青の一族ザラストブルー
(1)島崎孝介
これが俺のいた世界なのか…。朝の通勤ラッシュ帯の満員電車の中で、島崎孝介は一人物思いに耽る。季節は春。ちょうど梅の咲き始める時期だ。ホトトギスが蜜を求めに梅の花にやってくる姿を見ると春の訪れを感じる。電車の中には二つの勢力がある。朝夜の多少の寒さをものともせず、昼の暑さ対策に重きを置く白シャツサラリーマンと、朝夜の多少の寒さを気にする黒ジャケットサラリーマンだ。そんな中で違う世界の住人として目立ちたいというちょっとした自意識で、孝介は、真っ赤なトレーナーにジーンズ姿の格好で家を出た。梅の季節感とマッチしているのは俺だけだぜ!というかすかな優越感に浸る。しかし、オーマイゴッド!こんな時に限って俺の隣に赤ジャケットを羽織った、サラリーマンらしき人物がいるじゃないか。赤渕の眼鏡をかけ、スマートフォンで日経電子版を読んでいる。どこかのベンチャー企業のイカした企業戦士なのだろうか。彼は恐らく俺にはないもの、つまり名誉も金も持っているんだろう…。孝介は自分を憐み一瞬落胆したが、まあ人生こんなものだろうと言い聞かせる。ゴミ箱に丸めた紙を入れようとしてもなかなか入らないが、無意識に投げたらいつの間にかゴミ箱に入っている。うん!そんなものだ。
「おいコラァ、ぶつかってくんじゃねえよ」
少し離れた所から声が聞こえてくる。若干強面のサラリーマンらしき人物が、ひ弱そうなサラリーマンに暴言を吐き、軽く睨みつける。ひ弱そうなサラリーマンは、怒りと不満を必死にこらえながら何度もすみませんと言う。俺も十五年のサラリーマン生活の中で、何度かこのひ弱そうなサラリーマンと同じ状況に立たされたなあ…。お前がふざけるな!とは言いたくても言えず、心の中でだけ百回暴言を吐いていたっけなあ。
言いたいことは言えず、不満と不理解で埋め尽くされた人生。それはまさに俺の人生そのものだ。妻との関係はもう何年も前から冷え切っていたが、俺のリストラを機に離婚届を突き付けられた。リストラはあくまできっかけに過ぎず、本当の離婚の原因は、不満と不理解の積み重ねだ。離婚とリストラである意味気楽なおひとり様人生を送れると思いきや、実際は違った。子供の養育費は毎月請求されるし、再就職先は見つからないし、親からは色んなことを言われる…。以前より一層締め付けが激しくなった感じだ。唯一の救いはまだ貯蓄がある程度あるということだ。こんなところで自分の貯蓄癖が生きるとは思わなかった。今すぐに仕事を見つける必要はないので、週三くらいでアルバイトでもして、しばらくはダラダラ生きようかと思っている。今日は、隣町に新しくできたコンサートホールの、新規アルバイト採用面接に向かっている途中なのだ。
「もうちょっと音のボリューム下げて。うるさいっていうのがわからないかなあ」
今度は優先席付近にいた中年の男性が、若い女性に注意する。
「うっせーよオヤジ!」
その瞬間、付近にいた人全員の視線が二人に向く。
「なんでこういう駄目な人が増えちゃったのかなあ。ここは電車、しかも優先席付近なんだよ。少しは気を使いなさい。今すぐにそのスマートホォンの電源を切って、カバンの中にしまいなさい!」
「偉そうなこと言ってんじゃねえよ!優先席付近がどうのこうのとか言ってっけど、お前携帯どうしてんだよ、ちゃんと電源切ってんのか?」
思わぬ反撃に、ヒートアップしかけた男性のテンションは気まずさに変わってゆく。一方、女性の逆上っぷりは止まらない。
「おいコラァ、携帯出してみろよ。出せないっていうことは電源ちゃんと切ってないんじゃないの?」
男性は無視を決め込んだようだ。体裁を取り繕うために時々首を傾げたりする。
「携帯出せよ。おい!」
この後暫く、女性の逆切れは続いた。誰もが男性の不運な様に同情した。それにしても怖い女もいるものだ。何気なく左隣をみると、先ほどの赤ジャケットの男と目が合う。最初は、言い掛かりをつけられている、優先席付近の男性に対する共感の眼差しであったが、次の瞬間には、俺に対する卑下の視線へと変わっていた。まあ、しょうがない。俺は落ちるとこまで落ちてるんだ。どう見られようが構わない。
気づくと電車は目的地へ着いていた。孝介は慌てて降りる。ぼーっと駅のホームを歩いていると、前から歩いてきた人と肩がぶつかる。いかつい男が声を荒げる。
「どこ見て歩いてんだ!」
「すっ、すいません」
やっぱり人は変わらないなあ、と思わず笑ってしまう。うん、まあいいや。
改札を出ると、春の日差しが心地よく感じられる。そういえば、働いているときは毎日暗い顔して下向きながら歩いていたっけ…。太陽の温もりなんて意識することがなかったなあ…。今の自分の状態は果たして堕落なのか?それとも回復なのか?
面接会場に向かって歩いていると、南北大学の正門が見えてきた。南北大学と言えば、結構頭のいい私立大じゃあないか。尤も俺の卒業した東西大学の方が少しレベルは高いけどな、と密かに優越感を味わう。有名な大学を出て、有名な大企業に入り、エリートサラリーマン街道を突っ走っていたのになあ…。いつから転落が始まったんだろう。いや、最初から本質的には転落の道をたどっていたのかもしれない。顕在化したのが最近、ということだけなのかもしれない。
十分くらい歩くと、アルバイトの面接会場についた。待機部屋に通される。席に座ると、隣に座っていた若い女性が、ものすごく緊張しているようなそぶりを見せる。顔は下を向き、足は小刻みに震えている。その上、肌の色はかなり白く、相当痩せている。この子大丈夫か?下手に話しかけて、中年オヤジが若い子をナンパしていると思われるのも嫌だしなあ…。俺はどうも若者は苦手だ。会社にいた時も、部署にいる若い子にどう接していいのか結局最後までわからなかった。厳しく接するとすぐに不機嫌になるし、丁寧にやさしく接したら接したで、無理して頑張らなくていいですよと言われる始末。結論=自分は人の気持ちをくみ取れないダメ人間。まあ、そんな感じでいいや。
「お姉さん顔色悪いけど大丈夫?」
突然話しかけられてびっくりした様子の女性が、目を泳がせながら答える。
「あっ、いやー、なんかそのものすごく緊張しちゃって…」
「大丈夫だよ。おじさんなんかリストラされちゃってさ、その後二十社くらい面接受けたけど、一社も受からない状況。いわゆるダメ人間ってやつだよ。俺なんかに比べれば、もう君なんか最高だよ」
「えっ、二十社も落ちたんですか!そんな厳しい世界だなんて…。それじゃあ私なんかが受かるはずないです…」
ネガティブ!励まそうとして言ったことが裏目に出てしまったかあ。やっぱり若い子は苦手だ。
「まっ、まあ、お互い頑張りましょう」
(2)青山航
朝の日の出とともに青山航は目を覚ました。春とはいえ、ここは標高二千メートルの地点なのでまだ寒い。溜めておいた雪解け水で軽く顔を洗い、暖炉に新たなまきをくべる。暖炉の右上の所に、薬缶や鍋を置いたりして暖かいものを調理できるスペースがある。航は、昨日の夜食べきれなかった鴨肉のスープが入った鍋を置き、温まるのを待つ。
航が住んでいるのは、標高二千メートル級の山々がそびえ立つ山岳地帯のとある集落だ。集落と言っても五年前に祖母が死んだので、現在この集落に住んでいるのは航一人だけだ。航は、“青の一族”の最後の生き残りであった。
鍋がぐつぐつ音を立て始めたので暖炉から遠ざけ、お椀によそる。暖かくてうまみのきいたスープが、一時の幸福感をもたらす。ふと外を見ると、狼のレンが、凛々しさとかわいらしさを同居させた表情でのっさりと座っている。愛くるしいのだが、威厳がある、まさに狼だ。レンが何かを知らせたいような表情をしている。あっ、そうだ!今日は僕の二十歳の誕生日だ。
二十歳になったら見てよいと言われていた手紙を、ここから三キロほど離れた祭壇に取りに行かなくては。スープを飲み干して外に出ると、レンも立ち上がる。レンはいわゆる一匹狼で、気が向いたときに航のもとへやってくる。体長は一メートルくらい、体重は五十キロほどだ。運動能力が特に優れていて、時速四十キロで二十分も走り続けることができる。また、三メートルの壁を悠々と飛び越えてしまうほどのジャンプ力も持っている。今日はレンと祭壇まで競争だ。レンは航に合わせてゆったり走ってくれるのだが、それでもついていくのは至難の業だ。もっとも航も普通の人間に比べれば、相当ハイレベルな身体能力の持ち主であるのだが…。
祭壇といっても、生贄を神にささげるような場のことではなく、昔から人々が集まって重大な物事を決める際に使う場所であった。三メートル四方の石造りの建物の中に入る。伝達関係の書類が入っている引き出しは確かここだっけ。航は不思議な形をしたネックレスで鍵を開け、手紙を探す。おっ、あったあった!
~拝啓 航へ~
この手紙を読んでいるということは、航は二十歳になったということですね。知っての通り、我々青の一族は、その特殊な能力ゆえに時代の荒波に翻弄されてきました。人数は徐々に減り、五十年前の謎の伝染病により、ほとんどの者が死んでしまいました。我々は、他人を治すことはできても自分を治すことはできないのかもしれません。そして今は、あなたが唯一の生き残りです。このまま一人で村に留まることもできますがどうでしょう。外の世界へ旅立ち、普通の人の中でひっそりと暮らすことを勧めます。不安なことだらけかもしれませんが私はいつも天国から航を見守っています。以下で、外の世界でよく使われる単語を、十五年前にたまたま我々の集落に迷い込んだ人間の話をもとに書いておきます。
用語一覧
お金…人々の欲望を駆り立てる物と物との媒介物
銀行…お金を牛耳る悪徳業者
ビル(ビルディング)…縦長の母屋。外の人は、アメリカと呼ばれるさらに外の人々の言葉をカタカナで表記して使う。
車…狼の二倍ほどの速さの出る人工的な乗り物
電車…大量の人がぎゅうぎゅうづめになって仲良く乗る大型の乗り物
サラリーマン…家族のため国のために自分を犠牲にして狂信的に働く人々
警察…悪を取り締まる正義の味方
美人…女性に対して言うと喜ばれる単語
お世辞…そうではないのにそうであるかのように褒め称えること
科学技術…人の命を犠牲にして人類が手に入れた、神にも迫る能力
ビール…黄金色に輝く酒の一種。ビルとは関係ない。
政治家…国の政を司る、偉そうな態度が目立つ国民の代表
ナイフ…短刀をアメリカの言葉で表現した日本語
…
これらの単語はよく使うのでしっかりと覚えて行ってね。外の世界の人々は様々な心の面を持っています。優しい部分もあれば、当然我々と同じように、憎しみ、怒り、そして凶悪な部分を持っています。戦国時代では戦といったけど、現代でも、人と人とが理不尽に殺し合う戦争というものを行ったりしています。日本という国はもうしばらく戦争をしていないけど、殺人事件はよく発生しています。外の人の悪い部分ばかりが見えてしまっても嘆かないでね。人は、お互いに理解したいと思いつつも、いつの間にか不理解や誤解を生みだしてしまうものです。航らしさを大切にしつつ、よく考え、しかし時には大胆に行動し、外の世界で絆を作ってきてください。最後になったけど、最後まで私の人生を楽しませてくれてありがとう。航は一族の中でも特に能力が高いし、何より暖かい心を持った人間だと思います。私の自慢の孫です。さあ、外の世界へ行ってらっしゃい! ~静子より~
航は微笑みながら涙をこぼす。おばあちゃんありがとう、明日山を下ります。その日航は、手拭い、ナイフ、お守りなどの必需品を集め荷造りする。その後お墓の掃除や村の整備を行い、早めに床に就いた。航がすっかり眠りついた後、一羽の鷲が、青の一族の集落のすぐ近くの木から飛び立った。
(3)板ノ倉加奈
「お嬢様、ここのところ医者へ通う必要もなくなり、体調もかなり良くなってきているようなので、外の世界へ定期的に出てみませんか?加奈ちゃんももうすぐ二十歳ですし、今後どのように生きていくかも真剣に考えなければなりません」
執事の中村が提案する。
板ノ倉加奈はいわゆるお嬢様だ。父親は日本一の規模を誇るしののめ銀行の会長で、祖父は衆議院議員の板ノ倉退助だ。家の敷地は東京ドーム四個分くらいの広さだ。加奈自身については小さい頃からとにかく病弱で、小中学校時代はしょっちゅう学校を休んでいた。十五歳になるとその病弱ぶりはさらに悪化し、病院への入退院を繰り返すようになった。高校へは行かずに家庭教師を雇って勉強していた。十八歳ごろから徐々に体調はよくなり始め、今では毎日外へ出てもよいのではないかというくらいにまで回復したのだった。
「でも中村さん、いったい何をすればよいのか分かりません。それに、外に出るのがとても怖いです…」
加奈が不安そうな表情で呟く。
「確かに不安ですよね。でも物事は最初の一歩を踏み出さなければ一向に前には進めません。取り敢えずは毎日散歩でもして体力をつけましょう。」
翌日加奈は久しぶりに外に出た。白いブラウスに青のジーンズ、白いスニーカーというラフな服装だ。普通の人には程よく感じられる日差しも、加奈にとっては夜の車のライトのようにまぶしく感じられた。狭い道をしばらく歩いていると、前方から柴犬を連れた老婆がやってきた。犬!加奈は犬が苦手だったのだ。しばらく外に出ていなかったので、犬が苦手ということすら忘れていた。近づくにつれ心拍数が高くなる。端の方を恐る恐る歩く。すれ違う瞬間犬が突然吠えた。
「キャッ」加奈はびっくりして倒れてしまう。その様子に老婆の方もかなりびっくりしたらしく、何度も謝りながら手綱を引き締めて通り過ぎていく。加奈はしばし座り込んだ後再び歩き始める。あー、これだから外は苦手だ。
ウォーキングの距離を徐々に長くし、一週間散歩を続けると、少しは体力も回復してきた。すかさず中村が次の提案をする。
「加奈ちゃん、次はアルバイトをやってみましょう!お金を稼ぐ経験をしてみましょう。週三日以内が望ましいですね。いきなりあくせく働いたら過労で倒れちゃいますし。自分で気になるものを選択して応募してみましょう!」
「えっ、私なんか雇ってくれるところなんてあるでしょうか?」
加奈が不安げな表情で尋ねる。
「大丈夫、大丈夫。加奈ちゃん割とかわいいし」
加奈はネットで色々と検索してみた。ちょうど隣の駅から少し歩いた場所にコンサートホールが出来たらしく、新規のアルバイトスタッフを募集していた。病弱で家にいることが多かった加奈にとって音楽は友達だった。即決!加奈はこのアルバイトに応募することにした。
翌日、隣町へ行くために最寄り駅へ行く。駅のホームでいかつい顔をした男と肩がぶつかり、加奈は犬のときと同じように倒れこんでしまった。男は一瞬怒鳴ろうとしたが、女性を倒してしまった気まずさで、無言のまま立ち去ってしまった。もっと注意して歩かないと!加奈は、別段自分が悪いわけではないのに反省する。
ホームの列に並んでいると、反対側のホームで白い胴着のようなものを着た青年がうろうろしているのが妙に目につく。肌が若干青っぽい色をしているように見えるのは気のせいだろうか?突然青年が助走をつけ、こちら側のホームまでジャンプして跳んでくる。その瞬間、ホーム全体がざわつく。ホーム間の距離は八メートル以上あるように見える。何者?動画投稿のための撮影でもしているんだろうか?
電車に乗り隣の駅に着くと、あまりの衝撃で忘れていた、緊張という感情が再びよみがえる。そういえば私はアルバイトの面接に行く途中なのであった。道を歩いていると南北大学正門が見えてきた。私もキャンパスライフを送ってみたいなあ…。数秒の間、緊張とは違う感情で心が埋まる。
突然、南北大学競走部のゼッケンをつけた、黒人男性が加奈の横を通り過ぎる。わー、速いなあ。足も長くて、走り方もきれいだなあ…。ケニア人の交換留学生だろうか…。
コンサートホールに着くと、新規の大量応募とあって人がたくさんいた。待機部屋に入ると、誰も座っていない長椅子が一つ残っていたのでそこに座る。いよいよ緊張がピークに達してきた。その後男性が加奈の横に座り、少し経った後唐突に話しかけてきた。
「お姉さん、顔色悪いけど大丈夫?」
(4)高田早士芽
高田早士芽は今朝もいつも通りの赤いジャケットにピンクのパンツスーツ、赤のネクタイに赤渕の眼鏡をかけて家を出る。もう三十五歳にもなってしまったのか。若い頃は一歩一歩が自信に満ち溢れた足取りだったのになあ。今では悲しげに一歩一歩を踏みしめる自分がいる。
電車に乗って少し経つと、少し離れたところから声が聞こえてくる。
「おいコラァ、ぶつかってくんじゃねえよ」
体がぶつかったとかぶつかってないとかいう事で、ストレスをためたサラリーマンがプッツンしてしまったんだろう。そういえば自分の人生、言いたいことを言いまくって、色々な人と対立し、大いなる名誉と地位は手に入れたけれども、たくさんの人との絆を失う人生だったなあ。テレビ局に入社してから、持ち前の行動力と発想力で次々に斬新な企画や映像を作成してきた。意見が食い違うものには徹底的に怒鳴りちらし、自分の意見を押し通してきた。いつの間にか敏腕プロデューサーと呼ばれるようになり、名誉をほしいままにしてきた。友達に会う度に自分の自慢話で自己陶酔し、何人もの女と寝て欲望の赴くままに生きてきた。しかし気づくと、心から信頼できるような人は誰一人としていなくなっていた。両親はすでに、共に他界し、友達もいなくなり恋人もいない。高田には、名誉という名の抜け殻がただ残っているだけであった。
また少しの間をおいて、今度は優先席付近で若い女と中年のサラリーマンらしき人物が言い争いを始めた。
あの女はただ単に自己中なだけなのかもしれないが、かなりユニークな人材であることには間違いない。あの女と悪徳詐欺集団を対決させる企画を作ったら、さぞかし面白い番組ができそうだ。高田はいつものようにあれこれと妄想する。彼にとっては一種の職業病のようなものだ。ふと隣を見ると、赤いトレーナーを着た中年の男と目が合った。最初は、女に責め立てられる男への同情を共有するかのような視線であったが、次の瞬間には私を敵対視するような眼差しに変わっていた。恐らく彼は失業中の身で、自分と違って金も名誉もないのだろう。しかし彼と目があったとき、自分にはないオーラのようなものを感じた。単なる思い込みであろうか?
会社の最寄り駅で、高田はいつものように人に押されながら下りた。ところがいつも通りではない出来事が目の前で起こった。高田の少し前にいた、白い胴着のような服を身に付けた青年が、少し助走をつけて向こうのホームまでジャンプしたのだ。八メートルくらいはあるんじゃないか?彼は果たして一般人なのか?あまりの衝撃にいつもより行動が遅れたが、高田は人ごみを無理矢理掻き分けて彼の後を追った。必死で追うものの途中で見失い、ひどく落胆する。まあしょうがない。彼のことはまた後日調べることにしよう。今は、あるボランティアに参加するための予習をしておかないと。
(5)出会い
加奈は、ものすごく疲れた表情で面接会場を後にした。緊張しすぎて、何を聞かれてどういう風に答えたのかほとんど覚えていないが、何とも言えない充実感を感じていた。南北大学正門の前を通ると、門の前に立っている男がポケットティッシュを渡してくる。加奈は断れずにもらってしまう。すると近くにいた他の配りアルバイトの人々も、立て続けに加奈にポケットティッシュを渡してくる。加奈は断り切れずにすべて貰ってしまう。あーあ、ずいぶんといらないものをもらっちゃったなあ…。
しばらく歩いていると、ハンバーグ専門店の看板が見えてきた。あっ、おいしそう!今日のお昼はハンバーグ食べよっと。チーズインハンバーグはついこの前専属シェフに作ってもらった関係で、加奈は和風ハンバーグを注文した。うーん!しそのいい香り!
少し食休みした後レジへ行った。相手がなかなかお金を要求しないので加奈は少し焦る。レジ係も何か焦っているようだ。
「伝票はお持ちですか?」
しびれを切らしたレジ係が、できるだけ穏やかな声で言う。
「デンピョウ?」
「あー、いやいや。私が取ってくるので少々お待ちください」
そういってレジ係は机から伝票を取ってきて会計をする。あー、そういうことか!とわかると同時に、恥ずかしさがこみ上げてきた。私って世間知らずだなあ…。
しばらくエキチカをぶらぶらしてウィンドウショッピングをした後、喫茶店に入った。今度こそ伝票を絶対忘れない!そう意気込んで店に入るも、食事前会計で早くも出鼻をくじかれる。さらには後ろの人が待っているというプレッシャーの中でゆっくりと商品を選べず、ダークモヒートソベリアンとかいうよく分からない飲み物を注文してしまった。
加奈は、落ち込みながら二階へ向かう。どこに座るかさんざん迷った挙句、二人席がいっぱいあいているにもかかわらず、一人席に座ることにした。ダークモヒートソベリアンを恐る恐る飲んでみたが、ミントの爽やかな香りと柑橘系の甘酸っぱい味が絶妙にマッチしていて意外とおいしかった。その後持ってきた小説を夢中で読み、いつの間にか時の経過を忘れてしまった。気づいたときには空は暗くなり始めていた。中村が心配するから早く帰らないと!
急いで駅まで歩き電車に乗った。帰宅ラッシュが始まっていたのでもみくちゃにされてしまった。とはいってもひと駅だけなのでそんなにストレスは溜まらない。最寄り駅で降りて家路を急ぐ。
公園を歩いていると、誰かが怒鳴っているような声が聞こえる。最初は迂回して別の方向から帰ろうと思ったが、声は一瞬しか聞こえなかったので、そのままの道を進んだ。ところが角を曲がった瞬間、非日常的な風景が飛び込んできた。男三人組に老婆がたかられ、金を要求されているところだった。確か、初日の散歩で通り過ぎたあの老婆だ!老婆の連れの柴犬は蹴られたらしくぐったりしていた。
「キャー」と叫んで加奈は転ぶ。
本日三回目の転倒だ。うん、二度あることは三度ある!
「おっとっと、かわいいお姉さんが乱入してきちゃったか。ちょうどいい。あんたからも金を巻き上げよう!さあ、金をよこしな」
「…」
加奈は恐怖で声を出せない。
「怖いのかい?僕らは優しい強盗だから大丈夫。素直にお金を出せばすぐに開放するよ。はっはっは」
加奈は何とか声を出す。
「じゅっ、十億円くらいだったらすぐに用意できます…」
「…」
今度はあまりの衝撃に強盗が声を出せなくなってしまった。しかし、少しの間をおいて一斉に笑い始めた。
孝介は面接会場を後にする。なんだかいろいろと同情されちゃったなあ。あの雰囲気は落とされた気がする。まあ、どうでもいいや!
突然、南北大学競走部のゼッケンをつけた黒人が孝介の横を通り過ぎていく。エリック…なんとか、って書いてあるな。うん、読めない。ケニアあたりからやってきた留学生だろうか。走り方がきれいだなあ。
再び南北大学正門の前に差し掛かった時、孝介はふと思いつく。そうだ!学食でお昼でも食べて行こう。まだ十二時を回っていなかったので、学食は割とすいていた。なっつかしいなあ。お昼をワイワイ食べている人もいれば、コツコツと勉強している人もいる。ナンパされないかなあとキョロキョロ周りを見ている女もいれば、誰にナンパしようかあと、周りをギョロギョロ見ている男もいる。
「かつ丼大盛りでお願いします!」
孝介はお盆を持ったまま、丼ものレーンのおばちゃんに注文する。
「かつ丼のLサイズでよろしいですか?」
「はっ、はい…」
Lサイズ?普通に大盛りでいいじゃあないか。Lサイズだとアルファベット二十六文字のうちの十二番目だから、二十六段階のうちの十二番目だと思ってしまうしまうやつがいるんじゃないのか?いや、いないか。S、M、LのLだ。
おばちゃんが丼にご飯をよそったのだが、秤に乗せた後で少しだけご飯の量を減らす。あーあ、何でもかんでも数値で管理しやがって。人情ってものはないのかねえ。時代は変わってしまったなあ…。
大学を出て線路沿いに道を歩いていると、小さな娘を連れた母親が反対側から歩いてくる。詩織はどうしているんだろう?孝介は、自分の娘に思いを馳せる。まあ、妻の実家で妻の両親が色々と手伝ってくれているから窮地に陥っていることはないだろう。将来詩織が大きくなったとき、彼女にとっての私は、どういう存在になっているのだろう?かわいい娘に会いたい、合う権利も法律的にも保証されている。でも、妻の実家にいられては非常に会いづらい…。情けない父親だなあ。結論=俺はダメ人間!
その後孝介は喫茶店に入り、娘のことを考えながら目をつむった。いつのまにか寝てしまい、目を覚ますと夕方になっていた。早く帰らないと!あっ、でも家に帰ってやることもないのか。何とも寂しい人生だ。
電車に乗ると、帰宅ラッシュが始まったころで結構混んでいた。突然、少し離れたところにいた、白い胴着のようなものを着た青年がしゃべりだす。
「いやー、皆さん。こんなにぎゅうぎゅう押し合いながら乗るなんてとっても仲がいいんですね。ちなみにみなさんはどういった一族の方たちなんですか?」
話しかけられた若いOLは、非常に困った表情で何とか対応しようとするが言葉が詰まる。それもしょうがない。たとえどんなに優れたオフィスエントランスの受付嬢であったとしても、航にはうまく対応できないだろう。
「それにしてもこの電車という乗り物はすごいですねえ。とてつもなく速い。狼の二倍半以上の速度は出ているんじゃないですか?」
狼?この青年は一体全体何者なんだ?十五年も満員電車に乗り続けたが、こんな奇跡的に変な奴と遭遇するのは初めてだ。周りの乗客も、必死に笑いをこらえながら事の顛末を見守る。
「ところで電車に乗っていると、時々何か見えない力に引っ張られるような気がするのですが、やはり先祖の霊とかですか?」
OLは困り果てて周りにSOSの目を差し向ける。隣にいた、シンプルな眼鏡をかけていかにもインテリっぽい、しかし同時に人のよさそうな大学生が助け舟を出す。
「お兄さん、それは先祖の霊じゃなくて加速度っていう事象なんですよ。偉大な天才ガリレオガリレイがその正体を見破った、見えざる力なんですよ」
「おー、なるほど不思議ですねえ。ちなみにそのガリレオガリレイっていうのはアメリカ人なんですか?」
「まあ、注目すべき点はそこではないんだが…。よし、オッケー!実はガリレオガリレイはアメリカ人だったということにしておきましょう!」
なんて面白い一日であったのだろう。孝介は家に帰る途中の公園で、口笛を吹きながらリズミカルに歩く。しかし、真の奇跡はこれからやってくるのだ!旅行は帰るまで終わらないというじゃあないか。野球は九回ツーアウトからが本番というではないか!
公園をしばらく歩いていると何やら声が聞こえる。若者がたむろして騒いでいるのだろうか?そのまま真っ直ぐ歩いて行って、角を左に曲がる。オーマイゴッド!強盗さんじゃないですか。老婆と若い女性が脅されている。ここは助けないと男じゃない!孝介は勇気を振り絞って、言いたくない言葉を大音量で叫ぶ。
「お前ら、何やってるんだ!」
ところが次の瞬間、強盗のリーダー核の男にみぞおち付近を殴られ、早くもノックダウンする。一ラウンド十秒KO負け。うん、まさに俺の人生にふさわしい。
「さーて、カモが三人もいるから、一人ずつ財布をいただきますか」
強盗のリーダー格の男が上機嫌で饒舌に話す。ところが次の瞬間、また別の男が強盗の前に現れた。白い胴着のようなものを着ている。
「みなさん大丈夫ですか?」
「はっはっは!今日はなんて運のいい日なんだ。さあ、君もとっとと金をよこせ」
「お金っていうと、人の欲望を駆り立てる物と物との媒介物のことですよね?」
うぉーい!ある意味本質ついてるけど。ってこいつ電車の中でおかしなこと言ってたやつじゃねーか!孝介は一人心の中で叫ぶ。
「てめぇふざけてんのか?」
そういってリーダー核の男が殴りかかってっ来るが、航はそれを華麗にかわし、軽く強盗のおなかを殴る。男は苦しそうな顔で倒れた。男は逆上してカバンに隠していたナイフを取り出した。
「遊びは終わりだ!素直に金出さないと殺すぞ!」
それに対して航も懐からナイフを取り出す。ものすごく年季が入っていて立派なナイフだ。思わぬ展開に強盗たちは慌てふためく。航が語り始めた。
「君はまず短刀の持ち方がなってないね」
そういって航は、ナイフを指と指の間で回転させたり、空中に投げて回転させてみたりする。
「おっ、お前らなんなんだ!」
そういって強盗たちは必死に走ってこの場から立ち去った。
「みなさん大丈夫ですか?」
青年がほかの三人に声をかける。
「おばあさんの口から血がいっぱい流れてる。誰かティッシュとかもってない?」
孝介が老婆の様子を心配する。それにしてもひどい奴らだ。老婆を殴るなんて。
「私いっぱい持ってます」
加奈がバックからポケットティッシュを八個ほど取り出す。どんだけ持ってんだい!と思わずツッコミたくなる。加奈が血をふき取り、老婆に話しかける。
「おばあさん大丈夫ですか?」
「あたしゃ大丈夫だよ。それよりみんなは大丈夫かい?それにしてもお若いの、ずいぶんたくましい青年だねえ。本当にありがとうね」
老婆の元気そうな様子を見て、柴犬も安心した表情を見せる。
三人は老婆を近くの病院まで負ぶって届けた後、病院前のベンチで一休みした。
「ここで会ったのも何かの縁だと思うし、自己紹介でもしましょうか?」
孝介が、最年長者として場を取り仕切ろうとする。
「俺は島崎孝介って言います。現在失業中。妻とも離婚し、目下人生を転落中の身です。お姉さんは?」
「はいっ、私は板ノ倉加奈って言います。現在ニートをやっています。島崎さん今朝は気さくに話しかけてくださってありがとうございました」
「いいえ!むしろ加奈ちゃんの心配を増幅させただけになっちゃったのかもしれないけど」
「いいえとんでもないです。島崎さんのおかげで少しはリラックスできました」
「それなら良かった。そして白の胴着の青年くん、君はいったい何者なんだ?」
加奈も孝介も、青年が何者なのか興味津々だ。
「僕は青の一族第四十二代目にして最後の生き残りの青山航って言います。二十歳になったので山から下りてきました。外の世界の人と仲良く暮らしていけたらいいなと思ってます」
二人はポカーンと口をあけたまま少しの間固まっていた。
「ところでお二人はどういった一族の方なのですか?」
「まあ、一族と言われても困るけど、強いて言えば日本の一族かな」
孝介は言った後でもっともっと言い切り返しはなかったのかと後悔する。
「なるほど、日本の中の日本一族ですか?中心派の匂いがしますねえ」
「ちなみにおれ自身は中心から外れまくっているけどな」
「ちなみにどういった特徴を持った一族なのですか?」
「うっ、うん。とても親切なんだけど妙に人見知りなところがあるというか…。身体能力はさして高くないけど下半身の安定感があるかな…。あとはもったいない精神を大切にしているところとか…」
航は真剣な表情でうなずきながら聞く。
「航くんの青の一族っていったいなんなんですか?」
加奈が割って入る。
「僕の一族は青岳の近辺に住んでいるから青の一族なんだ。肌の色、というか血の色も少し青っぽく見えるでしょ?」
加奈と孝介は航の肌を観察する。航の肌の色は言われてみれば少し青っぽく見える。簡単に表現すると、白人の肌の色が少し青みがかった感じだ。
「加奈ちゃんはどんな一族の出ですか?」
「私は板ノ倉一族の一員です」
おい!そこ話通じちゃうのかい!と孝介は思わずツッコミたくなる。
「板ノ倉?」
「板ノ倉家は長きにわたって続く政治家の家系なんです」
「もっ、もしかしておじいちゃんはあの板ノ倉退助?」
孝介が目を大きくしていささか興奮気味に聞く。
「はいっ、衆議院議員をやっています。板倉退助と漢字が似ていることを大変誇りに思っているようです」
わーお!それはすごいや。でもそんないいとこのお嬢様が、なぜあんな緊張しながら低時給のアルバイトの面接なんか受けていたんだ?
「私自身は小さい頃から病弱で、入退院を繰り返していまして…。最近やっと体調がよくなってきたので、外に出て様々なことにチャレンジしようと思っているんです」
いい志じゃあないか!
「加奈ちゃん、あともしかして父親はしののめ銀行会長の板ノ倉義治だったりする?」
「あっ、はい…」
「家めっちゃ広いんじゃない?」
「東京ドーム四個分くらいあります」
そんな広い家に一回でもいいから住んでみたいなあ、と孝介は憧れの眼差しで加奈を見る。
「東京ドームってなんですか?」
航が首をかしげながら聞いてくる。
「まあ、一言でいえば、中心派の、中心派による、中心派のための尺度基準のことだな」
「へぇ…」
航は、納得したようなしてないような表情を見せる。一方で加奈は上品にほほ笑む。
少しの間をおいて加奈が二人に提案する。
「もし良かったらうちに泊まっていきません?ゲストルームは大量にありますし、お二人とももっと仲良くなりたいです!先ほど電話で執事とも相談しましたが、お二人は命の恩人ということでもありますし、許可は下りています」
加奈はずっと家に閉じこもっていたために消極的な性格のように見えたが、本来は明るくて活発な性格なのだ。もし加奈が病弱じゃなかったら、活発で明るいクラスでも人気の女の子になっていただろう。
「加奈ちゃんほんとにいいの?」
孝介は、泊まりたいという気持ちを隠しきれずに目を丸くしながら形式として念を押す。
「全然大丈夫ですよ!」
「それは嬉しい。僕はどこに泊まるか決まってなかったからさ!」
航もテンションが上がっているようだ。
三人は、航にだけは妙になついた柴犬とお別れし、板ノ倉一族の豪邸を目指すことにした。
家の前に着くと、南北大学正門と同じくらいの門がそびえ立っていた。加奈がインターフォン越しに誰かと話す。少し経つと門が開き、車でお迎えが来る。家の中を車が走るなんてすごいなあ。運転手の中村という男は何やら気さくに色々と話し掛けてきて、とても感じのよい人だった。松やら岩やら桜やらがちりばめられている日本庭園を、真っ黒いベンツで通っていく。
「それにしてもこの車という代物はすごいですねえ。こんなものが狼の二倍の速度が出せるなんて摩訶不思議です」
「なんで狼との比較なの?」孝介がすかさずツッコむ。
「それは…」
航が答えようとする声を遮って、加奈が意気揚々と答える。
「青の一族の、青の一族による、青の一族のための速度基準でしょ!」
みんなが一斉に笑う。
「それにしても、青の一族というのは狼と関わり合いが深いのですか?」
執事の中村が質問する。
「はい。我々は昔から狼と生活の一部を共有してきました。狼は我々にとって神であり、友でもあるのです」
「へぇ、世界の主要な宗教は神と人との間に大きな隔たりがありますが、神でもあり友でもあるという考えは日本らしいですねえ」
「ところで質問があるのですが、首から紐でつながれている、狼を小さくしたような動物はなんという生き物なんですか?」
加奈と中村は目を大きくして見合わせ、静かに笑う。
「あれは犬と言ってねえ、狼の分家みたいなものだよ」
孝介が少しの間をおいて答える。分家という言葉が航にとってわかり易かったせいか、一回で納得したようだ。
ゲストハウス棟に着くと、中村から部屋の使い方や風呂の使い方などの説明を受けた。ゲストハウス棟は小さなマンションのような外観をしていて、二十部屋あまりの風呂トイレ付ゲストルームがあった。明日の昼十二時に母屋に集合して一緒に昼食を食べましょうということで、四人は一旦別れた。
(6)計画
翌朝、孝介は起きて時計を見ると午前十時だった。あれ、今日は何曜日だったっけ?そうか、土曜日か。働いていたときは土日出勤もかなりあったので曜日感覚がマヒしていたが、今は別の意味で、すなわち自由すぎて曜日感覚が麻痺している。メールを見ると、アルバイトの不採用通知が来ていた。まあ、どうでもいいや。ふと外を見ると、航が犬と一緒に遊んでいた。あいつも変な奴だよな。でもなぜか人を引き付ける力があるんだよなあ…。加奈ちゃんは加奈ちゃんで不思議な魅力があるし…。二人に共通するのは世の中を知らないという純粋さ、しかも子供の純粋さではなく、純粋な大人。そこが魅力の根源なのかもと孝介は一人考えたりする。もう少し彼らと一緒に過ごしてみたいなあ…。まあ、若者は苦手だけど…。
十二時になると、四人は母屋の食卓に集合した。テーブルには、チンジャオロースや酢豚、春巻きなどの中華料理が並んでいた。
「航くん、昨日はよく眠れましたか?」
執事の中村が、いつも通りの人当たりの良い口調で聞く。
「はいっ、おかげさまで。ふわふわした寝台のようなものがとても気持ち良かったです」
「あれはベッドと言ってね。西洋から伝わってきたものなんだ」
「セイヨウとはアメリカのことですか?」
「いや、アメリカとは別の国々があってね。その国々のことを西洋、あるいはヨーロッパというんです」
「そうなんですかあ…」
あまり納得していない様子の航を見て、孝介が助け舟を出す。
「まあ、アメリカの本家みたいなもんだよ」
「なるほど!」
中村と孝介は笑顔を見せるが、一人浮かない顔をしている加奈を見て、孝介が尋ねる。
「加奈ちゃん、どうした?」
「私…やっぱり社会では必要とされない存在なんですかね?」
どうやらバイトの面接に落ちたらしい加奈が物憂げに反応する。
「いやいや、大切なのは結果よりも過程。緊張して声を震わせながらも外の世界に立ち向かっていった加奈ちゃんは立派だよ。自分で自分を褒めてあげなきゃ!」
孝介は何とかして加奈を励まそうと、大げさにガッツポーズをして見せる。一瞬、また滑ったか!と思ったが、航と中村もガッツポーズを繰り出してくれたおかげで、孝介の労力が報われる。
「ありがとうございます。私頑張る!」
そういって加奈もガッツポーズをする。
ちょっとした一体感のようなものが彼らを包み込んだ後、中村が話を切り出す。
「みなさんに相談があるのですが…。島崎さん、航くん、もうしばらく加奈ちゃんと一緒に過ごしてやってくれませんか?加奈ちゃんは友達もいないですし、それは私や親の責任でもあるのですが…、三人で色々なことをして、加奈ちゃんに色々な経験をさせてあげてほしいんです。加奈ちゃんに自分の生きる道を発見するきっかけを与えてほしいんです。唐突ですがぜひお願いします!」
中村は、いつも通りではない力のこもった口調でお願いしてくる。
「むしろこっちがお願いさせてほしいですよ!私自身も今後どう生きていけばいいのか分からなくなっていますし。みんなで道を探しに行きましょう!」
思いもよらない展開に、孝介も熱く答える。
「泊まれるところがあるなんて最高です!」
航は一人大げさにガッツポーズをするが、今回はほかの三人はしなかったために大いに滑った。
「やったー!」
加奈は嬉しそうな表情を見せる。
「まずは航くんの服を買うために、近くにある大型ショッピングモールに行きたいな。そんな、仙人のような白い胴着のようなものを着て一緒に歩かれるのも恥ずかしいし…」
三人は、スープのうまみが聞いた美味しい中華料理を平らげ、出発の準備をすることにした。航がデザートの杏仁豆腐を絶賛した。
孝介は、中村から貸してもらったトヨタの車を運転し、ショッピングモールを目指した。
「航、言うの忘れてたけど、腰につけてあるナイフは置いて行った方がいいよ」
「どうしてですか?」
「銃刀法違反で警察に捕まっちゃうからさ」
「警察っていうのは正義の味方なんじゃないんですか?なんで僕が捕まらなきゃいけないんですか?」
航はいぶかしげに答える。孝介は一瞬しまった!と思う。しかし、航に何かを教えるのは孝介にとって、一種の楽しみのようなものになっていた。
「航はナイフを悪用しないと思うけどさあ。普通ナイフっていうのは人を傷つける原因になることも多いしさあ。ほらっ、この前の強盗もナイフを持っていたけど、彼らが持っていたら危ないでしょ」
「確かにそうですね。気を付けます」
加奈が入り込んでくる。
「私、常に小さなハサミをカバンに入れてるんですけど、それも銃刀法違反になりますか?」
「まあ、さすがにそれは大丈夫でしょ。加奈ちゃん意外と心配性だね」
「島崎さん、質問があるのですが…」
「なんだい航?」
「戦争のときってみんな銃を持っていますよね。そうすると兵隊はみんな逮捕されちゃうんですか?」
思わぬ質問に孝介は戸惑う。言っていることはむちゃくちゃだけど、ある意味本質をついているというか…。世の中は矛盾や理不尽で満ち満ちている。それをどう伝えたらいいのだろう…。
「なんというか、本来なら戦争自体がやってはいけないものだからさあ、というか、戦争っていうのは法律を超えちゃっているというか…」
「難しいんですね」加奈がつぶやく。
三十分ほどすると、三人を乗せた車はショッピングモールに到着した。三人はまず、航の服を買うために、メンズカジュアルブランドショップに入った。
「いらっしゃいませ~」
イケメンの男性店員が、少し戸惑ったような表情を見せる。それもそうだろう。この三人は、親子にしては年が近すぎるし、兄弟にしては離れすぎている。しかもその内の一人は、仙人のような白い胴着を着て、草履をはいているのだから…。
「あの~、この人にカジュアルスタイルの服をコーディネートして欲しいんですが…」
加奈が少し恥ずかしそうにお願いする。
「はい、かしこまりました!」
航は割と背も高くてスタイルもよく、顔立ちもよかったので、どのコーディネートも似合ってしまい、加奈と孝介を悩ませた。結局航の青に対するこだわりを尊重し、青のパンツに青のTシャツ、黒のベストで合わせることにした。その他数日分の服を買い、靴も購入して航の買い物は終了した。
「じゃあ次は私の番ね。これから外の世界に出るんだから何着も買わないと!」
やれやれ、これからが長くなりそうだ、と孝介はしぶしぶついてゆく。
「俺は出口付近の椅子で待ってるからゆっくり選んでね」
そういって孝介は、よいしょっ、と言って腰を掛けた。よいしょっ、と無意識のうちに言ってしまった自分にビックリする。年を取ったなあ…。あの二人と一緒にいると特にそう感じてしまうな…。
一方加奈と航はショップに入り、服を物色する。そのうちの一組を選んで試着室で着替えて出てくる。
「航くんこれどう?」
「いいね。加奈ちゃん美人だね」
加奈は、満更でもない表情で照れ笑いする。一方女性店員は苦笑いする。
その後試着を繰り返し、二人は何軒もの店を回った。
「島崎さーん、朝ですよー」
孝介は夢から覚め、思わず時計を見る。一時間半くらい昼寝をしてしまったようだ。目の前には、水色のミニスカートに青いシャツ、黒のミニネクタイを纏った加奈が立っていた。一瞬、加奈のすらっとした足に目が釘づけになるが、次の瞬間には二人に突っ込みを入れていた。
「うぉーい!お前らカップルかい!」
照れ笑いを見せる加奈が得意げにいう。
「島崎さん用の青い服も買ってきましたよー」
「やれやれ…」
その後三人はインターネットが自由に使える喫茶店に入った。今後何をするか話合うためだ。
「航!今から君が見たいものを自由に出現させるという魔術をして見せよう!」
孝介と加奈が軽く視線を合わせうなずき合う。
「そんなことできるんですか!じゃあ、狼が見たいです」
孝介は検索エンジンで“狼”と打ち込んで、エンターキーをポーン!と軽くたたく。すると、狼の画像がたくさん出てきた。
「おー、すごいですね。さすが中心派の島崎さん」
「痛いとこつくね。返す言葉もないよ」
「じゃあ次は杏仁豆腐を出してください。今日の昼に食べて、あまりのおいしさにびっくりしたので」
孝介は検索エンジンで杏仁豆腐を検索する。再び航が感動する。
「実はだね。これは私の力ではなくて、この機械自体のすごさなんだよ。だましてごめんね。どうだ、すごいだろ?人類の科学技術ってやつは」
「科学技術!多くの人命の引き替えとともに得た、神にも迫る能力のことですね」
「まっ、まあね。返す言葉もないよ」
「ちなみに多くの命と引き換えにっていうのはどういうことですか?」
「それは…」
「銃だってさあ、如何にして早く的確に人を殺すかっていう目的の下で生まれたものでしょ?」
加奈が孝介を遮って答える。
「なるほど!」
「細菌研究だって、自分の命を懸けながら抗生物質を見つけたわけだし、コンピューターだって、戦争がなかったら生まれなかっただろうし。つまりまあ、人類が命がけで生み出してきた能力と言えるな」
孝介が付け足す。
三人が科学技術談義で盛り上がっていると、店員が注文を取りに来る。
「皆さんが飲みたい飲み物を、出現させるという魔術をご覧に入れましょう。注文はいかがなさいますか?」
一瞬場の空気がシーンとなる。店員は恥ずかしそうにしている。
「私はアイスコーヒーでお願いします」
「あー俺も」
「僕はダークモヒートソベリアンでお願いします」
孝介は何だそれ?というような表情を見せる。一方加奈は目をキラリとさせる。加奈しか知らない、加奈と航くんとの秘密が一つ生まれたことによって。
「さっきの店員めっちゃすべったな」
孝介が笑いながら指摘する。
「確かにすべりましたね。普段の島崎さん並に」
孝介は、航の思わぬツッコミに動揺する。
「うぉーい!返す言葉がないよ」
少し間をおいて、孝介が本題を切り出す。
「で、今後俺らは何をしようかね?」
「私は今まで人の役に立ったことがないので、人の役に立つことがしたいです」
「加奈ちゃんいいこと言うねえ」
孝介がボランティアで検索を始めると、村おこしというワードが目に付いた。
「村おこしっていうのはどうだい?過疎化が進んで若者が減り、経済力も衰えてしまった地方の村を再生する取り組みのことだねえ。観光客を増やすために名産品をアピールしたり、その地にしかない特性を生かした取り組みをすることによって村を興すんだね。ボランティアのすることは、現地の人々と交流し、様々なアイディアをだして実行する手助けをすること」
「いいですね。是非やってみたいです」
「あのー、できれば離島とか海を臨む町がいいです」
航が少しもじもじしながら要求する。
「何で?」
「僕はずっと山で暮らしていたので海を見たことがないんです。名前の航という字も、両親の海に対する憧れというか、僕にいつか海を航ってほしいという願いが込められているんです…」
「おー、なるほど。海を見たことがないという感性が大いに生かされそうだな…」
「決まりね!」
航は何やら、嬉しそうな、恥ずかしそうな表情を見せる。まるで子供みたいな表情だ。それもそうだな。今まで航=面白い奴、という点にしか目がいかなかったけど、孤独の中で一人で生きてきたんだもんな…。人との接し方がぎこちないのも当たり前だ…。
「航くん青の一族なのに海を知らないんだね」
三人はさざ波のようにささやかに笑いあった。
「赤島村おこしボランティア募集というのがあるよ」
孝介が、これはいいんじゃないかという思いを込めて提案した。
募集内容…人口八百人余り、年寄りばかりになってしまった村の復興について真剣に考えていただく。どうすれば観光客を呼び込めるか。同じく南の方にある父島や八丈島との差別化をどう図るか。一週間の滞在中にアイディアをだし、実行に移してもらいます。若い人をとにかく歓迎します。なお、実費については島側が全額負担させていただきます。
「いーね!」
ネット上で住所、氏名、動機などを記入する欄があったので、三人がそれぞれ真剣に打ち込んだ。
その後彼らは、ショッピングモールのフードコートで夕食を食べ、家路についた。
翌朝、孝介は電話の着信音で目覚める。時計はすでに十時を過ぎていた。
「はい、島崎です」
「わたくし、赤島村役場の新井と申します。いやー、応募者が少なくて困っていたんですよ。あなたたち以外ではテレビ局のプロデューサーの方一名しか申し込みがなくて…まあ、ピーアールの仕方が全然駄目だということでしょうねえ…。そんなわけでぜひ来てください!」
唐突な展開に孝介は少し焦る。
「三人とも合格ということでよろしんでしょうか?」
「はい、もちろんです。若い方も男女一名ずついらっしゃるということで楽しみにしています」
「私たちも楽しみです!」
「これまた突然なのですが、私たちの輸送船が明後日の朝に竹芝フェリーターミナルに着くので、それに乗ってきていただくことは可能でしょうか?私は島からそれに乗って皆さんをお迎えに上がります」
「あっ、はい。大丈夫です」
孝介は、誰かに必要とされているという充実感を久々に感じた。ふと外を見ると、航が犬と戯れていた。今日は加奈も一緒だ。加奈は航の影響でどうやら犬嫌いを克服したようだ。彼らもこの知らせを聞いたら喜ぶだろう。
昼になると三人は母屋の食堂に集まった。今日はシェフが休みで、中村も外出中だったので、宅配で頼んだ弁当を食べる。
「実は二人に重大なお知らせがあります!」
孝介の発言に対し、二人は目を大きくして前かがみになる。
「なんと、我々全員が、赤島のボランティアに採用されました!」
三人はハイタッチで喜びを分かち合う。
「それで急なんだけど、出発は明後日の朝だから、荷造りは早めにしてね。明後日の午前六時に起きて、竹芝のフェリーターミナルを午前八時に出発する予定だからね」
「じゃあ、明日は荷造りと、赤島に関する勉強をするとして、今日は何をしましょうか?」
航が問いかける。
「実は今日は、加奈ちゃんの二十歳の誕生日なんだよね?」
孝介が唐突に話題を振る。実は事前に中村から、今日は加奈の誕生日なんだけど、父親も私も忙しくて祝ってあげられないから、代わりに祝ってやってあげてくださいと言われていたのだ。
「そういえばそうだった」
加奈は、長らく自分の誕生日を祝ってもらってなかったので、孝介に言われて初めて気づいた。
「両親は加奈ちゃんの誕生日なのに何をやっているんですか?」
「実は私の母親は出産の直後に死んじゃって…。父親と祖父はいつでもやたら忙しいし」
「まあ、何はともあれ、盛大に祝おうじゃないか。二十歳になったということで、お酒でも飲みに行こう!恐らく赤島に行ったらおじいちゃんおばあちゃんからたくさんお酒進められると思うから、今のうちに耐性をつけておかないと!」
「わーい!」
少しの間をおいて、航が提案する。
「じゃあ、夜になるまでは運動でもしましょう!ボランティアっていうのは体力もかなり必要なんじゃないですか?」
加奈は楽しそうに賛成するが、孝介はしぶしぶ賛成する。
三十分後、三人はジャージ姿で敷地内にある四百メートルトラックに集まった。
「そういえば島崎さん、航くんって超すごいんだよ。八メートルくらいの距離なら普通にジャンプできちゃうんだよ!」
航は少し助走をつけてジャンプする。一人だけ重力が異なる星で生きているかのような身のこなしに、孝介もしばし見とれてしまう。心の中で呟いた。オーマイゴッド!
「まさに神にも迫る能力ですな」
「科学技術は一切持っていませんが」
「はははっ」
加奈と孝介は、航の後に続いてトラックをランニングし始める。一キロも走ると、早くも孝介がへばり始める。二キロ走ると加奈もへばり始める。
「あと一キロは必須ですからね!頑張りましょう!」
三キロの道のりを走り終えると、加奈も孝介もいい意味で倒れこむ。航は、山に比べて酸素がいっぱいあっていいですねとか言いながら、息一つ切らさず楽しそうにしている。
「加奈ちゃんよく頑張ったね、いいよ!そして島崎さん、お世辞ですが意外と軽やかに走れるじゃないですか」
孝介は、脳が欲する酸素のうちの八十パーセントくらいを、必死の思いで航に対するツッコミに投入する。
「航!あらかじめお世辞って言ったらお世辞じゃなくなっちゃうんだよ!」
「はははっ」
加奈のかわいらしい笑顔に対し、航がさらに発言する。
「まさに女神にも迫るような微笑みだね」
「それってお世辞?」
孝介は心の中で、うぉーい!俺のポジションを奪ってくれるな!と叫びつつ、航の成長に、誇らしさのようなものも感じた。
その後彼らは、敷地内の庭園を見たり、アスレチックで遊んだりした。夕方になるとシャワーを浴びに行って、再び母屋前に集合した。そしてあらかじめ用意しておいたタクシーで、庶民派高級居酒屋へ向かう。
「カンパーイ!」
「これがビールという代物ですか。黄金色に輝く西洋の炭酸酒といったところですね」
航が西洋という単語を使いこなす。
「そうだね。西洋の」
「アメリカの本家ですよね?」
「この前はそういったけど、最近はアメリカの方が力があって偉そうにしているんだがな…」
「いわゆる本家と分家の逆転っていうやつですか?」
「まっ、まあ、いわゆるそうだ」
加奈は、これのどこが美味しいの?という表情を見せながらビールを飲んでいる。しかし二人とも酔っている様子はないので取り敢えず孝介は安心した。最低限は飲めるようだから島へ行っても安心だ。
それにしても…、二人と絡むようになってからやたら加奈、航のことが心配で仕方ないと思うようになってるなあ…。二人とも世話が焼けるし…。親心…。そういえば詩織に会いたいなあ。でもどういう口実で会いに行ったらよいのか分からない。孝介は突然寂しげな表情で話し始める。
「娘の詩織に会いたいなあ…」
「会えない事情でもあるんですか?」
「まあ、法律的に会う権利は保証されているんだけどさあ。妻の実家で暮らしているから非常に会いづらいんだ。それに…あっても何を話せばいいか分からない…」
いつもはお調子者の孝介が、暗く切ない顔をしているのを見て、加奈は航と目を見合わせる。こんなときは下手なこと言っても逆効果だしなあ。島崎さんこんなにやさしくて頼りがいのある男性なのになんで離婚しちゃったんだろう。人の気持ちって難しいんだなあ。私はまだ人と深くかかわったことがないけど、これから先色んな困難や苦しみが待っているんだろう…。
しばしの沈黙の後、航が話し始める。
「詩織っていいい名前ですね。詩を織るなんてまさに詩的じゃないですか」
「ありがとう…。知的で素敵な女性になってほしいという願いを込めたんだ」
「きっとそうなりますよ。それに…娘さんに対する深い愛情があれば、いつか娘さんもわかってくれる日が来るはずです!」
加奈も航も懸命に孝介を励まそうとする。
「私たちにとって島崎さんは、優しくて頼りになってユーモアのセンスもある父親みたいな存在ですよ!ねっ、航くん?」
「うん、もちろん。島崎さんはマイマザーみたいなもんですよ」
航が覚えたての英語を使うが、父親が母親になってしまった。
「航くん、父親はファーザーだからね。母親がマザー」
「あっ、そうだった…」
「加奈も航もありがとう」
孝介は笑いながら、そして涙をこらえながらお礼を言う。
航と加奈は目を見合わせる。これは、共犯の眼差し。つまり、絶対孝介を娘に会わせてあげようねという視線だった。
その後三人は楽しくおいしく談笑したのだが、昼からハードに運動していたことも影響して、かなり酔ってしまった。なんとか家にたどり着くも、目が覚めるとすでに昼過ぎだった。彼らは慌てて明日以降の準備に取り掛かった。
(7)赤島
翌早朝…
「島崎さーん、朝ですよー」
加奈が楽しそうな表情で孝介を起こした。時計を見ると朝の六時半だった。ショッピングモールの時と違い、今度は本当の朝、しかも早朝だ。加奈も航も準備万端のようで、いつまでたっても起きない俺を起こしに来たっていうわけか!あー情けない。自己管理もロクにできないような駄目おじさんだなと、一人自虐的になりながら出発の準備をする。
加奈は眠い目をこすりながら、航は慣れない靴を地面に擦りながら、そして孝介は冷たい手をこすりながら駅へと向かった。まだ早かったので、ラッシュが始まったばかりで、比較的スムーズに移動できた。
三人はフェリーターミナルに着くと、赤島ジェットライナーが停泊する方へ向かう。
「もしかして島崎さん御一行ですか」
背が低めで白髪交じり、ちょっと太った五十歳くらいの男性が話し掛けてきた。
「まあ、水戸黄門御一行に比べれば雑魚の集まりですが…」
「はははっ。わたくし、赤島村役場の新井です。よろしくお願いします」
「よろしくお願いします」
そんな感じで簡単な挨拶を済ませた。
赤島ジェットライナーは思ったより大きかった。全長五十メートルくらいはあるようだ。新井の話によると、人を運ぶというより物資を運ぶのがメインで、一週間おきに島と本土とを往復しているそうだ。所要時間は九時間から十時間くらいとのことだ。
船の談話室に入ると、もう一人の参加者である高田という男が座っていた。スマートフォンで日経電子版を読んでいる。そして赤渕の眼鏡を掛けている。
「あっ!」
孝介は、高田という男が先日電車で隣にいた男だということに気付きビックリする。一方の高田は、赤トレーナーの男と、八メートルジャンパーがいることで二重にビックリする。
四人は、事前に関わり合いがあったということでスムーズに自己紹介は進んだ。その後、新井は積み荷の管理作業や島の業務をやらなければならないということで、一時間半後に再び談話室集合ということになった。談話室に残った孝介と高田は話を続ける。孝介は、久しぶりに大人同士で会話できる喜びに浸っていた。船はいつの間にか静かに出向した。
「電車で見たときは、高田さんに対する羨ましさと嫉妬しか感じなかったですよ。きっとこの人は、自分の能力で様々な名誉と達成感を勝ち取ってきた人なんだろうなあと思って」
「確かにそうではあるんですがね、失ったものもまた数知れず…」
「失ったもの?」
「人との絆とかね…。気づけば両親も恋人も友達もいなくなってしまいまして…。最近はなんだか寂しい人生を送っています」
孝介は唇を真一文字に結び、目を細めながら高田の話を聞いている。
「誰しも悩みの中を生きているんですね。私も会社からは首を切られるわ、妻からは縁を切られるわで、寂しい人生を送っています」
波が船にぶつかってはじける音が聞こえてくる。窓から見える人工島には、黄色と茶色ではなく、赤と白のキリンが堂々と構えている。毎日毎日、その自慢の首で、重い荷物を積み降ろししているのだろう。しばし心地よい沈黙を味わった後、孝介が再び口を開く。
「名プロデューサーである高田さんが、なぜ赤島のようなマイナーな島へ?」
「それは尤もな質問ですね。昔の私だったら、確実に選択肢から外していましたね」
「はははっ」
「何ていうんですかね。利益とか体裁とか、そういうのばかり追い求めるのはやめたんです」
「とは言いつつも、さらに大きな名誉を求めようとする自分も、陰に潜んでいるとか?」
「図星です…」
そうだよなあ…。変わりたいと願っても変れない。変わりたくないと願ってもいつの間にか変わってしまう。いつでもそうだ。俺と妻の関係だって…。
「ところで島崎さんはなぜこのボランティアに参加したのですか?」
「うーん、何とも答えるのが難しいです…」
「大人の事情ってやつですか?」
「いえ、どちらかというと子供の事情、というか青年の事情なんですがね…。詳しく話しますと…」
孝介は、航や加奈との奇跡のような出会いを少し誇らしげに語ったのだった。
一方、甲板の手すりに寄りかかりながら、航と加奈は海を見ていた。
「加奈ちゃん、探偵事務所への依頼の件はばっちりできた?」
「うん、ばっちりだよ。今日もまずは英語のレッスンね。えーと、最後はラスト、青はブルー」
「はい、最後はラスト、青はブルー」
「それらをつなげると?」
「ラストブルー?」
「そう、航くんのことだよ。最後の青っていうことで」
航が加奈の言いたいこと理解するまで五秒ほどかかった。
「なるほど!」
海面が太陽の光で宝石のように輝いている。
「お世辞だけど、海ってホントにきれいだね」
「あー、お世辞って言うのは人にしか使えないんだよ。標準日本語のレッスンも引き続きしないとね」
「りょーかいです」
「ボランティア楽しみだね。人の役に立てると思うとワクワクする」
「そうだね」
加奈は思う。今までずっと自分の世界の中だけで生きてきたけど…。島崎さん、航くんと出会って世界は広がった。そしてもっともっと自分で広げていかないと。
航は思う。これが海かあ。無限に穏やかに広がっているように見える。島崎さん、加奈ちゃんと出会って世界は広がった。この広い無限の世界を自分で渡っていかないと。
「航くんの身体能力頼りにしてるからね!」
「僕が得意なのは陸だけで、海は苦手だよ。たぶん泳げない…」
「そっか!海の中では私の方が上か。なんか航くんの弱点発見できて嬉しい」
「はははっ」
二人は、トビウオが跳ねたり、カモメが通ったりする海の情景にいちいちオーバーリアクションをしていた。とても楽しそうだ。
「加奈ちゃん、海の標高ってマイナス何メートルくらいなの?」
「そういう時は海抜っていう言葉を使うんだけどね。深いところだと海抜十キロメートルもあったりするんだよ」
「えー!すごいね。なんか海に山が負けた感じがする」
「はははっ」
加奈は考える。私より世間知らずな人間などこの世にはいないと思っていた。でも実際にはいた。加奈は以前は、世間知らずな自分のことを卑下していたが、航くんと接していて気づいたことがある。それは、今の自分のステータスが重要なんじゃなくて、今この時にどうやって向き合っていくかが重要であるということだ。航くんは基本的に何にも知らないけど、持ち前のキャラクターで日々自分らしく生きている。私も彼みたいに自分らしく生きたいし、彼と一緒に成長したい。そして…。
その時、船が急に速度を上げたことにより、加奈が後ろに倒れそうになった。航が後に素早く回り込んで加奈を抱きしめるようなかたちで支える。
「加速度って危なっかしいね」航が言う。
「うん、でも私は好きだよ…」
一時間半後に四人は談話室に戻ってきた。村役場の新井が話し始める。
「いやー、ほんとに皆さん集まっていただいてありがとうございます。テレビ局のプロデューサーさんもいるし、若い男性も若い女性もいて、本当に楽しみです」
「俺が入ってないじゃないですか!」
孝介がすかさずツッコみを入れる。
「いやいや、そんなつもりで言ったのでは…」
高田、加奈、航が笑ってフォローする。新井が気持ちを切り替えて、赤島の概要について説明しだす。
「まず、赤島についての簡単な説明ですが、赤島は、三宅島と八丈島の間に位置する小さな島です。面積は三宅島の四分の一、人口は約八百人です。ただしそのうちの五割はお年寄りです。気候は年間を通して温暖ですが、台風の被害を受けることがしばしばです。主に漁業が盛んですが、それだけでは生計を立てるのは厳しく、観光に力を入れたいと思っています。ただ、八丈島や父島に観光客を取られてしまっているのが現状で、今のところアイディアなしの状態です」
「何か赤島ならではの特徴っていうのはないのですか?」
加奈が積極的に発言する。
「うーん…。きれいな海もあるし、きれいな自然も山もあるんだけど、あまりほかの島と差別化できるところはないんですよ。例えば戦争の遺物に関しても、父島だったら大きくて立派な砲台が残っていますが、赤島にはせいぜい長さ一メートルくらいの機関銃の残骸が残っているくらいなんですよ…」
「悪く言えば何をとっても中くらいということですか…」
「ええ…」
「ところで赤島の名前の由来っていうのは何なのですか?」
赤渕の眼鏡を掛けた高田が質問する。
「私も詳しくは知らないのですが、遠い昔、赤島には赤の一族と言われる人々が暮らしていたそうです。とても凶暴な性格なんだそうです。水中での遊泳能力が特に優れていたために、昔は海軍の特殊部隊として活躍していたそうです。赤の一族は百年くらい前に絶滅したと聞いています。現在赤島に住んでいる人々は、赤の一族とは全く関係なくて、戦後、当時無人島だった赤島に移り住んだ人々とその子供たちです」
「それは何か赤島オリジナルな歴史として観光に使えそうですね」
高田が真剣に考え込むのに対し、加奈、航、孝介が口をあけながら顔を見合わせ、とても驚いている。ついに我慢できなくなった高田は、島崎に尋ねる。
「どうかしましたか?」
「実はね、航は青の一族の最後の生き残りなんですよ!」
新井はさらにびっくりした表情で反応する。
「青の一族!聞いたことがあります。赤島には赤の一族と青の一族に関する歴史が書かれた石碑があるとの噂を聞きます。そのうちのワンピースが村役場にも保管されています。もっとも文字がよく分からなくて解読もできていないので、その噂の真偽はわからないのですが…」
合理主義者の高田も運命のようなものを感じざるを得なかった。
話は赤島の観光戦略に戻る。
「遊泳能力が高いということなら、古文書等をもとに人魚伝説のようなものをでっちあげることも可能ですね?」
高田のでっち上げるという発言に、加奈と航は納得していない様子だったので、孝介がすかさずフォローを入れる。
「まあ、大げさに見せかけるっていう事だよ。何事もすべて正直にやっていたら物事はうまくいかないものなんだよ」
新井は高田に便乗する。
「人魚をモチーフにした独自のキャラクターなんか作ったらいいと思いますね」
「それはいいですね」
新井も賛同した。
その後話題は村おこしへとシフトした。
「現状として赤島には特に際立ったものがないようですが、特に何も名産品がなくても村おこしが成功した事例もあるようですね?」
孝介が切り出す。
「例えば徳島県のある村では、葉っぱを高級料亭に卸すビジネスで大成功したようですね」
「確かに葉っぱ自体は普通なら特産品と呼べるような代物ではないですしね。お年寄りたちが、タブレット端末を駆使してマーケティングを行うという、先進的なビジネスモデルが功を奏したといえそうですね」
高田が意見を述べる。
「あと、村おこしっていうとイメージとしては田舎ばかりが浮かぶけど、最近ではむしろ、閑散とした都会も町おこしの必要性を抱えていますね」
「例えば東京丸の内も、都会町おこしの成功例ですよね?」
加奈が得意げに話しに入ってくる。予習の成果だ。それに対して孝介が、丸の内は俺の家だぜ!とでも言うような口調で説明しだす。
「そうだね。今でこそ、大人おしゃれ和モダンの代表格として有名だが、かつてはただのビジネス街で、休日は閑散としてたんだよ。そもそも、隣の大手町なんかは今でも居住者ゼロの町なんだよ」
「へぇ、そうなんですか」
島の事情には詳しいが、都会の事情には詳しくない新井が、興味深げに聞く。
「赤島から帰ったら、加奈ちゃんのお父さんが働くしののめ銀行をチラ見しつつ、丸の内観光したいね!」
航の提案に、加奈も孝介も元気よく賛同した。
船はひたすら南下していった。一時を過ぎると特に話すことがなくなったので、孝介がトランプでもやろうかと提案した。
孝介は思う。トランプ=青春!あのワクワク感、ドキドキ感。気づかれないように隣の女の子に助け舟を出したりしたっけ。この年になって、このよく分からない異種混合メンバーでプレイするのも乙であると。
高田は思う。トランプといえばジョーカー。俺の人生はジョーカーのような人生だったなあ…。力はあるし、特異な能力はあるんだけど実体がない。華やかなようで空虚。この年になってトランプをやるのも悪くない。
加奈は思う。中学校の時とか修学旅行でみんなが集まってトランプをやっていたなあ。私は空気のような存在だったから、当然その輪に加わることもできずに悲しい思いを一人していたっけ。あの時やりたかったトランプが、今できる!
航は思う。トランプってなんだ。裏面がすべて同じ模様のカードの束が出てきたけど、いったい何が始まるんだ?みんなとても目が輝いているな。なんだか楽しみだ。
五人はそこまで暑くない船内で、汗を垂れ流すほどトランプに熱中した。
何時間くらい経っただろうか。気づくと空の色が変わり始めていた。
「みなさん、もうそろそろ島が見えてもいい時刻です。甲板に出てみましょう!」
新井が皆を促した。甲板に出て水平線の彼方を眺めるが、常人には島はまだ見えない。
「あー、あれのことですか」
突然の航の発言に対し、四人はびっくりする。全くもって何も見えないのに、一人だけ見えているということか!
「航って目もいいんだな。たぶんマサイ族並だぞ」
航も逆に、なんであんなハッキリしたものが見えないんだ?というような表情で、目を少し細める。
「マサイ族っていうのはどういう一族ですか?」
「アフリカに住んでいるやたら目のよい一族だ」
「アフリカっていうのは何ですか?」
「ヨーロッパ大陸の南に位置する砂漠とジャングル、黒人とサバンナの大陸です。二十世紀になって大国の締め付けがなくなると、世界経済に影響を与えるまでに成長しました。ただ、依然内戦と飢餓が問題になっている現状があります」
新井はわかり易く丁寧に答えたつもりだったのだが、航の頭には大量のはてなマークが浮かんでいた。見かねた孝介が助け舟を出す。
「西洋の子分みたいな存在だな」
「なるほど!」
そして高田が狙ったように発言する。
「トランプで例えるなら、アメリカがキング、西洋がクイーン、そしてアフリカがジョーカーのような存在と言えるな」
「その例えは深いですねえ…」
高田の発言に、航ではなく孝介がやたら納得した様な表情を見せる。
「深いっていうのは海抜十キロメートルくらいなんですか?」
航の発言に皆は大声で笑いだした。
夕方の六時ごろ、船は港に到着した。村役場で歓迎会があるということで、一旦旅館に荷物をおいてから役場へ向かった。村長が、集まった村人八十人くらいに対して、他己紹介を始めた。
「本土からやってきたボランティアの方四名の紹介をさせていただきます。こちらがSNWテレビ局の敏腕プロデューサーの高田さん、こちらが青の一族の最後の生き残りの青山航さん、こちらが板ノ倉退助のお孫さんの加奈さん。そしてこちらが…」
三秒くらいの沈黙が走る。
「うぉーい!俺だけキャッチコピーなしですかい!」
「こちらが現在、仕事と恋人を募集中の島崎さんです」
「うぉーい!雑すぎ!」
歓迎会は立食形式で行われた。鶏のから揚げやらサンドイッチやらポテトフライではなく、刺身の船盛りやらマグロのフライやら野菜の燻製やらがならぶ、豪華な歓迎会だった。孝介は、その親しみやすいキャラクターで村人から一番人気だった。航は若い女性に、加奈はおじさんおじいさんに囲まれ、ビールを飲みながら会話を楽しんだ。高田は時々村民の輪に加わるが、基本は一人で貴族のようなオーラを出しながらお酒を飲んでいた。加奈は、おじさんのノリに丁寧に合わせつつも、若い女性と楽しそうに話している航のことが気なって仕方ない。その加奈の様子に孝介は遠目から微笑む。高田は、誰からも楽しそうに話しかけられる孝介の様子に少し嫉妬していた。
加奈と航は、孝介からなるべくお酒は控えるように言われていたが、調子に乗ってかなり飲んでしまい、その日の夜は宿に帰るや否や寝てしまった。
孝介は旅館に帰った後、明日以降の予定を入念にチェックした。やることは主に四つある。観光客獲得のためのアイディアの出し合いと実行、島の清掃、外来種の駆除、そして観光だ。観光というのは、島のよさを体感しないとアイディアを出しずらいだろうという、新井の考えによるものだった。さーて、明日から気合入れて頑張るぞ!ここの所加奈に起こされるという情けない朝が続いていたから、そろそろ形勢を逆転させないとな。
おやすみ!
翌朝、案の定加奈と航がなかなか起きてこないので、高田と孝介は起こしに行った。宿には一人用の小さな部屋が十ばかりあって、孝介たちはそのうちの四部屋を使っていた。
「加奈ちゃん朝ですよー」
加奈は、ビックリしたような恥ずかしいような表情を見せながら起きた。その後三人は航も起こしに行った。本来朝には強いはずの航も、ぐーすか寝ていた。
「サラリーマンのスケジュール管理能力思い知ったか!」
孝介が得意気に言った。
「さっ、さすがです。ショッピングモールの時とは立場が逆転してしまいましたね…」
航気まずそうに笑った。
四人はさっさと朝食を済ませ、迎えに来た新井の車で海辺へ向かった。今日の午前中は、海辺のゴミ拾いだ。
五人はゴム手袋をはめ、大きなポリ袋を担ぎながら海岸沿いにゴミ拾いをした。海のきれいなコバルトブルーとは対照的に、海辺には大量のごみが存在した。
「何でこんなに大量のゴミが存在するんですか?島の人が海辺に捨てるんですか?」
航が新井に質問する。
「そうか。君は海というものを知らないからわからないのかもしれないけど、これらのゴミは、本土から海に乗って運ばれてきたものなんだ」
「えー、本土は悪じゃないですか」
「まあそうだね、ある意味悪と言えるね」
新井は何やら複雑な表情を見せる。本土からの物資のおかげで我々は生きているけど、同時に、本土からのゴミで我々は汚されている…。
孝介と高田も話し始める。
「最近、中国が垂れ流した化学物質が、海からも空からも日本へやってきていますね」
「そうですね。あれもひどい話ですよね」
「それ関連のテレビ番組はプロデュースしたりしないんですか?」
「したことはないです。でも言われてみればやりたいですね。そろそろ彼らの横暴さには目をつむれなくなってきましたしね…」
「高田さんの毒舌力と企画力で、コテンパンに批評してやって下さいよ!」
「はははっ」
彼らはひたすらゴミを拾い続けたが、大分疲れてきたので十分ほど休憩することにした。
「のど渇いたー、水飲もっと!」
そういってペットボトルを取り出す加奈に対して、航が質問する。
「加奈ちゃん、水だったら海にたくさんあるじゃん!海の水は飲まないの?」
「飲めないことはないよ。飲んでみれば?」
加奈は必死に冷静さを装う。海水を飲んだ航は一瞬にして水を口から吐き出した。そして何度も咳をしながら加奈の元へ帰ってきた。
「何でこんなにしょっぱいの?」
「海水には塩がたくさん入ってるんだよ。だから海水は直には飲めないの…」
「だましたなっ!」
そういって航は加奈の頭を叩くふりをした。
ふと砂浜を見ると、きれいなガラス瓶が落ちていた。
「これ、きれいだね」
「うん、よくさあ…、ある人への思いを書いた紙をこの中に入れたりしてさあ、海へ投げたり地面に埋めたりするんだよ。タイムカプセルっていうんだけどさ…」
「へー、なんか詩的だね。島から出るとき、タイムカプセル作って海に投げ入れたいな」
「うん!あっ、でもゴミになっちゃう」
「それくらいいいんじゃない?本土にゴミを送ってやりましょう」
「はははっ」
彼らは必死にゴミ拾いをした。加奈と航は、砂浜が徐々にきれいになっていく姿に大きな充実感を感じていた。孝介は、話し相手が見つかったのでなんだか楽しそうだ。そして高田は、ゴミ拾いに精を出しつつも、中国の大気汚染や海洋汚染に関する番組の構成を練っていた。
時刻は既に十二時を回っていた。太陽が海辺をギラギラと照らしている。近所のおばちゃんたちが、おにぎりや煮物を差し入れしに来てくれたので、お昼にすることにした。
「やっぱり、ひと汗かいた後のおにぎりはいいっすねえ」
孝介が梅干しのおにぎりをほおばりながら言う。
「そうですねー」
高田も、珍しく自然な表情で、高菜のおにぎりを食べながら反応した。
「それにこのコバルトブルーの海を見ながらっていうのが最高ですね」
航が、コバルトブルーという覚えたての単語を使う。
「ラストブルーがコバルトブルーっていう単語使った!」
孝介がすかさずツッコみを入れた。
お昼の途中で、新井が午後の予定について説明を始めた。
「みなさん、お昼を食べた後は、シュノーケリングのインストラクターが来るまでここで待っていて下さい。インストラクターがここに迎えに来ます。島の北側にある海の洞窟へ行くので楽しみにしていてください。私はその間役場の仕事をこなしてきます。シュノーケリングが終わったら役場へ来てください。赤の一族に関する古文書を一緒に調べましょう!」
「はーい!」
皆が元気よく答えた。
一時間半後、四人はインストラクターと共に小型漁船に乗り、島の北側にある海の洞窟を目指している最中だ。全員シュノーケルとウェットスーツにフィンを身に付け波に揺られている。航は念のためライフジャケットを装備していた。
「みなさん、向こうに見える、ちょうど海面からひょっこり出ている直径十メートルくらいの半円が、洞窟への入り口です。海面下には様々な小魚がいますし、海自体は、岩の割れ目から入ってくる太陽の光で、透き通った濃い水色に見えます。頭上にはつらら状の鍾乳石も見えます。見忘れる物のないよう、目をぐるぐるさせて赤島マリンを満喫してください」
インストラクターが誇らしげに言った。
洞窟の近くに船を泊めると、加奈と孝介と高田、そして一人のインストラクターは一斉に海へ入り、スイスイと洞窟へ向かっていった。
加奈は思う。やっぱり海っていいなあ。小さい頃から病弱ではあったが、水泳だけは得意だった。この、静かでありながら華麗な世界…。物思いに耽りながら泳いでいると、あっという間に洞窟に着いた。孝介と高田も過去に水泳歴があるらしく、すぐに到着した。
「わー、きれい…」
意識よりも先に言葉が出てくる。洞窟の中はまるで水色の閃光が放たれているが如く美しかった。
「やっぱり地球は青かった」孝介がぼけた。
「宇宙から見なくても、ね」高田が合の手を入れた。
加奈たちに遅れること十分。ヘトヘトになった航が到着した。
「おー、なんなんだこの青の世界は…」
航はあまりにも感動しすぎて、疲れなど吹き飛んでしまった。
「航遅いじゃん、到着するのラストだよ」
孝介がツッコむ。
「ラストブルーの名にふさわしいじゃないですか」
航も応戦する。
「はははっ」
海から出ている部分の奥行きはさほどなかったが、海面下はかなり深くまであったので、航以外のメンバーは潜って海の中を堪能した。一方の航は、仰向けになって美しく静かな世界を心行くまで堪能した。
その後彼らは耐水性カメラで記念写真を撮り、南の港へ戻ってきた。シャワーを浴びて着替えを済ませると、インストラクターの奥さんがアイスを持ってきてくれた。
「これ、赤島名物のソベリアンっていう柑橘系の果物で作ったアイスなので、よかったらぜひ食べてください!」
「ソベリアン!」
加奈たちはびっくりして、思わず目を見合わせる。
疲れ果てた彼らにとって、ソベリアンアイスが最高においしく感じられた。甘酸っぱくてさわやかなその味…。加奈と航にとってはこれからやってくるであろう青春の味、そして高田と孝介にとっては青春を思い出させる味…。
四人は疲れが出る前にとっとと身支度をし、インストラクターと奥さんにお礼を言って役場へと向かった。役場へ着くと、新井もちょうど今日の業務を終えたばかりのようだった。
「洞窟はいかがでしたか?」
「いやー、もう言葉では表せないですね」
孝介の発言に対して航が反応する。
「それは、言葉では表せないという言葉で表しているわけですね?」
「うぉーい!それは面倒くさい」
「はははっ」
五人は、役場の一室にある資料室へ行った。電気をつけ部屋に入ると、何とも言い難い古臭いにおいが鼻をつく。資料室には、茶色くしわがれた本や資料が大量に横たわっていた。さっそく彼らは、赤の一族に関する資料を探した。
十分くらい経った後、高田が、五百年くらい前に赤島にやってきた宣教師の、日記のようなものを見つけた。孝介が得意の英語で、文を日本語訳する。
…赤の一族と呼ばれる彼らの水中能力は人間離れしていた。オーマイゴッド!と言わざるを得ない、長い人だと二十分以上も水中に潜っていられるようだ。私は祖国のオランダでもそんな人は見たことはないし、日本の本土でもそんな人は見たことがない。いったいどういう心肺機能をしているのだろうか…。彼らは神からどういう啓示を受けてこの世に誕生したのであろうか…。彼らは普段は穏やかなのだが、突然凶暴になることがある。それは人の表裏というよりは二重人格のようにさえ感じられるほどだ。私は現在些細なことで赤の一族の逆鱗に触れてしまい、牢獄に閉じ込められている。この島での布教は私の代だけではかなわないかもしれない…
「すごいですねー。新井さんの言ってた伝説っていうのはあながち間違ってなさそうですね…」
再び他の資料を探し始めた彼らだったが、今度は孝介が、七十年ほど前に初めて赤島を訪れた本土の人々の記録を見つけ出してきた。
…赤島に着いた我々は、住み心地もよく、大きな港もある南側の地帯を開拓することにした。北側には、先住民がかつて住んでいたであろう集落のようなものがあった。北側は住み心地が悪そうなのになぜ先住民は、南側ではなく北側に住み着いたのだろうか…。
加奈が少し興奮気味に話す。
「そういえば今日シュノーケリングした時に、洞窟の海底五メートルくらいのところに岩の割れ目があって…、何か他とは違う水の流れを感じたんですよ。もしかしたら、もしかしたらですよ!北側の地下には何かがあって、それゆえに赤の一族は北にすむようになったのかもしれませんね」
加奈はシュノーケリングをして以来、その岩の割れ目から出てくる変な水の流れが気になって仕方なかったのだ。あの地下には何かがある。加奈の直観がそう確信させていた。
「面白い推測だね、加奈ちゃん!」
もし本当にそうだとしたら、それこそオーマイゴッド!だ。
「可能性は低いと思うけどね」
高田の発言に加奈は少しムッとする。
「そういえば、赤の一族の村にあった石碑を撮ってコピーしたものがあるので見ていただけませんか?何かわかるかもしれません」
そういって新井が資料を持ってきた。石碑には、何やらよく分からない文字が書かれていた。
「なんですかねこの文字は?見たことすらないですね。一種の象形文字のようなそうでないような…。若干スワヒリ語にも似てるような…。島崎さんどうですか?」
高田が、かつて商社マンとして世界を駆けまわっていた島崎に尋ねた。
「うーん、こんな体裁の文字は見たことがないです…」
みなが首をかしげる中、航がしゃべり始める。
「我々赤の一族の残りも少なくなってきた」
「えっ、読めるの?」
加奈がすかさず突っ込んだ。
「青の一族が大切にしていた言語とかなり似ているので。恐らく関西弁と標準語の違いくらいしかないでしょう」
そういって航が再び読み始める。
「我々赤の一族も残り少なくなってきた。我々は諸刃の剣なのだろう…。強力な能力を持ってはいるが、非常に不安定。絶滅した時に備えてこの石碑を残す。我々がいなくなったとしても、我々の信仰は海底神殿の中で生き続ける。海底神殿へは、村長の家の地下から行ける。絶滅する前に、青の一族と巡り合うことを祈って…」
その内容に誰もが驚愕し、しばらく誰も言葉が出なかった。
「とっ、とりあえずかつての赤の一族の村へ行ってみましょう!」
加奈が興奮気味にいう。
「とりあえず落ち着こう。今行っても夜になっちゃうから明日朝に行こう」
そう言いつつも、高田もだいぶ興奮しているようだった。
「新井さん、明日の予定を変更して、朝から探索に行ってもいいですか?」
「もっ、もちろんです。ダイバーにも連絡を取っておきます」
その日の夜はみんななかなか寝付けなかった…。
翌朝、彼らは朝の六時に南の村を出発した。孝介、高田、加奈、航、新井の他に、新井が連れてきた島のダイバー二人も同行した。それぞれが胸に期待を膨らませる。新井は村の将来のこと、高田はテレビ番組のこと。そして航は自分の一族と赤の一族のこと…。
北の村跡に着くと、そこは何十年も手入れされていなかったせいで荒れ放題だった。七人はまず、村長の家を特定するために村全体を散策した。石造りの円柱形をした家がずらっと並んでいた。どうやらそれが普通の民家のようだ。村はさして広くなかったため、一時間ほどで村の地図を把握することができた。村の高台に、明らかにほかの家よりも数倍大きい、貫録のある家があったので、それが村長の家だとすぐに分かった。
「あれが村長の家のようですね。行ってみましょう」
みな新井の後に続いて村長の家の地下に入った。地下には七つの部屋があったので、それぞれが分かれて地下通路への階段を探した。
一時間くらい経っただろうか。地下への道は一向に見つからないので、彼らは一旦地上に集まった。誰もが落胆の色を隠せない。
「可能性は三つ。もっと入念に探せば道があるか、あるいはそもそも村長の家を間違えているか、そしてあるいは伝説など存在しないか」
孝介が場を取り仕切った。
「そんなに複雑な造りの家ではないから、入念に探しても扉は出てこないと思うな」
高田が言う。
「かといってほかに村長の家らしき建造物はないですしねえ」
新井が続く。
重い空気がしばらく漂ったが、加奈が闇夜を切り裂く一条の光をもたらした。
「赤の一族にとって海というのは神聖なものだったはずですよね。だとしたら村長の家というのは、大きさではなく、海に最も近いところにあるんじゃないですか?」
「なるほど!探してみよう」
村の海側を散策すると、明らかに海に近い家が一軒あった。一同はその家の地下に進んだ。
「何か隠し扉のようなものがありますよ」
地下は狭かったので、五分もたたないうちに新井が地下へつながっている扉を発見した。石でできた階段が永遠と下に続いているようだ。湿度は高いがひんやりとしていて気持ちいい。地下は暗いだろうということで、彼らは強力な懐中電灯を持ってきていたのだが、どうやら光がうまく地下に取り入れられているらしく、懐中電灯がなくても普通に進めた。靴が石の階段を踏む音だけが、地下にこだまする。
暫く歩いていると、彼らの前に頑丈そうな扉が現れた。開けようとしてもびくともしない。鍵穴のようなものが一つあるが、ものすごく奇抜な形をしている。
「あっ、この形は僕の身に付けている首飾りと同じですね」
そういってそのネックレスの先端を鍵穴に入れてひねると、扉はスムーズに開いた。
「石碑と言い扉と言い、赤の一族は青の一族の到着を待っているようだね」
「確かに…」
扉を開けると平坦な道が続いていた。
「ストップ!」
突然、先頭を歩いていた新井が皆を静止した。道が突如として切れていて、十メートルくらい先から再び道が続いていた。
「ここはどうやらラストブルーの出番だな」
孝介が促した。航は少し長めに助走をつけてジャンプした。向こう側に着くと同時に、空白の道に橋が出現した。
「絶句してしまうほどのジャンプ力ですね」
新井が目を丸くして言う。
「まあ、オリンピックに出たら確実に金メダルを獲得するでしょうね」
高田の発言に対し、加奈が追加する。
「圧倒的過ぎて、もはやプラチナメダルとか獲得しちゃいそう」
「はははっ」
その後再び階段が続いていた。どんどん進むと曲がり角が現れた。
「さーて、運命の曲がり角だ。角を曲がると再び強盗が出てきちゃうかな?」
孝介がいつも通りのジョークを言った。
「今度は僕らが赤の一族の宝物を奪う強盗になってしまうかもしれませんね」
航の切り返しに皆がほほ笑んだ。
そして角を曲がると…
「おー!ディープブルー」
「わー、素敵」
「うぉーい!漫画の世界かい」
そこには、世界広しと言えど、他に例がないんじゃないかというくらいの絶景が広がっていた。ディープブルーの深い海の中に、巨大な神殿のようなものがそびえ沈んでいる。
「これで赤島の観光も盤石ですね」
高田はそう言って新井と握手した。新井は、本格的な調査のためには本土から専門家を呼ぶ必要があると判断し、村長に電話を掛けた。新井が連れてきたダイバー二人は、神殿の全貌を把握するために酸素ボンベをつけて海に潜った。
「海の中に長くそして深く潜れる赤の一族だからこそ可能な建築物だね」
孝介の解説に、航と加奈は生徒のような表情で頷く。
「確かにそうですね」
その後、孝介と加奈は、ウェットスーツにフィン、シュノーケルをつけて素潜りをした。
「加奈ちゃーん、こんなに綺麗でミステリアスな海を自由に泳げるなんて最高の贅沢だ!一生に一回出会えるか出会えないかくらいの絶景だよ。人生三十五年の俺も、こんなに感動する景色は初めてだよ!」
「最近人生を歩き始めた私がこんな絶景に出会うということは、本当にラッキーな体験なんですね?」
「そうだね!人生過去がどうであったかが重要なんじゃなくて、今どう生きているかなんだよ。そして加奈ちゃんはこの景色に巡り合った。今を冒険していこうぜ!」
「はい!」
加奈も孝介もテンションが上がりすぎて海面で絶叫している。
一方航は泳げないので地上へ戻り、荒れ放題の村長の家の周りを整備することにした。生い茂った草をむしり取っていると、奥の方で鳥の鳴き声が聞こえてきた。聞いたことのある鳥の鳴き声だな。草をかき分けながら少し進むと、そこには傷を負った鷲が辛そうに横たわっていた。青の一族にとって狼もそうなのだが、鷲やハヤブサも、神であり友でもある存在だった。
「わがご先祖様、僕に能力を使わせてください」
航はそういった後、何やら謎の言葉を呟きはじめた。
たまたま地上に戻ってきていた高田が、その様子をこっそりと目撃してしまう。海底神殿の発見によってうずき始めた高田の欲望がさらに大きくなっていく。青の一族のこの姿や身体能力のすごさをフィルムに収めることができたなら…。最近俺の前では立て続けに奇跡が起こっている…。私はもはや敏腕プロデューサーではなく、伝説のプロデューサーになれるかもしれない…。
暗くなるまで調査を進めた彼らは、作業を切り上げ家路についた。夕飯を食べた後、高田と孝介は海底神殿についての議論でヒートアップした。
「島崎さん、あれはすごいですね。陸にあった都市が水没して海底都市になったパターンなら世界に色々とあるんですがね。カリブ海やインド、ギリシャとか」
「ええ、ただ海に直接建築物を作ったとなると赤島の他にはないですよね。あんな規模のものをよく作れましたね…」
「とても人間が作ったものとは思えませんね…」
「ただ最近は、赤の一族やら青の一族やら、常識を超えた能力の持ち主の存在も認めざるを得ない状況になってきましたよ…」
「はははっ…」
一方加奈と航は、星空がきれいに見えるという、宿から五百メートル程離れたヘリポートへ向かっていた。夜道に都心のような街灯は一切ないので、二人は懐中電灯を照らしながら、小高い山の舗装道路を進んだ。
「なんかお化け屋敷を歩いてるみたいでこわーい」
そういって加奈は、目をきょろきょろさせながら恐る恐る足取りを進めていく。
「キャー」
加奈が悲鳴を上げ、航の腕にしがみつく。
「加奈ちゃん大丈夫だよ、ほらっ、ただのガマガエルだって」
そういって航は懐中電灯をガマガエルに向けた。恐らく加奈以上にビックリしたガマガエルは、航バリのジャンプ力で逃げてゆく。
「航くんって怖いものはないの?」
「もちろんあるよ。第一に海、第二に山、第三に海千山千の高田さんかな…」
「ははっ、高田さんは確かに言えてる。でも山ってどういうこと?」
「海は入ったこともないし、どれくらい怖いかも知らないから怖いんだけど、山についてはその怖さを知っているからこそ怖いというのかな」
「なるほど!深いねえ。海抜五キロメートルくらい深いね!」
「はははっ」
暫く歩くとヘリポートが見えてきた。ちょうど山の中腹の平らな部分にあり、真ん中には大きな文字でHと書かれていた。夜空には無限の星たちが煌めいている。段差に足を取られ転びそうになる加奈を、航が俊敏な動きで支えた。
「ありがとう、航くんっていつも優しいね。でも…」
「でも?」
「誰に対しても同じように優しいよね…」
加奈が少し悲しげな表情で言う。
「そりゃあ誰に対しても優しい自分でいたいと思っているよ。当然じゃん!」
「あー、もう知らない!」
加奈は突然不機嫌になる。それに対して航が真剣な表情で言う。
「でも…」
「でも?」
「ほかのみんなに優しくしてるのは意識的というか義務感みたいな感じなんだけど、加奈ちゃんには自然に優しくなっちゃうんだ…」
「えっ…」
「何ていうんだろう…。加奈ちゃんは僕にとって特別な存在なんだ。家族でもなく友達でもなく…」
「航くん!」
加奈は、航の腕にしがみついた。二人は何も語らず海をただ眺めた。波が岩に当たって砕ける音がかすかに聞こえるだけで、ヘリポートには心地よい静けさが広がっていた。本来なら轟音と暴風を巻き起こす場所なだけに、そこには無限の静けさがあるようにさえ感じられた。
「そろそろ帰ろうか」
「うん!」
二人の去ったヘリポートに一陣の風が吹いた。草がこすれ合って音楽を奏でているようだ。風がやむと同時に、一羽の鷲がヘリポートから飛び立った。赤の一族の伝説が、島から解き放たれたことを暗示しているかのようなシーンだった。
翌朝というか夜が明ける前、四人は日の出を見るために、近くの小高い山の日の出スポットへ向かった。孝介が先頭を歩き、加奈と航が真ん中を、そして高田は一番後ろからついてくる。孝介は昨日、高田と宿を経営している夫婦と共に心行くまで酒を飲んだらしくやたら機嫌が良い。時々口笛を吹いたりしている。よくもまあこんな早い時間に起きれたものだ。興奮という名の薬が、一時的に疲れを麻痺させているのだろう。
十五分くらい舗装道路を歩くと、日の出スポットという看板と共に山へ続く道が出現した。そしてまた十五分くらい歩くと、海を臨んだ崖の上のような場所に到着した。四人は岩に腰掛け日の出を待つ。
「おー!」
歓声と共に太陽が水平線の彼方へ現れ始めた。オレンジとピンクが混ざったような淡い光が差し込んでくる。
加奈は思う。一日の始まりかあ。私の人生もこれから始まるんだ…。
高田は考える。日の出…。俺の人生も再びはじける時がやってきたか。再ブレイク。野望の新たな始まり。
孝介は思う。俺の人生に、再生の始まりはやってくるのだろうか。
航は思う。一族の新たな始まり…、そんな予感がする。
日はあっという間に昇ってしまった。
「桜もはかないけど、日の出もはかないなあ…」
孝介がしみじみとした様子で言う。
「そうですね。散ってしまうはかなさもあれば、咲いてしまうというはかなさもあるということですね」
高田がまとめる。
「なんだか難しいなあ…」
頭を抱える航に対して孝介が言う。
「航もいつか分かる時が来るって。いつの間にか分かってる、でもまたいつの間にか分からなくなってる、そんなものだと思うよ」
「はあ…」
四人は宿に帰って納豆、刺身、味噌汁、ごはんという豪華な朝食を食べた後、おとといとは別の海岸へ行ってゴミ拾いをした。海底遺跡へ行きたいという気持ちが強かったのだが、かなりの深さがある上に規模も大きいため、専門家とダイバーの集団に任せることにしたのだ。
「新井さんから、赤島名物キャラクターのアイディアを出してくれって言われてるんだけどさあ、何かアイディアある?」
孝介の問いかけに、まずは高田が答える。
「行きの船でも出たアイディアだけどさあ、やっぱり人魚姫みたいなキャラクターがいいんじゃない?」
「そうだね、赤の一族がもつ特異な遊泳能力と結びつけるなら人魚が一番いい気がする」
「賛成!」加奈も大きな声で同意した。
「古文書も神殿も見つかった以上、でっち上げでも何でもなくなるしね!」
航が追加した。
「名前はどうする?」
孝介が問いかけた。
「人魚姫の赤ちゃんっていうのはどう?」
加奈が提案した。
「なるほど!赤をかけているわけね。結構いいアイディアかも」
その後、レッドマーメイドや赤の天使、ソベリアーヌなど様々な意見が出たので、新井から渡された報告用紙にまとめた。
「あと、人魚姫コンテストなるものを開催したら盛り上がるんじゃないかな?」
高田が提案する。この男、次から次へと色々なアイディアを出すところは、さすがテレビ局のプロデューサーといったところか。
「マリンエンジェル決定戦的な?」
「そうそう」
彼らは、将来の赤島の繁栄を妄想しながら、ゴミ拾いに精を出す。
昼になると、この前のおばちゃんが、再びおにぎりと煮物の差し入れを持ってきてくれた。
「ご苦労様。今日のお別れ会、楽しみにしているよ」
おばちゃんはそういって去って行った。孝介たちは明日の夜の便で帰るため、今日の夜にお別れ会をやることになっていたのだ。今は島全体が、海底神殿発見で大いに沸き立っていた。町全体をあげてのお祭り騒ぎになるだろう。
「高田さんはいつも高菜のおにぎりですね」
いつも鮭のおにぎりばかり食べる航が聞く。航は海の幸を食べて以来、すっかり魚介類にはまってしまったのだった。
「高菜は王道ではないんだが、このすっぱうまさが堪らないんだ」
「へー、そうなんですか…」
そういって航は、高菜のおにぎりに手を伸ばす。
「うーん、うまい!」
高田と航は握手を交わした。
「小さな友情見つけちゃいましたか!」
孝介がすかさずツッコミを入れた。
しばし食休みをした後、彼らは外来種の蛇とトカゲがよく出没するという山の中腹へ、ガイドのおじいちゃんと共に車で向かった。外来種の問題は特に表面化しているわけではないのだが、将来に備えて村としても力を入れているらしい。今日は、仕掛けた罠に外来種が引っ掛かっているかどうかの確認と、新たな罠の設置を行うことになっている。
「島へ入るときも靴の裏を洗わせられましたが、ずいぶんと外来種対策に力を入れているようですね」
孝介がおじいちゃんに尋ねた。
「そうねんですよ。外来種が繁栄して手が付けられなくなる前に、何とかしておかないと大変なことになりますからね…」
現場に着くと、三十メートルくらいの間隔で仕掛けられている罠を続々と見て回った。時々、見たこともないような鮮やかな色の蛇やトカゲがひっかかっていた。
孝介は思う。早めに芽を摘み取るのは大事なことだよな。悪い予兆を早めに摘み取れなかったせいで、俺は妻も仕事も失ってしまったのかもしれない。
「加奈ちゃん、僕もある意味外来種なのかな?」
航が突然、神妙な面持ちで聞く。
「うーん、ある意味ではそうなのかもしれない。でも別の意味では救世主かもしれないし…。なんであれ、航くんは私たちにとってかけがえのない存在だよ!」
「そっか、ありがとう」
「もし航を駆逐しようとするやつがいたら、俺が真っ先に行ってボコボコにしてやるよ」
調子に乗って大げさなことを言った孝介であったが、加奈にツッコミを入れられる。
「でも、みぞおちを殴られ、一ラウンドノックアウトになりそうですけどね…」
「うぉーい!返す言葉がないです」
「はははっ」
その時、紫色の蛇が突然高田めがけて飛びかかってきた。航が俊敏な動きで蛇に手刀を食らわせ、蛇は地面にボトリと落ちた。
「おー、危なかった。青の一族に感謝だな」
「それにしてもものすごい俊敏な動きじゃね。動物並だ」
おじいちゃんも航の素早さにはびっくりしているようだ。
その後新たに罠を仕掛けたり、航が素手で何匹も蛇を捕まえるなどの出来事があり、時は穏やかに流れて行った。そして夕方になると作業を切り上げ、お別れ会の会場である村役場へ向かった。
役場の周辺には焼きそばや金魚すくいの屋台が出ていて、さながらお祭りも同然だった。島民がほぼ全員集合していたので、孝介たちは久しぶりに人口密度の高さを味わっていた。村長の手招きで、四人は役場のすぐ横に設置された壇の上に立った。
「みなさん、主役の四人が到着しました!」
村長の発声と共に、拍手と歓声が鳴り響く。そして再び村長が彼らを称え、他己紹介を始めた。
「高田さんは、プロデューサーならではの様々なアイディアを出して我々を導いてくれました。航くんは、赤の一族が残した暗号を読み解き、海底神殿へ至る様々な場面で活躍してくれました。加奈ちゃんは、海底神殿への道を発見してくれました。そして…」
みんなが、笑いをこらえながら一瞬の間を作る。
「うぉーい!またしても俺の存在感なしですかい!」
その瞬間、みなが笑い出した。
「そして島崎さんは、我々が出会うきっかけを作ってくれました。持ち前の明るいキャラクターで我々との懸け橋を作り、我々が進むべき道を照らしてくれました。本当にありがとう!」
盛大な拍手の中で孝介は思う。そんなに褒められたんじゃ調子狂うな…。いつもはけなされるキャラだから…。
「みんなカンパーイ!」
村長の掛け声とともに皆が一斉にお酒を飲みだした。高田も今回ばかりはかなりのハイテンションでお酒を飲んでいるようだ。
隅の方の、人があまりいないところで新井と孝介が話をしている。
「いやー、なんだか縁って不思議ですね」
「そうですね…。まさに奇跡ですよ」
「今後のことを思うとウキウキが止まりません」
「ただ、急激に状況が変わると思わぬ落とし穴が待っているかもしれません。冷静に赤島の観光化を進めてくださいね」
新井は思う。やっぱり島崎さんは視野が広いなあ。高田さんはアイディアマンではあるが視野は若干狭い。二人の個性が本当にうまくマッチングしてくれたなあ…。
時が経つにつれ、役場の周辺から一人また一人と帰宅していった。そして夜中には誰もいなくなった。転がった空き缶が、夜の優しい風に吹かれてカランコロンと楽しそうな音を奏でていた。
翌日、最終日は午前中に再びゴミ拾いをして、午後は島で一番高い山でハイキングをした。そして夜の七時、島民に見送られながら赤島ジェットライナーは出航した。出向して一時間後、彼らは各自で作ったタイムカプセルを持ち寄り、甲板に集まった。加奈は、和紙に書いた想いをオレンジ色のビンに入れてきた。航は、ゴミ拾いで拾った薄いプラスチックのシートに想いを書き、青色のビンに入れてきた。孝介は、単なる白い紙に想いを書き、単なる透明のビンに入れてきた。高田は、電子記憶媒体を密閉容器に入れて持ってきた。一斉に海に投げ入れ、見えなくなるまで見送った。
「あー、楽しかった。でも…」
加奈が寂しげな表情で続ける。
「でも、もう終わっちゃったと思うとなんだか悲しいような寂しいような…」
「加奈ちゃん、人間にはね、二種類の悲しさがあるんだけど、何と何だと思う?」
孝介が問いかけた。
「えっ、なんですか?全然わからないです」
「それはね、何かを達成できないときの悲しさと、何かを達成してしまった時の悲しさなんだ」
加奈は、はじめはキョトンとしていたが、今の自分の状況が後者であることに気付くと、納得した表情を見せた。
「深いですねー」航もうんうんと頷いた。
「どのくらい?」高田が笑いながら聞く。
「海抜七キロメートルくらい深いです」航も笑いながら答えた。
その夜彼らは早々に寝てしまった。興奮でごまかされていた眠気が一気に襲ってきたのだ。赤島に奇跡をもたらした彼らの存在は、やがて石碑に刻まれることになるだろう。
(8)森本早希
時をさかのぼること一週間ほど前、森本早希は、依頼主の田中美雪の家を訪ねていた。早希は、盗聴器を発見するための専用の機器を持ちながら、家の構造をじっくりと観察した。窓のカギはクレッセント、部屋はキッチンとトイレにリビング、ベランダの構造は…。
「やはり機器の反応具合からしても、家のどこかに盗聴器が仕掛けられている可能性が高いですね」
「やっぱりそうですか…。もう、やだ…」
田中美雪から依頼があったのは三日前のことだ。別れたばかりの元カレから、明らかに盗聴してるとしか思えないような気持ち悪いメールが届くということで、盗聴器を探してほしいというのが依頼内容だった。
早希は、盗聴器がどこにあるかすでに分かっているくせに、部屋の色々なところへ行き観察を続けた。あの引き出しには金が入っていそうだな。あの鉢植えの下には何かのカギが隠してあるな。部屋の様子からすると年収四百万円くらいだろうか。いつもの癖で一通り部屋を観察した後で、ここに違いない!とわざとらしく発言し、テレビのコンセント挿入口の奥に盗聴器を発見した。田中美雪は、安心したような怒ったような表情で何度もお礼を言い、五千円プラス交通費三百六十円を早希に渡した。
森本早希の職業は探偵だ。都内のオフィスの一角に、森本探偵事務所を構えている。浮気調査から盗聴器探索、あの人は今どこで何をしているのか、ということまで幅広く依頼を受けている。ところがこの事務所には裏の顔がある。一つは、探偵業で得た様々な個人情報を、強盗や窃盗団に売っているということだ。今回の依頼者に関しては売るほどの価値もないが、豪邸に関する情報はかなり売れる。裏の社会でも、森本探偵事務所は正確で質の良い情報を売るという信頼を得ていた。そしてもう一つの顔が、鍵開け師としての顔である。早希の今は亡き父親が、鍵開け師として有名で、早希もその技術を受け継いだ流れだ。情報屋の早希、あるいは鍵開け師の早希として、裏社会でその存在を知られていた。
オフィスに戻ると、部下の上条くんももう戻っていた。
「早希さんお疲れ様です」
「お疲れ~。上条くん聞いてよ。今朝の電車で優先席付近に乗ってたんだけどさあ、調子に乗ったオヤジがさあ、私が聞いてる音楽のボリュームが大きいとかでいちゃもん付けてきてさあ…、マジうざかった。大声でキレたらびびっちゃってさあ、ほんとむかついた」
上条くんは愛想笑いをした。そう、早希はとても凶暴な性格なのだ。年は三十歳、独身。昔から相当荒れていたらしい。
「ところで早希さん、とある情報筋からとんでもないネタを仕入れましたよ」
「どんなネタ?」
「しののめ銀行に関する財宝伝説です」
「いいよそういうの」
「丸の内にあるしののめ銀行本店には、実は巨大な地下倉庫があって、セレブ達が持っている高価なもの貴重なものを現物管理しているそうです」
早希は瞬時に考えた。まずはセレブになりすまし銀行に通い詰める。同時並行で元しののめ銀行の幹部社員から情報を買う。そして…。
「あと、しののめ銀行の会長には一人娘がいるんですが、この前なんだかよく分からない依頼をしに我々を訪れて来たんですよ」
「ほう…」
そしてその娘の家に盗聴器もしかけよう。
「最近話題のSML強盗団にだったら、前払い金二百万、成功報酬五千万円くらいで売れそうね」
「ちなみにSMLってなんの略でしたっけ?」
「スモール、ミドル、ラージの略よ。大小さまざまな強盗をやっているらしいね」
「なんだか単純な名前ですね」
「あっ、そうだ。私最近納得いかないことがあってさあ、SサイズとかMサイズとかってよく言うじゃん。でも例えばLサイズだったらアルファベット二十六文字のうちの十二番目だから、二十六段階のうちの十二番目っていう風に勘違いしちゃわない?」
「はははっ、そんな風に思うのは恐らく日本に二人くらいしかいないんじゃないですか?」
上条は、不機嫌になりそうな早希の様子を見て慌てて訂正した。
(9)作戦
ボランティアから帰った日の翌日、加奈と航は計画を実行するためにひたすら電話を待っていた。丸の内へは明日行くことになっており、孝介は疲れを取りたいといってずっとゴロゴロしてテレビを見ていた。
「早くかかってこないかなあ」
「待っていると長いもんだね。島崎さんも言ってたね。夢中で何かをやっているときは時がたつのは早いけど、夢中でやりたいことを待っている時間はとても長く感じられるって。そう考えると物理法則ってなんなんだろうね…」
二人は時々貧乏ゆすりをしたりしてひたすら時が経つのを待った。
「プルルルル」
「はいっ、こちら水のトラブル解決隊です」
「あの…、突然水が出なくなっちゃったので見ていただきたいのですが…」
加奈は住所を聞き、二時に自宅に伺うことを伝え電話を切った。
「よしっ、航くん。中村に、島崎さんの奥さんの実家まで送ってもらおう!」
実は加奈は、赤島へ行く直前に、隣町にある森本探偵事務所にある依頼をしていた。島崎の妻の結婚以前の姓も島崎であることを知った時に思いついたのだった。依頼内容は、ボランティアから帰った翌日の午後、奥さんの実家の水道に、トラブルが起こったように見せかける設定をすること。そして、水のトラブル解決隊という架空の業者=加奈に電話を掛けるように仕向けること、だった。
奥さんの実家の前に着くと、加奈が言った。
「人に好印象を与えるには、初対面の印象が大事だからね!」
「オッケー!元気よく演技していこー」
二人はドアの前に立ち、チャイムを鳴らした。ドアがガチャっと開いた。
「はじめまして!水のトラブル解決隊の青山です」
爽やかな声が響き渡った。よーし、ここまでは順調。
部屋では、妻の陽子と小学校一年生で娘の詩織、祖母の三人が、お菓子を食べながらテレビを見ていた。
「かわいい娘さんですねー。中心派、いや、日本で一番かわいい娘さんですねー」
航の発言に、場の空気がぎこちなくなる。娘の詩織だけが自然な笑顔を見せた。あー、早くも順調じゃなくなっちゃったなあ…。お世辞の度合いが半端なさすぎ…。
加奈と航は台所へ行き、水道の修理をしながら、陽子たちに聞こえるように大きな声で話し始めた。
「そういえば島崎っていう名字を聞くと、あの島崎さんが思い浮かぶね。もちろんここの家とは全く関係ないと思うけどさあ」
「そうだね。島崎さん最近元気ないけど大丈夫かなあ。会社は辞めさせられるわ、離婚されるわで、大分辛そうだよね」
居間では陽子と祖母が顔を見合わせ、テレビの音を少し小さくした。
「島崎さん娘にすごく会いたがってたよね。年中自分を責めてるし…。すべて俺が悪いんだとか…。普段はとても明るいんだけどかなり落ち込んでるみたいだよね」
「あんなに優しくてユーモアのセンスもあって、頼りになる島崎さんがなんで離婚しちゃったんだろうね…」
陽子はもはやテレビなど見ていない。全神経を耳に集中させる。
「島崎さんって人望も厚くて親しみやすいキャラクターだし、僕にとっては先生みたいな存在なんだけどな」
「そうだね。私島崎さんがいなかったら今頃どうなってたか分らないよ…」
三十分後、修理を終えた二人を、陽子が玄関まで見送りに来た。
「ありがとうございました。あのー、さっきあなたたちが話していた島崎っていう人の、下の名前ってわかりますか?」
「いや、もちろんあなた様とは全く関係ない方なんですがね、下の名前…。確かコウスケだったと思います」
「そうですか…」
陽子は複雑な表情を見せながら二人を見送った。
帰り際に加奈がハツラツと言った。
「島崎さんの思いが、あの人たちに届くといいね」
「うん!思いは…きっと届くはず!」
(10)しののめ銀行
翌日、加奈、航、孝介の三人は東京丸の内に出かけた。東京駅で下車し、丸の内北口から外に出た。横断歩道を渡って左斜め後ろを見ると、東京駅舎がその姿を現した。
「わー、すごーい」
加奈が歓声を上げた。
レンガ造りの壁に、イスラム教のモスクのような屋根が付いたかわいらしい建物だった。
「加奈ちゃん、昼間の東京駅舎もいいけど、夜になるとさらにいいんだよ。シャンパンゴールドにライトアップされた駅舎が、さらに素敵な雰囲気を醸し出すんだ」
孝介が得意げに言う。
「えー、すごーい」
「島崎さん今日は調子がよさそうですね」
航が安心した表情で聞いた。
「そりゃあもう、昨日は一日中ゴロゴロダラダラしてたからばっちりだよ。そういや加奈ちゃんと航は何してたの?」
「それは秘密です」
航が得意げに答えた。
「まあ、一言で言うならガツガツグイグイしてました」
加奈が同じく得意げな表情で付け足した。
「うぉーい!俺だけ仲間外れ!寂しいよー」
三人は様々な商業施設が並ぶ石畳の通りを抜けて皇居散歩をした後、しののめ銀行へ向かった。
「あの角を左に曲がるとしののめ銀行本店だ」
「また何かが起こるかもしれませんね」
「もうこりごりだ」
銀行の門には警察官がひとり立っていた。
「あれが正義の味方ですかー。ちょっと握手でもしてもらいましょう!」
どうやら航は、高田の影響により、人と仲良くなりたいときに握手するという、アメリカ人みたいな習慣がついてしまったようだ。
銀行の中へ入ると、行員のおばちゃんがどういったご用でしょう?と聞いてきた。用事など何も考えていなかった三人は一瞬焦ったが、お金を下ろしに来ましたと言って適当に取り繕った。
「これが銀行ってやつですか。お金を牛耳る悪徳業者なのに警察官がいるなんて面白いですねー。これが社会の矛盾ってやつですか?」
航の、普通の人からしたらへんてこりんな発言に、一同が注目する。加奈と孝介は恥ずかしさをごまかすために無理矢理笑ったりした。
その時だった…。
突然十人くらいの覆面をした強盗が、ピストルを片手に持ちながら乱入してきた!門の警察官は、電気スタンガンの餌食になってしまったようだ。
「おい、お前ら!床にひれ伏せ!」
強盗が怒鳴り散らしながら進撃してくる。守衛室も、正面からの侵入と同時に裏口から入った強盗により占拠されたらしく、門の自動の二重扉は完全に封鎖されてしまった。その場にいた人は恐怖におののき、全員が床にひれ伏した。一旦静かになったのを見計らったかのように、強盗のリーダー核の男が話し始めた。
「ご安心下さい。今から皆さんを人質として、二階のVIPルームに十人ずつくらいに分けて閉じ込めますが、特におかしな行動をしなければ危害は加えません」
加奈たち三人も、他の六人と共に、二階のVIPルームの一室に閉じ込められた。VIPの秘密を守るためなのかどうかは知らないが、部屋は防音加工された分厚い壁で覆われ、窓は一つもなかった。強盗にとっては非常に都合のよい監禁場所ということになる。
「トイレに行きたいときだけノックしろ。ただし一人ずつだけだ。それ以外は絶対に外には出させない」
そういって強盗はドアに鍵をガチャっと掛けてしまった。
十五分くらい経っただろうか。突然の出来事でパニック状態になっていた彼らであったが、孝介が意を決して話し始めた。
「もう起こってしまったことはどうしようもない。無言で恐々としていても神経がすり減るだけだから、どうせなら自己紹介でもしましょーや」
加奈と航がそうですねと言ったことで、他のみんなも同調し始めた。
「俺は島崎孝介って言います。ぶっちゃけて言うと現在失業中、妻とも離婚し、混迷した人生を送っています」
孝介から自己紹介が始まった。
「僕は青山航って言います。ニートです」
「私は板ノ倉加奈って言います。同じくニートです」
しょっぱなの三人がいきなり全員無職だったために、他の六人は、恐怖を超えて少し笑ってしまった。
「ボクはエリック・ヌワングです。ケニアからやってきました。南北大学の交換留学生です。マラソンをやっています」
黒人のエリックが言った。
「エリックさん、あなたはもしや黒の一族ですか?」
航が興味深げに聞いた。黒人ということでバカにされたと思い込んだエリックは怒りはじめる。
「オマエ、黒人をバカにしているのか、ふざけるな!」
見かねた孝介が久々に助け舟を出す。
「エリック!航をよく見てみろ。肌が青っぽいだろ。彼もいわば差別を受けてきた側の人間なんだ。立場は同じだろ?」
航のことを観察したエリックは、落ち着きを取り戻した。
「オーマイゴッド!ジャパニーズはイエローだと思っていましたが、ブルーもいるんですね!」
そういってエリックは航と握手をした。他の人はパニックに輪をかけたような展開に、もう開き直るしかなかった。パニック×パニック=正常、ちょうどマイナス×マイナス=プラスのように。あるいはルートマイナス一×ルートマイナス一=マイナス一になるように…。なんていうんだろう。世の中には二つの軸で考えていても解決しないことがあるが、また別の次元のものを介入させると途端に解決することがある。例えば、アメリカとロシアが対立しているときに、宇宙人が地球を侵略してきたら、恐らくアメリカとロシアは妙なワールドナショナリズムのようなもので仲良くなってしまうだろう。航は言わば第三者あるいは第三の次元のような存在だ。青の次元とでもいうべきか…。宇宙人もしくはジョーカーのような存在なのかもしれない。
「エリックが南北大学の周りを走ってるとき、偶然見たことがあるけど、すごくきれいな走り方だよな。つま先から地面に着地するフォームがすごくなだらかに見えたよ。標高二千メートルの山で鍛えられた肉体はさすがだな」
孝介が言った。
「ありがとうございます」
エリックは照れている。
「標高二千メートル?僕もそれくらいの山々で育ちました。僕も走るの得意だから、今度競争でもしようよ」
航が興奮気味に言った。
「いいですよ。楽しく勝負でもしましょう」
エリックは楽勝モードだ。
「エリック、航を舐めない方がいいよ。マラソンはある程度鍛えないと難しいと思うけど、こいつの身体能力は世界一だからさ!」
孝介の主張に皆は戸惑った。
みな、落ち着きを取り戻し始めたように見えたが、一人だけ目が泳ぎ、顔が引きつっている青年がいることを孝介は見逃さなかった。
「おいっ、君は大丈夫か?気分でも悪いかい?」
青年は大丈夫です…というがどうも様子がおかしい。
「この際だから言っちゃいなよ」
加奈が青年に寄り添い促す。こんな時のかわいい系お姉さんの効果はウルトラ級だ。
「僕は田辺と言います。実は…、今日は口座に残っていた最後の一万円を下ろしに来たんです…」
「ラストマネーだな」島崎が言う。
「そうですね」航がうなずく。
「僕は現在高校二年生なのですが、同じクラスのがめつい連中にたかられてて…。毎月お金を要求されるんです。いくらバイトしても足りなくて…五万円を求められているのですが…もう一万円しか残っていなくて…」
隣にいた加奈が手首の傷に気付く。孝介が天井を見上げながら語った。
「リストカットか…。つらいよな…おじさんも中学生の時、クラスの中心メンバーからいじめられててさ…親にも先生にも相談できなくて…死のうと思ったこともあった。たぶん周りの人は死んじゃだめだ!とか命を大切にしろ!とかしきりに言うと思うけどさ…今は死なない程度に存分に苦しみを味わっちゃえ!田辺くん、人生っていうのは突然道が開けるものなんだよ…絶え間ない苦しみの中で唐突に道は見えてくるんだよ…」
孝介の涙ながらの話に、田辺くんは少し心を打たれたようだった。
航が割り込んでくる。
「加奈ちゃん、リストカットって何?」
「えーと、自殺につながるような自傷行為のこと。カッターで自らの手首を切ることを言うんだ」
航は袖をまくり、田辺くんに自分の手首を見せた。田辺くんは激しくびっくりする。
「えっ!航さんもリストカットを?」
よーく見てみると航の手首には、ナイフで切りつけたような傷跡がたくさんあった。そのことを知らなかった加奈と孝介は唖然とした。
航が熱く語りだす。
「田辺くん!自殺のためにリストカットするなんて絶対だめだよ。リストカットは、命を懸けて人を助けるときにしか使っちゃダメなんだよ!」
一同は再びパニック状態に陥った。彼は一体全体何なんだ?
所変わってここはNSWテレビ局の一室。
高田は、コーヒーを飲みながら、赤島土産のソベリアンマドレーヌを食べていた。高田は、青の一族や赤島海底神殿、中国の大気汚染問題などのテーマを今後どう料理するか楽しそうに考えていた。
突然ノックもせずにドアが開かれた。部下の奥山が必死の形相をしている。
「おい、ノックくらい…」
高田の怒りを遮って、奥山が大声で話し始めた。
「たっ、大変です、高田さん。しののめ銀行本店で立てこもり強盗事件が発生しました」
その瞬間、高田の表情が一変し、大声で怒鳴り始めた。高田にスイッチが入った時のボリュームは、声が大きい体育の教師よりもはるかに大きな音と化す。
「しののめ銀行で立てこもり強盗事件!」
「はい、現在各方面から情報を収集中です」
「早く現場へ駆けつけろ!」
「はい、そのつもりなのですが、現在さまざまな道で交通規制が張られていまして…」
「ふざけるな!そんなのはどうでもいいんだ!車、電車、船、ヘリコプター、すべてのパターンで人員を派遣しろ!今すぐだ!」
「はっ、はい!」
しののめ銀行と言えば、加奈ちゃんの父親が会長を務める日本一規模の大きい銀行だぞ…。前代未聞の大事件だ。スクープ映像を撮れなかったら俺の名折れだな。絶対に絶好のポジションを確保してやる。しののめ銀行まではここから十五キロほどだったはずだ。俺は自転車で行くとするか…。
「おいっ、奥山!俺らは自転車だ!」
「はい!」
所変わってこちらは警視庁のしののめ銀行強盗事件特別対策本部。
突然の大規模強盗事件なだけに全員に緊張が走っている。
「三田本部長!犯人から電話が掛かってきました!」
「早く回せ!」
三田がテープ班に合図をして、一回咳ばらいをした後受話器を取った。
「もしもし」
「私は今回の襲撃事件の主犯格の者だ。今現在、しののめ銀行のあらゆるところから金品をあさっている。一時間後に脱出用のヘリコプターを一機、屋上のヘリポートまでもってこい。十五人くらい乗れる大型のやつを用意しろ。用意できない場合は十分おきに人質を殺していく。それから…衆議院議員の板ノ倉退助の孫であり、しののめ銀行会長の板ノ倉義治の娘である、板ノ倉加奈の命も預かっているということを忘れるな。いつでも簡単に殺すことができるんだ」
そういって主犯格の男は一方的に電話を切った。
「くそっ!」
そのやり取りを聞いていた一人の警部補が、隣の警部に話しかける。
「しかし妙ですね…。娘を人質に取っておきながら金を要求してこないなんて…」
「そもそも現場に大量の金品があるんだ。渡される方が確実だが、リスクは高いのだろう」
「確かに…」
本部長が大声で叫ぶ。
「A班は大型のヘリコプターを用意しろ!B班は板ノ倉氏の自宅へ行け!そしてC班は万が一の時に銀行に突入させる特殊部隊を手配しろ!」
警官たちは大慌てで準備に取り掛かった。
再びしののめ銀行本店。銀行の周囲にはバリケードが張られ、警官が警備にあたっている。野次馬も徐々に集まり始めていた。
そして孝介たちのいる一室ではまだ何も動きはない。
かなり太っていて、まあまあブサイクな顔立ちの男が、神妙な面持ちで話し始める。
「私は亀田隆と言います。みなさん色々な悩みを持っているんですね。この際だから私の悩みも聞いてください。私はもう三十歳になるのですが彼女がいません。とういうか、彼女ができたことが一回もないんです…」
それに対して航が反応する。
「彼女?彼女っていうのは三人称単数の女性のことですよね?そうすると、彼女がいないっていうことはどういうことなんですか?地球上に女性が全くいなくなるということですか?」
亀田は、先ほどから続いている航のハチャメチャぶりに戸惑いを隠せない。
「君、彼女の意味わからないの?」
「はい、その文脈での意味が分からないです」
「君結構かっこいいのに彼女とかいたことないの?」
「つまり、彼女っていうのは何ですか?」
事態を見かねた孝介が再び助け舟を出した。
「今の場合だなあ、彼女っていうのは恋人のことを指しているんだ」
「恋人ってなんですか?」
「恋人っていうのはなあ、家族でもなく友達でもない、特別な存在の異性のことだ」
その瞬間、航は加奈のことを見つめた。加奈も思わず航のことを見つめた。
「亀田さん、恋人がいないとどうして悩むんですか?」
航が眉間にしわを寄せながら納得いかない表情で言う。
「えっ、つまりそのさあ…」
「すまんね亀田さん、こいつはさあ、ちょっと複雑な事情を抱えているんだよ」
再び孝介が助け舟を出した。
「でも、なんだか航くんと話していると不思議な気分になります。自分の悩みがバカらしくなってくるというか…」
「だろっ?」
「亀田さん、人には二種類の悲しみがあるって知ってますか?」
加奈が得意げにいう。
「うーん、なんだろう…」
「一つは、目的を達成できない悲しさ。そしてもう一つは、目的を達成してしまった悲しさです」
「なるほど…」
「つまり、今は彼女が出来なくて悩んでるんだろうが、彼女ができても悩みは尽きないっていうことだよ。あまり一つの考えに執着しない方がいい。俺は思うんだが人生ってうまくいくようにできてるんだ。今彼女がいなくて悩んでるのも後のハッピーな出来事のための伏線に違いない。明るい心持を保つことが秘訣だな!」
孝介が付け足した。
「ありがとうございます!」
皆が静かにほほ笑んだ。
「私も話してもよろしいでしょうか?」
銀行の制服を着た、二十代後半くらいに見える女性が話し始めた。
「坂野敦子と言います。私は最近寂しくて仕方がないんです…。ただひたすら孤独を感じているんです。毎日毎日朝から晩までひたすら働き、お客さんとは自己を隠した表面的な話ばかりして…。気づいたら親も恋人も友達もいなくて…。毎日が怖いんです。銀行強盗の怖さとはまたちがうんです。永遠と続くような果てしない恐怖を感じているんです。私このままどうなってしまうんだろうって…。すいません、子供じみた情けない話で…」
隣にいたおばあちゃんが話し始めた。
「孤独っていうのはその人に一生付きまとうんだよ。逃げようとしても逃げようとしても付いてくる。影のようなもんなんじゃよ。私も夫に先立たれ、娘夫婦はアメリカで暮らしていて、近所に悩みを打ち明けられるような人もいない。私なんか孤独死に大分近づいているよ」
しばしの沈黙が流れた。
「何ていうか、今の日本社会って本当に無縁社会ですよね。やっぱり人と人とが結びつくにはある程度の強制力って必要だと思うんですよ。小学校とか中学校みたいな感じで、シニアの学校とかアラサーの学校とか、そういうのを作るべきだと私は思っています」
孝介が熱く語り始めた。
「でさあ、銀行員の若いOL板野さん」
孝介が続けた。
「はい…」
「手っ取り早い解決策としてさあ、俺と友達になりましょう!別に変な意味じゃなくてさあ。一緒に飯食って酒飲んで騒いで、そこのお堀にスーツ姿のままダイブして警察に怒られたりしようよ!人生思い切ったことしないと何も開けてこないしさあ」
板野ははにかみ賛成した。
「あのう…僕も一緒に行っていいですか?」
太った男、亀田が言う。
「もちろんだ!それから加奈ちゃんと航はさあ、一か月に一回くらいおばあちゃんの家に遊びに行ったれよ」
「はい、是非!それからかわいい柴犬も連れてってあげようよ」
加奈が元気よく答えた。
「あらまあ、それは、それは嬉しい。美味しい煮物とおにぎりでも作って待ってるね」
おばあちゃんは嬉しそうだ。
「鮭と高菜のおにぎりお願いしまーす」
航が割り込んできた。
「うぉーい!自ら要求しちゃってるよ」
孝介がすかさず突っ込んだ。
これで、一人を除いて全員が自己紹介したことになる。そしてその一人は悩んでいた。私はこんなことをしていていいのだろうか?彼女の心も、航や孝介の影響を受け始めていた。
一分後、突然ドアが開いた。
「おい、そこのお前来い!」
まだ自己紹介していない女性は、犯人に連れ去られてしまった。
女性が連れ去られたのは、地下通路へ通じる扉の前だった。
主犯格の男が尋ねた。
「それで森本早希さん、計画は万事抜かりないんですよね?」
「ええ、もちろんです」
そう、自己紹介をまだしていない女性は森本早希だったのだ。一連の強盗事件の実行はSML強盗団、計画は森本早希が担当していた。彼女は人質に紛れることによって、逮捕されずに全面協力する方法を見出したのだった。
「さっそくこの扉を開けてもらえますかね?」
「はいもちろんです」
そういって早希は、事前のシミュレーション通りダイヤルを動かし、小道具を使いながら一つ一つのステップをクリアしていく。
ガチャン!その音と共に扉が開いた。
「お見事!さすが伝説の鍵開け師。それからあと一つ確認なんだが、逃走経路は打ち合わせの通りかい?」
「はい。何の変更もありません」
実はヘリコプターというのはダミーだった。ヘリコプターで逃げると見せかけておいて、彼らは地下通路から逃げる予定なのだ。丸の内の地下には、大手町、東京駅から二重橋前、有楽町、日比谷まで巨大な地下通路が通っている。しののめ銀行の地下には、その巨大通路へと続く隠し道があるのだ。恐らくは戦時下の名残だろう。
「早希さんと杏はここに残って万が一の時に備えて対応してくれ。それでは財宝の眠る場所へ行ってくる」
そう言い残して彼らは地下に降りて行った。
しののめ銀行に到着した高田と奥山は、すぐにでも銀行に入れる絶好のポジションを確保するために、必死で人ごみをかき分けていく。
「ちくしょう!どこも人がいっぱいだし、これじゃオリジナルかつヴィヴィッドな映像など撮れないな。うーん、よしっ。地上は水野たちに任せるとして俺らは屋上一点にかけよう。あのビルの屋上で待機だ!」
「高田さん、あのビルは入場規制がかかっていて入れません!」
「バカやろう!コネを使うんだよ!」
「はっ、はい」
しののめ銀行地下通路への扉の前。
自分の気持ちに矛盾を感じ始めた早希は、次第にイライラが募ってくる。
「プルルルル」
杏の携帯電話が鳴った。
「もしもし」
「またしても扉があったんだが、生体認証システムのようなものがある。板ノ倉を連れてこい!」
「承知しました!」
電話を切った杏は早希に言う。
「あんたはここで待ってろ!」
あの女…。人様に命令ばっかしやがって…。いつか絶対ぶっ殺してやる…。
一分後、杏が加奈を連れて扉の前にやってきた。杏は加奈に向かって叫ぶ。
「お前!自分の力で歩け!」
加奈は、恐怖のあまりその場に座り込んでしまった。自分の力では動けない。
「使えない女だなあ。動けないならお前の指だけ切り落として持ってってやってもいいんだぞ!」
杏の発言に、早希のイライラがピークに達する。
「指を切り落とすだと!てめぇ何様のつもりだー」
早希が杏を殴りにかかり、二人は取っ組み合いの状態になった。そして少し隙ができたところで杏が銃口を早希に向けた。
「やれるもんならやってみろ!」
そういって早希は銃を奪いにかかり、二人は銃を奪い合って激しく動いた。
孝介たちがいるVIPルーム。
「あの女強盗、慌てて出てったから鍵かけ忘れてったぞ」
孝介の発言に対し、航が切羽詰った表情で言う。
「島崎さん、今すぐ加奈ちゃんを追いかけましょう!加奈ちゃんが危ない!」
「もちろん追いかけるが慎重にな。強盗がどこにいるかわからない。それにおばあちゃんと板野さんには残ってもらうぞ!」
航はそっとドアを開けて左右を確認するが誰もいない。
「島崎さん、誰もいません。行きましょう!」
場所は変わり、板ノ倉家の一室。
「申し訳ございません…まさかこんな形で加奈ちゃんが強盗事件に巻き込まれてしまうとは…少し自由にさせすぎたかもしれません。あぁ…私がもっと注意していれば…」
執事の中村が、加奈の父親でありしののめ銀行会長の義治にしきりに謝る。
「まあ、起こってしまったことについてあーだこーだ言っても何も始まらない、しょうがないよ。まさか青の一族が実在すると思わなかったし…加奈と青の一族の青年たちを一緒にして行動させるという君のアイディアには私も賛成したのだから、私にも責任があるよ…我々赤の一族にとって、青の一族は希望の星だったのだから…」
そう、実は板ノ倉一族は、赤の一族の末裔だったのだ。加奈の母親は、その特殊な血のせいで出産直後に死んでしまった。赤の一族の血の恐怖は、女性にのみ訪れるのだった。せめて加奈だけはその血の呪いから解放したいという義治の意向で、小さい頃から様々な薬を試してきた。しかしそのことが裏目に出て、加奈は小さい頃から病弱な体質になってしまったのだ。加奈が水泳が得意なのは、赤の一族の血統ゆえのものである。
「中村君、今は、青の一族の奇跡を信じて待つしかないよ…」
しののめ銀行二階の扉の前では、相変わらず早希と杏が銃を奪い合っていた。加奈は引き続き恐怖で動けない。
そしてその時は訪れた…
バァーン!
丸の内全体に、銃の音が響き渡る。一瞬の出来事であったのだが、永遠に時が止まったようにも感じられた…。
銃弾は不運にも加奈の胸を貫通し、加奈は血を流して倒れた。早希と杏は銃の反動で倒れたまま、人を実際に撃ってしまった恐怖で、体を震わせながら動けない。
航たちはダッシュで銃声のした部屋へ向かう。そしてその部屋には加奈が大量の血を流して倒れていた。
「加奈ちゃーん!加奈ちゃーん!」
航は、恐怖と動揺で身動きできなくなった杏の腰にあるナイフを奪い、加奈の前に座った。そして何やら呪文のような言葉を呟きはじめた。
「航!何してんだ!」
孝介が声を震わせながら言う。
「みんな黙っててください。僕を信じてください!」
航は左腕の袖をまくり、加奈の胸の上あたりに突き出す。
皆は訳が分からないまま航を見守った。
そして…
ナイフで自分の手首を切った。航の青い血が、光り輝きながら加奈の胸へと落ちてゆく。ダメだ…血の量が足りない…。航は肘のところにある太い血管を切り、大量の血を光り輝かせながら加奈の胸へ落とした…。
青の一族の能力…それは自らの青い血で、どんな病気でもどんな怪我でも治してしまう能力だった。その強大な能力ゆえに、彼らはいつも時代の波に翻弄されてきたのであった。守りの青に攻めの赤、陸の青に海の赤、それらが一つに交わるとき奇跡は起きる。青の血によって赤の呪いは解放される…
航の能力で加奈の血は止まったようだ。しかし大量の血を流した航は意識を失って倒れこんでしまった。後ろの方でその様子を見ていた、いじめられっ子の田辺くんには、人生が開ける音が聞こえたような気がした。
バァーン!
二階での発砲で駆けつけた強盗が孝介たちの存在に気づき、地下から二階への階段の途中で銃を撃ってきた。
「おいっ、逃げるぞ!俺は加奈ちゃんを担ぐ。亀田は航を担げ。もう上しかない。非常階段で上に逃げるぞ!」
そう言って孝介たちは非常階段へ向かい、屋上を目指した。
警視庁しののめ銀行強盗事件特別対策本部。
「三田本部長!銃が二発も発砲されました!突入しましょう!」
「しょうがない…特殊部隊を突入させるぞ!」
しののめ銀行地下。
強盗のリーダー格の男が大声で叫ぶ。
「警察の部隊が突入してくる。全員撤退だ!」
しののめ銀行の屋上。
加奈と航を担いだ孝介たちが屋上への扉を思いっきり開けた。犯人たちから要求されたヘリコプターがちょうど到着したところだった。プロペラの轟音が鳴り響いている。本来の姿のヘリポートと、本来の姿ではない加奈と航がいる。孝介がありったけの大声で叫んでいるが、他のものには何を言っているのか全く聞こえない。彼らはただひたすらヘリコプターを目指して走った。
しののめ銀行の近くのビルの屋上。
「おいっ、奥山!屋上に人が出てくるぞ!カメラの用意だ」
あっ、あれは加奈ちゃんと航くんだ!二人とも血を流している。青い血…。しかし本当に俺はこの映像を撮ってよいのだろうか…。それは彼のためにもやめた方がよいのではないか。しかし…再び高田の中で欲望が沸き返ってくる。よし、撮ろう。いや、ダメだ。撮ろう…いや、ダメだ…。
「奥山!やっぱり撮るな!」
奥山はキョトンとした。納得いかない表情で高田に尋ねた。
「どっ、どうして撮らなかったんですか?」
「何ていうだろう…俺はもう、名誉や実績だけを求める人生は辞めたんだ…」
「…」
翌日、各新聞の紙面は、しののめ銀行強盗の記事で埋め尽くされていた。記事によると、死亡者はゼロ、負傷者二名ということだった。犯人たちは続々と逮捕されてるようだ。
孝介は、航と加奈が搬送された病院へ向かっている途中だった。途中のマックで、コーラのLサイズを買った。今日もよく晴れた日だ。桜が咲き始めている。公園のベンチにうな垂れながら座っている森本早希がいた。横には、マックのコーラのLサイズが一口も飲まれない状態で置いてあった。
「あんた、あの時の人だね?」
孝介は人目見て確信していた。
「はい…」
早希の表情は、罪悪感で満ち満ちていた。
「あんたのことは詳しく知らないけどさあ、結果的に誰も死ななくて良かったじゃん。罪悪感ばかりに執着しても何もいいことないよ。今夜みんなでバカみたいに騒ぐ予定だからあんたも来たら?それと、その十二番目のサイズのコーラ、早く飲まないとぬるくなっちゃうよ」
そう言って、孝介はその場を去った。
早希は、孝介が去った後のベンチで一人呟いた。
「十二番目のサイズ?…上条くんに報告しなきゃ…」
孝介が少し歩くと突然携帯が鳴りだした。
「はい、もしもし」
「陽子だけど…」
陽子から電話が掛かってくると思ってなかった孝介は動揺した。
「とんでもない事件に巻き込まれたわね…」
「ああ…けど俺は怪我もしてないし、オールオッケーだ!」
「今日はさあ…事件のことはどうでもいいんだけどさあ…」
「うぉーい!冷たいな」
「今度娘と一緒に三人で食事でもどう?という用件で電話したの」
「うぉーい!やっぱり暖かいな」
「私とあなたの関係は修復できないと思うけど、娘には定期的に会ってあげてね…」
「ああ…」
病院の一室。
航が意識を取り戻して目を開けると、加奈や中村、孝介、義治、エリック、高田たちが立っていた。青の一族は航一人だけだが、彼らは間違いなく青の絆で結ばれた同志たちだ。
「航くーん、朝ですよー」
加奈が元気な声で言う。
「よっ、よかった…」航は安心した様子を見せた。
「航くんありがとうね!もっともっと航くんにとっての特別な存在になれるよう、私頑張るね!」
「ヒューヒュー」孝介が茶々を入れる。
「風でも吹いてるんですか?」
おわり