聖女の初夜 拾参
明くる朝、両のこめかみが圧される様に痛む頭を抱え、依然夢半ばの心地で俺は寝床からむくりと起き上がった。寝足りないが、日が顔を出している以上、今日も仕事が始まる。本日火曜日、十二月二十五日のクリスマスにも、捜査はしなければいけない。
朝食を摂り、出掛けの支度を済まして宿を出る。
今朝も随分冷え込む。冷気に頬を刺されると眠気も薄れる。冬の有り難い効能だ。
学院へと車を走らせる。未だ仄青い田舎道の先、桜並木の向こうに見える学院の正門には小さな人影が佇んでいた。
午前七時、車を降りれば、時間通りに待っていた兎に睨まれた。怒っているらしい。何より赤瞳が物語っている。赤い瞳は冷たく、茨の様に刺々しく、冷酷な薔薇みたく燃えて、加えて朱塗りの漆器をも彷彿とさせた。不謹慎だが、兎の怒気は其れくらい凄艶だった。
兎は足早に学院に入っていく。俺は必死に後を追い掛けた。食堂に着く迄の間、俺達は全く無言だった。
昨晩は生徒達で溢れ返っていた食堂も、今朝は閑散としている。椅子や机も元に戻され、真っ白い内装に、銀髪のお千代が座っていた。
「お早う」
「……お早う」
俺とお千代が挨拶を交わす。互いの声には多少の照れが混じっていた。というのは、勿論、昨晩の一件が原因なのだが、唇だけ、というのが拍車を掛けていた。これが身体ごとならばこう迄はにかんだりしないのだが、交わしたのが唇止まりでは、まるで学生の様で年甲斐がなく気恥ずかしい。
「……今日はどうするんですか?」
痺れを切らした兎の声。はにかみの空気を嗅いだ兎は一層苛立ち、厳しい顔の儘お千代の隣に座った。
「あ、あぁ、済まない。そうだね、今日の予定は……」
ようやくお千代が思案し始める。兎は呆れた様に溜息を吐いた……此の依頼が片付いたら、兎には埋め合わせしないといけないな。
お千代がブラウスのフリルの前で腕を組む……白い、シルクのブラウスは、胸元に大きなフリルがある。ブラウスの上には黒のテーラードジャケットを羽織り、ジャケットと揃いの、細く長い黒のスーツパンツと、ヒールの高い白エナメルのパンプスを履いている。スラッとしたパンツルックだ。銀髪も後ろで一つに束ねている。が、男性的ながら、美女にしか出せない凜々しさを兼ね備えた、一寸男には出せない趣を匂わせ、思案に暮れる様子はより知的に映えた。
「矢張り、追うべきは第一容疑者だ。里見健一にしたように、今度は櫻井未伽を調べなければ。彼女は生徒の身分だから、里見よりは動向が調べ易い。何をするにも許可のいる身分だからね。なので先ずは生徒会や寮や職員室に聞き込みを……」
「其れはもう済んでます」
「え?」
お千代が俄に隣を向く。兎は顔を背けながら、
「だから、櫻井未伽の調査はもう済んでます」
と、不機嫌そうに同じ台詞を繰り返し、言い継いで、
「昨夜、所長が先輩のところへ遊びに行った後、一人でやることもなかったので、勝手に仕事を進めたんです。所長が『犯人は櫻井未伽だ』と言っていたので、彼女に関するものは一通り調べ上げました。来歴、成績、部活動記録、生徒や職員の評判、寮室の番号、外泊許可や外出許可の有無、健康診断の結果も、全部に目を通しました。けど、所長と先輩には見せてあげません。全部、あたしが記憶してますから」
兎はぶっきらぼうに言い捨てた。仕返しの積もりか、声色は何処か意地悪くもあった。
じっと聞き入っていたお千代は、瞳をまん丸にして、
「しかし、あの短い間にどうやって?かなりの調査量だと思うが」
「大概の事は橘さんに教えて貰いました。橘さんは櫻井と仲が良かったので、彼女の学校生活には詳しかったです。其れに橘さんが生徒会長なのも助かりました。諸々の許可申請は生徒会の取り扱いですし、取り分け櫻井未伽のものは注意していたらしいので」
兎が平気な顔で応える。お千代は益々驚いている。
「兎が聞き込みを?一人で?」
「其れは、まぁ、所長も先輩も昨晩はいなかったんですから、当然あたし一人でした」
「……大変じゃなかったかい?」
「別に、橘さんのお陰です。年が近いからか、橘さんは色々と打ち明けてくれて……辛い告白をしてくれた後なのに、橘さんはあたしを自室に呼んでくれました。きっとお役に立てるからって」
「ふむ。橘葵と仲良くなったんだね?」
「そうかも知れませんね」
頷く兎を見、お千代は心底嬉しそうな顔になった。あんなにも娑婆を怖れていた兎が単独聞き込みを敢行し、且つ、同年代の友達をも作った事を喜んでいるに違いない。自然と俺も笑みが零れる。そんな俺達の様子を、兎は胡乱な瞳で見た。
「もう立派な一探偵だ。私の知らぬ間にスッカリ成長したんだね」
お千代はそう言うと、身体ごと兎に向き直り、頭を下げた。
「寂しい思いをさせて済まなかった。此の通り謝るから、兎の得た情報をどうか話してくれないか?」
「え、あ、お、お姉様?」
兎が瞳を白黒させる。
「頭を上げて下さい。もう怒ってません、怒ってませんから。話しますから」
兎は狼狽えたが、お千代が頭を上げると落ち着きを取り戻し、要望通り櫻井未伽に関する情報を話してくれた。此の時、兎は当然の様にスラスラと暗唱してみせた。何度も経験しているが、底知れぬ記憶力には毎度舌を巻かずにいられない。
「成る丈さわりだけ解説しますね」
「宜しく頼む」
「橘さんと櫻井未伽は中学入学時に知り合ったそうです。大きな製薬会社の社長令嬢、其れも一人娘たる櫻井未伽は、親族に相当可愛がられ、其れが原因かどうか、『出会った当初、未伽はかなり引っ込み思案な性格』だったと、橘さんは証言しています。『友人関係に悩むと、不眠症になるくらい』には神経質だったとも。そんな彼女の相談に橘さんはよく乗っていたらしいです。
ではいつ頃立場が逆転したか。恐らく高校に入って半年程経った頃、一年生の八月頃じゃないか、橘さんはそう言ってました。
其の時期に誰かが櫻井に愛の告白をした……相手は今も判ってません。近隣に住む青年か、或いは教師か、将又学院の生徒か……。
兎も角、自分に向けられた熱烈な好意が、櫻井未伽に絶対の自信を与えた事だけは確かです。元々容姿には恵まれていますし、己の利が他を圧倒していると自覚すれば、後は簡単……箱入り娘特有の我が儘な性格も巧く働き、今の地位にもトントン拍子で至った、と。
成績は、群を抜く程ではありませんが、常に学年五位以内に入っています。特に現代文が得意分野で、此方は大体満点ですね。読書が趣味なのでしょう、高じて文芸部に入ったと思われます。
生徒からの評判ですが……敢えて説明する迄もなくあの調子ですし、儀式の事もありますから、横に置いて、職員の評判も良いみたいですね。表立った問題行動はなく、人懐っこいところもあり、大人受けするのでしょう。
寝泊まりしている部屋は一四一。第一学生寮の最上階、南向き角部屋、台所も冷蔵庫もある部屋だとか。
健康状態は良好。先に述べた様に、内申点に響く問題行動は今迄に一つもなし。目星しいというか、他にあたしが気になったものは、外出許可くらいでしょうか。櫻井未伽は、一昨日、つまり十二月二十三日に外出許可を申請しています。名目は清掃ボランティアになっていました。これ以外には、少なくとも此処三ヶ月の間には、外出許可も外泊許可も出していません」
「一昨日なら、確かに、ボランティアに出掛ける櫻井さんを見たな」
其の日の早朝、俺は実際に学院正門前で未伽と出会った。其の時の事を、お千代と兎に詳しく説明する。
説明を聞き終えると、お千代は、
「其れで、女王は何処に?」
と、兎に訊いた。
「教会にいる筈です。行きましょう」
兎が立ち上がる。長い白髪を手櫛で窘める姿は、少し嬉しそうだった。
食堂を出、既に飾り付けの取られた真冬の公園の、煉瓦道を、コツコツ進む。行き先は公園の中心だ。
「今日はクリスマスですから、朝に特別なミサを催す予定なんです。賛美歌も歌われるらしいんですが、聖歌隊には櫻井未伽も連なっています」
兎の言葉は、微かな靄と共に舞い上がり、枯れ枝の隙間に吸い込まれていった。
教会前の広場に出る。と、其処に黒い人集りが出来上がっていた。煉瓦の広場にたむろするセーラー服の一群は、皆が皆、押し合いへし合い教会に入ろうと試みている。生徒達だ。彼女らの嬌声が、教会の真っ白い壁や、尖った緑屋根に沁み渡り、朝の冷気を異様な熱気に包んでいる。
此の騒ぎは何事か、俺が圧倒されていると、お千代は群衆の手前で立ち止まり、じっくり金瞳を動かして、
「村町先生」
と、生徒達の中に混じる初老の女性を呼んだ。
「あら?お千代さん」
村町先生は俺達を認めると、群衆を掻き分け、どうにかお千代の前に立った。
「お早う、お千代さん。毎年の事だけど、此の日の教会は駄目ね。神聖な場所だというのに……皆さん!お静かに!」
村町先生の叱責が飛ぶ。途端、黒集りはピタリと静かになった。
「これで良いわ。貴女も賛美歌を聞きに?」
「えぇ、そんなトコロです」
お千代は笑顔で応えた。が、其の微笑には多少の無理がある。
「お千代さん」
「何でしょう?」
大変珍しい事に、お千代の声が上擦っている。
村町先生は、一つ、重苦しい溜息を吐き、俺を一瞥した。
「お千代さん、昨晩の様な事は困ります。門限を破った挙げ句、お酒を飲んで帰って来て。脱走記録も更新ですよ。飛んでもない事です。前回の記録も貴女でしたね。在学中にも寮を抜け出して、夜遅く帰って来て、平気で警報器を止めて欲しいと私に頼むなんて、あの頃と何にも変わっていないじゃありませんか。幾ら生徒時代より甘い待遇にしているとはいえ、寮に寝泊まりしている間は最低限の規則には従って貰わなければ困ります。其れに、お千代さんも大人ですから、其処の彼と良い仲なのは構いません。ですが、話に聞けば、彼とは未だ恋姻届も出していないとの事。其れではいけません。いえ、届を出しても、貞節はキチンと守り、学院の卒業生として淑女らしく……」
「先生、先生」
「何です?お千代さん。お話は未だ終わっていませんよ」
「いえ、先生のお話は大変有り難いのですが、私達は仕事で来ていまして……どうか、教会に入れては頂けないでしょうか?」
「あら?そうだったわね。いけない、私ったら、未だお千代さんの担任気分で」
「いいえ、構いません。先生が私の担任だったのは懐かしい事実ですから」
此のやり取りに深い年季を感じる。二人の息がピタリと合っている。在学当時、お千代と村町先生は此の手のお説教を相当繰り返したのだろう。
其の後、俺達は村町先生の案内で、小鳥の様にざわめく生徒の群れを突っ切り、教会の木戸を潜った。
「もうそろそろ始まります。どうか御静粛に」
村町先生はそう注意して、音も立てずに戸を閉めた。
教会の中は外と同様に生徒達で溢れ返っていた。生徒達は全員、髪の毛を隠すように白いベールを被っていた。まるで修道女の群れだ。そんな少女達でベンチはどれもギッチリ埋まり、ベンチにあぶれた生徒達は壁際に並んで立ち見している。
少女達は漏れなく恍惚とした表情で祭壇を眺めていた。
憧れ、酔い、羨望……種々雑多な視線を一身に浴びるは、祭壇付近、十字架の手前にて一列をなした、これも頭に白布のベールを纏った少女聖歌隊。数は十五人くらいだろうか。隊の中には櫻井未伽の姿もある。
未伽は朝日を透かすステンドグラスの色を帯び、殊更美しい。場所が場所だけに、神聖化されている様にすら見える。荘厳な教会に佇む未伽は、両手を胸の前で組み、瞳を瞑っている。祈りを捧げる様な、十字架に架けられた神の子の苦悶を哀しんでいる様な、そんな姿だ。
よくよく見れば、聖歌隊には葵も混じっている。昨日の告白が脳裏を過ぎり、俺は葵の心中を案じた。が、葵は清々しい表情で、じっと瞳を閉じ、宛も天命を待つが如く落ち着き払っていた。
やがて、教会の中に重厚なオルガンの音が響き出す。其の音は宗教的な意味合いを含みながら、けれど何処か哀しく、悼みと、其れ故の生命の神秘性を、訥々と語って聞かせる様な音階だった。
少女聖歌隊はオルガンの伴奏を聞くと、細い喉を震わせ、高く美しく、厳かに、賛美歌を歌い始める。
What Child is this who, laid to rest
On Mary’s lap is sleeping?
Whom angels greet with anthems sweet,
While shepherds watch are keeping?
This, this is Christ the King,
Whom shepherds guard and angels sing;
Haste, haste, to bring Him laud,
The Babe, the Son of Mary.
「『御使いうたいて』……」
隣でお千代が呟いた。
奇怪な光景だった。神聖な場面を描いたステンドグラスの鮮やかな光線が差し込み、うら若き少女達が美声を用いて歌う彼処は、竜胆霞の殺されていた場所だ。嘗て美しき死体が青い肌に血を流し横たわっていた事件現場で、厳かに賛美歌が歌われている。
此の「御使いうたいて」の他に二曲歌うと、オルガンの演奏が止んだ。礼拝堂に清楚な拍手が満ちる。さざ波に似た拍手は、けれど絶賛の響きを含み、聖歌隊が揃って礼をすると絶頂を迎えた。
歌い終わった聖歌隊が教会の外に出れば、待ち構えていた群衆に、忽ち未伽は取り囲まれてしまう。凄い賑わいである。
「やれやれ……話を聞きたかったのだが、此の様子では謁見はいつになる事やら」
お千代が嘆息する。俺は相槌代わりに苦笑して、未伽を見やった。
あれ程熱烈な歓迎を受けて猶、未伽は余裕の笑みを絶やさない。周りの少女は皆、綺麗に包装され、リボンを巻かれた箱を抱えている。昨晩だけでなく、今日もクリスマス・プレゼントを贈られているのか。他者の手を押し退け、己のものを未伽に手渡そうとする少女達の姿は、確かに、我先にと、女王に献上品を手渡す臣民に見えなくもない。
辺りを見回せば、同じく葵の周りにも人集りが出来上がっていた。規模は未伽より劣るものの、大したものだ。未伽が臣民からの献上品であるとすれば、葵は臣下からの贈呈品、不思議とそんな印象を受けるのは、大きなテディベアを渡されている所為だろうか、其れともクマのヌイグルミを抱える葵が年齢より幼く見える所為だろうか。
……此方の視線に気付いた葵のショートカットが揺れ、大きな瞳が俺達を捉えた。葵は少し照れた様に微笑み、会釈した。俺も会釈を返したが、兎は深く腰を折って応えていた。
葵は存外平気そうに振る舞っている。勿論、昨日の今日だ、そんな事はないだろうが、葵は気丈にも内心を隠し、朗らかな笑みをさえ見せて、生徒達のプレゼントに御礼を言っている。
葵の笑顔は、少し寂しい様だけれど、しかし作り物の感は全くなくなっていた。だからこそかも知れない。葵が慕われているのは、小さくても弱くても、仮令間違えても、健気であるから……(と、黄昏れている俺のトコロにも、お千代や兎の許にも、数人の生徒がプレゼントを持って押し掛けて来た)。
俺達は騒がしい広場を一旦離れ、ベンチに腰掛けた。遠くから未伽を観察する。
足下で、数枚の枯葉がカサカサと乾いた音を立てて砕ける。
「其れにしても、此処はやっぱり変な学校だな」
未伽の周りではしゃぐ生徒達を見ながら俺が呟く。
「変とは?」
と、お千代も未伽を見ながら訊く。
「いや、悪く言う訳じゃないけど」
俺は言葉に迷いながら、視線を隣のお千代へ移して、
「でも、変だなとは思うんだ。巧く説明出来ないけど、普通とは隔絶してる気がして」
「ほう、例えば何処が、普通一般とは異なると?」
「そうだなぁ……例えば、今日の賛美歌。櫻井さんは三年生で、もう直ぐ受験だって控えているのに、こんな学校行事に出ている余裕は、普通ないと思うんだが」
ワイワイとはしゃぐ生徒達を見、思った儘を口にする。こんな風にクリスマスを愉しむ余裕など、受験生にあるものだろうか?そう言えば、未伽は放課後も文芸部に顔を出しているし、そも、受験勉強などいつしているのだろう?
「其の事か」
お千代は何でも無い様な調子で応えた。
「其れはそうだ。此の学院の生徒は、殆どエスカレーター式に附属の女短大へ編入するから、受験勉強なんてしやしないよ」
「へぇ……」
頷きながら、俺は質問を続けた。
「じゃあ、お千代も附属の短大に?」
「いや、他の大学を受験した。受験勉強は一切しなかったが……」
そう言うと、不意にお千代は金瞳を細め、
「そも、そういうシステムが良くないのかも知れない。君が指摘した通り、彼女達は世間並みに、自らの人生を選択しても良い筈だ。なのに、其の芽を早々に摘み取ってしまうから……だから、橘葵があんな事をしてしまったのかも知れない」
俺はセーラー服の真ん中で笑う葵を眺めた。傍目には愉しそうだが、あの華奢な身体に一体どれ程の苦痛を抱えてきたか、想像も付かない。
彼女達はもっと自由であるべき、と、お千代は言った。態々「鳥籠の鳥」の譬えを出す迄もなく、数多の歴史や小説が「令嬢と囚われの運命」を物語っている。親の決めた教育を受け、親の決めた相手と結婚し、豪華な家の中に閉じ籠められる貴族の娘……こんな筋書きは、人類史に使い古されている。
ならば、議論は今更だ。
俺は話題を変えようと、第二に思い付いた事を述べた。
「そうそう、此の学院が普通じゃない事の続きだけど、此処の生徒会って、妙に権限が強いよな」
「と言うと?」
お千代と兎が揃って俺を見る。俺は二人の視線を浴びながら何気なく語った。
「例えば、ほら、お千代と兎の部屋を用意したのも生徒会だろ?けど、寮の部屋を準備するなんて、普通は教師がやる仕事だし」
「へぇ。私は此処しか知らないから、普通の生徒会がどんなものか判らないけれど、そんなものなのか」
「そんなものさ。まぁ、今時、全寮制の学校も珍しいけど……しかし部屋の準備なんて、流石に生徒だけじゃ大変だろ」
再び葵を見る。生徒会長の葵を。
お千代も葵を見、やおら口を開いた。
「まぁ、学生寮の部屋割りは、昔から生徒会の仕事だったからね」
「昔から、ねぇ」
矢張り変だ。奇妙な伝統や風習も多く、学院全体が一種異様な力場に陥っている。
俺達がベンチで黙りこくっていると、公園に一陣の木枯らしが吹いた。足下の、枯葉の残骸をさらっていった風は、兎の白い髪も舞い上げる。
「しかし考えてみれば、其れも大人が弱い所為だ」
風になびく銀髪を押さえながら、お千代は言い継いで、
「教師は皆、戦々恐々なんだよ」
「どういう意味だ?」
皮肉めいた台詞の意図が掴めず訊く。と、お千代は徐に青空を仰ぎ、いっそ晴れ晴れと語った。
「『生徒自治』なんて標榜しているが、無論建前さ。本音は教師が生徒に、厳密に言えば生徒の家柄に怯えているからに他ならない。口を出せないんだ」
「教師が、生徒相手に?」
「そうとも。已むを得ない事情があってね。高校生というのは、身体は育っても根は未だ子供、修学旅行の組分けですら揉める年頃だ。教室で泣き出す、なんて珍しくもない。君にも覚えがあるんじゃないか?況して、寮の部屋割なんて、一つ間違えればどうなるか。そして、若し、教師の取り決めに不服な生徒が、親に泣き付いたら……生徒達の親は、単なる金持ちではない。其の力はあらゆる場所で遺憾なく発揮されている。我々とて、彼らの力が生んだ結果の一つじゃないか。彼らは警察すら排除出来る。担任の首を飛ばすくらい、何でも無い。残念ながら、実際にそういった例がある。だからこそ、教師陣は生徒のあれこれに触れたくないんだよ。生徒達は生ける聖域なんだ。故に、生徒達の事は、生徒達自身に決めさせているのさ」
お千代は視線を前に戻し、遠くを見る瞳で葵と未伽を見比べた。
「しかし、矢張り……繰り返しになるが……そういった強権を持つ親の庇護こそ、彼女達の不幸かも知れんね。普通の女子高生として教師に扱われた方が、彼女達の人生にとって良いに決まっている。世間並みに大人の指図を受け、大人に叱られた方が」
自由と不自由の不釣り合い、其の代償が引き起こした悲劇に、俺は思いを馳せた。今更、取り返しは付かないけれど。
会話は再び途絶え、はしゃぐ生徒達の声ばかりが耳に入った。
「全く宗教だ」
五分も十分も黙っていると、お千代はベンチの背もたれに身体を預けながら、独白の様に語った。
「心身の囚われた学院生活に鬱屈としていたのも一助になったろうが、これだけ布教が広がったのは、橘葵が物語、櫻井未伽が聖像として、少女達の共感と崇拝を集めた面が大きい。此処にいる全員、もっと言えば生徒全員が、竜胆を殺した犯人を知っていた筈なのに、口を噤んだ。警察を排除するのも当然だった訳だ。口裏を合わせていた様子もない、宗教としての集団意識が自然と秘密を守らせたんだ。なんと信心深い事か」
「……だから櫻井さんを疑ったのか?」
ズット気になっていた事を訊く。未伽を犯人と推理したからこそ、お千代はあれだけ「生徒達の秘密」に拘っていたに違いないからだ。
お千代は苦笑して、
「まさか、ハナから櫻井未伽を疑った訳じゃないさ。犯人の名が知れたのは、昨日、橘葵から儀式について聞かされた時だ。が、誰であれ、犯人は生徒だろうと、以前から推定していた。竜胆と里見が恋仲だと判った直後には、ね。理由は簡単。竜胆殺害時刻は夜半、学院内には女しかいない。当直は我々探偵を呼んだ村町先生、シスターは全員の不在証明が成立している。寮の管理人も仕事中。となると、消去法で、犯人は生徒となる」
と、広場を見渡しつつ語り続けた。
「更に生徒達のあの態度。可笑しいじゃないか。普通の学生が、我々みたいな大人、しかも捜査員を相手に、誰一人口を割らない。常識なら怯んだり憶したりして、一人くらい秘密を漏らすものだ。なのに話さない。これは余程のもの、つまり後ろ暗い、もっと言えば事件に繋がる秘密があるのでは、とすると、つまり生徒達の中に犯人がいるのでは……そして其の秘密は文芸部に纏わるものだった……と、まぁ、こういう順序で櫻井未伽に辿り着いたのだがね」
お千代は此処で言葉を区切ると、俄に開き直った、明朗ながら空虚な口調になって、
「証拠の在処も予想は付く。犯人は櫻井未伽で先ず間違いない。が、此の儘家宅捜索でもして逮捕するのが、果たして正解かどうか、正直私には自信がない。動機を想像すると……彼女を捕まえるなら、もっと違った方法、もっと彼女が望む方法がある様な気もするんだけれど……加えて、もう一つ、判らない点がある。学院の生徒たる彼女が、夜半にどうやって寮を抜け出し、教会を訪ね、事を終えた後、どうやって誰にも見付からず部屋に戻ったのか」
お千代は未伽を見詰めているらしかった。
「兎が調べてくれたが、記録上、櫻井未伽に問題行動は見当たらない。つまり、門限を破ったとか、寮を脱走したという記録はないんだ。お誂え向きに、最前、村町先生がこれを補完してくれた。寮の脱走記録は昨晩私が更新した。前回の記録は数年前、これも私だ。即ち此の間、私以外、寮脱走は誰もしなかった。しかし」
俺も未伽を眺める。未伽は友人達の中心で晴れやかな笑い声を上げていた。
「櫻井未伽は十二月十一日の夜、其れをやってのけた。時計と渾名される管理人の目を盗んで寮を抜け出し、人知れず部屋に戻って来るという芸当を、見事やり遂げたんだ。其の方法とは?」
そう言うと、何か思い付いたのか、お千代は金瞳をまん丸に見開き、兎の方を向いた。
「兎、兎、君は昨晩、橘葵の部屋にいたのだったか?」
「はい」
「具体的に何時迄いたんだ?」
「一晩中いました。橘さんにいて欲しいと頼まれて、其の儘泊まったんです」
「泊まった?管理人が見廻りに来なかったのかい?」
「来ませんでした」
「変だな。私の頃は、毎晩見廻りに来て、辟易したものだが」
「変ではありませんよ。これも橘さんに教えて貰ったんですが、どうやら見廻りは素行不良の生徒のみ重点的に行い、品行方正乃至物静かな生徒は免除されているらしいですから」
兎がアッサリ言い放った情報は、元不良生徒には新事実だったらしく、お千代は驚愕の気色である。
「いやはやどうも、此処の卒業生という立ち位置が、役立ったり、邪魔だったりするなぁ」
しみじみ頷いているが、そも、お千代が優等生だったなら、疾うから知れていた筈の情報だ。其れにしても、毎夜見張られていたとは一体どれ程の問題児だったのか、これは脱走以外にも未だ未だ余罪がありそうだ。
けれども、今や美しき名探偵として開花したお千代は、理知的な光を金瞳に湛えつつ癖の様に煙管を求め右手の指で空中を弄り、かと思えば、不良の面影が僅かに残る不敵な微笑を浮かべて、
「だが、そうだ、此処の生徒だったという強味は未だ未だ活かせる。何しろ、今日は火曜日だ……君達」
と言うなり、ベンチを立った。
「何だ?」
「何でしょう?」
俺と兎が同時に応える。恐らく、俺と兎は同じ事を考えている。
きっと全て解けたのだ。
「君達に手伝って欲しい事が出来た。其れから警察の手も借りたい」
お千代は身を屈め、コソコソと、小声で段取りを語った。
そうして打ち合わせが済むと、お千代はこう言って締め括った。
「決行は今夜。其れ迄悟られてはいけない。静かに準備しよう。招待状も。そうすれば彼女はやって来る」
今夜。
俺達は互いに顔を見合わせ、小さく頷いた。




