聖女の初夜 伍
全く同様の手口で以て(こういう言い方だとまるで俺が悪事を働いたみたいだが)聞き込みを続けても成果はなかった。事件について何の手掛かりも掴めなかったのだ。
唯、ハッキリした事はある。聞き込みをした生徒は皆、最後の質問には必ず口を噤む、という法則だ。「学院内での事故、事件」は、生徒共通の秘密であるらしい。
其の旨をお千代と兎に告げる。約束の午後一時、探偵一同は再集合していた。俺からの報告を聞いたお千代は金瞳を見開いて、
「ほぉ、生徒が君に話したか。私が通っていた頃は、外の男と話せる生徒なんて極少数だったんだが……君の手腕か、或いは時代が変わったのか」
と、閑散とした食堂に意外そうな声を響かせた。
昼時には生徒達で大変な混雑であったが、今は授業中、俺達探偵以外では、割烹着姿の、恐らくは調理場の職員と思しき中年女性達が、一箇所に固まって昼食を摂っているだけだ。
「此方も似た感じでした」
俺の報告が終わるのを待って、斜向かいに座った兎が口を開く。俺とお千代は揃って兎を見た。俺に至っては、報告の最中にも何度か兎の様子を窺っていた。お千代も、兎の変化に不思議そうな瞳を向けている。
「あたしも校内で聞き込みをしたんですが、駄目ですね。真新しい情報は何も。報告しようと思っていた事は、先輩のものと殆ど重複しますので、取り立てて付け加える事もありません。里見教員は優しく静かな人で、竜胆シスターは穏やかで生徒達の拠り所だった、生徒は皆そう応えますし、其れにやっぱり、『生徒間のトラブル』を訊けば、必ずはぐらかされてしまうんです」
「そうか」
兎の隣に座るお千代が、思索に耽る為、自分の顎に手をやった。此の右手が、一度、宙を掴む様な動作をしたのは、お千代が無意識に煙管を求めたからだろう。残念ながら、校内は全面禁煙である。
お千代は小声になって、
「変な事件だ。動機が見当たらないとは。被害者も容疑者も清貧、殺人などという邪悪なものがまるで似合わない……」
と、其処で言葉を区切り、
「其れに生徒達は何を隠しているのか……其れも特定の生徒だけでなく、不特定多数の生徒が、どんな秘密を抱えているのやら。村町先生の勘は流石だ。五里霧中の事件より少女達の秘密の方が余程そそられる。も少し詳しく調べたいが……」
と、今度は顔を上げて、
「まぁ、其れはさて置き、兎、其の髪はどうしたんだい?」
「え?あぁ、これですか?」
兎は自分の髪……美しい白髪……を撫でながら、困った様に笑った。
非常に珍しい事に、兎は髪の戒めを解いている。いつもはキャスケット帽の中にスッポリ収めてしまうのに、どんな心境の変化か、キャスケットを被ってはいるものの、其の長髪は狭苦しい帽子の中から解き放っていた。
美しい、雪の様に真っ白な髪が、サラサラと、レースカーテンが如く、兎の顔や、白い肩、鎖骨に降り掛かる。兎の髪は元来長く、真っ直ぐ滑らか、露わになれば人目を引かずにいられない。美しい白髪と大きな赤瞳、更に其れらを統合し調和させる美しさ、以上全てを兼ね備えているからこそ、兎はあの吉原で太夫見習い迄登り詰めた訳だが、何度も言うように、兎は現在、其の普通一般とは異なる髪や瞳を、人に見られる事を殊更に嫌っている。だからこそ、いつもは髪と顔を帽子で隠しているのだが……今はどちらもさらけ出して平気な顔でいる。
「珍しいじゃないか、兎が自分から髪を人前に出すだなんて。良い傾向だが、どんな理由からか、差し支えなければ教えてくれないか?」
朝方には一人になるのも不安がっていた兎が、どうして此処迄大胆になったか。聞き出したいけれど、繊細な問題であるだけに、お千代の態度も慎重だ。
が、当の兎は苦笑し、白い毛先をクルクルと弄びながら、
「いえ、そんな大した事ではないんです。唯、何と無く平気というか、此処だと視線が気にならなくて、其れで髪を出したんです。いつも帽子に入れた儘だと、髪も傷んでしまいますし、何よりあたし自身、窮屈に感じていましたから。朝にあんなにごねて、所長を困らせてしまった手前、申し訳ないんですが」
「そんな事は気に病まなくとも良いけれど、其れにしても『何と無く平気』か。其れは僥倖だが、どうして平気なのか、もっと具体的には?」
「どうして……そうですね。所長の母校なのに、あの、失礼かも知れないんですけど」
「言って御覧」
「はい……其の、何と無く、生徒さん達の視線が慣れたものに感じられるんです……遊女の様というか……其れ以外にも別の雰囲気があるんです。巧くは言えませんが、其れが妙に落ち着くものだったので、あたしも平気になってしまって」
「ふむ……」
お千代は再び思考の姿勢に入った。生徒達の視線が遊女の其れに似ている。成程、其れなら兎が髪を解いた理由にはなる。遊郭時分、兎は自分の髪や瞳を隠してはいなかった。そんな吉原に似た環境の中ならば、精神的余裕も生まれるのだろう。
しかし其れ自体どういう意味か、つまり此の学院が遊郭と似た雰囲気であるというのはどういう意味か、俺だけでなくお千代も考える。
兎だけが無自覚に自分の髪を撫でていた。
……白く細い指の間を滑る、真っ白い髪……。
束の間、兎の髪に見惚れる。矢張り、こうして髪や瞳を隠さない方が兎は綺麗だ。折角こんなにも美しいものを持っているのに、其れを隠すのは勿体ない、と、常々考えていた俺としては、今の状況は有り難い。
「……何ですか?先輩」
俺の視線に気付いた兎が訝し気に睨む。
「先輩も何か、私に言いたい事があるんですか?」
「いや、別に、特別言いたい事は無いけど……そうだな……やっぱり、兎の髪は綺麗だな」
「なっ」
奇妙な事に、俺の賛辞を聞いた刹那、兎は息を飲んだ。俺は唯、心に思った儘を口にしただけなのだが、兎は白い頬を赤く染め、赤い瞳を丸くして、其れらを俺に見られぬよう、自分の両手で髪を覆ってしまった。
「あ……」
そんな、何も隠さなくとも……俺は気に障る事を言っただろうか?
惜しむ俺に、お千代は非難めいた視線を向け、「はぁー……」と深く溜息を吐いた。
「君、其の減らず口をどうにかし給え。其の監督不行き届きな口に、しっかり錠前を設け給え。口は災いの元だと、そういう格言を知らないのかい?」
「いえ其の……ゴメンナサイ……」
「ほら兎も、此の男のこれは今に始まった事ではないのだから、一々気にしていては身が保たないよ?」
本心を口にするのは御法度だろうか?昔、同じ様な事をお千代に言ったら、大層喜んでいたのに、兎には駄目なのだろうか?何故?判らない。
畢竟、此の年頃は複雑怪奇なり、俺はそう結論付けた。
「コホン……良いかな?君達」
と、お千代が仕切り直し、俺も真面目らしく顔を上げた。依然として、金と赤の瞳から痛い視線を感じるが、其れは其れ、仕事の話に取り掛かる。
「私からも報告しておこう。教会方面だがね、被害者、竜胆について色々と聞き出せたよ。同僚のシスターの証言では、最近の竜胆は何か思い悩んでいた様子だった。これは生徒会長、葵さんからも聞いた話だが、シスターは更に詳しく語ってくれた。竜胆は殺される少し前迄、何をか神に許しを請うていたらしい。十字架の前に跪き、『禁断の果実』と呟きながら」
「『禁断の果実』?」
俺は言葉を繰り返した。妙な言い回しだ。実生活の中で使われるものとも思えない。
「何だ其の『禁断の果実』って」
「其処迄はシスターも判らないと言っていた。旧約聖書、創世記通りの意味ならば、『善悪の知識の木』に結ぶという、決して口にしてはならない果実の事だが」
お千代の右手が宙を弄る。煙管を欲しているのだろう。
「其の、『禁断の果実』という言葉を呟きながら、竜胆は一心に何か祈っていた。そんな彼女を心配した同僚が、竜胆本人に悩みを聞き出そうとしたらしいんだが、『迷惑を掛けたくないから』とか、そんな事を言われて、結局有耶無耶にされてしまった、と」
妙な話だ。俺は人伝に為人を聞いただけだが、殺された竜胆霞という人物は、「聖女」と渾名さる程の人格者だった筈。そんな彼女ですら、誰かに話すのを憚られる悩みとは、一体どんなものだろう?
「気になりますね……」
兎がポツリと呟く。お千代も大きく頷いて、
「そう、とても気になる。竜胆の悩み、其れに生徒達の隠し事。不可解な事柄は増えるばかりだ。が、捜査も未だ初日。焦らず確実に調べていくしかないだろう」
お千代はそう言うと立ち上がった。其の顔は不敵に笑っている。
「では、午後の仕事に取り掛かろう。役割分担は午前と一緒。再集合は本校舎の玄関前にて、午後四時に。以上、解散」
其れは、俺が校舎の周りをウロウロと歩き回っていた時の出来事。
昼下がり、校舎一帯は静けさに満ちていた。南を回った日の光が肌に温かで、寒さも和らぐ時間、息も白くならず、俺は一人、午後最初の授業に勤しむ生徒達を眺めていた。
校庭は体育の授業中らしく、体操着に身を包んだ生徒達がサッカーをしている。赤を基調とした、所々に白線の引かれた体操着に、懐かしさを感じる。若い少女達が愉し気に一つのボールを追い掛ける姿を見ていると、仕事や事件の事も忘れたくなる。が、そういう訳にもいかず、試合の順番待ちで、土手に腰掛け休んでいる生徒達を見付けると、俺は声を掛けるべく歩を一歩進めた。
其の時である。
「――しかし下界にありとある人の中の人屑にも、こん度は己が感謝せずばなるまい」
聞き覚えのある声が背後で立ち、俺は振り向いた。
其の声は木造校舎の一階、とある教室から聞こえて来る。
「なぜと云うに、己の見聞覚知を破壊しようとした絶望の境から、あいつが己を救い出したのだ」
村町先生の声。
先生は教壇に立ち、小振りな十字架を掲げた黒板を背に、手に持つ一冊の本を読み上げていた。教室の生徒達は其れを拝聴するか、又は黒板の文字をノートに書き写している。
俺の胸一杯に郷愁が満ちる。窓越しに見る教室の風景。今時、黒板と白墨で授業をしている学校も珍しい。が、其れ以上に、此の静寂と学問の入り交じった、気品ある教室の空気こそ、人の思い出に語り掛けてくるものがある。
教室は、換気の為か窓が一枚開いていて、其処から村町先生の声が外に漏れ聞こえているらしかった。
「いや。あの顕現が余り偉大なので、全く自分が侏儒であるように、己は感じた――では此の続きを、未伽さん、お願い」
「はい」
四角四面に着席している三十の黒セーラー服の群れの中から、一人の少女が立ち上がる。途端、教室中がしとやかに華やぎ、俺は其の花に釘付けとなった。俺だけではない。教室にいる他の生徒達も、ノートに落としていた視線を上げて、其の花を見上げていた。
花は黒かった。黒絹の様な髪を揺らす少女だった。髪は背中に垂れ、腰迄あろうかという長さ。
少女は猫を思わせる瞳を本に向け、大人びた、落ち着いた声で以て朗読を始めた。
「――神の姿をそのままに写された己は、永遠なる真理の鏡に逼り近づいた積で、下界の子から蝉脱して享楽の自己を天の光明のうちに置いていたのに、己は光の天使にも増して、無礙自在の力が既に宇宙の脈のうちを流れ、創造しつつ神の生を享けようと、窃かに企てていたのに、なんと云う罰せられようだ。雷鳴のような一言が己をはね飛ばした」
彼女の声は教室の内に聞こえ、天に響く様であった。流暢な、淀みない音読。生徒達は彼女の声に酔いしれ、彼女の姿をうっとりと眺めている。
音読する生徒の背丈は中くらい。兎の背丈と同じくらいに見える。細い腰付きと、しなやかな手足……こう詳しく、不躾に眺め回す積もりではなかったのに、俺の目は彼女から離れない。
そんな俺を、少女がチラと見る。其の琥珀の、猫の瞳が僅かだけ動き、窓の外に立ち尽くす俺を捉え、そして少女は笑った。
「お前に似ようと思うのが、そんなに僭越だろうか。己はお前を引き寄せるだけの力は持っていたが、お前を留めて置く力がなかったのだ――」
「未伽さん、有り難う。其処迄で良いわ」
村町先生の声で我に返る。気付けば、鼓動が早鐘を打っている。其の少女……未伽、と呼ばれていたか……の美貌と不可思議な魅力に吸い込まれ、呼吸も忘れていたらしい。
未伽は本を置き、静かに椅子を引いた。周囲から甘い溜息が漏れる。未伽の隣に座る生徒が、何か短く彼女に囁く。未伽が小さく笑う。其の瞳を俺に向けた儘。
教室に村町先生の声が響く。
「はい。今、未伽さんに読んで貰った部分ですが、これこそ物語の起点、戯曲『ファウスト』の出発点ですね。主人公ファウスト博士は全ての知識を得ていました。研究一筋の人生で、全知となった彼は、神にすらなれると思っていたけれど、結局、彼は悩める一人の老人でしかなかった訳です。此の悲嘆こそが悲劇の始まり、悪魔メフィストフェレスを招く要因となりました」
自然、其の授業は俺の耳にも届いた。どうやら「ファウスト」についての解説らしい。という事は現代文の授業か。現代文の担当は、本来、里見健一だった筈だが、恐らく、行方を眩ました里見の代役として、村町先生が教壇に立っているのだろう。
「戯曲『ファウスト』は、著者ゲーテが二十代の頃に書き始め、一八三二年、彼が八十三歳で亡くなる迄、悠に六十年の歳月を掛け、つまりゲーテのほぼ全生涯を掛けて書かれた長編戯曲です。物語は二部構成ですが、授業では主として第一部を取り上げようと思います」
俺は仕事も忘れ、つい授業に聞き入った。
生徒達は皆神妙な顔で授業を受けている。未伽も、既に俺を見ていない。
村町先生の授業は続く。
「研究に明け暮れた人生を嘆き、ファウスト博士は自分の弟子ワグネルに教えます。如何に高名な書物を読み、知識を自分のものにしたと思えても、其れは所詮仮初めに過ぎず、自分の本心から湧き出でた歓喜でなければ、自分も他人も感動させる事は出来ない、と。此の、本心から湧き出でた歓喜こそ、ファスト博士の悲願であり、故に博士は悪魔に此の世の快楽悲哀、全ての体験を願うのです」
学の無い俺が聞くと、授業内容が些か難し過ぎる様に思う。が、生徒は誰もが真剣に、先生の講説を聞き漏らさず、黒板に書く文字を真っ白いノートに書き写している。ミッション系の御嬢様学校というものは、何処もこんな風に授業を進めるのか……驚きだ。
「『舞姫』からも読み取れる様に、鴎外は若い頃ドイツに留学していました。其の際、ゲーテの作品と出会います。甚く感動したのでしょう、鴎外はゲーテを日本に持ち帰ります。これもそう、『ファウスト』の翻訳は此の鴎外版が本邦初です。
作中、戯曲らしい大袈裟な台詞回しが多用される『ファウスト』ですけれど、其れも壮大な主題を考えれば妥当な手法だと判ります。そんな戯曲的演出を損なう事なく日本語訳に成功した鴎外は、流石と讃えられるべきでしょう。
これは個人的な話ですが、実は先生も皆さんくらいの頃に、此の鴎外版の『ファウスト』を読みました。もうスッカリ夢中になってしまって。矢張り、愛に因る救済、という主題にはときめきました。皆さんも是非これをよく読み込んで、いつか誰かを救う素敵な女性になって下さいね」
先生の言葉は耳に届いても、俺の頭脳では理解し難い。不良学生よろしく、俺の意識は次第に授業から離れ、美しいものを追った。
俺の目は磁力を得た様に未伽の方へと向かう。未伽は少女達の中にあって一際可憐だった。顔を上げて黒板を見る際、そっと髪を掻き上げる仕草など、言葉も出ない。
唯、単に上品、単に優雅というのではない。美しいは美しいのだが、其の少女らしい無邪気さと、女らしい秘めやかさの対照が、古めかしい木造校舎の教室の中にあって、殊更に関心をそそるのだ。
未伽はペンを走らせながら、時折瞳だけを動かし、窓外の俺を窺った。其の他、数人の生徒も俺の存在に気が付いた様だ。
俺はハッとした。これでは唯の授業参観だ。が、誰の保護者でもない俺は、此の儘だと不審者扱いを免れない。
其れに、此の儘サボっていては、お千代や兎からどんなお叱りを受けるか……。
俺はいそいそと肩を揺らし其の場を離れ、校庭へ向かった。其の姿は、我ながら、悪事を働いた者が慌てて逃げ出している様にしか見えなかった。




