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花の鳥籠  作者: 白基支子
13/23

聖女の初夜 漆

 夜。

 俺は民宿の部屋にて一人書き物に従事していた。炬燵に足を差し入れ、座椅子に座っている。炬燵の上は散らかっている。文庫本「ファウスト」、紙のメモ帳、聖柳風女学院の校内見取り図と学院案内の冊子、部活委員会の活動場所と各顧問教師の一覧(此の二つは葵から受け取った物だ)、警察の捜査資料。

 俺はボールペンを手に、里見の私物「ファウスト」のページを左手に開き、黄色でマークされた文章を見付け出してはメモ帳に書き写す作業に徹していた。

 単調な作業だ、頭を使う事もない。俺は目こそ本に落としながら、脳裏では別の事を考えていた。未伽の事、葵の事、里見健一の事、竜胆霞の事。

 単純作業の退屈凌ぎと、絡まった思考を解きほぐす為に、俺は時々手を止め、学院案内の冊子をパラパラと捲った。中身を読むでもなく眺めていると、薄い冊子の後半、施設案内の次のページに、「生徒会長挨拶」という見出しと共に、葵の写真が目に飛び込んで来た。深入りする積もりはなかったのに、ついつい、俺は文章を目で追ってしまう……。


【生徒会長からの挨拶】 三年 橘葵

 大正十四年の開校以来、「世を(たす)く淑女の育成」という素晴らしい校訓を掲げ、これを守り続けてきた聖柳風女学院の歴史は、今日(こんにち)も脈々と受け継がれています。これは先生方や職員の皆様の御指導の賜物であり、そして生徒一人一人が学院の一員であるという誇りを忘れずに学院生活を送っている成果でもあります。

 校訓にもある淑女らしく、優しく、慎み深くも、芯の強い、何より愛情深い女性になるべく、私達は日夜勤しんでおります。

 伝統を重んじる校風の為、学院には生活に関する数多くの規則が敷かれていますが、心配はありません。学院に入学されたなら、先生方や先輩方の優しい指導に因り、節制は自然と身に付き、規則も自然と遵守出来るようになって、格式高い我が校の一員に直ぐ加われるようになっています。


 其処迄読んで窓外を見やる。夜闇は深々と広まり、どんな音も吸い込んで、テレビを点けなければ部屋は静寂に満ちた。耳に痛い静けさの底、鼓膜の奥では、最前の従業員との会話が繰り返されている。

「えぇ、あれ程の大事件は、俺達も始めてでしてねぇ」

 民宿の従業員たる中年男は、神妙に腕を組んで、そんな事を言っていた。

「何せ警察の車が、こう、ウーウー五月蠅くてねぇ、町中がパトカーのランプで赤くなっちまって、其れはもう大変な騒ぎでしたよ。近所の連中は大概家を飛び出して、様子を見に行きました。其れから、警察にあれやこれやの訊問です。実に吃驚で。まぁ、あの若い教師がねぇ。俺なんかは、新任の教師が男だって聞いた時から、こんな事になるんじゃないかと踏んでましたけど」

「でもアンタ、里見先生は良い人だったじゃない」

 男の隣には、これ又、四、五十くらいの中年女性が立っていた。物言いを鑑みるに、此の女は中年男の妻であるらしい。

 従業員の妻は悲壮な目で俺を見つつ言い継いだ。

「里見先生が犯人だって、未だ決まった訳じゃないんですよね?探偵さん。里見先生は優しくて、気立ての良いお人で、そりゃあ私なんかも最初は警戒してましたけど、ほら、アンタも覚えてるでしょ?」

 と、妻は視線を夫へ移し、

「里見先生、町内の清掃ボランティアにもよく参加してくれたじゃない」

「莫迦!お前、其れこそ犯人の演技に騙されてんだ」

 男が声を荒げる。と、妻はムキになって言い返した。

「何よ。アンタなんて面倒がって、月一回だけの町内清掃にも、一度だって参加してないクセに。だからそう簡単に先生を疑えるのよ。本当は気の優しい青年なんだから……きっと手違いなのよ」

「手違い?どんな手違いがあるって?現に、里見は姿を消しちまったんだろう?そりゃ、お前、心に何か疾しい事があるからだ」

「だから其れが手違いなのよ。きっと何か事情があって」

「手違いの次は事情か。え?じゃあ、どんな事情があるって?」

「そんな事、知らないわよ」

 夫婦喧嘩の様相を呈し始めたトコロで、俺は聞き込みを切り上げた。

 結局、民宿の夫婦から有力な情報は得られなかった。

 炬燵の上の捜査資料を手繰り寄せる。近隣住民への聞き込みは、一応、警察の方で一通り終わっているらしい。此の資料には其の結果が(つぶさ)に記してある。殊、里見の行方については並々ならぬ調査が行われていた。が、資料に目を通せば、警察が未だ里見の影も踏めていない事が直ぐ読み取れる。

 こうして見ると、今回の事件に限っては警察も哀れだ。「野暮だから」という、謂われなき理由で女学院に踏み入る事適わず、マトモに捜査も出来ない現状、警察が里見健一の追跡に躍起になるのも道理か。

 俺はペンを置いた。ページを捲り、書き漏らしのない事を確かめた後、本を閉じ、今書き写した「ファウスト」の文言を読むでもなく眺める――


 人は務めている間は、迷うに極まったものだからな


 どの美しい花をも自分の手に入れようとして、自分の手で摘み取ることの出来ない恋や情はないはずだと思う性ですね。ところがなかなかいつもそうは行きませんよ


 己がお前を好いていることは分かるだろう。己は好いている人達のためには血も肉も惜まない。またその人達の感情や宗教を奪おうとはしない


 ――マーカーが引かれているのは此の三つの文章のみ。これらに加えて――


 ヴァルプルギスの夜 +212 +219 +226


 ――と、ボールペンで数字の書き込まれた文章も見付かった。

 此の数字にしても、マーカーにしても、書き込んだのは里見健一だろう。其れにしても、書き取り作業をしていても思ったけれど、これらの文章や数字には何らの法則性もない。ページは飛び飛び、文章の長さもまちまち。唯、思い付きでマーカーを引いた……そんな風に見える。

 里見健一はどんな意図でこれらの文章にマーカーを引いたのか?数字を書き込んだのか?

 ……まぁ、明日お千代に見せれば、何か判るだろう……。

 他力本願を発揮しつつ、俺は次の作業に取り掛かろうと、学院の見取り図と部活委員会一覧の書類を手許に寄せた。学院の何処でどの活動がなされているのか、見取り図に書き込んでいく。体育館にはバレー部、校庭には陸上部、屋内プールには水泳部、といった具合に。

 又々地味な作業だが、推理力の乏しい俺みたいな探偵には、こんな仕事が似合う。

 此の地味な作業を「引き受ける」と、俺は自分から名乗り出た。夕方、今日の調査を引き上げ、お千代達と別れる際に、である。

 これに納得しなかったのが兎だ。

「こういう仕事は新人の役目の筈です」

 兎はそう言って喰い下がった。が、俺は首を横に振って、

「兎は推理を頑張ってくれ。俺も其方を疎かにする積もりはないけど、兎は俺よりも頭が良いんだから」

 と、言い含めれば、渋々ながら兎は引き下がってくれた。

 本音を言えば、此の台詞の半分は本心だが、もう半分には、是非とも此の地味な作業をやりたかった、という我欲もある。

 何しろ、夜を孤独に民宿で過ごしていては、やる事がなく退屈なのだ。

 要は暇潰しである。

 そういう理由から、俺は地味な作業を率先して引き受けた。其の途中、ある奇妙な事に気が付いたのだった。

 其れは丁度、見取り図の本校舎一階の、廊下の端にある教室に「文芸部部室」と記した時であった。

 今日の夕方、俺達は本校舎三階の、生徒会室前で未伽に出会った。又其の時、未伽は自分が文芸部の部長だと説明し、「これから部室へ行くトコロ」とも言っていた。

 とすると、辻褄が合わない。

 どうして未伽は一階の文芸部の部室へ行く前に、三階の生徒会室前に立ち寄ったか?

 未伽の在籍する教室が三階に在るのかとも考えたが、俺は昼間、一階の教室にて現代文の授業を受ける彼女の姿を目撃している。となれば、未伽は一階に在る自分の教室から、態々三階へ上がり、生徒会室前に寄ってから、再び一階へ下りたのか。

 どうしてそんな遠回りを……?

 合理性のない行動に疑問符が浮かぶ。生徒会か葵に用事でもあったか?其れも違う気がする。他に二人も……おさげの背の高い少女と、スポーツ少女の二人を……引き連れ、未伽は葵と談笑していただけの様に見えた。

 考えれば考える程、未伽の不可解な行動は次々現れる。兎に放ったあの言葉、「貴女は私に似てる」の真意も不可解極まりない。

 初対面の相手に「似てる」とはどういう理屈だろう。確かに二人共、目を見張る程の美人ではある。が、そんな事を敢えて口に出して言う程、未伽は社交性を欠いている様にも見えない。

 判らない……櫻井未伽……判らないなぁ……。

 部活と委員会の活動場所を一通り見取り図に書き終え、俺は炬燵の上を片付けた。今此処で俺が幾ら悩んだとて、此の疑問は晴れやしない。もっと言えば、未伽の神秘性は本題から外れる。俺が集中すべきは、殺人事件の方だ。

 明日も朝早い。別れ際、お千代から「明日も今朝と同じ時間に、同じ場所で待ち合わせよう。迎えには矢張り兎を寄越すよ」としっかり言い付けられている。

 遅刻はいけない。明日こそ、寒空の下に兎を待たせてはいけない。

 俺は炬燵を抜け出し、蒲団に這入り込んだ。部屋の電灯を消せば、真っ暗闇、意識も忽ち眠りに落ちる。


 十二月二十一日、金曜日、朝。

 約束より早く正門前に到着したが、兎はもう待っていた。

「お早う」

「お早う御座います」

 兎の頬が赤い。キャスケット帽は律儀に被っているけれど、白髪は帽子から出し、サラサラと流れる儘にしている。

「今日も寒いな。晴れは続いてるのに」

「放射冷却じゃないですか?都内より寒い気がします」

 兎は自分の両手にハァーと白い息を吐き掛けた。

「行きましょう。所長も待ってます」

 兎が踵を返したので、俺達は揃って重々しい鉄門を潜った。

 朝日を照り返す校舎を背に、噴水の頂上に立つ聖母像は今朝も穏やかに微笑んでいた。其の周囲では、今朝も生徒達が掃除に励んでいる。シャッ、シャッと、引っ掻く様な箒の音が冬の澄んだ空気をザラつかせる。そんな生徒達に混じって一際小柄な少女がいた。葵だ。葵は書類を手に何人かの生徒と話し合っていた。

「此処の飾り付けは去年と同じです。一年生には後で去年の資料を見せてあげて。其れからツリーの位置は……あ」

 と、葵は俺達に気が付くと、傍の生徒共々御辞儀をくれた。

「お早う御座います。昨日は済みませんでした。未伽が失礼な事を……」

 本当に真面目な子だ。俺は苦笑し混じりに手を振って、

「大丈夫、全然気にしてないから。其れより、生徒会の仕事中?」

「はい。そろそろクリスマスなので、飾り付けを。こういった仕事は生徒会が取り仕切る決まりなんです。今年はあんな事があったから、中止にしようかとも思ったんですが、霞シスターの為にも中止は良くないという意見が多かったもので」

「そっか、此の学院はミッション系だからキチンと祝うのか」

 学校行事にクリスマス、というのも馴染みないが、敷地に教会迄建っているのなら外せないだろう。

 俺と葵は其れから世間話を交わした後に別れた。其の際、葵が「其れでは」と腰を折れば、他の生徒も一様に頭を下げ、葵が去れば其の後に続いた。

「クリスマスですか」

 葵がいなくなった折、兎はそう呟き、

「経験するのは初めてですね」

 と、俺を見上げた。

「兎はクリスマス初めてか」

「はい。遊郭時分は、そういうものがあるとは知っていましたけど、特別何かした事はなかったので」

「そっか」

 束の間の沈黙を経て、兎が歩き出す。俺も共にお千代の待つ食堂を目指す。

「クリスマスって」

 其の道すがら、兎は独り言の様に語った。

「クリスマスって何なんでしょう?此処だとお祝い、というか儀式みたいな感じですけど、其れも此の学院が宗教的に関係あるからじゃないですか。でも、世俗だって、此処と同じ様に飾り付けてお祝いすると聞きますし……日本だと宗教的な関係性は薄い様に思えるんですが」

「そうだなぁ……何故、と、訊かれると応え難いな。お祭りみたいなもんだと思ってるけど……恋人達が盛り上がる為のイベント、みたいな」

「恋人達の……」

 兎は口の中でそう呟くと押し黙った。難しい顔で考え事に耽っている。俺も俺で「クリスマスとは何ぞや?」という疑問に思いを馳せていた。

「話は変わるんですが」

 と、兎が言うので、俺は考えを中断して其方を向いた。

「うん?」

「あの、これは所長には昨夜の内に話したんですけど、一応、先輩にも言っておこうと思いまして」

 兎は妙に周囲を気にしていた。枯葉を掃く生徒達に聞かれたくないのか、声量を落として、

「実は、昨日、生徒から相談を受けたんです。進路相談、とでも言うんでしょうか……其れも同じ様な事を数人から」

「何人も兎に進路相談を持ち掛けた……探偵のなり方でも訊かれたのか?」

 歳近い兎が働く姿を間近に見、探偵業に興味が湧いたか。俺は直ぐそう考えたが、どうやらこれは外れていたらしく、兎は即座に「違うんです」と否定した。

「だったら私も悩みません。相談されたのは、別の職業に関する事で……つまり遊郭の事を沢山訊かれたんです」

 虚を突かれた俺は阿呆みたくキョトンとした。生徒が遊郭の事をあれこれ訊くとは、とんだ進路相談があったものだ。

「其れは……兎は大丈夫だったのか?悪巫山戯とかで訊かれたんじゃないのか?」

 若さ故の遠慮ない好奇に晒されたのではと心配する。が、兎は困惑気味に「其れも違うんです」と応えた。

「最初は、あたしもからかわれてるんだと思いました。けど、どうも様子が違うんです。何と言うか皆真剣で……真剣に(くるわ)について訊くんです。其れも的外れな事ばかり……実家が資産家だと遊郭には入れないのかとか、男性経験がないと遊女になれないのかとか……吉原では髪や瞳の色が変わっていない方が変なのかとも。これをお姉様に話したら、お姉様も同じ目に遭ったらしくて。聞き込み中、生徒に取り囲まれて、吉原についての質問攻めに遭った、其れどころか野郎茶屋についても訊かれた、と」

 お千代も同じ目に……其れ程生徒達が遊女について、其れも真剣に関心を抱いていたとは。そも、卒業生たるお千代だけなら未だしも、兎が身請けの身であると生徒達はどうやって知ったのか。

 俺は腕を組んで悩んだ。諸々の謎について悩んでいるのでなく、兎を安心させる方法を思案した。俺如きの知能で即刻解ける謎ではない。ならばせめて兎の不安を和らげる言葉はないものか、じっと探した。

 やがて俺は神妙な面持ちを作って、

「まぁ、お千代や兎みたいな美女が揃えば、女生徒達が憧れるのも無理ないか。けど、お千代も兎も特別だって、遊郭入りすれば必ず綺麗になれるなんてのは幻想で、二人が特別美女なんだって教えてあげないと、生徒達が可哀相じゃないか?」

 俺がそう言って笑い掛けると、つられて兎も吹き出した。

「又先輩は平気で莫迦な事を言うんですから。あたしはそんな莫迦な事言えませんよ。良いです。生徒達には、吉原にはクリスマスもないんだからって、脅しておきます」

 其の笑顔は冬に咲く花の様に綻ぶ。白い花……雪の結晶かも知れない。どうやら、俺は未だ寝惚けているらしい。

 そうして俺達は食堂に上がった。

「やぁ、来た来た」

 お千代は食堂の中に座し、入口の俺達を見掛けると手招いた。其の服は、グレーのダブルジャケット、襟部分だけは黒いベルベッドにお揃いのタイトスカート、装飾のない白シルクのキャミソール……銀髪は解かれてある……といった恰好のお千代は、俺達が座るのを待って、口を開いた。

「どうやら良い朝みたいだね、兎」

 隣の座る兎に、お千代が微笑み掛ける。と、兎は対抗するみたく微笑みを返した。

「どうでしょう?でも良いんですか?所長は余裕そうですが」

「私はフェアプレーを好むからね」

 俺の前で微笑み合うお千代と兎。二人の笑顔にどういう意図が潜んでいるのか、判らないが、一先ず口を挟まない方が良い、と直感する。

 兎がダッフルコートを脱ぐ。今日の兎はスキニーデニムと黒ジャケット、ラメで模様を編んだ赤色のカットソーといった服装だった。

 俺は昨晩纏めた資料をお千代に手渡した。即ち、里見健一が蛍光マーカーや数字を付け足した「ファウスト」の文章を纏めたものと、部活と委員会の活動場所を書き込んだ校内見取り図を。

 お千代は資料をじっくり眺めた。兎も隣から覗き込む。そうして、二人共、俺と同じ疑問に辿り着いた。

 何故、未伽は三階の生徒会前を訪ねてから、一階の部室へ向かったのか?

 しかし、未伽の不可解な行動は殺人事件に比べれば優先度が低く、世間話程度で片付けられた。

 お千代は「ファウスト」の方へ視線を移すと間もなく、

「ふむ……これは、どうだろうね……」

 と、独りごちた。兎も忙しなく「ファウスト」の引用を瞳で追い掛けている。

 場は知的な静寂に包まれた。壁一面のガラス張りから日の光が溢れ、薄々と白い室内を照らしている。

 束の間の思考を経て、お千代は徐にメモを指差した。

「これは視点を変えなければいけないかも知れない。里見を犯人と仮定する事も出来るが、そうでない可能性もある……」

 里見が犯人でない可能性?そう言ったか?「ファウスト」の引用を見ただけで、そんな可能性が浮上するのは何故か、俺が理由を訊くより早く、お千代は小声で言い継ぎ、

「しかし、そうすると、どうして里見が姿を(くら)ませたか、其の動機が問題になる……」

 と、お千代の注意は校内見取り図へと移った。金瞳は朝日に輝き、光を集め、見取り図の一点を焦がす様だ。其の一点を指差して、

「何はともあれ調査が必要だ。未だ未だ材料不足の感は否めない……という訳だから、今日も聞き込みの方、宜しく頼む。しかし、今日は本丸にも攻め込みたいから、放課後は早めに集合しよう」

 と、お千代は宣った。本校舎一階、廊下の端にある文芸部部室を差し示しながら。

「櫻井未伽の御言葉に甘えて、今日こそ此処に乗り込もうじゃないか」

「そうだな」

「ですね」

 探偵三人は頷き合い、席を立った。今日も又、一日が始まる。


 探偵三人が聞き込みを始めて二日目ともなると、段々と大胆になる生徒の数も増え、此方の質問に少女達は臆せず事件への私見を述べ始めた。

 例えば、竜胆霞を慕っていたある生徒は、里見犯人説を強く信じていたが、彼女は涙ながらに俺に詰め寄り、言い張った。

「探偵さんは私達に質問してないで、里見先生を見付ける方に専念して下さい。犯人は里見先生に決まってます。だってあの人は行方不明なんです。犯人でないなら、何故姿を現さないんですか。潔白だというなら隠れる必要はないのに」

 自分が悩んでいた疑問点をズバリ指摘された気がして、俺は何とも応えられなかった。事件直後に消えた里見は真っ先に怪しまれる。なのに何故姿を眩ましたか?これでは自分が犯人だと宣伝している様なものだ。

 ……いや、里見犯人説こそ最有力だ。なのにお千代は疑った。其の根拠は?あの引用文に其れだけの力があるとも思えないが……。

 夕方に再集合した際、以上の意見をお千代に打ち明けてみるも、暖簾に腕押し、お千代本人も確信がない為言及は差し控えたいとし、其の上で、

「今は消えた男より少女王を調べろと、私の勘が訴えるんだ。其の方が愉しいだろう、と」

 なんて戯れ言を宣った。

 本校舎一階の廊下、探偵三人が進む。此の先は渡り廊下、屋内プールに繋がっている。女子校のプールに興味がないでもないけれど、俺は懸命に煩悩を祓い、廊下の端にある扉に集中した。

 里見健一が顧問を務めていたという、文芸部の部室。

 金庫の前に立つ泥棒の様に、変な緊張と高揚が胸中を突く。此の向こうに真相があれば、せめて里見に関する情報でもあれば、事件解決の糸口になるやも知らん。

 夕焼けの廊下。お千代が徐に右手を掲げ、コンコンコン、文芸部の扉をノックする。

「はい、どうぞ」

 籠もり気味だが確かに未伽の声で返事があった。

「失礼するよ」

 お千代が引き戸を開け部室に入り、俺と兎も続く。

 部屋は夕日に染まり真っ赤だった。元々教室だったらしい室内は、割合ガランとしていた。壁には黒板と木製の十字架が貼ってあり、部屋の中央には長机が据えられ、其の周りに猫脚椅子が七、八脚だけ置かれてある。其の椅子に座った少女達の中に未伽を見付けた。

「これは、探偵の皆さん、態々御足労頂かなくとも、お呼び下さればお迎えに上がりましたのに」

 猫の瞳を驚かせ、未伽は手で口を押さえつつそう言った。

「其れには及ばない。少し、お邪魔しに来ただけだから」

 お千代が艶やかな声で応える。兎は俺の背後に隠れ、未伽の視線を避けている。其れも仕方ない。未伽は、恐らく、兎が最も不得手とする種類の女であろう。小動物みたいに警戒心を剥き出しにする兎は、実に名前通りで似合っていたので、これを放って俺は部室の観察に戻った。

 カーテンは半分程閉められ、夕日と橙色の室内灯が半々に室内を照らしていた。部屋の中央には最前述べた長机と猫脚椅子が配され、椅子に座る少女達は横顔を夕日に照らされていた。壁際には立派な本棚が立ち並び、古い本がギッチリ詰まっていた。流石文芸部。よくよく見れば、長机に着いた少女達は皆、手に手に本を持っている。折り悪く、読書中に訪ねてしまった様だ。

 読書に耽る生徒達の中にあって、櫻井未伽は矢張り群を抜いていた。美貌、取り分け瞳は秘密っぽく充分に大人びているのに、セーラー服の上からでも身体は細く硬い線を描いて、未成熟らしい透明感……未だ何色にも染まっていない少女らしさを感じさせ、不思議と男を浮き足立たせる。相手は子供、俺の方がズット大人だ。が、未伽の生意気な微笑に、俺は抗える気がしなかった。

 そんな未伽の手にある上製本の表装には、(そり)を引く馬と、其の橇に乗った男女が描かれ、題名には「夢野久作『氷の涯』」と読めた。

「どうぞ皆さん、立ち話もなんですから、お掛けになって下さい。今お茶を淹れますから」

 未伽はそう言うと、本を置いて立ち上がった。少し躊躇ったが、勧められる儘、俺達は空いている席に腰を下ろした。

 探偵三人が座ると、文芸部の部員達は皆々本を閉じ、お揃いの笑みを浮かべた。好待遇だが、却って落ち着かない。うら若き乙女達の中に男一人では、何とも居心地が悪い。

 チラと兎の様子を窺う。と、兎は、じっと、未伽を監視していた。では、お千代はどうか……お千代の金瞳は余念なく周囲の観察に動いていた。

「どうぞ、皆さん」

 戻って来た未伽が三人分の茶碗と茶菓子(黒豆の羊羹)を差し出してくれる。どころか、急須を傾け、緑茶も注いでくれた。白い湯気が立ち上る。

「ようこそお出で下さいました、探偵の皆さん。私達が文芸部部員一同です」

 席に戻った未伽は、生徒達に手を向けた後、己の胸に手を当てて、

「そして改めまして、私が文芸部の部長、櫻井未伽です」

「丁寧な紹介、痛み入る」

 お千代が笑みを返す。作り笑顔だ。俺には全てが演劇に見えた。

 緑茶を啜りつつ部員の面々を見ていく。

「あれ?」

 其処で気が付く事があって、俺は無意識に声を上げていた。

「……何か?」

 おさげの少女が不機嫌そうに俺を見る。目元の鋭い女生徒に睨まれ、俺は狼狽えたが、どうにか応えた。

「……いや、昨日、もう一人、髪の短い子が櫻井さんと一緒にいたけど、今日はいないのかな、と」

 昨日の夕方、生徒会室前にて、未伽は二人の少女を引き連れていた。一人は目の前にいるおさげの少女。其れともう一人、髪の短い、スポーツ少女の姿があったのだが、今、部室の何処にも彼女の姿はない。てっきり、あの子も文芸部員だと思ったのだが。

「あぁ、広見君ですか」

 と、未伽が自然に口を挟む。

「彼女は文芸部員ではないんです。だから今日はいません。でも(その)は文芸部の副部長だから、此処にいるんです」

(にしき)()園です」

 おさげの少女は会釈した後、言い継いで、

「櫻井の言った『広見君』とは、阿佐々広見と言って、文芸部ではなくバレー部に所属しています。今頃、彼女は体育館でしょう」

「あ、そうなんだ」

 園は酷く無愛想に説明した。恐縮した俺は、緑茶を啜って誤魔化した。

「其れで、私達はどんな事をすれば良いのでしょう?」

 そんな俺の心情など気にも留めず、未伽がはしゃぐ。対するお千代は、茶碗に手も付けず、真っ直ぐ未伽を見据え、

「簡潔に言えば、顧問であった里見健一について教えて貰いたい、といったところか。序でに、里見の行き先の手掛かりがないか、部室を捜索させて欲しい」

「お安い御用です」

 未伽は嬉しそうに微笑み、

「お応え出来る事ならば、どんな事でもお応えします。部室も、御自由に捜索して頂いて構いません」

「そうか。なら早速、幾つか質問させて貰いたいんだがね」

 其れから直ぐお千代の取り調べが始まった。取り調べの間中、兎は俯いた儘押し黙り、茶碗の水面に浮かぶ茶柱を見続けていた。

「では先ず、櫻井さん、貴女から見て、里見健一はどんな人物だった?」

「里見先生は……そうですね……優しい方でした。温厚で、物静かで。お顔も整っていらして、一部の生徒には人気でしたけれど、御本人はそういった色事に無頓着な、物静かな方でしたから、私も好感を抱いておりました……あら……飽く迄、一生徒として、良い先生だなと思っていただけですよ?」

「下世話な詮索はしないさ。で、単刀直入に訊くが、里見健一が犯人だと思うかい?」

「犯人とは、霞さんを手に掛けた張本人、という意味でしょうか?」

「そうだ」

「どうでしょう?私の知っている限りですと、里見先生は押しが弱く、そういった、大胆不敵な事をなさる方には見えませんでしたが……」

「里見の行き先について心当たりは?」

「さぁ、判りません」

「ふむ。其れでは視点を変えて、部長から見て、里見健一は顧問としてどうだったかな?」

「申し分のない先生でした。文学の趣味が、(いささ)か、自然主義や大正文学に偏り勝ちではありましたけれど、私も其の時代の読み物を好んでいましたから、先生から本をお借りする事も多々ありました」

「成程……ところで、里見はつい二週間程前、何か思い悩んでいたと聞いたんだが、其れについては何か知らないかい?」

「里見先生のお悩みですか」

「事件の少し前、其の悩みは払拭された様なんだがね」

「悩み、悩み……先生は隠し事をなさる方ではありませんでしたが、其のお悩みについては……私も聞かされておりませんから」

「人に言えない悩み、という事か。そうなると……」

 お千代の右手が虚空を舞う。そして煙管のない現実に口惜しさを感じていた。

「話題を変えよう。殺された竜胆霞について……竜胆と面識は?」

「えぇ、勿論。私は学院の中でも、一、二を争うくらい教会に通っていましたから」

「其れは何故?」

「お祈りをしに行くんです。其れで其の後、霞さんと色々お話しして……霞さんは生徒達の拠り所でしたから」

「どうもそうらしいね。とすると、櫻井さんも竜胆に何か相談事を?」

「えぇ、色々と聞いて頂きました。素晴らしいアドバイスも頂いて……本当に、亡くなったのが哀しくて……悔しくて……」

 其の時、未伽の瞳が潤んだ。其れ迄の未伽の表情は演技めいていたにも関わらず、其の涙だけは真実の輝きを持ち、一縷、未伽の頬を濡らした。

 傍らの生徒達が、皆々こぞってハンカチを取り出し、未伽に差し出す。未伽は其の中の一つを受け取って、(しと)やかに瞳の端を拭った。

「……済みません。取り乱しまして」

「構わない。其れだけ竜胆が慕われていたという事だ……本当に竜胆らしい」

「お千代さんも、竜胆さんとはお知り合いで?」

「まぁね。在学中、少し話した程度だが、しかしそんな竜胆も近頃は何か思い悩んでいた様だ。里見と時期を違えて……竜胆の悩みについて思い当たる事は?」

「霞さんの悩みですか」

「同僚のシスターに因ると、竜胆は其の悩みについて『禁断の果実』という言葉を用いたらしいんだが、其れについては?」

「『禁断の果実』……旧約聖書ですね。アダムとイヴが口にしたとされる、知識の実。さて……竜胆さんが、そんな、悪徳の代名詞みたいな言葉で己を責めていたなんて……聖女らしくもなく……」

「実際其の通りなんだがね。櫻井さんも知らないか」

「えぇ、申し訳ありませんが」

 問答はこれで終わった。お千代が顎に手をやって押し黙ったからだ。唯、兎だけはいつの間にか顔を上げて、部室の中を見回していた。

 其れから俺達は室内を(あらた)める段に移った。顧問たる里見がよく使っていた備品、私物、里見が持ち込んだ本、部屋中隈なく調べてみたが、証拠どころか情報も出ない。此の結果は手痛い。期待していた分、落胆は大きく、俺の心は暗澹と重たくなった。

 が、お千代は平気な顔で、呑気に文芸部の書架を満喫していた。

「これは珍しい。芥川と谷崎の座談会を収めた雑誌か。良い趣味だ。こっちは太宰と安吾の飲み会風景とは。時間が許すなら私も拝読したいね」

 悠々と無駄口を叩きながら、しかし、お千代の金瞳は鋭利に光っていた。

 一通り捜索が済むと、お千代は「又来るよ」と言い残し、部室を出た。未伽が笑顔で送り出す。他の生徒達も笑っていたが、未伽の其れとは異なり、仮面の笑顔だった。

「どうする?」

 文芸部を出て直ぐ、俺は肩を竦めながら訊いた。肩が酷く凝っていた。大した情報もなく、肩透かしでもあった。

 お千代は、しかし、何とも応えず、徐に兎を見て、

「兎、君は気付いたかい?」

「えぇ……所長と、あの櫻井という生徒が話し合っている時に」

 深刻そうに兎が頷く。

「そうか。流石に勘付くのが早い」

 お千代はそう言うと不敵に笑った。

「何?二人は何に気が付いたんだ?」

 蚊帳の外、俺には会話の意味がサッパリ判らない。なので説明を求めたのだが、お千代は小さく溜息を吐いた。

「はぁ……いやしかし、君が気付かなかったのは、ある意味で、君が健全だという証左かも知れない……未だ健全だというだけだが」

 お千代は矢鱈と「未だ」という部分を強調したが、其の点には触れず、俺はひたすら解答を待った。

 やがてお千代は唇を俺の耳の傍に近付けて、

「匂いがしたんだよ」

 と、清浄な学院の、静謐な放課後の空気を冒す事実を囁いた。

「部室中に染み着いていた。学生である彼女達には……あの年頃の少女達には似付かわしくない匂い……血と……其れから、真新しくて生々しい、艶っぽい女の匂いが」

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