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花の鳥籠  作者: 白基支子
10/23

聖女の初夜 肆

 其の日はもう遅いというので捜査はお開きとなり、探偵三人は各々の寝床へ引き上げる事に決まった。

 遅いと言っても未だ午後六時半を少し過ぎた程度、聞き込みだって何だって出来そうなものだが、お千代が言うには、「そろそろ寮の門限」だとかで、何をするにも明日の明るい内の方が宜しいとの事だった。

 学院の学生寮は門限七時とかなり早く、加えて監視も相当に厳しいらしい。其れは客人たるお千代達も例外でなく「午後七時以降の外出は原則禁止」と、村町先生に言い付けられていた。

 そんな訳から、お千代と兎は学生寮に(あて)がわれた部屋へ行き、俺は一人車に乗って、学院から遠く離れた宿を目指していた。

 暗い田舎道を、テントウムシのヘッドライトだけが照らす。走る車は此のテントウムシ一台ばかり、外灯も疎ら、人の気配もない。散在する民家も、窓に灯りこそ点いているが、ひっそりと物静かに、暗闇に身を沈めている。

 林並木の黒々とした枝下を潜ってようやく民宿に辿り着く。女学院から車で十五分。俺は田舎特有の広々とした駐車場(但し、車は一台も停まっていない)を見付け、其処にテントウムシを停めた。

 キーを外してエンジンを切る。と、人工音が全くなくなった。夜風に木々をざわめかす山は、覆い被さる影の様にそびえている。此処は本当に東京都なのだろうか?目の前の電信柱に記された住所を見ても、疑らずにいられない。

 車のトランクからボストンバッグを取り出し、民宿の玄関へ行く。宿の佇まいを言えば、二階建ての、そこそこ寂れた建物といった印象。白い壁の所々に亀裂が走り、屋根瓦も何枚か剥がれている。学生寮の方が数段も立派だった。

 男の我が身を恨めしく思う。と同時に、男だからこそ解せる女子寮への憧憬こそ、悔恨の根源である事も理解している。男だから女子寮には泊まれないが、男だからこそ女子寮に幻想を抱ける。しかしあんな事件があった後だ、夜の学院に男は置いておけないだろう。宿直ですら、今迄は男性教師の持ち回りだったものを、今は特例的に教頭と村町先生の二人で交互にこなし、夜の学院から極力男を遠ざけようとしているのだ。部外者の俺なぞ排斥されて当然。阿呆な思考は捨てて、俺はさっさと民宿の敷居を跨いだ。

 裸電球に煌々と照らされた玄関に人の姿はない。

「ご免下さーい」

 暖簾の向こうに従業員くらい詰めている筈と思って、フロントらしき窓口に声を掛けてみる。窓口には、古式ゆかしいピンク色の固定電話が据えてある。今時は滅多に見掛けない公衆電話だ。靴を脱いで玄関に上がり、其の電話の「十円玉入口」を見下ろす。

 と、フロントの奥、暖簾を潜る人影が視界の端に映り、俺は顔を上げた。

「……はい」

 従業員らしい、四、五十くらいの、厳めしい顔の男が出て来た……いやいや、此の接客態度は如何なものか。明らかに俺を邪険にしている。

「何でしょうか?」

 年上の男に睨まれると流石に萎縮してしまう。俺は冷や汗をかきつつ、

「あの、聖柳風女学院から連絡がなかったでしょうか?自分はこういう者なんですが……」

 ボストンバッグを床に置き、懐から探偵免許証を取り出す。男は睨んだ儘、何度も免許証と俺とを見比べ、其れから急に声音を変えた。

「あぁ、探偵の方でしたか!これはとんだ失礼を。学院から御連絡頂いております……えぇっと、御一人様、御宿泊という事で」

「え、えぇ、はい。此方に部屋を用意して頂けると、教えて頂きまして」

「其れはもう、準備は整っております。御案内しましょう。御荷物、お持ち致します」

 従業員は恭しく頭を下げ、窓口を出、俺のボストンバッグを拾い、「さぁ、此方です」と歩き出した。黙って其の背に附いて行く。

 二階に上が階段の途中、従業員はバツが悪そうに頭を掻き、こんな事を語った。

「先程は済みませんねぇ。あんな事件があった後でしょう?此の町の住民は今、外の人間に敏感になっちゃって。此の町は学院の為にあるみたいなもんでしてね。よそ者……殊、男には用心深いんです。ほら、彼処は女子校でしょう?しかも生徒さんは皆、良いところの御嬢様ときたもんだ。そんな生徒さんに、悪い虫を付ける訳にいきませんからねぇ。自然、用心深くなっちまったんですよ。いやホント、申し訳ない」

 俺は「はぁ」とか「へぇ」とか生返事していた。何だか、俺の中の男が縮こまってしまったのだ。

 女学院は内外から堅牢に守られている。少なくとも、此処で悪い事は出来ない……いや、最初から悪い事などする積もりはなかったけれど。

 俺は殊勝な気持ちを抱きつつ、案内された部屋へと入った。畳、襖、障子。柱も梁も木で出来た、所謂民宿の体だが、テレビだけは最新式の、壁に貼る物で、後は金庫と、部屋の真ん中に炬燵がある、其れだけの小さな部屋だった。

「御食事は済まされましたか?」

 ボストンバッグを下ろしつつ従業員が訊く。俺は「いいえ」と応えた。

「では直ぐ準備致します。どうぞお寛ぎ下さい」

 男は炬燵の上に部屋の鍵を置き、頭を下げた儘部屋を出て行った。

 一人切りの部屋。俺はコートを脱ぎ、荷解きを始めた。大した荷物もない。数日分の服と、少しの日用品を出してしまえば、バッグは殆ど空だ。

 俺はコートの内ポケットから「ファウスト」を取り出し、其れから炬燵の電源を入れた。座椅子に座り、炬燵に足を差し入れ、文庫本を広げる。

 ゲーテ著、森鴎外訳、戯曲「ファウスト」。

 表題(タイトル)くらいは聞き覚えがある。が、内容についてはまるで知らない。里見健一……第一容疑者の持ち物なら、何か、捜査の役に立つかも知らんが、今から此の分厚い本を読破する気にもならない。

 お千代や兎なんかは読んだ事がありそうだ。

 炬燵のお陰で足がじんわり温かく、油断すると此の儘眠りそうになる。俺は気を引き締め、お千代に連絡を取ろうと思い、携帯電話の待受画面を見、愕然とした。

 此処、電波入ってない……。

 そんな場所がよもや東京にあろうとは、想像もしていなかった。フロントの公衆電話は其の為か。今更気付いても手後れで、一気に手持ち無沙汰となり、本のページを、パラパラと、何と無し捲っていく。

 目に付くのは矢張りあの一文――


 人は務めている間は、迷うに極まったものだからな


 ――態々、マーカーを引いた此の文が目に留まる。

 更に本のページを繰っていくと、奇妙な発見をした。此の一文と同様に、蛍光黄色の引かれた文章が他にも見受けられたのだ。

 ページも飛び飛び、マーカーの引き方にもこれといった法則性はない。が、黄色く塗られた文章は、他にも認められる。又、マーカーだけでなく、「+226」といった様な数字が幾つか書き込まれたページもある。

 これは明日、お千代に報告しなければ。

 俺は本を閉じ、炬燵の上のリモコンを手に取ってテレビの電源を点けた。矢張り映る放送局が少ない。

 こんな部屋、こんな場所で数日、しかも夜一人で過ごさなければならないのか。

 ……やっぱり、俺も女子寮に泊まりたかったな……。

 山菜をふんだんに使った夕飯を平らげ、民宿の共用風呂を浴びてしまえば、後は何にもやる事がない。俺は普段よりかなり早く蒲団へ入り、寝付いてしまった。


 十二月二十日、木曜日。

 目覚めてみれば霜冷えのする朝。眠たい目を擦り、身体を起こすと寒さが身に沁みた。震える身体を擦り、急いで炬燵の中に這入り込む。暫くすると、昨晩の男性従業員が朝食を部屋迄運んで来た。結露した窓の表面に滴る雫と、朝霧に煙る山々をぼんやり眺めながら、朝食を済ます。

 顔を洗い、着替えを済ませ、コートを羽織って、民宿を出る。

 時刻は午前七時前。車のシートに身を沈め、俺はエンジンを起動させた。思いの外スッキリとした目覚め。早寝早起きも偶には悪くない。呼吸器官が洗われる様な、澄んだ田舎の空気も。

 俺は車を走らせた。今日も快晴。枯れ枝の上には気持ちの良い空が広がっている。

 ……と、民宿を離れ、順調に学院への道をひた走っている途中、不意に俺の携帯電話が震えた。

 徐行し、路肩に車を寄せる。一応、車道の安全確認は怠らないけれど、しかし朝だというのにすれ違うのはジョギングをする人くらいで、車は一台も通らない。

 水の涸れた田んぼの傍に車を停める。と、丁度ハンドルの手前に携帯の画面が現れた。立体映像に近いが、厳密に言うとこれは網膜に直接投影した映像で、登録者である俺にしか見えていない。探偵は機密を取り扱う事も多いので、此の機能は重宝している。

 此処迄来れば電波も入るのか、携帯のアンテナが立っている。民宿付近だけ電波が入らないとは、不便だな。

 ふぅ、短く息を吐き、「新着メール」を展開するよう念じる……メールの差出人は「お千代」、受信時刻は昨晩。メールを開くと同時、あの艶やかな声が頭の中に響く。

「私だ。明日の予定だが、先ず七時くらいに正門前に来給え。其れから朝のミーティングだ。学院内部での聞き込みが主体となる分、授業中は調査し難くなるから、時間は有効活用していこう。今日は早く寝て、明日遅刻しないよう備え給え。以上……お休み」

 ボイスメールを聞き終えると、画面には「此のメールに返信しますか?」と出る。俺は現在時刻を確認し、即座に「いいえ」を選択した。

 メールを返している暇はない。

 車のハンドルを切る。アクセルを踏んで、真っ直ぐ学院を目指す。

 危なかった。既に七時を回っているが、此の分なら、遅刻は逃れられないにしても、何とか五分十分の内で済む。

 フロント硝子の向こうに葉の落ちた桜並木と、其の先の正門が見えて来る。門の前には不貞腐れ顔の真っ白い少女が一人立っていた。少女は赤色テントウムシが来るのを確認すると、キャスケット帽の下から、赤瞳で以て睨んだ。

「遅いです。所長からのメールを聞かなかったんですか?」

 俺が車を降りると、挨拶代わりに兎のお叱りを受けた。何だか兎には怒られてばかりだ。

「ゴメンゴメン。でも、俺にも事情があったんだよ」

 まさか、携帯の電波が届かない場所に宿があるとは、思いもしなかった。これは嘘ではない。が、兎の白い頬が寒さで赤らんでいるのを見ると、罪悪感がチクリと胸を刺し、言い訳も憚られた。

「……行きますよ、先輩。食堂で所長も待ってます」

「おう」

 兎は踵を返し、正門を潜った。白いダッフルコートに身を包んだ兎を見ていると、名は体を表す、なんて諺を実感する。これを伝えたら、兎に又怒られてしまうだろうか?

 俺は黙って歩を進めた。

 木造校舎は朝日に照らされ、窓硝子が白く輝いている。校舎前に湛えられた噴水の水面と聖母像も、清らかな光に浴して、一際神聖に見える。

 コートのポケットに手を差し入れ歩く。吐息は白く、真冬の朝の寒さに耳が痛い。が、霜の降りる寒さにも耐え、学院の生徒達は竹箒を手に手に、清掃活動に従事していた。お揃いの黒いPコートを着込んだ少女達は、シャッ、シャッ、と、竹箒で落葉を掻き集めながらも、俺と兎が傍を通れば必ず「お早う御座います」と微笑み、御辞儀した。

 まるで白黒映画だ。冬の朝は白く、少女達のコートは黒い。そんな中、兎の瞳の赤いのが際立ち、美しいと感じるより先に、気高く見えた。

 冷気を切り裂く様に、兎の赤瞳は鋭く動き、御辞儀する生徒達を一瞥していく。警戒している瞳だ。兎は無愛想に歩を進めた。棘々しい態度は自己保身の裏返し。俺は兎の綺麗な横顔を盗み見ながら、隣を歩いた。

 目的地は学生寮の直ぐ傍にあった。食堂は、外観こそ長屋造りの木造家屋であったが、内装は実に近代的で、清潔な美術館めいた様相だった。

 曇り硝子に白抜きの十字架が描かれた玄関を抜ければ、キチンキチンと並べられた白い長机の列が続く大広間に入る。壁は一面硝子張りで公園の木々が臨め、日がよく差し込み、白い室内を照らしている。天井には、豆電球の周りを何枚もの鏡で取り囲んだ照明が九個、吊り下がっている。

 そんな食堂の真ん中に、襟と胸のリボンだけが白い黒のワンピースを着て、黒いタイツを履いたお千代が座っていた。お千代は俺達を見付けると、直ぐ微笑を浮かべた。

「お疲れ様、兎。どうやら、遅刻してきたみたいだね」

「そうなんです。昨日所長が送ったメール、聞いてなかったみたいですよ」

 兎がお千代の隣に腰を下ろし、コートを脱ぐ。兎はコートの下に灰色ローゲージの肩出しニットを着込み、デニムのショートパンツを履いている。

 二人の服装、取り分け二人の細長い足に目を奪われつつお千代の正面に腰掛ける。

「いや、遅刻したのは確かだけど、コッチにも其れなりの事情があってさ」

 民宿に携帯の電波が入らない事に加え、今朝此処に来る車内で始めてメールを受信した事を俺は説明し、其れらに付け加えて、弁明の積もりで昨晩の発見も語った。

「ほら此処。此処にも。此の『ファウスト』の中で、此処も黄色いマーカーが引かれてあるだろ」

「ふむ……」

 里見健一の所有物、戯曲「ファウスト」を探偵三人が覗き込む。お千代は俺が指差すマーカーの引かれた文章を見、腕を組んだ。

「成程、成程。興味深い。一体、どんな積もりで里見はこんな事を……君」

「はいはい」

 俺は顔を上げ、お千代を見た。思索に耽る金瞳は又格別に美しい。

「これは未だ君が持ってい給え。其れと、時間のある時で構わないから、此の、黄色く塗られた文章を纏めて、書き出しておいて欲しい」

「了解」

 頷く。と、お千代は「ファウスト」を閉じてから、コホン、咳払いを挟んで、

「其れでは今朝の本題に入ろうか。先ず、君達には役割分担をさせようと思ってね」

「役割分担ですか?」

 兎が口を挟む。其の赤瞳は不安に揺らいでいる。俺にも、お千代の言わんとしている事は判る。其れは確かに兎の不安を煽るものだ。

 お千代は兎を見た儘頷いた。

「そう、役割分担。此の学院は広い。生徒の数も多い。対して我々はたった三人。此度の問題は此処にある。これで警察の手を借りられるのなら、人海戦術式に事を運べるのだけれど、何しろ生徒達が警察を排除してしまったのだから、望むべくもない。

 加えて、我々探偵だけでは、本格式の科学捜査も適わない。警察の援助を一切期待出来ないというのは、かなりの痛手だ。こうなると、事件は無駄に難しくなり、手立てもかなり限られてくる。其の手立ての一つにして、当初からの目的こそ、聞き込みだ。

 が、二百近い生徒相手に、我々三人が一つに固まっては非効率というもの。三人が別々の場所を調査する方が遙かに合理的、其れで役割分担だ。

 とは言っても、まさか授業中の教室に侵入する訳にもいくまい。だから君は体育の授業を受けている生徒を狙い給え。グラウンドや体育館を縄張りにすると良い。休み時間も其の儘外にいる生徒に聞き込むんだ。兎は校舎内の特別教室を、具体的には被服室、調理実習室、理科室に加えて、保健室辺りが狙い目かな。休み時間には教室にも入って平気な筈だ。私は職員室や、竜胆の勤めていた教会の方面を当たるから……」

「ちょ、一寸待って下さい」

 兎はお千代の言葉を慌てて遮り、

「待って下さい、お姉様。あたし、未だ、聞き込みとかそういうのは、一人では難しくて」

 と、言葉を濁して俯いた。

 兎の言わんとしている不安は判る。三人別々に行動するとなれば、つまり、兎は一人で動き回らなければいけなくなる。其れは兎にとって、何より辛い事だろう。

 兎は其の真っ白い髪や、真っ赤な瞳を他人に見られる事を、何より嫌うのだ。

 俺やお千代がいる手前ならば未だ気を張れるけれど、一人切りとなればそうはいかない。そうなれば、兎は自身のトラウマに怯えなければならなくなる。

 しかし……いいや、此処は俺の出る幕では無い。今は唯、お千代に任せよう。

「兎、君の恐怖は判る……けどね」

 優しく優しく、そっと、お千代は兎の頬ぺたに触れる。

「兎。今、君のいる世界は、あの華々しい花柳界、吉原遊郭ではもうないんだ。我々が身をやつすは、寄る辺無き浮世、情け容赦の無い娑婆界さ。だが、そんな冷たい世界に立って、兎は見事免許を取り、正式な探偵になったじゃないか。今ではウチの立派な新人所員だ。新人だから失敗をしても良い。玄人だって失敗はする。けれど、新人玄人関係なく、仕事だけはやり切り給え……兎なら出来る筈だよ?」

 母性に充ち満ちた声は、諭すのではなく、促すように語り掛ける。兎は面映ゆいのか頬を赤くして、コクリと、小さく頷いた。

「……頑張ってみます」

「よしよし、良い子だ」

 お千代はキャスケット帽越しに、兎の頭をグイグイと撫でた。其れから、横道にずれた話の修正に掛かる。

「っとと、何処迄話したか……そうそう、役割分担の話だった。まぁ、兎も訓練だと思って、肩に力を入れず調査してみ給え。兎は生徒達と年も近いから、色々と聞き出し易い筈だ。で、君だが……」

 金瞳が俺を捉える。さて、俺にはどんなアドバイスがあるのやら、秘かに期待する。

 が、其の期待に反して、お千代は怪訝に俺を見据え、

「君は、うん、適当に、昨日のノリで頑張ってみ給え。好きなだけ少女達を口説き給え。一昨日教えた通り、此処は恥ずかしがり屋の乙女ばかり、外から来た成人男性に口を利ける者は数少ないが、まぁ、君の容貌と言動ならば、案外巧くいくかも知らんよ」

 と言い捨てた。

「……お千代さん、何か怒ってません?」

「別に」

 お千代がふいと顔を背ける。其の理由が判らず、俺は焦ってしまう。

 ……よく判らないが、此処は謝罪すべきか、其れとも取り繕うべきか……。

 女々しい二択に俺が悩む間にも、お千代は小さく手を叩いて、

「では、そろそろ仕事を始めよう。再集合は午後一時、此の食堂。其処で一旦状況報告。以上、解散」

 号令と共にお千代が立ち上がり、兎も続く。悩む俺は出遅れ、お千代と兎の玄関へ向かう背中を見、慌てて席を立ち上がった。

 食堂を出た後も、俺は中庭に続く煉瓦道を歩きながら、猶も考えあぐねた。お千代は不満を長引かせるタチではないから、いずれ時間が解決しれくれるだろうが、此処は何か、効果的な言葉で以て、お千代の不機嫌を払拭出来ないか、一考する。

「今日の服もよく似合っていて、今日も凄く美人だ」

 とか。

「昨日、俺が橘さんを美人と賛美したけれど、其れもお千代程じゃない。お千代程の美人なんて此の世にいない」

 だとか。

 ……考えるだけで莫迦莫迦しいと思う。そんな台詞を意識的に言えるのなら、俺はもう少しマシな男か、或いは完全な女の敵となっていただろう。第一、これでお千代の機嫌が直るとも思えない。

 が、お千代の不機嫌はどうにかしたい。これも惚れた弱みか。

 莫迦莫迦しい話術を駆使して、生徒から聞き込みをしろ、か……。

 口説いたトコロで、本当に成果が得られるのか、甚だ疑問ではある。が、他に方針も思い浮かばず、多少の心許なさを感じながらも、一先ず、うら若き乙女を口説いて、聞き込みの取っ掛かりとする事を決意した。

 煉瓦道を行く。カツカツと響く足音が小気味好い。朝の清掃も終わった道上には、竹箒を持った生徒の姿も落葉も見えず、景色は清閑としていた。

 俺は口説くべき相手、即ち生徒を探して辺りを彷徨(さまよ)った。古めかしい木造校舎と、西洋風の外灯が並び立つ煉瓦道は、格式と気品を備えている。浮世離れした学舎は、確かに、少女達にこそ似合う。男の俺は疎外感に身を竦めながら、校舎へ戻る道すがら中庭に足を踏み入れた。

 中央に聖母像の建つ庭園。季節柄、生け垣や花壇には花一輪もなく、アーチを伝う蔦の色も褪せている。冬景色の中庭、其の隅に設けられたベンチに、少女三人が座っていた。始業前、彼女達は上品に囁き合い、会話に花を咲かせている。

 彼女達を手始めにしよう。俺はベンチへと近付いた。傍目にはナンパと映るだろう。が、勘違いは止して貰いたい。これはれっきとした仕事である。

 そう自分に言い聞かせつつ、成る丈自然に微笑を浮かべる。

「やぁ、お早う」

「お早う御座います」

 女生徒三人は会話を止め、微笑みと挨拶とを返してくれた。充分な警戒心の覗く微笑を。其れも致し方ない。

「良い朝だね。こんなに晴れて……寒いけど。其れにしても、此の学院の朝は早い。あんな早朝から箒を持って掃除だなんて、大変じゃない?」

「いいえ。もう慣れました」

「そっか。偉いね」

 俺がニカッと笑ってみせれば、生徒達は互いに耳打ちし合った。俺はもう心が折れそうだった。いけない、これも仕事だ。兎だって頑張っているんだ。先輩として、俺がめげている訳にもいかない。

 ……しかし、これは、不審者扱いされていないだろうか?

 危ぶんだ俺は、急いで探偵免許証を取り出し、生徒達に示した。

「あのさ、実は俺、こういう者なんだけど、探偵が此の学院に来てるって聞いてない?」

「はい。担任から聞きました。其れと友達にも。ね?」

 ベンチの真ん中に座る生徒が同意を求めれば、

「うん」

「クラスで噂になってました」

 少女三人は頷き合い、俺を見上げた。

 お揃いの黒いPコート、黒髪と澄んだ琥珀色の瞳、色の違うマフラー。

「じゃあ話が早い。いやゴメン、会話に割り込んで。俺も未だ此の学院に来たばかりで、色々と不慣れなもんで……其れに女子校に来るのも初めてだから、どうしたら良いか判らなかったんだけど、そんな時に、此処で君達を見掛けたものだから」

 台詞回しだけ取り上げれば、完璧にナンパの常套句だ。これを聞くと、少女達は一瞬ポカンとした後、クスクスと小さく笑い、黒タイツの足を組み替えたりした。

 目のやり場に困った俺は、取り敢えず頬を掻いた。

「其れで、少し話を聞かせて貰いたいんだけど、良いかな?」

「はい。少しだけなら、大丈夫です」

 真ん中に座る少女がそう言うと、他の二人も頷く。お千代の助言が巧く作用したのかどうか、判らないが、話はして貰えるらしい。俺の口から漏れた安堵とも脱力とも言えない息が、白い雲となって寒空へ舞い上がった。

 手当たり次第に聞き込みをする以外に捜査方針のない現在、猶悪い事に捜査員がたった三人では、俺とて相当な人数をこなさねばならず、必定、一回の聞き込みあたり長い時間は掛けられない。俺は早速本題に入った。

「行方不明になってる里見先生について、訊きたいんだけど……里見健一先生ね。何か知らない?行きそうな場所とか、最近の行動とか悩みとか、性格とか。何でもいいんだ。教えてくれたら助かるんだけどな」

「済みません、判らないんです。授業での先生しか知らないので、行き先とか、悩みなんかはちょっと」

 真ん中の少女はそう応えながらマフラーを外した。黒いセーラー服の襟元から白い肌が覗く。首元に薄く張った鎖骨をつい見てしまう。俺は慌てて目線を逸らした。

「でも、里見先生の性格なら。気の弱い先生でした」

「気が弱いっていうより、凄く優しかったんです」

 と、これは向かって左の生徒が応えた。

「怒ってるところなんか見た事ありません。いつも優しく笑ってる先生でした。とっても教え上手で……私は里見先生の授業好きだったのに……」

「里見先生は綺麗な顔をしていたから、人気があったんです」

 今度は向かって右の生徒が応える。其の長い髪を耳に掛けながら……此の子は耳の下に小さな黒子(ほくろ)があるのか……。

 又だ。何を見ている。仕事中じゃないか。俺は己の視線を戒め、確認の為に証言を繰り返した。

「つまり里見先生は優しくて、教え方も上手で、物静かな人だった、と」

「はい。だから、里見先生が行方不明になって、しかも今度の事件に関係あるって聞いて、皆吃驚してるんです」

 事件の噂はスッカリ広まっているらしい。供述の内容にしても、お千代が葵から聞き出したものの方が詳しい。ならば、葵が言い淀んだ質問をしてみたら此の子達はどう応えるか、俄然興味が湧いた。

「そっか。じゃあ質問を変えるんだけど、最近、此の学院の中でトラブルとかなかったかな?事故とか事件とか、生徒間の事でも構わないんだけど」

「えっと」

 反応は葵より顕著だった。此の質問を聞くと、三人はベンチに座った儘互いに身を寄せ合い、揃って困った様な苦笑を浮かべてみせた。

「どうでしょう……そういう事故とかは聞いた事ないです。ね?」

「うん、知らない」

「私も」

 少女達は口振りも揃えた。仮面の笑顔を貼り付けて。影のある秘密を其の下に潜ませた作り笑顔。此の子達は、学生の身分で、もうこんな風に笑えるのか。

「そっか……」

 俺はこう応える他なかった。無理に訊いても、意固地になるばかりで、甲斐はない。これはそういう類の笑顔だ。

 そうして少女達に礼を言い、俺はベンチから離れた。

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