24. 貴族
食堂を出た俺達は、途方に暮れていた。
「ちょっと、あの子」
「ごめん、俺も予想外だったわ」
おかしいよあの娘。
道を確認してきます、という言い訳でなんとか服を離してもらった俺はハリーと、この後のことについて話していた。
ぶっちゃけ購買通りとは学園正門から入ってしばらく続く真っ直ぐな通りのことなので、確認も何もありはしないのだが。
ナタリー嬢が周りを見て行動するタイプならば変だと気づいただろう。
「とりあえず、もう話しちゃった教本の確認まで一緒に回るとして、ハリーたちはその後どうする?」
「みんな外から来たから、街の中を探険するつもりだったんだけど。……ついてくるの?」
探険好きだね。
しかし外から来たということは、全員他の寮に住んでるのかな。
俺が気づいていないだけで同じ寮だったかも。
「いやいや、流石にそれは申しわけない。じゃあ俺は学園内か。図書館かな……」
「大丈夫?」
「だと思いたい」
作戦会議終了。
お嬢様が暴走する前に小走りで戻る。
予想はしていたけれども、外から客観的に見てもナタリー嬢はとことん冷たい。
ハリーの連れには顔を向けようともせず、無視をされる側は居づらそうにしていた。
俺の姿を見ると駆け寄ってくる様は子犬のようにも見えるが、実質は飼い主の命令を聞かないとんだじゃじゃ馬だ。
本当に、とんだ貧乏くじを引いてしまった。
くじ引きに参加した記憶もないのに、なんてこったい。
購買通りに近づくほどに、再び人も増えていくのがわかる。
食堂が混雑解消のためにややバラけて配置されているのに対し、購買通りは店舗こそ複数あってもそれらは密集している。
道幅こそ他の倍は広いが、集まる人数は食堂の倍どころではない。
中等部や高等部の垣根もなく押し寄せれば、そりゃ初日は午後半日を丸々空ける必要性もわかるってもんだ。
しかし、この中にナタリー嬢を放り込んでいいものか?
ナタリー嬢は相変わらず目を瞑って俺の服の裾をしっかり掴んでいるが、これほどの人混みでは俺の服が裂けてはぐれる、という可能性すらある。
是非とも遠慮したい未来予想図ではあるが。
それとなく、ここで待つ選択肢はないのか聞いてみた。
案の定却下された。
まあ、わかりきっていたよ。
「ではこうすればよろしいですか?」
するとナタリー嬢は、なんと後ろから抱きついてきやがった。
いや、抱きつくというか、触れ合うほどに近づくというか。
少なくとも拳一つ分の隙間もない位置にナタリー嬢の気配を感じる。
彼女はそのまま俺の肩を掴み、身を寄せる。
混沌に這い寄られる気分とはこういうものなのか。
相手さえ違ければ、さぞかし嬉しかったであろうシチュエーション。
だが相手は、何かとおかしい伯爵令嬢。
もう変な汗が出てきた。
やばいやばいやばいやばいやばいやばい。
「御嬢様、失礼致します」
前後不覚に陥った俺を引き戻したのは、意外にも侍女さん。
彼女もさすがにこの人混みでは主人が危ないと思ったのか、ナタリー嬢の背中から俺ごと抱き締める。
待て待て。
そう思ったなら、まず主人を引き留めるところから始めてください。
この一件、ハリー一行は最初少し羨ましそうに俺を見ていたが、俺の顔を見てむしろ憐憫の目を向けるようになった。
俺も自分の表情筋が笑顔以外を形作っている自覚はあった。
どんな顔だったのか、それは彼らのみぞ知る。
肩の触れあう距離とはまさにこのことだろう。
通りをうぞうぞと人が動く様子は、冬に森の落ち葉をひっくり返したら稀によくある虫たちの密集体によく似ている。
これに巻き込まれないためにも、貴族クラスのガイダンスは早めに終わりにするのかもしれない。
もちろん、人数差が一番の理由なんだとは思うけど。
そう考えると、その恩恵を見事に捨ててしまった俺はなかなかのアホではなかろうか。
図らずも付き合わせてしまったナタリー嬢に悪い……気はしないな、不思議!
購買通りには色々な店がある。
これから向かう本屋はもちろんのこと、子供用の体格に合わせて作られた武具店、金が必要な代わりに種類豊富な飲食店、新品ではないが中古ならそれこそ山のように在庫のある服飾店など、ここに来れば一通りの物は揃うだろう。
ここでも分職は守られていて、同じ建物の中に複数の店舗が存在する様はまるでデパート。
今日のような混雑も予想の範囲内なのか、一口に本屋といっても学年や専攻などによって向かうべき建物は違う。
そのそれぞれに本屋はあるのだ。
人波に揉まれ続けてようやく辿り着いた初等部向け店舗の集まった建物は、他の店と比べて人口密度が高いように感じた。
身体が小さい分、より多くの人数が入るらしい。
そのせいで店内で身動きができなくなっている団体もいるようだから残念な話ではあるが。
事情を知らない周囲からの冷ややかな視線は無視して、指定教本という札の置かれた棚を見る。
既に相当数が買われているのだろう、棚は所々がスカスカになっている。
より低い位置の方が空きも多いのは、子供の身長による仕方のないものだろう。
それはともかく、えーと……、これは運がいい。
トムさんからのもらった本は今年も使えそうだ。
俺とハリーはこれで用件も済んだわけだけど、ハリーの友人はそうもいかなかったらしい。
一冊だけだったが買い直しが発生していた。
本は高価だ。
活字はまだ存在しないのか、ほとんどが手書きなので人件費がかかる。
教本ともなれば一冊一冊が厚いので、材料費もかかる。
消耗品でもないので、基本的な物価としても比較的高い。
さらには情報料とでもいうのか、専門的な内容であるほど更にお金がかかる。
そんなわけで、銀貨の五枚や十枚はあっという間に吹き飛んでいく。
学園側も負担しているからこのくらいで済むが、本当だったら金貨も飛んでいくだろう。
それでも、古本をもらえなかったら全部買う必要があったのだ。
その子もちょっと悔しそうな顔こそすれど、財布にはまだ余裕のありそうな様子だ。
ちなみに俺は最初から古本を使うつもりだったので、教本分の資金はほとんどない。
正直危なかった。
古本とは無関係そうなナタリー嬢はどうなのかと思ったが。
「私は執事に頼んでありますので問題ありませんわ」
ああ、執事もいるのね。
さいですか。
人の流れに乗って店内を一周する途中、懐かしき勇者とドラゴンの絵本なんてのも見つけた。
前世で言うところの、桃太郎とかシンデレラとかアリとキリギリスとか、そのくらい有名な物語のようだ。
さすがに買い手はいないようだけど。
他にめぼしい本と言えば、中等部や高等部で使うことになりそうな専門書もいくつか在庫があるらしい。
これには初等部の中でも最高学年と思われる背の高い子が群がっている。
確か、基本的に全員が共通の授業を受ける初等部でも、最後の三年目には選択授業みたいなものがあるんだったか。
中等部以降は学部とか学科とかに分かれるので、それの体験授業みたいなやつだ。
俺もいざって時に迷わないように、今のうちから考えておかないと。
店を出て、さらっとハリー一行と分かれた。
それはもう、さらっと。
どちらもじわじわストレスが溜まっていたのだろう。
渋るような真似は一切なかった。
とりあえずは図書館に向かうことにして。
本当に高等部で使うような教本を探すのもアリだけど、この先もナタリー嬢に付きまとわれるのは勘弁してほしい。
ここは魔力過敏症の治療法に関して調べるべきではなかろうか。
一朝一夕にどうにかできるものではないのも確か。
今のうちから少しずつ、日常的に訓練を繰り返すのがいいだろう。
近道なんかない、ということだ。
図書館は、敷地面積だけみるとあまり広くないようにも感じる。
けれど建物の構造は授業を受ける棟とほとんど変わらないし、机や椅子の代わりに本棚がたくさんある。
最上階のうち数部屋はゆっくり読めるスペースが整えられている。
下の階じゃないのは単純に本の重さだろう。
出入口にいた司書さんからいくつかの注意を受けて中へ入ると、さっそく古本の匂いが押し寄せる。
話によれば、過去に使われていた教本はもちろん、少なくともソルド領で発行された本ならまず間違いなくあるという。
禁書とかはどうなのかと思ったが、いきなりそれを探る新入生というのも不気味な気がしたので口には出さなかった。
さて、ナタリー嬢とその侍女さんを連れつつめぼしい本を探し、最上階へ。
結構な冊数になってしまったが、自分の主にも関係する本は侍女さんが持ってくれた。
俺が持っているのは、結局好奇心に逆らえなかった上級生の魔術教本と、貴族や礼儀作法に関する簡単そうな本だけだ。
新入生にとっては入学式、在園生にとっては新学期初日から図書館にこもる人は少ないらしい。
誰もいない部屋を見つけたので、そこに陣取る。
図書館だから喋るな、という規則はないものの、静かな方が望ましいのは世界共通らしい。
けれどこれからの予定を話し合う都合上、無言というのも無理な話なので空き部屋を探したわけだ。
「さて」
「はい」
律儀に返事をしてくれたが、これから本を読むのでまだ何も言えない。
ちょっと待ってて下さいね、と断りを入れてから読みふける。
魔力過敏症に関する文献は五冊あった。
そのほとんど全てが、まず魔力過敏症とはなんぞやという話から始まり、症状と理論的に考え得る原因、利点と難点をあげていったり、現実問題としてどーなのよ、といった内容に終始している。
せいぜいが実地調査したら何人に一人は潜在的に持ち合わせているとわかった、とか、どこぞの国ではご意見番として重用している、とかの話ばかりだ。
実際にそれを治すための訓練法が書かれていたのは僅か一冊。
逆に身につけるための訓練法などがまとめられている本も一冊あった。
著者をみると、どうにもきな臭い。
本が書かれた場所も、このソルデグラン学園と記されている。
これ、例の教授が認めた本じゃないのか?
まあ、それはさておき。
一冊しかないとは予想外だった。
しかもよくよく読んでみると、訓練自体は元々騎士団などで使われている理論を信じた物、つまり実際に試して改善が見られたかどうかという点には踏み込んでいない。
絶対数として過敏症の患者自体そう多くはないんだろうけど、これは手抜き過ぎるんじゃないだろうか。
「とりあえず、この本に書いてある方法を試してみましょうか」
それでも、唯一の具体的な訓練法である。
これにすがるしかないというのが残念な現実だ。
本を開いて見せると、意外にもナタリー嬢は嫌そうな顔をした。
どうせ目を輝かせて「やってみますわ!」とかいうだろうと思ってたんだけど。
理由を聞けば、至極当然だった。
「その方法はもう試したことがあります」
伯爵令嬢ですものね。
頼りになりそうな文献はとっくに調べ尽くしているんだろう。
気づかなかった俺もアホだ。
「それでも、まずはやってみてください。久しぶりにやってみたら上手くいった、なんてこともよくありますから」
吹奏楽をやっていた友人が、新しい曲を練習するときはつっかえてもいいから最後まで一度通しておくと、後々になってからすんなり覚えられる事が多いって言っていた。
正しくは、全体のイメージを先に把握しておくといいよって意味なんだろうけど。
「……わかりました」
それに、何も神頼みしてるわけじゃない。
目を瞑って集中し始めたナタリー嬢を、俺の目でも観察すればいい。
これで、この方法に効果があるのか、全くの無意味なのかがわかるだろう。
訓練の内容はとにかく集中。
自分の中に流れる温かな活力を意識して、へそのちょっと下、いわゆる丹田と呼ばれる位置に溜め込むイメージ。
徹頭徹尾、これに尽きる。
この方法のどこが騎士団の訓練になるのか、その説明は省かれていてなんとも眉唾物だが、最終的に目元から魔力を移動させることができればいいのだ。
挿絵にある影絵の通りに魔力を集中できるのなら、確かに効果が出るだろう。
しかし……。
「…………」
まるで上手くいっていない。
魔力を自覚するというのは、それほど難しいらしい。
もしやキースは天才だったのか?
実は集中力を高めるのが目的で、魔力云々はイメージの統一を図るためのデマカセでしたーとかだったら目も当てられない。
ここは本の内容について、本当に効果がないのか自分でも試してみるべきじゃないだろうか。
「…………」
うん、できる。楽勝だね。
当たり前だ、俺は既に魔力の分布術を修めているんだから。
なんてこったい、比較実験もできないじゃないか。
この方法でできないようならポンプ式を教えるつもりだったけれど、これはもう確定かもしれない。
ただ、ポンプ式を教える場合、初めは各部位に力を込めて魔力を動かすことから教えることになる。
問題はその後だ。
じゃあ顔の筋肉ってどこから力を入れるべきよ? と。
頬や唇、喉と順に運んでいく方法は考えているけど、胴体と比べて一度に移動させられる量が明らかに少ないと予想できる。
楽できるなら楽した方がいいわけで。
伯爵令嬢を相手に「頑張れ頑張れできるできる絶対できる頑張れもっとやれるってやれる気持ちの問題だ頑張れ頑張れそこだ!」みたいなことを言うのは、いくら俺でも躊躇われる。
悩んでいると、ナタリー嬢が何か言いたげにこちらを見ていた。
あれか。他の方法はないのか、ってことか。
まだ教えられるほど洗練されてないので……とも言いづらい。
既に確固たる方法を編み出していると思われると、なぜそんな方法が思いついたのかという説明が面倒になる。
今の予定としては、訓練中に偶然画期的な方法を思いついて、やらせてみたら偶然上手くいった、くらいの偶然押しでいくつもりだし。
上手く体系化できなくて、ぬか喜びさせるのも良くないだろう。
なんにせよ時間が足りない。
寮に帰ってから要検討だな。
「私も、頑張ってみますわ」
「え? はあ」
よくわからないがやる気を出してくれた。
訓練に関しては明日から本気出すということで。
さて、俺はちょっと皮肉りたい衝動がある。
人から先生などと呼ばれると、どれほどこそばゆいか。
それをナタリー嬢に知ってもらいたい。
わかってくれれば、明日からの学園生活では先生なんて呼ばなくなるだろう。
無用の注目を避けたい俺としては、割と重要な案件だ。
そのためにも、ちょっとした議題が必要だろう。
できれば俺は詳しくなく、ナタリー嬢の専門とも呼べる分野。
ズバリ、貴族の色々。
ちょうど教本になりそうな本も持ってきたことだしね?
「はい! ナタリー先生!」
関節の向き。
指先に加わる力。
鉛直度。
全体のバランス。
そして優美さ。
俺は全てにおいて完璧な挙手を決めた。
「はいバルドさん、なんでしょうか?」
おお! 先生呼びじゃなくなった!
でも、なんか予想と違う。
「先生、わたくしめに貴族についてご指導ください」
「わかりました。では……そこの本を使いましょうか」
あるぇー?
ナタリー嬢は欠片も恥ずかしがる様子もなく、平常運転で話し始める。
いや、さっきまでと比べたら若干背伸びしているというか、大人っぽい対応だ。
何故だ。
「これは幼等部で使われる教本ですね。まずはこの図を見てください」
思惑が外れて戸惑っている間にも、ナタリー嬢は臆することなく説明を続けていく。
「貴族の位には、これの通り上から公爵、侯爵、伯爵、子爵、男爵の五つがあります。公式に国王から領地を与えられているのは公・侯・伯の三つですね」
話によると、男爵とは現国王の代から貴族になった者か、貴族の子弟に与えられる爵位のことだ。
後者の場合、最終的に跡継ぎになれなかったら爵位はなくなるとか。
公・侯・伯の血を継いでいれば、子爵あたりに組み込んでもらえることもあるらしいが。
確かに、貴族が無限増殖してしまうのも問題か。
つまりAクラスの中にも、将来は俺と対等な立場になる人がいる可能性もある。
一人娘のナタリー嬢ですら、今後弟や妹が産まれたらわからないらしい。
子爵は先代国王以前から仕えていた貴族の中でも領地のない者を指す。
男爵と合わせたこの二つは自分の領地を持っていないので、自身の所有する商会(商業組合の下部組織のこと)でお金を稼いだりするのが多いらしい。
他にも非公式ながら領主から町や村を借り受けて経営したり、領主の右腕左腕となって働いたりする場合もある。
確かジェフリー君といったかな、彼の親はソルド領のどこそこという土地を借り受けているんだろう。
伯爵と侯爵の違いははっきりしないが、どうも領地の広さや数、土地の重要度から分けられているらしい。
この辺になると、姓が領地の名前と一緒だったりする。
「姓と地名と、どちらが先なんですか?」
「一般的には地名です。その土地を国王から与えられた、という誉れから名乗るようになったのです」
「っていうと、例外も?」
「……はい。領主が問題を起こすと、爵位を剥奪されることもあります」
そして新しくやって来た貴族がその悪名轟く姓まで引き継ぐと、不必要な恨みを領民から買ってしまうらしい。
なので領都の名前を新伯爵の姓をもじった名前に変えて、地名の方を姓に合わせることもある。
あるいはそこまで治安の悪くなった土地は隣り合う領に吸収されるか、それも無理なら王家の直轄地となる。
だんだんややこしくなってきた。
公爵は国の公務に関わる重要な人にしか与えられないし、侯爵や伯爵と比べても一際興亡が少ない代わりに数も少ない。
王家の血を引く人も多いとか。
そんなんで、よく今までクーデターが起こらなかったなと感心してしまう。
まあブロムスタ王国は隣国の公国や帝国と比べると争いの少ない国だ。
大方、上層部には受動的な日和見主義が多いんだろう。
歴史の教本に書いてある国の成り立ちからして受け身だもんな、この国。
「あ、そういえば『ソルド』って姓の人はいなかったから、ナタリー先生の実家が一番上の位なんですか?」
と言ったら変な目で見られた。
長くは続かなかったが。
「……いえ、バルドさんにはわからなくても当然かもしれませんね。一人、いらっしゃいますよ」
「あら?」
「覚えてませんか? アルフレッド=B=グレイヴズ」
いや覚えてません、と言おうとしたところで心当たりがあった。
俺が名前を聞き逃しちゃったアイツか。
今思い出そうとしても、顔つきすら記憶が怪しい。
これはナタリー嬢のインパクトに持って行かれたな。
「あの、確か、格が違う云々言ってた」
「そうです。彼の家は私のところよりも上の侯爵ですよ」
「あんなのが……、あんなの呼ばわりはダメか」
「ええと、まあ、そうですね」
上下関係に厳しそうなナタリー嬢もちゃんと注意しないところを見ると、彼女的にもあの自己紹介はいただけなかったんだろう。
あんなのが侯爵家、ねえ。
ん?
「あれ? でもなんでこっちまでわざわざ来てるんですか? 侯爵の領内に学園がない、なんてこともないでしょう?」
「グレイヴズ侯爵の領地ですから、複数あってもおかしくないくらいでしょうね」
そう言って、ナタリー嬢が教本のとあるページを開いて見せてくる。
そこには大雑把ながらもこの国の俯瞰図が描かれていた。
これによると、グレイヴズ侯爵領は王都を挟んでソルド領のほぼ反対側に位置することになる。
その領地はソルド領の倍は広い。
って、いやいや遠すぎだろ。
ほとんど端から端まで渡ってきたことになる。
「彼がこちらまで来た理由ですが……噂によると」
「よると?」
「神童過ぎて扱いに困ったらしいです」
うっそだあ。
十歳で神童、十五歳で才子、二十歳過ぎればただの人、っていうじゃないか。
ましてや今の俺達は八才。
多分それ、言うほど神童じゃないよ。
「ですから、先生も気をつけてください」
あ、先生呼びに戻ってしまった。
「何に?」
「先生を信じてはいますが、ああいう人は何かと横暴です。言いがかりをつけられませんように」
「……一応気をつけておきます」
ちょっとだけ「お前が言うな」と思ったのは内緒にしておくべきだろう。
先生先生と呼んで罪無き庶民に付きまとう。
実害が少ないからなんとか許容してるけど、ナタリー嬢のやってることも結構横暴ですから!
「って、いやいや。そう思うのなら先生だなんて呼ばないでくださいよ」
もっともな意見にナタリー嬢は言葉に詰まったようで、どこか譲れないといった表情をするも、最終的には頷いた。
「……善処します」
善処止まりか-。
話しているうちに時間は過ぎ、そろそろ帰ることにした。
本当はもう少しくらいなら時間に余裕もあるけど、やはりナタリー嬢と一緒にいるのは精神的にじわじわくる。
結局高等部の教本は読んでいないし、礼儀作法に関してもさわり程度しかやっていない。
全ての本を棚に戻し、司書さんに挨拶して外へ出ると、清々しい空気が肺を満たした。
太陽はゆっくりと、市壁に接しようかというくらいには傾いている。
考えてみれば、半日近くも古本の中に潜っていたのだ。
伸びをすると、まだまだ若いはずの身体がポキポキと鳴った。
それほどにまで同じ体勢でいたらしい。
学園の正門までは一緒に行動し、そこでナタリー嬢とも別れる。
俺は平民街の寮へ戻るが、ナタリー嬢は貴族街にある邸へ戻るから反対方向なのだ。
その邸は元々長期滞在用ではなく、こちらで行われる式典などがあった時に泊まる別荘のような物らしい。
領主ともなれば、隣接する領に別荘を構えていることは珍しくもないとか。
アレイヴズ侯爵のご子息がどこに泊まっているのかは不明だ。
ハリー一行とはなんだったのか、というくらい別れを惜しまれたが、どうせ明日も会うんだからと言いたい。
背を向けてもずっと手を振られているような気がしたが、何も感じなかったことにして一路寮へ。
ハリーはまだ帰ってきていなかった。
ベッドに身体を横たえると、どっと疲れが吹き出してきた。
なかなか過激な一日だったと思う。
その原因はほぼ一人に集約するわけだが。
明日からもここまで疲れてしまったら、冒険者組合で小銭を稼ぐのも難しいだろうな。
早く慣れなくては。
ナタリー嬢に。
いつの間にか寝てしまったらしい。
帰ってきたハリーに起こされて食堂へ行くと、今日の夕食はカッチカチの黒パンだった。
またかよ……。
あ、スープはおかわりしました。
***
余談だが、かなり後になってナタリー嬢の侍女さんから聞いた話によると。
伯爵令嬢ともなれば、幼等部を待たずして家庭教師を雇うことも多いらしい。
ナタリー嬢もかなり小さい頃から英才教育を受けていた。
それで、だ。
「(前略)幼少の頃からお世話させていただいておりますが、御嬢様はその頃からとてもとても可愛らし(中略)家庭教師の方々から教わったことを、御嬢様は別の教師の方々へ教えたりしていたのです。領主様が教える側と教わる側の呼び方をしっかり区別していることは周知でしたから、家庭教師の方々も御嬢様が何かを説明して下さる時は『ナタリー先生』とお呼びし、それを聞いて御嬢様もたいへん可愛ら(中略)『えへへー』などと仰る御嬢様はそれはもう天使(後略)」
なるほど。
つまり、ナタリー嬢は「先生」と呼ばれることに対して、とっくに耐性がついていたわけだ。
この侍女にしてあの主あり、とよーくわかった。
多分9000~10000字くらいに大きな壁がありますね。今回も9208字しかない……。
あと次回から、更新速度が鈍ります。多分週一は無理です、すみません。