13. 逃走、そして
当たり前だった。
薄暗い森の中に、火の玉が浮かんだら?
たとえどんなに本人が身を隠そうとも、光まで隠しきれるわけがない。
頭隠して尻隠さず。
つまり俺もまた、敵との遭遇に気が動転していたのだ。
「うわっ……、くそっ!」
キースが火球をイノシシに投げつけた。
しかし不意打ちを逃した一撃は、いとも容易く避けられる。
「逃げるぞ!」
爆発こそしないものの、火球は高温のエネルギー体だ。
落ちた周囲にある落ち葉などに引火し、それ自体も湿った土の上で残り短い命を謳歌する。
突然現れた炎の壁に、イノシシは足踏みをしている。
背を向けて走り出した俺達にとっては、これでも貴重な時間だった。
ほんの十数メートル離れる頃には火もほとんど消え、牙か歯を鳴らすようなカッカッカッカという音が後ろから聞こえ。
振り向いたとき、そこにはちょうど走り始めたイノシシがいた。
やばい!
直感的に、俺はスリングショットで後ろに黒鉛を飛ばした。
魔法なんて物がある世界に化学合成ゴムがあるわけもなく、小型の弓のようなそれは射程からして短い。
子供が引き絞ったくらいでは、大した威力にもならないだろう。
走りながらなので精度もないに等しい。ダメ押しに黒鉛は柔らかい物体。
しかし偶然にも黒鉛はイノシシの額に着弾し、ほんの数瞬ながらその足を躊躇わせる。
その間にキースは俺達に追いつき、イノシシが嫌がりそうな、より木の多い方向へと先導する。
必死で走った。
キースは時折後ろを振り向き、俺達とイノシシの間により大きな巨木が来るように、何度も方向転換した。
しかし、所詮は子供と野生動物。
体感では何時間も走ったような後、しかし実際にはほんの数分で、俺達は完全にイノシシの間合いに入っていた。
これはもう、ダメだ。
その時、前を走っていたキースの足が遅くなったのに気がついた。
まさか身代わりにでもなるつもりか!?
諦めかけていた自分のことを棚に上げて、俺はキースを怒鳴りつけようとして、けれど息も絶え絶えで言葉にならない。
ついに最後尾を走る俺と並び、そして――
「――ファイア……ボールッ!!」
キースが叫んだ。
一度も見たことのないキースの詠唱省略は、しかし的確に魔法陣を浮かび上がらせた。
後ろを振り向いたキースの手には、再び火が灯っていた。
奇跡だった。
「ブフガッ!?」
突然目の前に現れた火球に驚いたイノシシは、前後の足を地面に突き立てるようにして急制動をかける。
だが、全速力に近いそれを止めるのは容易ではなく。
また、せっかく動きの鈍った標的をこちらが逃すわけもなく。
キースは全身から力を絞り上げるように腕を振り抜き、火球を目前のイノシシへと叩きつけた。
「ギイィィイイイイイ!」
当たったかどうかの確認もせず、俺達はそれに背を向けて走る。
短時間で二回も大技を使ったキースの足は、間違えようもなく怪しい。
それでも体格の差か俺と並んで走り続け、リリィもそれを気にかけるように少し速度を緩めた。
しかし、だ。
悲劇はその時に起こってしまった。
俺達の速度に合わせようと、後ろを振り向いたリリィの右足が、空を切った。
「…っ、きゃああああああ」
「!? リリィッ!」
リリィが不気味に傾いたかと思うと、その身体は既に自由落下へ入っていた。
キースが飛びつくように手を伸ばしリリィの腕を掴むも、既に遅いのだ。
突然のことに全く何もできなかった俺は、二人の身体が地面の下へ消えるのを目撃した。
そして、“何もできなかった”、その言葉通りに自らも足を踏み外した。
***
気を失っていたのは、ほんの短い間だったらしい。
流れる水の音に目を覚ますと、俺は河原で倒れていた。
記憶に残っているのは、空中で一回転した先に見えた石だらけの地面。
その時とっさにかばったのか、籠手をはめた左腕が胴体を守り、右腕が頭の下にあった。
どちらも痛みが強いが、幸いなことに流血は下敷きになった右手から少し滲む程度だ。
身体を起こすと、隣にキースとリリィが倒れていた。
キースはリリィの頭を片腕で抱え、自身の頭ももう一方でかばっていた。
あの一瞬でよくそこまで、と感心する。
もちろん、感心している場合じゃない。
「キース! リリィ! だいじょうぶ? いしきはある?」
念のため身体を揺らしたりはせず、肩を叩くにとどめる。
一度うめき声が上がったが、キースが目を覚ましただけだった。
「いってえ……、っ! リリィは?」
そこまで言ってから自分の腕が守った者に気がついて、安堵の表情を浮かべる。
しかしリリィはまだ目を覚まさない。
と思った矢先に声が上がる。
かろうじて無事だ。
ひとまずの安心を手にした俺は、ようやく周囲すら見渡していないことに気がついた。
顔を上げると、目の前にはさほど大きくない川があった。
足下の石はこぶし大か、それよりもやや大きいものが多く、おそらくは中流域だ。
背後にはほとんど垂直に切り立つ崖。
見通しの悪い場所を走って、さらにはイノシシに追われていたあの状況。
気付かなかったとしても、おかしくはない。
高さは大人の背くらいだったのが不幸中の幸いだ。
しかし俺達の体格で登れない高さでもある。
しばらく耳を澄まし、その向こうからイノシシが飛び出して来ないことだけは確かめた。
身体を起こした二人の怪我は、俺よりも重傷だった。
一人はほとんど背中から、もう一人はそれを無理に助けるような形で落ちたのだから、これでも運が良い方といえる。
キースの方はリリィの下敷きになった腕を、地面の石で切ってしまっていた。
切り口は大きくないが、すぐにでも止血が必要だ。
リリィの方に流血はないが、足首が腫れている。
おそらく捻挫だ。少なくとも歩けるようなものじゃない。
俺はリリィから短剣を借りると、服の裾を螺旋状に裂いて包帯を作った。
次いで崖の斜面に運良く生えていたヨモギの葉を一枚採り、よく揉んでキースの傷に当て、その上から包帯を巻いて止血をする。
ウィリアムさんはヨモギからは止血剤も作れると言っていたから、何もしないよりはマシ、くらいにはなると思う。
リリィの方は圧迫固定くらいしか手の施しようがない。
やや幅広の包帯を作ると、可能な限り丁寧に固定する。
最終的に、俺は半裸同然になっていた。
そこに、天からの悪意が降り始める。
「雨だ……」
キースが絶望したように声を上げた。
今度は俺が危険な状況といえる。
いくら夏とはいえども、肌を直接濡らすようなら風邪を引くだろう。
冷えた身体は体力の消耗も激しい。
「すこし、いどうします」
俺に渡そうと服を脱ぎ始めたキースを制し、リリィを背負うように指示する。
逡巡があったようだが、素直に聞いてくれた。
少し悩んで上流側へ行くと、すぐに崖の上の木が河原まで覆っている場所を見つけた。
不安だったが、やはり巨木は山奥の方が多いようだ。
その下に潜り込んで、とりあえずの休憩にする。
キースは持っていた大きな袋の中から干し肉を取り出した。
ずいぶんと遅めの昼食となってしまった。
たき火でも起こせればよかったが、あいにく火を付けられそうなものはないし、完全に雨を防げているわけでもない。
代わりといってはなんだが、せめて火種を使って干し肉に火を通し、暖めた。
「キースはこれも」
三人で元気のない食事を済ませると、俺は水筒を渡した。
中の水は、魔力を注いで魔力水にしてある。
簡単な薬にも使われる魔力水は、それ自体もごくごく低質ながら回復薬になる。
というよりは、魔力に富んだものを食べれば回復が早まる、と言うべきか。
付け焼き刃だろうが、何もしないよりもまだマシだ。
現状で万が一に対応できるのはキースだけなんだから。
そして本当にやれることがなくなった。
助けが来るのが先か、動物に襲われるのが先か、衰弱死するのが先か。
せめてもの抵抗に、身体を寄せ合い暖め合って、互いに周囲へ気を配る。
永遠とも呼べるほど、長い間そうしていた気がする。
そして、それはやってきた。
一向に止まない、それどころか段々と酷くなる雨の音に、俺達は直前までそれの接近に気がつかなかった。
雨天の暗がりに浮かび上がった影は俺達を見下ろすほどに大きく、興奮しているのか息が荒い。
その顔にある歴戦の証のような大きな傷痕が、俺達を見付けて大きく歪んだ。
加速するような勢いで俺達に飛びかかり――
「まったく……、心配させやがって!」
――力一杯抱きしめたのは、ウィリアムさんだった。




