三
空の底が抜けたように、雨はより一層の強さと激しさを増して降り注ぎ、雷は蠢く。冷たさと心細さに充はぎゅっと目を瞑った。
少しでも神の目から逃れられるように、充は動かない右足を引きずって傍にあった木の根元に腰を下ろした。雨粒が重なった葉の隙間からしたたり落ちてくる。
(もしもこの木に雷が落ちたら、あたしは終わる)
不安に胸が潰れそうになり、懐にいれていた短剣を取り出した。これを充に手渡してくれた父の顔が脳裏に波紋となって蘇る。
「父さん、あたし……ここで死ぬの?」
答えが返ってくるはずがないのはわかりきっている。しかし、そう問いかけずにはいられなかった。
呆気ない。螢の護衛として集落を出たというのに、なんと無様なことか。
充は左膝を抱えて顔を伏せた。右手にしっかりと短剣を握りしめて。彼女の心を慰めようとしているのか、短剣は淡い輝きを放つ。誰か必ず助けに来るとでもいうように。
充は自嘲した。慰めなど必要ない。そう思った。
しかし、そんなどす黒い感情とは反対の感情も湧いてくる。淡い輝きが彼女の瞳の中で揺れた。喉元に何か熱いものが込み上げてきて、抑えることが出来ずに充の両目から涙が滲んだ。涙は後から後から零れてきて頬を伝う。
「……まだ、死にたくない……」
充の押し殺したか細い泣き声は雨音に掻き消されてしまい、自身にさえも聞こえなかった。
涙を流したことで一気に張り詰めていた糸が切れ、まどろみが訪れる。だんだんと思考が薄れていく。
――遠くで声がした。充はまどろみの中で自分の名を呼ぶ声を聞いた。鼓膜がふやけてしまったのか、水面を弾いたようにぼやけている。
知っている声だ。誰だろう。判断能力が鈍っていて、よくわからない。しかし、確実に安堵を感じさせる声だった。
◆
木々が無造作に佇む道とは言えぬ道を一人の青年は駆ける。豪雨に打たれてずぶぬれとなってしまった冷えた体、わらじがすり切れ足裏に血が滲んでいるのにも頓着せず、叢を掻き分けてものすごい速さで一直線にのぼっていく。
彼は夜の如き暗闇で必死に目をこらした。見えるものはない。一寸先は深い静寂に包まれている。しかし、それに臆して立ち止まるわけにはいかなかった。
(彼女は無事だろうか)
胸中で思う。彼女のことを案じる気持ちだけで彼の足は動いていた。
ようやく頂上近くまで引き返してきた。息切れ切れになりながら汗を拭い、険しい山道を踏みしめる。
ふと視線を上げた青年は驚愕に目を丸くした。雷に打たれたのだろう大木が道を遮断しているではないか。そして、その横にある頼りない木の根元に青年が探していた少女の姿はあった。怪我を負っているようだが、肩が上下しているから息はあると思われる。青年は胸を撫で下ろして彼女へ近寄った。
「――充!」
名を呼ぶ。充は彼の声に反応し、うっすらと目を開けた。彼女は青ざめた唇を微かに動かして自らの足へ目をやった。視線の先をたぐると、あらぬ方向に曲がった右足があった。
「待っていろ、すぐに処置を――」
青年の言葉は皆まで続かなかった。
一筋の稲妻が二人の目前に落ちたのだ。閃光に目が眩み、青年は目をそむけた。
――蘇芳の瞳とは珍しい。生まれ出でし時より神に愛でられることを宿命づけられた者よのう。これはこれは、誰ぞの申し子か。
空を奮わせるような、地を這うような不思議な響きの声が辺りに充満した。
青年はすっくと立ち上がり、姿の見えない相手に向かって名乗りを上げる。
「私は風神国王の跡目、商。貴殿はこの山の神か」
商は黒茶の髪の隙間より覗く蘇芳色をした双眸を眇めた。
姿なき相手は是、と返答する代わりに雷を落とした。気分が昂ぶっているのだろうか、雨が槍のように尖った。
――神が自らの領土に降り立つ時、何人たりとも近寄ってはならぬ。たとい申し子として愛でられし者であってもな。
「どうか、見逃してはくれないだろうか」
ならぬ、と山神は上空に深紫の雲を練りながら答えた。
「貴殿が降り立つのを邪魔するつもりは毛頭なかった。即刻立ち去る。だから……」
――ならぬ。我は今、すこぶる機嫌が悪い。生きて下山したいというならば、我との力比べに勝つことだな。もしくは、贄としてそこにいる娘を差し出せ。何どうして、美しい生娘ではないか。
商は舌打ちをした。体力が消耗している時に山神と争うなど自殺行為に等しい。彼は己の懐に収まった扇を見やる。扇から脈打つような高鳴りを感じた。それは彼自身の鼓動と溶け合い、自分を使えと主張してくる。
商は背でかばい、扇に手をやった。
……たしかに、扇を使えば圧倒的な風を起こして山神の隙をついて逃げ出すことが出来るかもしれない。ただ、それは本当に一瞬の隙。商はちらりと背に守った充を見る。彼女はぐったりと木にもたれかかっている。彼女をおぶって山神から逃げ切ることなど不可能に近い。
充を山神に差し出すという選択肢など毛頭なかった。
商の脳裏に先程おぼえたばかりの戦慄が過ぎる。
もうすぐ山を抜ける時、それを伝えようと後ろを振り向いた。すると、後ろにいたはずの充がいなかったのだ。
血の気が引いた。
まさか、惑ったのか。
そう思った瞬間、彼は慌てて道を引き返した。そして今に至る。
商は手の甲に筋を浮かべた。
「馬鹿な。助けるつもりで来たというのに、怪我をしたおなごを置いて……俺がおめおめと逃げ帰るわけがないだろう」
雨粒を弾き、絢爛豪華な鉄扇を広げる。夏草色をしたそれは凛とした輝きを放つ。
「貴殿が力比べを望むなら、私は全力で勝つのみ」
商が全て言い終わらないうちに、雄叫びが上がった。山の獣達だ。神へ声援を送るかの如く彼らは遠吠えを上げる。雷が祭の合図を伝える鼓の如く打ち響く。
雷光が霧散した。商は蘇芳の瞳を細め、心を静めた。彼の立つ場から熱気が込み上げる。地熱をはらんだ風は天高く舞い上がった。常人ならば耐えかねるだろう熱風を山神の坐すだろう雷雲へ飛ばす。もちろん、周りを囲む獣達への注意も怠らなかった。
雷が熱風を圧する。商は奥歯を噛みしめて攻撃を受け止めた。岩棚となっている山の斜面の寸前で踏みとどまる。冷えた雨に全身が打ち据えられ、痛みにも似た感触が骨の髄より駆け巡る。脂汗が浮かんだ。扇を握る手が青紫色になっていく。
一匹の獣が目を光らせて飛び出してきた。獣は天を仰ぐ。それは膨張し、そびえ立つ木々と同じ背丈となった。
商は己の目を疑った。雨が見せる幻想と思いたかった。しかし、それは現実に起こっていることである。
息切れが激しい。膝が震える。獣は長い舌を垂らして充の方へ猪突猛進していく。商は身をねじって間に入った。避けることは出来ない。そんなことをすれば、充が犠牲となってしまう。
刹那、右腕が熱くなった。商の目と鼻の先に獣がいる。獣の黄ばんだ犬歯は商の腕にしっかり食い込んでいた。生ぬるい息が顔にかかる。
――どうだ。降参するかえ?
真紅の血液が雨と共に大地に染み込む。
商は眉根を寄せ、薄く笑った。
「俺が、降参? ……馬鹿な」
――強がりおって。それほどまでに死に急ぐか。
獣の牙が商の右腕から剥がれた。そして、今度こそ彼の腕を引き千切らんと獣は大きく口を開けた。商は黒茶色をした髪の隙間から双眸を光らせ、身の内にたぎる力と精神を扇へ向けた。神経が荒ぶり、乱雑な程の熱が右腕に集中する。それと相まって獣に噛まれた部位から大量の血が流れた。
来るなら来い。商は充を庇う左手に力を込めた。彼女に触れた指先からぬくもりを感じる。
獣が動きを止めた。
いきなりの静止に、商は怪訝な顔をして半歩下がる。
「う…………ん…………」
後ろにいる充から呻き声が上がる。ちらりと目をやれば、彼女は意識を取り戻したのか、うっすら目を開けていた。
ぐえええ、と首を絞めたような声を獣が立てた。獣の口端から泡が噴出し、音もなく倒れる。黒雲より漏れ出た金色の光が息を引き取った獣を優しく照らした。
「…………――――あ…………」
商は小さな声で呟いた。獣を止めたのは一本の剣だった。深々と獣の心臓に突き刺さったそれを、見覚えのある青年がするりと抜いた。
とぐろを巻いていた雲が唸り声を上げるのをやめた。荒れ狂っていた風もぴたりと息を止める。山神を崇め奉るように身を震わせていた虫の声や、獣達が蠢く音も聞こえなくなる。
そんな中、青年はぽつねんと立っていた。彼は恐怖も迷いもない表情で佇んでいる。金の光はより一層強く降り注ぐ。それを青年の体は弾いていた。
「神になど、〝充〟は返しはしない」
青年は呟く。いまだ山は息を潜めている。山神と青年のやりとりをじっと見守っているようだ。この奇妙な静けさが商に一片の不安をもたらした。
――……ほお。ことわりに左右されぬ者、か。ほほ、こたびの遊山は珍しい者とばかり遭遇できて退屈せぬぞ。
神は満足げに言った。濡れ羽色の輝きを宿した瞳を瞬かせて青年は答える。
「そうさ。あんたは俺に干渉出来ない。さっさといるべき場所へ帰ってよ」
――小生意気な。ふむ……まあよい。風神の申し子とも力比べ出来たことだ。今回は引いてやろう。常ならば三日は滞在するのだ。感謝してほしいものよの。
現れた時と同様、突如として嵐は去って行く。
山神は去った。
しばし茫然としていた商は胸に詰まっていた息を吐き出す。右腕が焦げ付くように痛い。あれ以上戦っていたら命が危なかったかもしれない。彼は腰帯を取り、左手と歯を使って器用に右腕へきつく結んだ。
と、後ろでもぞもぞと動く気配がした。商は充の前に片膝をつく。
「おい、大丈――」
思考が止まった。
体験したことのない、ぬくもりが全身を襲う。
充が商に抱きついてきたのだ。
「……朔……」
商は一瞬惑った。彼女は商を朔だと勘違いしている。だが、彼女を安心させることが先決だと回らない思考回路で考えた彼は、しかと充を抱きしめ返した。
「もう大丈夫だ、安心しろ。すぐに麓まで連れて行ってやるから」
ほっとしたように充は顔を緩め、瞼を閉じて寝息を立て始めた。
朔は黒雲が去って行くのを微動だにせず見届けている。彼の背中からは冷えた殺気が放たれている。
山神が地上より完璧に去るのを見届けたあと、朔は商と充のもとへ寄ってきた。
商は充と抱き合っている状況に気まずさを感じる。しかし、朔にはそんなことどうでも良かったらしい。彼は血相を変えて尋ねてくる。
「充の状態はっ?」
鋭く朔は訊いた。
「息はある。先程までは意識もあった」
朔はこわごわと充の手を握ると素早く充の背中に耳を当て、心臓が動いているかどうか確認した。そして、あからさまに胸を撫で下ろす。彼は充が無事だとわかった瞬間、へたり込んだ。
商は目を見張った。これまでの道中、余裕のない彼を見たことなどなかった。
「良かった……」
至極小さく朔は呟いた。充の手を握る彼の手は尋常ではないくらい震えていた。
◆
木々の隙間より微かに夕焼けの空が見える。雲間から赤い光が射してきて山を照らした。
蘇芳色が茜色と混ざり合って夜色となる。気を失っている充をおぶさって、商は下山していた。朔に自分がおぶろうかとの申し出を受けたが、丁重に断った。背中の重みが命の重み。彼女が生きていることをいまだ信じられない自分にとっては必要な重みだった。
朔は草笛を鳴らす。そう言えば、と彼は商の方を振り返った。
「万達は麓にいるよ」
「そうか、それは良かった」
「簡素な返事だねえ。他の皆が山頂に残ってること、考えなかったのかい?」
朔はそう言い、苦笑する。
商は返答に詰まった。
「……螢殿とすれ違っていたはずだろうに気付かなかったことは、悪かったと思っている」
そう返すので精一杯だった。
朔は「そういうことじゃなくてさ」と目をくるりとさせながら後頭部で両手を組む。まあいいか、と彼はぼやいた。
商は思い耽った。本当は螢だって取り残されている可能性はあったのに、充のことしか頭に浮かばなかった。
螢はもちろん、朔達のことも頭になかった。多分生きているだろうと思っていた。それは旅を共に続けてきた上での信頼関係がなせるものだ。
(本当にそれだけか)
ふと心に過ぎった、今まで感じたことのない粘ついた感情に商は戸惑いを覚える。
細い吐息が耳にかかる。健やかな充の寝息は商の心を安定させてくれた。痛む右腕も全身を襲う疲労感も吹き飛ばしてくれる。
小さく細い充。彼女は地祗国王族に名を連ねる者として、これから修羅の道を歩むことになるだろう。自分と同様に。
ただ一つ商と違うのは、傍流ということだけ。
『王にふさわしい者が王になれるとは限らない』
風神国王はそう言っていた。間違いない、と思う。
王族本流は人々から守ってもらえる。しかし、傍流は違う。王となるべき者の陰となり、命を差し出してでも自らの王を守らねばならぬ存在。
儚げな螢の姿を瞼の裏に浮かべる。すると、彼女を守って血に濡れる充が浮かんだ。商は、はっとして首を左右に振った。
充の手にはしっかと地祗の秘宝である短剣が握られている。それは涼やかな音を立てた。