聖女の初夜 玖
昼休みのチャイムが鳴るや否や、俺達は校舎三階へ向かった。無論、生徒会室を訪ねる為だ。
三階の廊下に入ると、カチ、コチ、カチ、コチ、歯車の回る音が聞こえた。生徒会室の前は閑散としていて、規則的な時計の音は木目に沁みる。
葵を訪ねようと提案したのはお千代だ。俺が体育館から戻り、広見とのやり取りを話すと、お千代は一も二もなく「葵に会いに行こう」と言い出した。
探偵の嗅覚は、取り分け少女達の秘密に向けられていた。が、お千代は広見の供述自体にも興味を示した。お千代に因れば、「阿佐々広見、彼女の名も覚えておこう」との事だが、其の意味は?
……コン、コン、コン……。
と、俺が頭を働かせていると、お千代が生徒会室の戸をノックした。
「はい」
葵の声。お千代は咳払いを挟み、声の調子を整えてから、
「探偵の千代だ。度々邪魔をして申し訳ないが、中に入っても?」
「どうぞ」
お千代が引き戸を開ける。と、戸に嵌め殺された曇りガラスが振動し、ガララッという音を立てた。
生徒会室には、葵の他、四人の生徒がいて、全員が俺達探偵を仰ぎ見ていた。窓枠に十字架を掲げた狭い部屋を横切る長机に少女達は着き、机上には役職名の刻まれた札が置かれていた。副会長、会計、書記、書記補佐、そして主賓席には生徒会長。
「こんにちは、皆さん。本日はどういった御用件でしょう?」
葵は品良く俺達を迎えた。彼女の背後にはホワイトボードがあり、マジックペンで「十二月予定」と記されてある。
「会議中に済まない。此の時期、生徒会が忙しいのは私も重々承知しているが、早急に質問したい事が出来たものだから、少々時間を頂けないかな?」
「えぇ、構いませんが」
「有り難う」
ニッコリとお千代が笑う。女は化粧の装いで笑ってみせる。誰より巧く、誰より自然に笑うお千代が、俺は時々怖ろしい。
「では、手間を取らせてもアレだから、単刀直入に訊くが、橘さん」
「はい」
お千代は上品に笑っていた。笑った儘、疑惑を投げ掛けた。
「君は何か、私達に黙秘している事はないだろうか」
瞬間、空気が凍った。葵は勿論、他の生徒達も、部屋に差し込む日光迄も、時間の止まった様に動かない。カチ、コチ、と、時計の音は聞こえているのに。
其の中にあって、お千代だけは足を動かし、葵の許へ向かった。
「ねぇ橘さん、君は何か、懸念事項を一つ、意図的に隠しているだろう?私達は其の存在を突き止めた。けれど、其の中身迄は判らない。だから、どうだろう、話してくれまいか?」
「……何の事でしょう?」
ようやく葵が笑って応える。が、笑顔は不自然に引きつり、今にも泣き出しそうだ。葵本来の可愛らしさもあって、傍目には、お千代が葵を苛めている様にしか見えない。
「あたしに隠し事なんてありません。勿論あたしにだって、私生活での細々しい秘密はあるかも知れませんけど、だけどそんなの、皆そうじゃないですか」
「まぁね。其の年頃の、此の学院に通う生徒なら、小さな秘密の一つや二つ、あって然るべきだ。しかし、其の秘密が不特定多数に共有されているとなれば、其れは最早小さくも、細々としたものでもない」
お千代が葵に迫る。藍色シャツ、藍色ズボン、黒いジレに、ポニーテールと、男性的なお千代が、小柄な葵を責めるという構図を、俺を含め、兎や、周りの生徒達も固唾を呑んで見守った。
「ねぇ橘さん」
お千代の手が葵の頬に添えられる。恐らく、お千代は態と演劇的に取り調べている。興の乗ったお千代は厄介だ。御巫山戯に乗じて、相手の一番痛い部分に触るのだから。
「君は……いいや、君達は文芸部の部室で、一体、何をやっているんだ?」
文芸部。
此の一語を聞いた葵の顔からは完全に笑みが消え去り、大きな瞳は見開かれ、身動きもせず、かと思うとお千代の手を振り払い、身を躱した。
「ふむ……」
お千代の手が虚空に置き去りとなる。興醒めなのか、お千代自身、葵のたじろぎに驚いたらしい。
しんっと部屋が静まり返る。其の静寂を破ったのはお千代でも葵でもなく、意外にも副会長の席に座る女生徒だった。
「無礼が過ぎませんか?其れとも、探偵というのは非道な無礼の許される職業なのですか?」
副会長は静かな怒りを込めて言い継いだ。
「大体、生徒の秘密が何だって言うんです。皆さんが調べていらっしゃるのは、霞シスターの事件でしょう?犯人は里見先生だって聞きますし、子供の隠し事を曝くより、里見先生の行方を調べる事こそ、皆さんの御仕事なのでは?」
此の反論に他の生徒達も勇気付けられ、口々に探偵の非難が始まった。次いで、臆しながらも書記が、
「そ、そうです……殺人犯を放っておいて、関係ない私達を取り調べるなんて」
「これは本当に捜査なんですか?若しも興味本位なら、霞シスターもきっとお叱りになります」
これは書記補佐だ。毅然とお千代を睨め付けて、
「御友人だったのなら御存知でしょう?シスターは人の秘密が無闇に晒されるのを喜ぶ人ではありません。こんな捜査を見たらシスターだって哀しみます」
「お千代さん、貴女が本当に霞シスターの御友人なら、捜査にのみ集中して下さい。在学中、シスターとは親しかったと聞いています」
「其の話も本当かな」
書記が疑わし気な視線をお千代へ向けて、
「変な噂が流れてるし……男の探偵が、夜な夜な、生徒を寮から連れ出してるって……」
と、汚いものでも見るように俺を一瞥した。とんでもない、根も葉もない、事実無根、冤罪、無実だ、と訴えたかったが、一度膨らんだ不満は簡単には止まらず、生徒達の批判は未だ未だ続いた。
「秘密を明かさないといけない理由を、キチンと説明して下さい」
「私達が正直に喋ったら、シスターが戻って来てくれるんですか?」
「いきなり秘密を話せだなんて、常識がない。これだから罪深い女は……」
と、最後に会計が酷い悪態を吐く。
一連の、非常な抗議にも、お千代は平然と笑みを返した。
「これはこれは、手厳しい。私は罪深い女か。其れに勿論、君達の秘密を曝いたところで、竜胆は復活なんてしない。若しそうならば、私は怖れながらも大いに喜び、急いで墓を立ち去って、他の弟子達に報せる為に走ろう」
台詞後半の意味がまるで判らず、俺と生徒達は何とも言えずにいた。
が、兎だけは嘆息混じりに、
「マタイによる福音書二十八章八節」
と、注釈を加えた。お千代は満足気に頷いて、
「正解だ、兎。生徒さん達は、聖書の授業をも少し真面目に受けた方が良いね」
お千代の口調は飽く迄朗らかで、其れだけに効果的な凄味があった。
「確かに最初は興味本位だった。否定はしない。其れが変わった。今は事件解決に繋がり得る疑惑について調査している積もりだ」
「疑惑……」
葵が呟く。お千代はゆっくり頷いて、
「そう、疑惑だ。秘密は疑惑になり易い。其処迄強固に語らないものだから、怪しんでいるという部分もある。其れにね、捜査を進めて行く内に、里見健一が犯人とは、私にはどうしても思えなくなってしまってね」
里見健一は犯人ではない。お千代が昨日から主張している事だ。其の根拠は?皆目見当が付かず、俺は身体の内がムズムズと痒くなる様だった。
これを見透かした様に、
「現状は仮説の一つに過ぎない。だから質問しているんだ」
と、お千代は補足して、愕然としている葵の方に向き直った。
「しかし、折が悪かったかな。此方も証拠不足だった。出直すとしよう。退散、退散」
お千代は素直に部屋を出て行こうとした。が、戸口で立ち止まり、振り返って「そうそう」と付け加えた。
「明日は休みだったね。皆、良い休日を」
……獲物を見付けた肉食獣が如く、金瞳を輝かせながら……。
お千代と共に生徒会室を出る。と、お千代は余裕振った態度を一転、顎に手をやって、真顔でブツブツと独り言を始めた。
「あの拒否反応はどうだ……稚拙だが話題をすり替えようとした。余程知られたくないらしい……加えて、同調圧力が蓋を重く押さえ付けている……こじ開けるのは得策ではない……矢張り一人の時が狙い目……」
歩く度、フサフサと、銀髪の毛先が揺れる。一つに縛った長い銀髪は、まるで気高い動物の尻尾の様だ。
哀れなのは葵だ。俺は銀色の尻尾を眺めつつ同情に耽った。葵も、とんだ相手に狙らわれたものだ。秘密を、其れも恐らくは秘密協定の類、口外すれば裏切り者の謗りを免れない様な機密を、美しい獣に喰い破られかけているのだから。
一体、少女達が口を堅く鎖す理由、即ち、少女達の掟の厳しさを、此の段になっても俺はサッパリ理解していなかった。
其れは丁度、俺達が二階と三階の間にある踊り場に差し掛かった時だった。
バッシャーン!と、水を打ちまける音を聞いたのだ。
あんまり予想外で派手な音が耳を打ったものだから、俺達は瞬時に顔を見合わせ、階段を駆け下りた。音源は階下近くらしい。踏み板を飛び降りて二階に入り、木目の廊下を見通す。と、直ぐ傍に「御手洗い」という札が掛かっていた。
俺は泡喰って立ち止まった。
音源は間違いなく此の中だ。何人かの生徒が「御手洗い」の入口に集まり、遠巻きに中を覗いている。が、俺は見物人の列に加わる訳にはいかない。此処は女学院、女子校である。言わずもがな、校内の「御手洗い」は殆ど女子用。となれば、当然、俺が此の中に立ち入る訳にはいかない。眼前の「御手洗い」は矢張り女子専用だ。俺は一人外で待つ事にし、お千代と兎が中に入るのを黙って見送った。
廊下に居残る俺に状況を伝えるは、「御手洗い」の中から漏れ聞こえる会話だけ。
「清めてやったんだから感謝しな!」
「これは贖罪なんだから!」
昂奮した甲高い声が続々上がる。
「何をしている?」
これはお千代の声。酷く冷然としている。喧噪は水を打った様に収まり、
「……別に、何も」
と、お千代とは別に、聞き覚えのある声がやっと応えた。其の後に「失礼します」と誰かが言い、続いて複数の足音がして、数人の少女が「御手洗い」から出て来た。
彼女達が姿を現すと同時、俺はつい「あ」と言った。現れた顔触れに見知った生徒が混じっていたのだ。
髪の短い、スポーツ少女、これは阿佐々広見。広見は手に空のバケツを持っている。次いで広見の隣には、目元鋭いおさげの少女。名前は、確か、錦木園。
此の二人は俺を認めると、気まずそうに顔を伏せた。特に広見の態度は甚だしく、小さく舌打ち迄貰う。
園、広見と、他数名の生徒は、「御手洗い」から出ると、振り向きもせず廊下を歩き去ってしまった。見物していた生徒達も、自然解散して、「御手洗い」の前には俺一人だけ取り残された。其処にお千代と兎が帰って来た。
「どうした?一体何があったんだ?」
俺が二人に訊く。解答は兎の背後に控えていた。
黒々とした其の人物。
「え……?」
お千代と兎は掛ける言葉もないらしく、無言の内に身体を退かし、其の人物が俺によく見えるようにした。
「三叉……さん?」
自分で名前を呼んでいながら、自信がない。其れくらい少女は見るに無惨な姿と相成っていた。
三叉加世子と思しき其の少女は、頭のてっぺんから足の先迄、ボタボタと、水が音を立てて滴るくらい身を濡らしていた。顔を隠す長い前髪が丸眼鏡に貼り付く様は、ウネウネと曲がりくねった海藻を連想させる。又、黒セーラー服は水を吸って更に黒さを増し、本人の陰気さと相まって、加世子は哀れな海坊主に変貌していた。
「どうしたの……?どうしてこんな……」
口にしつつ、ある程度は予想が付く。先程の一団、園と広見の態度、広見の持っていた空のバケツ、階段の踊り場にて聞いた激しい水の音。
「酷い……」
そう言ったのは兎だ。兎が広見達の歩き去った方を憎々しく睨む。赤瞳は煌々と怒りに燃えていた。が、俺は怒りすら湧かなかった。自責の念だけが脳裏を巡っていた。加世子がこんな目に遭ったのは、きっと俺の責任だ。阿呆の様に突っ立った儘、大丈夫だろうか、どうして情報が漏れたのか、俺も加害者の一味みたいなものじゃないか、何と謝罪すればいいか、許して貰えるか、等々、仕様のない事ばかり考える。
加世子は未だボタボタと廊下に水溜まりを作っている。見兼ねたお千代がハンカチを差し出すも、しかし加世子は手で其れを断った。
「……ふ……ふふっ……」
どういう訳か、憐れむべきズブ濡れ加世子は笑い出した。自棄になったという感じでもなく、心から面白いという笑いを。加世子の受けたイジメ……若しくは制裁……は、年末の、十二月も半ばを過ぎた季節には、心身共に堪えるものがある筈なのに、其れをモノともせず、加世子はクツクツと暗く笑ってみせた。
「……ふふっ……ふっ……莫迦な連中……良い気になってれば良い……本当に……本当の未伽様を知っているのは……あたしだけ……」
加世子は笑いながらそう言って、言い終えると又肩を揺らして笑った。俺達三人は顔を見合わせた。
そんな折、
「あら、濡れ鼠」
と、胸中をくすぐる様な声を聞き、忽ち加世子の笑いが止まる。加世子は誰よりも早く顔を上げ、声の主を見やった(其の際、濡れた前髪が飛沫を上げ、俺の顔に水が掛かった)。
「未伽様……!」
加世子の言葉につられ、俺達も振り返る。と、果たして、二階廊下、「御手洗い」の手前には、典雅と微笑む未伽がいた。
「皆さんお揃いで、如何なさいましたか?加世子君もそんなに濡れて。水浴びには少し季節外れじゃないかしら?」
「未伽様……あぁ……」
ボタリ、ボタリと廊下を濡らし、けれど其れも意に介さず、加世子は眼鏡の奥の目を輝かせ、未伽の名を繰り返し呼ぶ。其の様子は最早崇拝だ。
「未伽様……ですが未伽様、どうして此処に……?」
陶酔する加世子の問い掛けに、不思議と未伽は表情を崩した。其れはほんの一瞬であったが、珍しく困った様な、面喰らった様な顔になったのだ。
未伽は瞳だけで「御手洗い」の表札を窺い、
「別に何でも無いの。偶々通り掛かっただけ……では探偵の皆さん、加世子君も、御機嫌よう」
疑問を挟む隙も与えず、未伽がクルリと踵を返す。と、黒絹の長髪が未伽の背でたおやかに揺れた。
其の後ろ姿と、「御手洗い」を交互に見比べていた加世子は目を丸くして、
「え……?」
と、呟いた。ともすれば聞きそびれ兼ねないか細い声は、けれど、俺達の耳に疑念の声としてハッキリ届いた。
加世子は腕を伸ばし、まるで夢遊病者の足取りで未伽の後を追った。伸ばされた腕や、スカートの裾、髪先や顎を伝う水を、ピチャピチャと滴らせ歩く加世子の姿。まるで加世子自身が溶け出し、廊下に染みを作っている様な、そんな姿があんまり壮絶で、俺達は加世子を呼び止める事も出来ず、無言で彼女を見送る他なかった。
放課後、俺とお千代は文芸部の部室を訪ねる事に決めていた。
兎はいない。何でも「兎には別の仕事を任せてある」そうだ。其れがどんな仕事か俺には知らされていないが、兎も角、俺とお千代の二人は櫻井未伽の許へ向かっていた。
辺りはスッカリ暗く、日光が沈むと、途端に寒さが木床を這う。透明な蛇が足下に絡み付く様な冷たさを足で切り裂く。一階廊下の端、其処にある扉を、コンコンコン、お千代はノックした。
「どうぞ、どちら様でしょう?」
未伽の声。お千代は咳払いを挟んで、声の調子を整えてから、
「私は探偵の千代だ。度々邪魔をして申し訳ないが、中に入っても構わないかな?」
「勿論ですとも。さぁさ、中へ」
未伽がはしゃいでいる。お千代は少し間を置いて、引き戸を開けた。
部室は昨日訪ねた時と変わりなく、長机に猫足椅子、其れから数人の生徒と、其の中心に未伽が座っている。
「又いらっしゃって下さったんですね。嬉しいです」
朗らかに笑う未伽。未伽の隣には錦木園も控えている。園は俺を見ると、顔を背け、不機嫌になった。避けられているのだろう。が、園に悪態を取られる謂われはない。
あの後、加世子を保健室に連れて行くと、養護教諭の勧めで彼女は早退してしまった。
「やぁ、昼間はどうも」
お千代は園に皮肉を籠めた挨拶をし、機敏に長机へ歩み寄る。
未伽は読んでいた本を閉じ、俺達に椅子を勧めた。
「どうぞお掛けになって。今日はどんな御用件でしょうか?」
「別段大した用じゃない。時間も取らせない積もりだ……其れより、身体の調子はどうだい?平気かな?」
お千代は椅子を断りながら、妙な事を未伽に訊いた。身体の調子?何処か悪いのか?
当の未伽は演劇めいた口調で、
「何の事でしょう?私は至って元気ですが」
と応えた。其の笑顔も作り物。俺は首を傾げた。今迄ズット自然体で通してきた未伽が、こんな笑顔を浮かべるとは。
「ならば良かった。では、手短にと宣言した手前、早速用向きに入ろう……しかし、どう言ったものか」
お千代の口調も演技的だ。しかも其れは過剰で、挑発的でもあった。
「ふむ、困ったものだ。どんな言葉で問えば適切か。君の友達、橘葵にこう訊いたら、応えてくれなかったからな……『君達は、一体、文芸部の部室で何をやっているんだ?』と」
ガタンッ!
不意に園が立ち上がった。いや園だけではない、他の生徒達も俄に席を立ち、まるで怪物でも見る様にお千代を眺めている。開いた本も其の儘に、動揺の色も隠さずに。
が、相変わらず未伽だけは端然と微笑んでいた。
「あら、葵にそんな事をお訊きに?ふふっ……あの子、とっても困ったでしょう?」
「とても。此方が心苦しくなるくらい」
御冗談を!
思わず口走りそうになる。葵を問い詰めていた時、お千代は間違いなく愉しんでいた。未伽も同じ趣味らしく、抑え切れない歓喜を隠すべく、手の平で口許を覆っている。
「クスクス……葵をそんなに苛めてあげないで下さい。あの子は私の親友ですし……でも、お千代さんのお気持ちも判ります。葵は困らせると、とても可愛らしい反応を返してくれるんですもの」
未伽は心底嬉しそうに言い継いで、
「葵は、ほらあの通り、外見からして可愛らしいでしょう?其れにとても頑張り屋で……本当に、女の私から見ても、守ってあげたくなるくらい愛おしいのですが、其の反動で、つい、困らせてみたくもなるんです。悪い悪いと思いながらも」
「人の心なんてそんなものさ」
愉快に交わされる会話を聞きつつ、俺は葵が心底哀れに思えてならなかった。とんだ嗜虐者を友人に持ったものだ。薄幸というか、健気な者程苦労を背負い込み易いという因果、此の世のままならなさ。
「おっと、話が脇道に逸れた」
葵を肴に盛り上がっていたお千代は、ハタと我に返った風を装って、
「本筋に戻ろう。其れで、君の友人に質問しても、どうしても応えてくれなかったものだから、回りくどい遣り口では駄目だと判った。櫻井さん」
「何でしょう?」
「君なら知っているだろう?君達は、一体、此処で何をしている?」
「さて……」
未伽の瞳が動き、部員達を眺め回す。部員達は皆一様に怯え切って、一縷の望みに縋る様に彼女の顔を覗いている。
未伽はクスッと小さく笑い、お千代に向き直ると、
「私個人としましては、別に、今此処でお千代さんの質問に応えても良いのですが」
「櫻井!」
絶叫。叫んだ園は肩で息をし、おさげを揺らしていた。
其れでもお千代は動じない。未伽も同じく、薄く苦笑しながら続きを語った。
「此の通り、どうにも私個人の問題ではなさそうですので、済みませんが、お応え出来そうにもありません」
「そうか……」
「えぇ、申し訳ありませんが」
未伽が頭を下げる。
お千代は顎に手をやり、其れから煙管を求め、指先で宙を弄った。
「ならば仕様がない」
お千代が溜息を吐く。さて、どちらが残念だったのか。つまり、未伽が質問に応えなかった事か、其れとも煙管のない事か。
「今日のトコロはこれで帰るよ。邪魔したね」
「いえそんな。もっとごゆっくりなされても」
「いや、今日はこれくらいで。他に調べ物があるから」
そう言うと、お千代は文芸部に背を向けた。俺も後を追い、後ろ手に引き戸を閉める。
廊下に出ると、お千代は何とも言わず、廊下の端、屋内プールへと続く渡り廊下へ入って行った。
屋外に出ると、お千代は真っ黒いプリンセスコートを羽織った。銀髪を掻き上げ、一つ縛りの後ろ髪をコートの背に垂らす。黒い生地に、銀色の長髪が、一本、縦に道筋を描く。
「どうでしたか?」
頭上から兎の声が降ってくる。お千代は徐に首を横に振った。
「駄目だね。櫻井未伽はガードが堅い。責めるなら生徒会長の方が良い」
「そうですか」
夕暮れは地平線に追い遣られ、既に空は藍色に浸っていた。冬の夜はせっかちだ。あっと言う間にやって来る。暗がりは白を際立たせ、白亜の聖母像の隣に兎の姿が浮き上がる。
「其れで、兎、其方はどうだった?」
「えぇ、所長の仰言っていた通りでした」
兎は応えつつ手に持った霧吹きを掲げて、
「バッチリ発光しました。見落としたんでしょう、特に間仕切りの隅が顕著でした」
「そうか……ふむ……」
お千代と兎が会議している其の内容が見えてこない。此の学院に来てから何度目かの疎外感。俺は堪らなくなって、思い切ってお千代に訊いた。
「何だ?兎は何を調べてたんだ?」
お千代は暫くキョトンと金瞳を丸くしたが、やがて苦笑した。
「そう言えば、君には話していなかったか」
仲間外れにされた気分が顔に出たのか、お千代は励ます様な口調になって、
「いやいや、済まない。忘れていたとか、そういう訳じゃないんだ。だからそう拗ねないでおくれ」
「別に拗ねてないが……其れで、兎は何を調べてたんだ?」
俺は兎の持つ霧吹きに注目した。あれを使って何かしていたらしい。
お千代は兎から霧吹きを受け取ると、
「これは私が事務所から持って来た物でね。『ルミノール反応』と言えば判る筈だ」
「えっと、ルミノールといえば、殺人現場とかで、血痕を探す為に使われる薬品だったか。血液のあった場所にこれを噴き掛けると、蒼白く光るっていう……」
「そう。私は兎に頼んで、ある場所での血痕の有無を調べさせた。其のある場所と言うのが、此の中にあるシャワー室だ」
お千代が振り返る。視線の先には、暗闇に沈む硝子張りの建物。闇に覆われた屋内プール、あの中の一室、シャワー室にて血痕が発見された、と……。
俺が其処に思い至った時、お千代は俺を見て、
「まさか、女子校のシャワー室を君に調査させる訳にはいくまい?だから兎にお願いしたんだ」
「其れは、まぁ……しかし又何で、シャワー室でのルミノール検査なんか指示したんだ?しかも、兎がさっき、間仕切りの隅が発光したって……という事は、じゃあ、若しかして」
「御明察。多分、君が今、思い至った通りだ」
俺は狼狽えた。が、事実を繋げれば結論は導かれる。
今、俺達の立っている渡り廊下は、第一容疑者、里見健一が最後に目撃された場所。そして、プールのシャワー室には血痕。其れはつまり……。
「つまり、里見はシャワー室で殺されていたんだ。警察が見付けられない訳だよ。里見健一はもう此の世にいないのだから」




