいなかったんだ。語られた事と同じくらい、語られなかった事も重要……捜査の鉄則だよ。よく覚えておき給え。其れに……これは受け売りだけれど……噂は、往々にして、本質からかけ離れるからね」
「けど、切っ掛けは此のファイルに違いない訳だ。此のファイルが……」
俺は表紙を開いて、パラパラとリストを捲ってみた。夫人に関係する男達のリスト……夫人の無実を報せたという中身を検めるも、暗号らしきものは見付けられない。
「迷える子羊に、ではヒントを授けよう」
煙草を吸い吸い、お千代が冗談めかす。俺が顔を上げると、悪戯を思い付いた子供みたく無邪気な金瞳が正面にあった。
「鍵は並び順。リストの順番が妙だと、君も一度くらい考えたろう」
お千代はリストを手繰り寄せ、最初から五枚目迄を順々に見せた。
一.辻井湊 二十六歳 ウェイター
二.前原達彦 二十ニ歳 運送業者ドライバー
三.羽生幸之助 三十八歳 美容師
四.東海林正信 五十五歳 呉服屋店員
五.蝋山辰巳 四十歳 元マネージャー
「五十音順ではない。年齢順でも、勤務地の近さでもない。では、何に因って順番は決められたか?」
じっと、金瞳に見据えられ、たじろぐ。が、お千代は真剣な表情を一転、含み笑いを堪え切れない調子で、
「ふふっ……悩む程のものじゃない。『伊勢物語』の――からころも、着つつなれにし――と仕組みは同じ、要は単純な言葉遊びさ。振り仮名でも付けてやれば忽ち解ける」
と、言いつつ煙草の灰を片付けた。
「これで今回の依頼は完了か。其れにしても、捜査のメインは初日だけだったね。後はオマケ……さぁさ、店仕舞いだ。無駄に疲れたから、私はもう休む。君も適当に帰ると良い」
お千代はそう言い置くと、椅子を立った。気怠い横顔、流れる銀色の長髪の先から、香水の様に、前職の色が漂い出る。
元花魁の色香が。
銀髪の揺れる艶やかに物憂い背中が遠退いて見えなくなる迄、俺は身動きを忘れてしまった。
静まり返った夜を、天井のシーリングファンが、クルクル、かき混ぜる。
所長机には広げられた儘のファイル。俺はもう一度リストを覗き込んだ。お千代は何と言ったか……確か振り仮名……並び順が鍵とも……男達の名前に、振り仮名を付ければ良いのだろうか?
机上のメモ帳を手に取り、お千代が示した一番目から五番目の男達の名前を、順番に書いてみる。
辻井湊
前原達彦
羽生幸之助
東海林正信
蝋山辰巳
十秒程、連なる名前を凝視し続け、其の解法のあまりの単純さに、思わず手を打ってしまった。何だ、気付いてしまえば何でも無い、並び順、振り仮名、成程!そういう事か。
頭文字だ。それぞれの頭文字を並べるだけ。そうすれば、「つ」、「ま」、「は」、「し」、「ろ」、即ち「妻は白」という文章になるではないか。
……溜息を吐く。これが謎の解けた感慨なのか、こんな簡単な事に今迄気が付かなかった己への諦観なのかは判らない。が、感慨めいたものが、ストンと胸の内に落ちた事は確かだ。
……帰る前にもう一仕事終わらせよう……。
所長机を回って、大きな本棚の前に立つ。目当ては、芥川龍之介が随筆「芸術その他」を収めた本。有り難くも、本棚は作者五十音順に並んでいた為、物は直ぐ見付かった。
目次を頼りに「芸術その他」を見付け出し、暫し読み耽れば、芸術に対する訓辞が続く中に、次の一文を発見する――
芸術家は非凡な作品を作る為に、魂を悪魔へ売渡す事も、時と場合ではやり兼ねない。
――思わず目に入ったが、欲するは違う文章――
単純さは尊い。が、芸術に於ける単純さと云ふものは、複雑さの極まつた単純さなのだ。
――これだ。
胸に奇妙な自信が満ちる。過去の文豪に背中を押された様な心持ち。今なら、語彙力乏しい俺であっても、任された創作の完成を期す事が出来る。
本を戻し、自分の机に向かう。仕事机の片隅には、半ば丸まったポスターがある。六日前から放置されたポスターは、依然、キャッチフレーズが空欄の儘。俺はペンを手に、其の空欄に短い一文を書き込んだ。其れを二度読み返した後、俺はペンを片付け、帰路に着いた。
書き込んだ文は次の通り。
其の事件、承ります。




