表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
花の鳥籠  作者: 白基支子
16/23

聖女の初夜 拾

 引き敷かれた羽毛布団の中、どれ程の時間、仰向けで、部屋の暗い天井を眺めていたか。そろそろ深夜零時を回るだろう。民宿の、静かで真っ暗な部屋、目は冴えて寝付けず、俺はぼんやり天井を見ていた。

 頭の中は明瞭だが、目を瞑ればトロトロと眠れそうでもある。今日も調査で草臥(くたび)れた。夢も見ず、目を覚ませば田舎の朝。新鮮な空気と、山菜ばかりの朝食を身体に入れて、又仕事に出向く……。

「順を追って話そう」

 しかし、俺は眠ろうとはしなかった。蒲団に横たわった儘、お千代の言葉を何度も思い返した。

「私がどうして里見健一の死を予想したか。つまり何故、里見が犯人でないと思ったか」

 お千代の言葉は白かった。宵の空に言葉は吸い込まれ、見目にも寒そうだった。

「私が里見健一犯人説を疑い始める切っ掛けは、此のメモだ」

 プリンセスコートのポケットから、お千代は小さな紙切れを取り出した。見覚えのあるメモ。これは俺が作った物だ。里見健一の所有する戯曲「ファウスト」の文庫本から、蛍光マーカーの引かれた文章を抜き出したメモ。

 お千代は抜き出された文章を順々に指差した。

「見給え。此の文章を見て、何か思うトコロはないかな?」

 言われるが儘、俺と兎はメモを覗き込んだ。


 人は務めている間は、迷うに極まったものだからな


 どの美しい花をも自分の手に入れようとして、自分の手で摘み取ることの出来ない恋や情はないはずだと思う性ですね。ところがなかなかいつもそうは行きませんよ


 己がお前を好いていることは分かるだろう。己は好いている人達のためには血も肉も惜まない。またその人達の感情や宗教を奪おうとはしない


「これらの文章が選別された意味を考えてみるとね」

 俺達が読み終えるのを待って、お千代は手に持ったメモを畳み、又ポケットに仕舞った。

「人が名文を引用する際、どんな心持ちでいるか、じっくり研究してみたんだ。恐らく、世界で最も多く引用されてきた本は聖書だ。多くの西洋人が、特に映画中の台詞として聖書の文句を引用している。又、森鴎外の『ヰタ・セクスアリス』は、ある哲学者がJerusalem の哲学入門から一文を取り出し、これに端を発して本書を記したと説明している。更に更に、有名な『黒死館殺人事件』については、最早説明の必要もない。種々の詩を用いて容疑者達の心理を次々に試験している。其の中には――(ウン)精よ(デイヌス・)蜿くれ(ジツヒ・ヴインデン)――と『ファウスト』の一句も見られる。もっと卑近な例を挙げるなら、恥ずかしながら、此の私も名文をよく引っ張り出す。

 以上の研究から、世人が名文を引用する時とは、大抵、其の文を己の指針とする時か、或いは其の詩が現在の心情と重なる時だと推量される。丁度、法律家が法廷で判例を持ち出すのに似ているね。

 此の法則を、里見健一の場合に当て嵌めると……何だか面映ゆいけれど……里見は誰かに恋していたんじゃないか、そう推理される」

 お千代はそう言っていた。俺は自分の作ったメモを見ながら、此の文章を書き写す際、そんな事を微塵も考えなかった自分に驚いていた。

 徐に目を瞑る。と、目蓋の裏に鮮やかなお千代の姿が思い描かれる。小柄ながらジレ姿の似合う、男装の麗人然としたお千代は、服装と同じく堂々たる語り口で推理を聞かせてくれた。

「此処で問題になるのが、『里見健一は誰に恋していたか?』だが、其れも判っている。殺された竜胆霞こそお相手。これにはちゃんと裏付けもある。教会関係者、司祭やシスター達に聞き込んだら、此処最近、竜胆は私室でよく読書をしていたらしい。読んでいた本というのが『ファウスト』。此の事実を踏まえた上でこれを見給え」

 お千代の指がメモの上を滑り、次の文章を示した。


 ヴァルプルギスの夜 +212 +219 +226


「此の文章と数字の組み合わせについて考えてみると、ある日にちが浮かび上がってくる。どういう事かキチンと説明すると、先ず、此の『ヴァルプルギスの夜』についてだが、これは『ファウスト』にも出て来るドイツの祭日で、別名を『魔女の夜』とも言う。『魔女の夜』は、四月三十日の夜から五月一日の朝迄の間を指す。此の事を頭の片隅に置いて、私の説明を聞いて欲しい。

 仮説を続けよう。里見健一が竜胆霞への想いを募らせていたとする。しかし其れだけでは、里見が犯人でないという事にはならない。重要なのは此処からだが……どうやら、里見は其の恋心を、見事成就させたみたいでね。其の証拠こそ『ヴァルプルギスの夜』だ。

 此処で話を戻すが、『ヴァルプルギスの夜』、即ち四月三十日に、『+212』、つまり二百十二日を足すと、何日になるか?十一月二十七日だ。

 全く同じ要領で『+219』、『+226』についても日にちを足す。と、それぞれ十二月四日、十二月十一日となる。そして、教会のシスターに聞き込むと、果たして、十一月二十七日、十二月四日、其れから事件の起きた十二月十一日の計三日、竜胆は夕方から部屋に籠もっていた、という証言を得た。理由は、少し疲れたからだとか、自室で祈りを捧げたいからだとか、様々だが、必ず夕方に私室に引き籠もり、夜半には礼拝堂に出て来て、主の前に跪いていた、と……。

 未だ判らないかい?つまり、里見と竜胆は、こうやって密会する日取りを互いに連絡し合っていたんだ。

 思い出し給え。三週間程前、里見健一は何か思い悩んでいたが、近頃は其の悩みも払拭された様子だった。其れと入れ替わりで、近頃、竜胆は悩みを抱えていた。『禁断の果実』という罪深い言葉を己に当て嵌める程に。竜胆を慕う里見が恋心を実らせたのが約三週間前だとすれば、状況と日にちがピタリと一致するじゃないか。

 も一つ駄目押しするならば、日にちが里見の宿直当番ともピタリと一致する。出退勤記録からこれは確実だ。即ち、里見は自分の宿直日を密会の日と決めていたんだ。夜通し学院にいる日を選べば、色々好都合だろうからね。

 加えて……これは竜胆の尊厳の為、口外したくないんだが……昨日、私が警察に行った時、確認した事実で気になるものがあった。竜胆の性行経験の有無だ。ハッキリ言えば、竜胆は処女ではなかった。つい最近、誰かと性交渉を結んだと、解剖医が断言したよ。

 相手は里見健一だろう。竜胆はあの器量だから、警察はちっとも関心を抱かなかったらしいが、初夜の相手が誰かというのは事件の核心に迫る大問題だ。私の知る限り、竜胆は今迄男を知らずに生きて来た。幼い頃から女子校に通い、聖柳風女学院を卒業した後もエスカレーターで女子短大に入り、女学院に戻って教会のシスターになったのだから。

 里見と竜胆の人柄や、密会日を記した『ファウスト』を鑑みれば、無理矢理であったとは考え難い。お互い合意の上で肌を重ねたんじゃないだろうか。里見も男だから、其れなりに獣性はあったかも知れない。が、あの竜胆が悪事をなされ、其れを唯黙って堪えていたとは思えない。其れに旧約聖書に因れば、知識の実を先に食べたのはアダムでなく、イヴだったからね。

 そして何よりの決め手が竜胆の部屋にあった。教会の私室にね。机の引き出しに林檎の置物が仕舞われていたんだが、竜胆が『禁断の果実』を引用していた事が引っ掛かっていたから、これをよく調べてみると、何と、縦に真っ二つに割れてね、中に、里見、竜胆両人の署名と判の揃った恋姻届が、折り畳まれた状態で秘されていた。

 まさかあの竜胆が、男とそういう関係になるとは、私も考えていなかった。多分、本人ですら想像もしていなかっただろう。だからこそ、竜胆は戸惑い、恋姻届は役所に出されなかった。

 ……と、まぁ、他人の恋愛について長々語ってきたが、以上の推測から私が言いたい事は、若しも里見を犯人とするならば、では、其の犯行動機は?」

 一旦、記憶を区切り、眠ろうと試みる。が、無駄な抵抗、一度再生を始めた音声は最後迄聞かなければ収まりが悪いらしく、寝ようと思えば思う程、お千代の声は鮮明に再生された。

「里見が何故、竜胆を殺さなければならない?恋は成就し、二人は深く愛し合っていた。痴情の(もつ)れ?有り得る。私も調べた。が、矢張り其れもなさそうだ――己がお前を好いていることは分かるだろう。己は好いている人達のためには血も肉も惜まない。またその人達の感情や宗教を奪おうとはしない――これはファウスト博士が、恋人との逢瀬の際、己の愛の深さを語った言葉だ。よくもこんな恥ずかしい台詞を自分の想いと重ねたものだ。いやはや、男のロマンチシズムは、時々女の理解を超える。

 となると、さて困った。里見には竜胆を殺す動機がない。最愛の恋人を、恋愛の黎明期に惨たらしく殺すような、里見がそんな人鬼とも思えない。そんな人鬼と恋仲になる程、私の知る竜胆は愚かな女ではない。

 では何故里見健一は行方不明に?殺人犯でないなら、逃亡する理由もない筈。其れで私は一つの仮説を立てた。里見が姿を(くら)まし、未だ発見に至らないのは、姿を見せたくても見せられないから……若しや、もう既に此の世に居ないからではないか?これ程長く警察の手を逃れるなんて、普通一般の人間には不可能……。

 そう考えるのは無茶だろうか?私はそうは思わなかった。可能性の一つとして充分に有り得る。そして先程、仮説は証明された」

 お千代はルミノール入りの霧吹きを振った。一応、明日警察の鑑識を呼んで、シャワー室の血液が里見のものかどうか、改めて検査するとの事だが、お千代は既に確信を持っているらしかった。

「此処迄が、私が里見犯人説を疑った理由と、其の帰結だ。里見は竜胆が殺される数時間前に、既に殺されていた……」

 ペロリと、唇を舐め、お千代は仕切り直すと、

「更に、も一つ、耳寄りな情報がある。現場検証だよ。殺害現場をよく調べても、これといった新発見はなかった。が、先述した、竜胆の私室を調査した際に、奇妙なものを見付けた。実は最初、竜胆の部屋の調査は修道院長に断られたんだが、私が此処の卒業生で、竜胆の知り合いだと伝えたら、渋々ながら許可してくれてね、お陰でゆっくり調査出来た。

 補足すると、シスター達は教会の裏手に建つ宿舎に寝泊まりしている。これが二階建ての年代物でね。竜胆の私室は一階の端、狭く質素な部屋だった。此の部屋に里見との恋姻届が隠されていたんだが、私が見付けたのは恋姻届だけじゃない……部屋中を隈なく検めると、天井の痛み方が激しい。彼方此方に隙間がある。私は其の隙間から作為的な気配を感じた。だから二階に上がってみた。

 竜胆の部屋の真上は埃っぽい物置だった。天井の隙間を、物置の床に透かし見、当たりを付けて床板を外してみると……簡単に床板が外れるくらいのボロ屋だ、天井の隙間から、バッチリ、竜胆の部屋が見下ろせた。立派な覗き穴だよ。穴の位置は部屋の隅、丁度本棚の陰になっている……何故、私が長々と此の穴について語ったかといえば、外した床板の下、即ち天井裏の、覗き穴の付近だけ、埃がなかったからだ。これは、誰かが、最近、竜胆の部屋を除いていたという証拠になる。まぁ、覗き魔が犯人と同一人かは判らないけれど……全く、新しい謎が目白押しさ」

 言葉とは裏腹に、お千代は笑っている。不敵且つ獰猛な、思わず見惚れる程に美しい笑顔だ。

「里見健一を殺害したのは誰か?何故、里見は殺されたのか?そも、では里見が犯人でないなら、竜胆殺害の真犯人は誰か?竜胆と里見の事件に繋がりはあるのか?加えて、覗き魔は誰か?と、数々の疑問が出て来る。今さっき、警察に連絡して、私の推理を聞かせてやったら、彼方も相当混乱していたよ。傑作だったね。自分達が用意した第一容疑者が、実は既に死んでいたのだから。捜査も御破算、最初からやり直し……だがね」

 空を仰ぐお千代の、金色の瞳には、青白く照る月が映っている。

「今回の事件、私は未だ未だ諦める気はない。手掛かりはある。竜胆の受けた傷だ。警察の捜査資料にもあったろう?犯人は竜胆を殺害した後、凶器の包丁を使って、態々、彼女の性器を傷付けた。此の傷が犯人からのメッセージ乃至犯行動機に結び付く事は明白だ。初期の捜査資料にすら書いてある。其れだけじゃない。犯人は犯行前後で、竜胆に暴行を加えなかった。争った形跡はなし、遺体の何処にも、犯人のものと思しき体液は発見されなかったのだから。

 これらを総合すると、一つ、見えてくるものがある。これも仮説の一つだが……犯人は面倒を掛けて竜胆の遺体を傷付けておきながら、乱暴を働かなかった。此処から見えてくる犯人像は……私はね……思うのだよ……」

 もう直ぐ再生も終わろうかというところで、急に音声が途切れ勝ちになる。壊れたレコードの様に、お千代の音声は飛び飛びとなり、其の言葉を最後に、俺の意識は深淵へと落ちた。

「私はね……今回の犯人は……女だと……推定しているんだ……」


 十二月二十三日、日曜日。

 眠たい目を擦り擦り、車を降りる。欠伸を吐けば白い靄となり、顔に掛かって宙を舞う。

 学院の正門前に、赤色のテントウムシによく似たアンティークカーを停める。早朝に此処に来るのもスッカリ習慣になった。

 午前六時五十分。兎は未だ来ていない。少し早かったかも知れない。

 俺は門の傍へ行ったが、其処で立ち止まった。気圧される事はなくなっても、女学院に男一人で入るのは矢張り憚られる。取り敢えず兎の到着を待つ。

 コートのポケットに手を突っ込み、門前にて立ち尽くす。枯枝の桜並木と、冬の青空とを見るともなく眺め、白い息を吐く。冬の雲は薄く広く、形も曖昧、風に千切れ、又青空の下に伸び、拡がって、青空に薄く白粉を振る。

「あら?」

 と、俺が忘我と真冬の空に馳せていた時、少女の声が背後からし、何と無し振り返る。

「お早う御座います」

 其処には未伽がいた。

 冬の澄んだ空気は透明度を増して、美しい少女を観賞用の硝子ケースの様に冷たく囲っている。何度見ても未伽の器量は新鮮だ。少女らしい無邪気さと、令嬢らしい気品と、人形の様な神秘が、瞳と身体の内に宿っている。恐らく未伽は、自分の中に混在するものの本質を、本能的に理解している……美人の才能を完璧に備えている、という意味だ。

 未伽は学院指定の黒いPコートを着込み、赤い手編みのマフラーを首に巻いていた。Pコートのポケットから白い軍手がはみ出していて、又、未伽はか弱い両手に、重たそうな黒いゴミ袋を提げていた。

「お早う、櫻井さん。今から何処か行くの?」

 俺が挨拶がてら訊くと、未伽は手に持つゴミ袋を下ろして。

「折角の休日なので、ボランティアに」

「へぇ、偉いな。折角の休日なのに、ボランティアなんて」

「いいえ、大した事では。月一回の町内清掃なんですけど、町の皆さんには普段から特別な御配慮を頂いていますし、せめてものお返しの積もりなんです。其れに、いなくなってしまった里見先生の代役も兼ねているんです」

 そう言うと未伽は照れた様な微笑を浮かべ、「御機嫌よう」と別れを告げた。

 飾り模様みたく灰色の枝を青空へ広げる桜並木の下、重たいゴミ袋を何度も持ち直し、其の度に黒絹の髪を背中で揺らしながら、未伽が行く。遠離る未伽の背に少女の理想像を見出しつつ、つまり理想とは、子供でありながら大人である女の事なのかと、自分でも訳の判らぬ事を考えていると、

「先輩」

 又も背後から声が聞こえた。

「今朝は早いんですね」

 振り返れば、待ち人、キャスケット帽を被り、白いダッフルコートを着込んだ兎がいた。

「お早う」

「お早う御座います。早く着いたのなら、一人で食堂に来てくれても良かったんですけど」

「一人じゃ気が引けるよ。お千代は今日も食堂?」

「はい。行きましょう」

 兎が踵を返す。合わせて白髪もサラリと流れる。冬の朝に兎の白髪はよく映える。最近、兎は自分の髪や瞳を隠さない。良い傾向だ。願わくは、日常に戻っても此の儘でいて貰いたいけれど、しかしこういった問題の解決を焦ってはいけない。第一、これは精神の問題なのだから、他人がとやかく言っては、台無しどころか、更に傷が深くなる危険すらある。俺は敢えて髪や瞳の事には触れず、他愛ない会話に努めた。気を遣うのも悪くない。最近は兎もよく笑うようになった。

 どんな話題が出たか。先ず寮の話題が出た。

 学生寮にはそれぞれ厳格な管理人が詰めているのだが、其の厳格さを表す様に、第一時計、第二時計と、管理人達には渾名が割り振られているのだとか。

 第一、第二というのは、各々が詰めている寮の番号だけれども、では時計とは?曰く、二十四時間休まず動いていると評される程に管理人達は監視を徹底しており、門限を破った生徒がこっそり寮に戻ろうとしても、或いは、生徒が夜中にひっそり寮から脱け出そうとしても、目聡く発見し、大声で説教を始めるから、というのが由来らしい。

「昔、所長も脱走を試みては、必ず見付かって、かなり叱られてと、お決まりを相当繰り返していたそうですよ」

 兎は語りながらコロコロ笑った。

 次に衣装の話題が出た。今日の兎は、コートの中に丸首のセーターを着ていた。セーターはオフホワイトとチョコレート色のボーダー。其れに、丈の短い黒のフリルスカートを合わせ、其処から伸びる黒タイツの足と、黒革のロングブーツへ視線を下ろす。

「其れだけ毎日違う服を着てたら、荷物もあれだけ大きくなる訳だ」

 俺が呆れ気味に言えば、兎は「当然です」と笑ってみせた。

「此のくらい嗜みの範囲ですよ。所長とは比べものになりません。あたしが今着ているのだって、所長から頂いた物なんですから」

 まさか、というのが内心だったが、食堂に着き、実際其の通りだと思い直した。今日も今日とて食堂の真ん中に陣取るお千代は、真新しい服に身を包んでいたのだから。

「お早う」

 お千代は黒フレームの伊達眼鏡を掛けた顔を上げた。お千代の羽織るネイビーのブレザージャケットは、胸ポケットに刺繍の凝ったワッペンが縫い付けてある。衿羽開きの短いシンプルなワイシャツと、タータンチェックのカーディガン。下はツイード生地のスラックス。

 これでは大荷物になる筈だ。

 常ならず、お千代の他にも、食堂内に私服姿の少女数人を見掛ける。休日だからか、彼女らは制服でなく部屋着を召し、のんびり朝食を摂っていた。少数ながら、生徒のいる場で定例会議を始めるのは頂けない。

「昨日伝え忘れた事だが、教会宿舎に誰が出入りしていたかは、正確には判らないそうだ。修道院長は性善説を唱える御方で、物置に誰が出入りしたかなど一々確認していないらしい。お陰で覗き魔は覗き放題、しかも正体を突き止めるのが難しい。精々、天井裏の指紋や髪の毛を採る程度だ。まぁ、事件後は、修道院長も厳しく検問するようになったらしいけどね、後の祭りだよ……では、今後の予定を話そうか」

 お千代は周囲の生徒も一切気にせず、声も潜めずに、常通りに朝の打ち合わせを始めた。

「警察に頼んで、朝一で鑑識に来て貰った。今頃シャワー室で調査している筈だ。なので、科学捜査は其方に任せ、私達探偵はどうするか。現状の主目的、というか、標的は橘葵だ。あの生徒会長から『生徒の秘密』を聞き出す事こそ急務だ」

 お千代が伊達眼鏡を押し上げる。伊達なのに怖いくらい似合う。

「しかし祝祭が近いだけに、生徒会も今日一日忙しいだろう。其れを理由に逃げられては堪らないから、訊問する時期(タイミング)はよくよく計らないといけない」

 眼鏡の奥にある金瞳が怪しく光る。其れも充分怖ろしいのだが、俺は今の説明に一つ引っ掛かる点があって、

「あのさ」

 と、横から口を挟んだ。

「質問なんだけど、『祝祭』って何だ?其れにどうして生徒会が忙しいんだ?」

 俺の疑問は、意外にも冷ややかな視線で以て迎えられる。何かマズイ事でも訊いたのか、お千代と兎の両者に聞こえよがしの溜息を吐かれてしまう。

「……先輩は絶対に誕生日とか忘れる性質(たち)ですよね。薄々そうじゃないかと疑ってましたけど、まさか本当だったなんて」

「男がそういう事に疎いのは知っているが……まぁ、今は()そう。然程重要な事じゃない」

 一体、俺は何で責められているのか、其の説明もなくお千代は言い継いで、

「其れで、今から、私達が何をするかと言えば、其れは既に決めてある。今日は先ず、三叉加世子の訊問から取り掛かろう」

 伊達眼鏡と金瞳が日光を反射した。


 俺は止めた。

 昨日の一件は忘れていない筈だ。「御手洗い」で加世子が何をされたか、どんな目に遭ったか、お千代だって見ていた。俺達が押し掛けたら、加世子は再び報復されるかも知れない。だから止めよう。

 俺はそう訴えた。

 しかしお千代は毅然と此の意見を一蹴した。

「昨日の彼女の言葉が引っ掛かってね、其れで素性を調べたんだ。三叉加世子、第二文芸部所属の二年生……一見、文芸部の部長、三年生である櫻井未伽とは何の接点もない、そんな三叉加世子『だけ』が知る、『本当の未伽様』とは?実に興味をそそられる。

 三叉加世子の動向を調べたら、昨日は保健室へ行った後に早退している。今日は風邪で寝込んでいるらしい。寮の部屋もしっかり調査済みだ。ほら君。君が行きたくないと言ったって、私達は行くよ?君は其処で留守番でもしているのかい?君は迷惑を掛けた少女の見舞い一つ行かないくらい不人情なのかい?」

 其処を責められては俺とて同行せざるを得ない。渋々お見舞いという体で決着し、俺達は加世子の寝泊まりする部屋を目指した。

 体裁とは言えお見舞いであれば手土産が要る。俺は一度学院を出、車を町へ走らせ林檎を買い、又学院に戻った。お千代達と合流し、赤々と丸い林檎を引っ提げ、加世子の寝込んでいる学生寮へ向かう。

 麗らかな休日らしい、穏やかに冷えた公園を抜け、木立の傍に並び建つ寮の内、第一学生寮の玄関前に着くや否や、俺は身を固くした。女子寮に踏み入るのはこれが初めて、昼日中から少女達の(ねや)に侵入する我が心理……誰かに見咎められたら一目散に逃げ出そう……決意して曇り硝子の玄関戸を潜る。

 建物に入ると真っ先に管理人室が目に付いた。受付に「もしもし」と挨拶すると、痩せた婦人が窓口越しにジロリと此方を睨んだ。これが第一時計、聞きしに勝る眼光だ。

 お千代が見舞いの旨と共に探偵免許を提示しても、第一時計は初めに俺を睨め付けた。女子寮に気兼ねしていた俺には怪訝な視線が殊の外痛烈に感じられ、愛想笑いに紛れて視線を泳がせる。此の際、第一時計の傍にある机の上の固定電話が目に入った。他にも仰々しい南京錠と鎖が置いてある。門限になったらあれで玄関を施錠してしまうに違いない。

 男への警戒は依然解けない迄も、第一時計は俺を含めた探偵一行の見舞いを許可してくれた。お千代が礼を述べ、俺達は梁に貼り付けられた十字架を潜る様に上がり(がまち)で靴を脱いだ。

 学生寮に寝泊まりしているお千代と兎は、何の躊躇もなく、どんどん廊下を進んで行く。

歩きながら兎に訊いたトコロ、兎達の泊まっている寮も此処と造りは変わらないらしい。深茶色の木製廊下が左右に伸び、等間隔に扉が設けてある。扉には一0一号室、一0二号室と札が貼ってあり、他にも色々な飾り付けが施してあった。恐らくは其の部屋に住む生徒の趣味だろう。花形のアップリケが花園の様に飾られていたり、小さなテディベアがドアノブからぶら下がっていたり、「睡眠中」の札が大きく貼られていたりと、扉は多様性(バラエティ)に富んでいた。

 が、どの部屋からも人の気配はしなかった。だけでなく、廊下にもまるで人がいない。

「今は日曜礼拝の時間だから、生徒は大体教会にいる筈だよ」

 俺の不審を見抜いたのか、お千代が説明をくれる。成程。だからお千代は生徒のいない此の時間に加世子を訪ねたのか。

 階段を上がる。加世子の部屋は二階だ。二階、廊下右側の突き当たり。

「此処だ」

 俺達は立ち止まって其の扉を眺めた。二一二号室と、何処か埃っぽい札の貼られた扉は、第二文芸部の部室を連想させる。

 先頭に立ったお千代は、一拍間を置いて、徐に扉をノックした。

「失礼。三叉加世子さんはいらっしゃるかな?私達は探偵だがね、お見舞いと、其れから少々用件があって来た」

 返事はない。代わりに、ガチャリ、解錠の音が聞こえた。

 お千代が扉を押す。と、ギギィ、木の軋む音が立つ。不吉な音だ。俺は息を飲んで、加世子の部屋に入った。

 部屋の第一印象は、酷く暗いというものだった。六畳程度の室内に、勉強机、箪笥、本棚、ベッドがひしめき合う様に配置され、全てに埃が積もっている。全体が何処か薄暗くもある様だ。

 そんな陰気な部屋のベッドの中に加世子は横たわっていた。相変わらず長い前髪で顔を隠しているが、今日は眼鏡を掛けていない。掛け布団から体操着の襟元が覗いている。どうやら、寝間着に指定の体操着を使っているらしい。

 お千代は何の遠慮もなく、我が物顔で加世子の枕元へ向かった。

「やぁ、身体の調子はどうかな?三叉さん。昨日はとんだ災難だったね」

「いえ……慣れて、ますから……」

「あの、ゴメン。俺の所為であんな目に……」

 俺も枕元に立って頭を下げた。他に言葉もない。こうして加世子が寝込んでいるのも、元を(ただ)せば俺の責任である。何故、広見達は加世子の暴露を勘付いたか、判らないが、イジメの贄として、加世子が冷水を浴びせ掛けられた原因は、俺の聞き込みに相違ない。

「あ……いえ……あの……」

 加世子が身体を起こす気配がする。が、其れをお千代は止めて、

「いや、寝た儘で構わない。我々はお見舞いに来たのだから。ほら、林檎も持って来た」

 と、俺の手から林檎を奪い、

「まぁ、これでも食べて、元気になり給え。君もいつ迄頭を下げている?しかし此の部屋は調理場のない部屋か」

 お千代は兎を見やった。

「兎。台所のある部屋から包丁を借りて来てくれないか?林檎を剥けないから」

「判りました」

 兎が部屋を出て行く。

 学生寮には調理場のある部屋とない部屋が存在する……いつか村町先生から聞いた覚えがある。此の部屋には台所は疎か、包丁一本見当たらない。加世子当人も料理をする様には見えないから、其れも道理かも知れないけれど。

「其れにしても、存外元気そうで安心した」

「ど……どうも……」

 加世子は掛け布団を顔のところ迄持って来る。其の所為で読み取り難いが、実際、加世子の顔は火照ってもいなければ、発汗も見られない。

「治りが早いのは良い事だ。医者に診て貰ったのかい?」

「いえ……昨日……保健室で未伽様の……未伽様のお薬を貰ったもの……ですから」

「『未伽様のお薬』?」

 得意気な加世子の顔を見、お千代の金瞳が眼鏡の奥で鋭く光る。

「『未伽様のお薬』とは?」

 お千代の声音が探偵の其れに切り替わる。怪しいものを発見した時の張り詰めた態度と、お千代の端整な顔、加えて伊達眼鏡の反射に気圧され、加世子は再び蒲団に顔を埋めた。

「い……いえ。別に変な意味じゃなくて……未伽様のお家は……製薬会社だから……」

「何だ、では唯の風邪薬という事か」

「はい……」

「へぇ……しかし、さぞ効き目のある薬なのだろう。こうして、三叉さんを元気にするくらいには」

「はい……」

 加世子は再び蒲団から顔を出して笑った。お千代も微笑みを返している。俺は隣で「病は気から」という格言を思い出した。

 ギギィ、と、背後で戸の軋む音がする。兎がタオルを巻いた包丁を手に戻って来たところだった。

「其れで、其の未伽様の事なんだがね」

 お千代は兎を一瞥しつつ用事を続けた。当の兎は、勉強机の椅子に腰掛け、借りて来た包丁の刃を晒して、早速林檎の皮を剥き始めた。

「未伽様……が、何でしょう……?」

 加世子は前髪で隠れた目をパチパチと瞬かせた。

「そうそう、未伽様。三叉さん、君だけが知る『本当の未伽様』について、訊きたいんだがね」

 本当の未伽様。

 これを聞いた加世子の表情を、どう表現すれば良いか。其れは悩ましい表情だった。語りたい様な、語ってはいけない様な、本当は語りたい様な、聞いて貰いたい様な、寄せては返す我欲に心地好く溺れる、翳りの濃い苦笑を。

 王様の耳は驢馬の耳、である。

 ……其れから暫く次の様なやり取りが続いた。

「『本当の未伽様』について、私達に少しだけ教えてくれまいか?」

 と、お千代が訊けば、加世子は決まって、

「でも……未伽様に悪いし……」

 と、ニヤニヤ笑って首を横に振る、という押し問答の繰り返し。

 兎は黙々と林檎の皮を剥いていた。背筋を伸ばした美しい其の姿勢に、暇な俺はつい見惚れる。赤瞳は怠惰に伏せられ、一心に手許の包丁を見下ろしている。シャリシャリと、赤い皮は下へ下へ伸び進み、白い皿の上で蜷局(とぐろ)を巻く。兎も暇なのか、一個目の皮を剥き終えると、二個目を取り出し、手遊びに、兎形になるよう包丁を入れていた。

 俺はと言えば、問答に口も挟めず、目的もなく部屋を観察していた。勉強机には教科書が積み上がって山脈と化し、開けた場所といえば教科書の谷間にノート一冊分の余地を残すばかり。しかし、本棚に仕舞われた漫画は几帳面に分類分けされ、キチンと整理されているトコロを見ると、部屋の主はやる気と興味が正比例する性格なのだと判る。

 窓外に目をやる。窓の外の直ぐ近くに、太い木の枝が横一文字に伸びている。あれに外光を遮られている所為で部屋が薄暗いのか。

 耳には相変わらずお千代の説得が聞こえている。が、根負けしたのか、お千代はうんざりした様に息を吐き、チラと、兎の方を見やったらしい。

 そうして、勉強机に置かれた卓上カレンダーを見付けたのだ。

「これは……」

 お千代は徐に机へ向かい、カレンダーを取り上げた。俺も我に返って、お千代の隣に立った。何の変哲も無いカレンダーを覗き込む。飾り気のない真っ白な紙に、黒い線で四角く縁取られた、十二月の三十一日間。しかし、其の中で一日だけ、恐らく加世子自身が書き込んだであろう、赤い丸で囲われた日があった。

 十二月十一日。つまり、竜胆霞が殺された日に。

「三叉さん、此の日に印が付いているが、どうしてだろう?」

 お千代がカレンダーを手に枕元へ戻る。指は赤丸の付いた十二月十一日を差している。

 加世子は困った様な、其れでいて嬉しそうな顔色になり、

「発見されちゃった……其の日はですね……実は…………どうしよう……」

 と、散々勿体振った後、クツクツと無気味な笑い声を上げて、

「其の日は……未伽様が此の部屋に泊まられた……ふふっ……記念日、です」

「櫻井未伽が此の部屋に泊まった?」

 お千代が聞き返す。と、加世子は堰を切った様に、今迄言い淀んでいた事を、俄にペラペラと喋り出した。

「そう、です。未伽様が、此の部屋にお泊まりになられた……掛け蒲団をお抱えになって……断る理由もありませんし……夜に未伽様と二人切り……未伽様はベッド、あたしは床に布団を敷き……お優しい未伽様……あたしにベッドを勧めて下さいましたけど、まさか未伽様を床には置けません……其れから色々お話しを……文芸部と、第二文芸部の事とか……未伽様は理解があるのです。あたしの趣味も……未伽様は理解して下さって……未伽様は、学院生活を窮屈だと仰言いました。やっぱりって……あたしも……あたしと同じ……二人で珈琲を……朝迄語り明かそうと思ったんですけど……あたしは眠ってしまい……其れで朝になったら……」

 此処で不意に加世子が押し黙った。喜び勇んで未伽の宿泊を語って聞かせた加世子が、いきなり黙り込んだだけでなく、チラチラと、俺の顔を窺い始めたからだ。

 気持ちの悪い静寂が落ちる。部屋の中を漂う無数の埃が髪や服に纏わり付く。日当たりの悪いジメジメとした部屋に加世子の咳が響く。空気は滞り、加世子は口をモゴモゴと動かすばかり。息の詰まる沈黙。俺は呼吸困難に陥りそうだった。

 が、お千代はジャケットや銀髪に付いた埃を、優雅な一動作で払い落とすと、眼鏡越しに加世子を見据えて、

「若しかして、櫻井未伽の月経に関する事かな?」

 パッと加世子が顔を上げる。目を見張った驚愕の表情。心理を言い当てられた人間は、大抵、こんな顔をする。

「そう、ですけど……でも、何で」

「矢張りか。其れで朝になったら、どうしたんだい?」

 成程。そういった話題は男のいる場では話し難い。だから加世子は唐突に口籠もった訳だ。が、お千代に言い当てられた衝撃で、俺の存在も念頭から外れ、加世子は説明を再開した。

「えぇっと……朝になったら、未伽様がもう起きていらして……『急に来てしまったの。お蒲団を汚してご免なさい』と……シーツとか、掛け布団とか……あたしは別に構わないって、言ったんですけど……未伽様が新しい物に取り替えて下すったんです……これがそうで……」

 加世子は掛け布団を愛おしそうに眺めた。が、お千代は加世子の想いなど意に介さず、顎に手をやり、深く思考の海に沈んだ。眼鏡姿だと矢鱈サマになる恰好だ。

「ふむ……しかし、其れはどうも変だ……」

 お千代はブツブツ独り言を呟くや否や、踵を返した。

「此処の仕事はこれで終わりか。行くよ、君達」

「あ、おい、お千代」

 お千代はもう扉に手を掛けていた。兎も附いて行く。

 勉強机の方へ目を向ければ、机上の皿の上には、切られた白い林檎と、赤い兎形の林檎が環状に並び、まるで紅白の花弁の様に見事に盛り付けられていた。

 しかし、一人で林檎二個分は多くないだろうか?

 お千代はそんな林檎の皿を指差して、

「其れは好きに食べてくれ。貴重な情報を有り難う。お大事に」

「あ、あの……!」

 部屋を去ろうとするお千代に、加世子は腕を伸ばして、

「今の事は……どうか……どうか、御内密に……」

 此の哀願に、お千代は足を止め、肩越しに加世子を一瞥して、

「告げ口なんてしないから安心し給え。自室以外の宿泊は規則違反だからね。では」

 と、約束し、部屋を後にした。

 ……ギギィ……。

 閉じる扉が軋む。お千代は振り返る事もなく、カツカツと、足早に寮を出た。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ