聖女の初夜 拾弐
暫くするとお千代が戻って来て、
「早計だったね。断定出来る程の証拠は揃っていないのに」
頭が冷えたのか、そう言うお千代の顔には微笑さえ浮かんでいた。そうして、お千代は葵の許へ行き、
「御礼を忘れていた。橘さん、有り難う。君のお陰で捜査も大いに進展する。打ち明け難かったろうに……慰めになるかどうか判らないけれど、君の行いは確かに愚かだったにせよ、真摯でもあった。愚かである事を恥じる必要はない。君は未だ若い。私だって此の齢で未だ愚かだ」
お千代はいつになく優しく、暖かく柔らかく、包み込む様に葵の手を握った。其の体温に緊張の糸が緩んだのだろう、葵は顔を上げると、声を上げて泣いた。
其の後、葵が泣き止むのを待って、俺達は各々の寝床に帰った。
帰路の途中、車で一路民宿へ向かう道すがら、ハンドルを握る俺の脳裏には「メモ」の内容が浮かんでいた。生徒達の秘密、儀式の内容、其れから泣き崩れる葵の姿が、暗い田舎道を照らす車のヘッドライトの中に現れては消えて行く。
泣いて泣いて、涙も涸れ、嗚咽だけとなり、次第其れも止まり、暗がりの生徒会室で顔を上げた葵の、泣き腫らした真っ赤な瞳。「済みません。もう、大丈夫です」……儚い強がり。葵は懸命に微笑んでいた。痛々しい笑顔だった。が、過剰な同情は却って失礼になる。
民宿の駐車場に車を停める。背後の山は瞬く星空に被さり、今にも此方へ崩れてきそうだ。山と言うより影の波だ。俺は追い立てられる様に民宿に入った。
民宿の、物寂しい部屋に入って、白々した電灯と、未だ冷たい炬燵の電源を点ける。コートを脱ぎ、暗澹とした心と共に座椅子に腰を落とし、炬燵に足を差し入れる。携帯を炬燵の上に置いて又直ぐズボンのポケットに仕舞う。
気晴らしにテレビでも見ようと思っても、目の前にあるリモコンを拾うのが億劫になり、じっと、緑色の「電源」ボタンを眺めた。壁に貼られたテレビの、黒々とした表面は、朧気な鏡面だ。虚ろな男の顔をぼんやり映している。
哀しかった。自分の身に起きた訳でも、降り掛かった訳でもない事柄を、耳にしただけで、俺は傷付いた。儀式の陰惨さを思い出すだけで、胸が締め付けられる。己の事には鈍感なのに、他人の心理には簡単に感化されてしまう……これこそお千代の言っていた、「男のロマンチシズム」かも知れない。
苦笑が漏れる。我ながら意気地がない。一人で悩んでも……そも、俺が悩んだトコロでどうしようもない。強いてそう思い、俺はようやくテレビのリモコンを掴んだ。
「失礼します、お客さん」
と、部屋の外から男の呼ぶ声が聞こえ、俺は襖の方に返事した。
「はい、どうしました?」
「いえね、どうにもお客さんに御電話で」
「電話?」
炬燵を抜け出し、襖を開ける。と、廊下に控えた男の従業員が、小さな目を丸くして待ち構えていた。
「えぇ、フロントの電話に。女性の方でしたよ。どうぞ、電話は繋がった儘にしてありますんで」
従業員は「へへっ」と奇妙な笑いを残し、階段を下りて行った。下世話な笑みに、俺は益々首を傾げたが、兎も角、フロントに行ってみようという気になった。
階下のフロントには誰の姿もないが、気配は感じる。どうにも変だ。訝しみながら、フロントに置かれた、ピンク色の公衆電話を見下ろした。受話器が机の上に転がっている。こんな夜中、こんな民宿に、本当に電話が掛かって来たらしい。
俺は化かされた心地で、受話器を取り上げ、耳に押し当てた。
「はい、もしもし?」
「今晩は」
受話器からは艶やかな声。
「お千代?どうした?何だってこんな時間に」
「又随分な言い草だ。私からの電話は迷惑かな?」
「いや、そういう訳じゃ……けど、どうした?何かあったのか?」
お千代は電話向こうで小さく笑ったらしかった。
「『何かあった』とは、穏やかでない。今夜、君と話したい事が出来て、御電話差し上げた」
「俺と話?其れは電話でか?」
「いや、出来れば直接会って話したい。どうかな?今直ぐ出て来られるかい?」
「其れは平気だけど」
「良かった。じゃあ今から指定する場所に……」
不意にお千代の声が遠退く。電話の向こうがどうにも騒がしい。
「お千代?おい、お千代?」
呼び掛けにも返事はない。何かあったのか?第一、お千代はどうして電話を、と、俺が余計な気を揉んでいれば、
「す、済まない。いや、何でも無いんだ。じゃあ町の『グレエトヘン』という飲み屋に直ぐ来てくれ」
と、早口に告げ、お千代は最後にこう付け加えた。
「序でに言っておくが、店にはタクシーで来給え。待っているから」
ブツンッ!……ツー……ツー……。
無機質な電子音が響く。俺はどうしたものか迷った。が、一方的でも待ち合わせた以上、行かない訳にもいかない。
俺は受話器を電話の上に置くと、フロントの奥で聞き耳を立てている従業員夫婦に頼んでタクシーを呼んで貰った。車を待つ間、俺は一度部屋にコートを取りに戻った。
五分、十分、フロントで待っていると、タクシーは滑る様にやって来た。日焼け顔の運転手に行き先を告げると、運転手の男は忽ち破顔して、
「そう言えばそんな夜ですね。やぁ、一年は早いなぁ」
と、意気揚々、車を発進させた。
……釈然としない……。
俺を乗せたタクシーが夜道を走る。外灯一つない闇夜の中、俺は思案に耽った。何故お千代は急に呼び出したのか?時機を鑑みれば、仕事の話だと思うが……。
ゴロゴロと、タクシーは砂利を踏み付け、田んぼの間を通り過ぎ、町中に入る。閑散とした町の中心部、タクシーは商店街を暫く走ると、其の端で停車した。料金を払う際、運転手に頻りと励まされる。人の良い笑顔で何を「頑張れ」と言うのか、疑問は拭えず、シャッターが列を成す夜の商店街に降り立つ。
真夜中、仰ぎ見る看板に「グレエトヘン」とネオンが輝く。古ぼけた飲み屋だ。入口に光る七色洋燈の脇を通って戸口に立ち、ドアノブに手を掛ける。
此の中にお千代がいる……らしい。今一つ自信がないけれど、指定された店名も一致しているし、間違えたとも思えない。
逡巡の果て、えぇい儘よ、扉を開く。
安っぽい外観とは裏腹に、店内は上品に落ち着いていて、俺は驚いてしまった。ペルシャ絨毯の床、黄金に輝くシャンデリア、黒革のボックス席、グランドピアノ。見たトコロ、柱や梁、カウンターと酒棚は黒檀製。店の奥にある酒棚には、琥珀、透明、赤、白と、透き通る酒の満たされた様々な形のボトルが整然と並び、仄かに輝いている。
店内には優しい音色が漂っていた。赤いドレス姿のピアニストが、静かに鍵盤を叩いている。曲は四ビートの小気味良いもの。ピアニストの他、酒棚を背にしたカウンターには紳士然とした初老のバーテンダーが控えている。小体ながら気の利いたバーだ。
そしてカウンターのスツールには、黒いドレスを召した銀髪の女が、白い背中を露わに座っている。俺が店に入ると、銀髪の美女は吸っていた長煙管を唇から離し、やおら振り向いて、
「やっと来た」
と微笑んだ。
「お千代」
俺の言葉は吐息に似て、直ぐピアノの演奏と区別が付かなくなる。俺は絨毯をふかふかと踏み締めながら、吸い寄せられる様に、お千代の座るスツールの隣、カウンター席に腰を降ろした。
「女性を待たせるとは、どういう了見かな?」
「いや、ゴメン。其れにしても……これは……」
戸惑いが抜けず、改めて店内を見回す。シャンデリアに照らされた店内は都内の一級バーと比べても劣らない。客はどうやら俺とお千代の二人だけらしく、初老のバーテンダーは、俺がスツールに腰を落ち着けるのを待って、ピーナッツの入った透明な小皿を出した。
「あ……っと、じゃあ……」
迷った挙げ句、俺は酒棚から馴染みのハーパーを見付け、其れをロックで頼む。と、バーテンダーは実に流麗な所作でボトルを開け、丸い氷を落としたロックグラスに琥珀色の液体を注ぎ、間もなく、俺の目の前に差し出される。
「では、乾杯といこうか」
お千代が自分のワイングラスを手に取ると、中身の赤い液体が揺れた。
グラスとグラスが軽く打つかれば、カツンと、涼しい音が響く。
「乾杯」
「……乾杯」
俺は氷をカラカラと廻し、少し溶けた頃合いに口を付ける。隣からは、ほぅ、と、お千代の吐息。俺は丸い氷を見る振りをして、こっそり、隣の様子を窺った。
お千代は美しいリトル・ブラック・ドレスを着ていた。スカートの薄い生地が風もないのに揺れている。シンプルなワンピース型のドレスだが、詳しく観察すれば、其の黒の色合いは深く緻密に重なり合っていて、知らず識らず魅入られる内に、生地に触れそうになる。ドレスは背中が大胆に開き、お千代の真っ白な背中を露わにしていた。銀髪は左肩から鎖骨を経て、胸の前に垂らされている。なので、お千代の背中を隠すものは何も無い。此処からならば、存分に雪原の様な背中を堪能出来る。小高い丘が連なった様な背骨や肩胛骨の隆起……ヒヤリとするくらい滑らかな白い肌……甘い匂いは、酒か、香水か、将又素肌の香りか……。
「うん?」
視線に勘付いたお千代が微笑みながら首を傾げる。
「えぇっと、どうした?急に呼び出して。何か、俺に話があるって電話で言ってたけど、仕事の話か?」
俺は誤魔化すように早口だった。こんな風に、無邪気に、お千代の金瞳に見られると、狼狽えてしまう。
「……君は本当に、気付いていないみたいだ」
苦笑に溜息を添え、お千代は瞳を意地悪く細めた。
「気付いていない?何に?」
お千代は応えを勿体振った。一口、赤い酒を呑んだ後、銀色の髪をそっと撫で、手に持った銀製の長煙管(お千代の愛用品。事務所から持って来ていたらしい)の吸い口に唇を付け、ふぅーと、細く長い紫煙を吐き出してから、やっと小さく笑ってみせた。
「『何故?』って、其れは、今夜がクリスマス・イヴだからじゃないか」
「……成程」
「『成程』って、全く、君ときたら、本当に忘れていたと?」
「いや、スッカリ忘れてた。そっか。今日はイヴか」
本当を明かせば、忘れていた訳ではない。先程、学院でパーティに参加したばかりである。しかし、調べ物やら、葵の告白やらで忙しく、自分も世間並みにクリスマスを迎えているという自覚が薄く、つい他人事みたく考えていたが、言われてみれば確かに今日は月曜日の十二月二十四日、クリスマス・イヴ其の日である。
「だから君を呼び出したんだ。なのに君は、人の苦労も知らないで、そんな呑気に……あの学院は門限を過ぎると、決して寮から出してくれないんだ。しかし今日だけは特別、パーティがあるから門限が少し後ろに延びる。其れに今夜の当直は村町先生だ。これらを利用し、管理人の目を盗んで、やっと逢いに来たというのに、君は全く……途中、兎や先生にも見付かるし……」
「兎に見付かったのか?」
「君との電話の最中にね。携帯が圏外だというから、態々宿に電話したら、これさ。お陰で兎に嫌味を言われてしまったよ。『フェアプレーはどうしたんですか?』ってね」
「ハハハ……」
俺は曖昧に笑って酒を飲んだ。強いアルコールが喉を焼く。カランと、丸い氷がグラスの中で鳴る。
「……其れで?」
と、いきなりお千代が不満気になって、
「君、何か言う事は?」
「言う事……?」
「ほら、だから、こうして折角私が、イヴの夜に、君に逢いに来たというのに」
お千代が何を言わんとしているか、何を求めているか、俺には直ぐ判った。其れを嬉しくも思う。が、直接的に表現するのは違う気がする。男女の会話には、何かもっとこう、直接的でなく、けれど効果的な、相応しい言葉が必ずある。
「そうだな……」
俺は少し考え込み、
「そうやって拗ねているお千代も新鮮で、そういう一面も可愛いと思うな」
俺が笑ってそう言えば、お千代は困った様に金瞳を逸らした。
「そういう言葉を何処で覚えてくるんだ?誰彼構わず言っているんじゃないだろうね?」
「まさか。誰にでもって事はないさ」
「どうだか。兎にも、橘葵にも言ってたじゃないか」
「そんな事はないと思うけど」
「どうだか」
お千代は不機嫌そうにワインを呷った。が、其の頬の赤いのは、何も怒りやアルコールの所為だけではない。でなければ、態々こうして、イヴの夜に、俺と酒を飲もうだなんて提案しない。
其れにきっと、今夜はお千代も寂しかったのだ。口にはしないが、葵の告白、「生徒達の秘密」を聞き出して、ガラにもなく不安になったのだろう。そんな時、傍にいて欲しい相手が俺とは、実に光栄だ。
「話は変わるけど」
煙管を吸うお千代に、俺から声を掛ける。もう機嫌が直ったのか、お千代は「うん」と、いつもより甘い声で応えた。
「こうやって二人で逢うのも久し振りだな」
「そうだね。近頃は私と君、其れに兎を加えた三人で行動する事が多かったから」
「兎か……しかし兎も凄いよな。こんな短期間で本当に探偵免許を取るんだから。俺なんて、必死になって勉強して、どうにかギリギリだったのに」
「あの子には素質があったんだろう。頭も良いし……とは言え、未だ未だ学ばなければならない事も多い」
「確かに」
ピアノの曲目が変わる。
お千代は深く煙管を吸い、長く紫煙を吐く。煙の行く末を眺めつつお千代は口を開いた。
「願わくは、兎があの学院の外でも、あの髪や瞳を隠さなくなれば何よりなんだが」
「あんなに綺麗な髪や瞳を隠した儘にするのは、勿体無いからな」
軽やかな演奏が店内に流れる。お千代は僅かに眉根を動かしたが、追及はせず、二人は束の間、無言でグラスを傾けた。
ピアノの音階が、駆け足で階段を上がる様に進む。鍵盤の上でピアニストの白い指は踊る様だ。
俺はハーパーを乾かしたのを機に隣を見やり、
「昔、学院に通ってた頃、お千代は自分の髪とか、瞳とかに、注目が集まって、何とも思ってなかったか?」
俺はバーテンダーにブラントンを又もロックで頼んだ。
お千代が俺を見やる。透き通る様な金瞳に、俺は満月を連想した。
「そうだね。周りには色々と陰口を言われたかな」
「……ゴメン。嫌な事を訊いた」
「別に。もう昔の話だから。当時から私は気にしていなかったし、其れに、私は生まれて此の方、自分の髪や瞳の色で悩んだ覚えがないんだ」
「そうか……そうだな。其の方がお千代らしい。其の髪も、瞳も、だからこそ冴えて、綺麗なんだろうから」
「又君は、そういう事を平気で言うんだから」
……クスクス……。
お千代は金瞳を細めて笑う。満月は三日月になった。俺も大分酔ってきたらしい。
其れから二人は囁きに似た会話を愉しんだ。取り交わされる言葉に意味などない。二人で話す事が心地好かった。ピアノの演奏、バーテンダーの立ち振る舞いが、俺達の邪魔にならないよう、そっと添えられていた。
お千代に因れば、此の店は、元々、授業参観等で学院にやって来た保護者達が立ち寄る為に造られたのだとか。聖柳風女学院に娘を通わせる親となると、其れなりの資産家ばかりらしく、そういう上流階級を満足させる為には、凝った内装のバーが必要になった、と。
「しかし何でそんな店の事を、学院の生徒だったお千代が知ってるんだ?」
五杯目を呷りながら訊けば、お千代は、そっと、俺の耳許に唇を寄せて、
「其れはね……私が悪い子だったからさ」
「へぇ。なら、今とそう変わらないな」
「まさか、君程じゃないよ」
チョコレートを肴に、笑い合う。本当に久し振りに、愉しそうに笑うお千代を見た。
然う斯うしている内に夜も更け、愉快なイヴもお開きの時刻と相成る。
バーの支払いは俺が済ませた。お千代は遠慮したが、これもささやかなクリスマス・プレゼントだ。
「有り難う。今夜は愉しかった」
店先にて、帰りのタクシーを待つ間、お千代がコートの袂を引き合わせつつ笑った。
「俺も愉しかった」
別れ際に笑顔を向けられると、胸が俄に切なくなる。寂しくなってしまう。冬の寒さの所為か、蒼白い月明かりの所為か、判らないけれど、俺は今夜、お千代に別れを告げたくなかった。
お千代は困った様に笑っていた。聡いお千代の事、恐らく俺の心情を読み取ったのだろう。やって来たタクシーが扉を開けても、お千代は直ぐには乗り込まず、背伸びして、
「其れとも、今夜はズット一緒にいるかい……?」
と、俺の耳に囁いた。甘い香りが漂う。何と応えたものやら、花の様に誘う匂いに惑うばかりで、俺が返事に窮していると、お千代は「冗談だよ」と笑った。
「流石にフェアプレーに反するから……今更だけど兎に悪いから……続きは、キチンと、正規の手続きを踏んでからにしよう」
「そっか……うん。お千代がそう言うなら」
痩せ我慢だ。俺は引き止めたい心をどうにか抑え、「じゃあ、気を付けて」と手を振った。
其れは別れの間際、あっと言う間だった。お千代がタクシーに乗り込み、俺が屈んで覗き込んだ時、
「でも、これくらいは勘弁して貰おうかな」
と、お千代は言うが早いか、自分の唇で以て、俺の唇を塞いだ。次いで舌を舐められる。赤ワインの風味が口内に広がる。温かく濡れた甘い舌先は、けれど味わう余裕もなく直ぐ離れてしまう。
「じゃあ、又、明日」
お千代はそう言うと、扉が閉まり、逃げる様にタクシーは走って行った。
……どうやら今夜は眠れそうもない。




