二
晴れた朝方、焚き火に乗って香ばしい焼き魚の匂いがそこら中に漂う。
一行は朔に叩き起こされ、眠い目を擦っていた。
しかし、一人だけ弾けるように元気な者がいた。擯である。彼は誰よりも長く寝ていたためか、すこぶる機嫌が良かった。朝っぱらだというのに大声で商へ喋りかけている。それを鬱陶しげに聞き流し、商は注意深く魚の焼け具合を見張っていた。
「昨晩は冷えたな」
急な冷え込みによって鼻声になった万は、身を大きく震わせて焚き火に手をかざす。
「はい、本当に」
くしゅん、と小さなくしゃみをして螢は鼻を啜る。
朔は無言で木の実をすり潰している。
「何をしているのですか?」
螢はそんな朔に向かって問いかけた。
「ん? 常備薬を作ってるのさ」
「常備薬?」
どうやら木の実と薬草を混ぜ合わせて、擦り傷やら火傷に効く薬を作っているらしい。
「本来ならば巫が作らねばならぬものだがな。朔殿が作ってくれると申し出てくれたものだから、お言葉に甘えてしまった」
万は苦笑混じりに言った。朔も口の端を上げる。
「朔さまは何でもお出来になるのですね」
螢は熱のこもった目で朔に言った。朔は肩を竦めた。
「何でも出来るなんてとんでもない。俺はこんな小さなことぐらいしか出来ないさ」
いいえ、と螢は握り拳を胸の前で作った。
「そんなことありません! ご立派です」
力強い言葉に充を始めとした一同はぽかんとした。
急に擯が大口を開け、体をのけぞらせて笑い出した。そして彼は朔の背中をばんばんと叩いた。
「いやぁ、朔殿。羨ましい限りだ。このような美人に褒められるなどそうそうないぞ」
はあ、と朔は間の抜けた返事をする。その顔には困惑の色が浮かんでいた。
「あ、わたし……」
螢は顔を赤める。それを見て、充は何とも言えない気持ちになった。みぞおちの辺りが重い。
そんなやりとりには興味がないと言いたげに、商は見張っていた魚を焚き火から遠ざける。そして充へ突き出した。
「ほら、熱いうちに食べるといい。今日もたくさん歩くだろうから」
「ありがとうございます」
商に差し出された焼き魚を充は素直に受け取った。
やんやしている背後をよそに、商は空を仰いで目を瞑る。充は彼を横目で見つめた。
柔らかな風が商の周りを取り囲む。きらきらしていた。日の光を浴びることが当然の存在。彼には太陽がよく似合う。透明で、鮮麗とした風神に愛されし王子。
商の瞼がぴくりと動いた。彼は蘇芳色の双眸を開き、山頂を眺めて眉根を寄せる。彼は素早く立ち上がった。
「どうしたんですか?」
「……山頂付近の空が透き通り過ぎている」
そう言って彼は山の頂を指差した。
なるほど、常より増して山頂の空は深青色に染まっており、今にも透けてしまいそうだった。
「これは、まずいかもしれない」
ぼそりと商は呟いた。どういうことか、と問う暇もなく彼は朔達に声をかける。置いてきぼりにされた充と螢は顔を見合わせて首を傾げた。
◆
どうやら、空が透き通り過ぎているのは予兆らしい。神がこの世に降り立つ際の予兆である。
神は気まぐれだ。特に山神は自らの領域へ人間が侵入してくるのをひどく嫌う。もしも山越えの際に神が降臨したら、それこそ一大事だ。
万達はひとしきり頭を寄せ合い、いったん引き返すかどうか相談していたが、擯の威厳ある一言によってこのまま突破することに決まった。彼は憤然と鼻息を荒くし、こう言い放った。
「何を言い出すかと思えば。空が透き通り過ぎているだと? あのなあ、商。いちいち迷信を信じてちゃあ山越えは無理だぞ。行きも大丈夫だったんだ。しかし……おぬしがそんな臆病者だったとは残念なことこの上ない」
擯の挑発に商はむっとして言い返す。
「用心に越したことはないと言いたかっただけです。誰も引き返せとは言っていない」
「よしよし、それでいい」
擯は商の肩に手を回して上機嫌で口笛を吹き鳴らす。
商はたいへん不機嫌そうだった。
朔や万はそんな光景なれっこなのか、黙って野営の後始末をしている。充は慌ててそれを手伝った。そして、擯は皆の気持ちに頓着するでもなく自分の武勇伝を語り始める。その餌食となったのはどうすればいいかわからず突っ立っていた螢だった。彼女は助け船を求めてこちらを見つめていたが、悪いと思いつつ充はその乞うような視線を無視した。
陽が地上全てを照らし出す頃、一同は山を登り始めていた。
筋肉隆々な擯は万の手を率先して引き、さっさと歩いて行く。
商は臆病者と言われたことをまだ引きずっているのか、唇を一文字に引き結んだまま黙りこくっている。
「しょうがないよ、商。あの擯にかかっては予兆も何もあったもんじゃない。迷信だと一蹴されるに決まってるじゃないか。ほらほら、さっさと山越えしてしまおう」
朔がこっそり商へ耳打ちした。それに商はしぶしぶ頷き、促されるまま足を動かす。
充は額に滲む汗を腕で拭い上げてその後に続く。充のすぐ背後には膝を手でさすりながら、ゆっくりと螢が続いていた。彼女のたよりない足で、このごつごつした山肌を歩くのはきつかろう。だからと言って、おぶってやるほどの体力は充になかった。もし自分が男ならば螢くらい軽々と担ぎ上げてやれるのに、と歯がゆく思う。
そうこうしている間に一行は頂上へと辿り着いた。
何の変化もなかった景色が一変する。登り詰めて最初に目に飛び込んできたのは、巨大な王宮と、それを取り囲む家だった。集落のある山間から出たことのなかった充と螢によってはまさに息を呑む光景である。
数年に一度来る行商人が語る外の世界。それは全て想像の中でしか見たことはなく。
広く、雄大な平野に存在する天神国の都。
言葉をなくした充と螢に、擯は「他のどの国よりも天神国の都は大きい」と嫌そうな顔をして説明してくれた。
「すごい……」
充の呟きに、螢は大きく首を縦に振って同意した。
二人の横で擯が王宮を指差して説明しだす。
「あれが見てわかるように王宮でな、その横にあるのが兵の――」
「待て。なんか雲行きが怪しくないか?」
擯の言葉を遮って朔が鋭い声を上げた。それにつられて皆、次々と空を仰ぎ見る。
先程まで雲一つなく透き通っていた山の上空には、いつの間にやら灰色の雲が渦を巻きつつあった。
擯は顔を強張らせて叫んだ。
「走れ! 一気に麓へ下れ!」
その声とほぼ同時に、空が鳴った。
雨は激しく地面を打ち、雷はやちまたとなり見境なしに降り注ぐ。
ほんの少し前までのどこか長閑な旅は終わってしまった。
ぬかるむ足許に注意を払いつつ、皆必死で走る。
「一体どうなってるのっ?」
雨音に掻き消されぬよう声を張って充は前を行く朔達に訊いた。
「商が危惧してたとおり、この山の神様が降りてくるのさ!」
余裕をなくした早口で朔が答えた。充は背筋に冷水を流し込まれたような悪寒を感じた。
「とにかく麓まで走れ! いざとなったらおれ様が山神と対峙する!」
「馬鹿なことを……っ。いくら申し子と言っても直接神と戦うなど出来るはずがないでしょうっ」
苛立った口調で商が擯に言い返した。
(この視界が悪い中、ずっと走っていけというの?)
無理だ。そう充は思った。夜のように辺りは暗く沈んでおり、一寸先も見えない状況だ。いつ辿り着くともしれない麓までなど、走る体力――いや、その前に気力が続かない。今だって気がくじけて立ち止まってしまいそうだった。
雨脚はひどくなるばかり、雷も段々と近くに落ちてきているようだ。
「今朝、商さまの言うことを耳にとめておけばよかったのよ!」
螢は泣きじゃくりながら金切り声を上げた。ぎくりと充は肩を強張らせて後ろを振り返る。恐れていたとおり、螢は立ち止まっていた。慌てて彼女のもとまで逆走し、腕を引く。
「螢、今はそんなこと言ってる暇はない。ほら、走って!」
充の叱咤にも耳を貸さず、螢は堰を切ったようにおいおいと泣き叫ぶ。ここにきて緊張が悪い意味で解けてしまった。螢の心は絶望に染まってしまっている。
充は焦燥感に駆られながら他の者達に救援をと思って前を向き、愕然とした。誰もいない。いるかもしれないが、この雨だ。姿がまるっきり見えない。
頭の中が真っ白になる。腰が砕けてしまいそうだ。
「どうせ逃げられっこないわ。ああ、神さま。殺すのならば一思いに殺して下さい!」
狂ったような螢の声に山神が応えたのか。閃光が充の目を眩ませる。
奇天烈な轟音を立て、雷は螢のすぐ横にある大木へ落ちた。螢はその場から動こうとはせず、すすんで木の下敷きになろうとしている。大木は軋みながら、ゆっくりと音を立てて倒れだした。
「螢、お願い……走って!」
充は自らの体を支えるのもやっとである状態下で、螢の手を引く。しかし、螢の足は全く動かない。
このままでは螢が木の下敷きになってしまう。このまま後ろへ退けば、自分だけは助かることができるだろう。充は奥歯を食いしばった。
刻が止まったかのようだった。
螢は固く目を瞑り、己の最期を覚悟しているようだ。
充は足を踏ん張り、か細い螢の体を思いきり突き飛ばした。その拍子に螢は体勢を崩し、ぬかるんだ地面に体をこすった。彼女は何が起こったのか理解出来なかったのか、泥と涙と雨でぐしゃぐしゃになった美しい顔を上げ、目を見開く。
「あ……充っ」
「大丈夫、足が挟まっただけ。すぐ後を追うから……先に行って」
充と螢の間には大木が横たわっている。螢の顔だけがかろうじて見える。
右足に激痛がほとばしる。充は痛みに耐えかねて小さく喘いだ。しかし、螢を安心させねばという思いが勝り笑顔を取り繕った。
「ほら……早く」
「わたし、わたし――ごめんなさ、充……っ」
取り乱して泣き続ける螢を、何とか先へ行かせたい。
充は無理矢理右足を木の下から引っ張り出した。そして、全身の力を振り絞って立ち上がる。大木にしがみつき、反対側にいる螢の頬を叩く。
「早く行きな! あたしの役目はあなたを守ることなんだ。こんなところで死なせたりしたら、父さんに顔向け出来ないんだよ!」
充は腹の底から怒鳴った。螢ははっとしてぶるぶると身を震わせる。
「早くっ」
「待ってて、他の人を呼んでくるから……絶対、待ってて!」
螢はそう言い残して走り出した。それを見送り、充は崩れ落ちた。右足が焼け付くように熱い。きっと、骨の一、二本は折れている。
「――螢が皆と合流出来ますように――」
充は螢が無事、皆と合流することだけを祈った。泣いたりなど、しなかった。
◆
朔が山の麓に辿り着いた時、太陽は西に傾いていた。もうすぐ夕方になる時間帯である。濡れそぼった着物の裾を捻り、顔に貼りついた黒髪を掻き上げる。
彼は自分の来た道を振り返った。
山頂には暗雲が垂れ込めている。やはり、山神が地上へ降りようとしている。短い間とどまる気か、長い間とどまる気かは誰にもわからない。
朔は見る見る間に山全体を覆っていく暗雲を睨みつけた。山神はまず、頂上に降り立つ。その時、頂上付近にいるのは非常に危険だ。
「神が降りなさったぁ」
「よかったよかった。昨日登り始めていたら死んじまってたかもしれんぞ」
「お前の腰痛がひどかったおかげで命拾いしたわ」
ははは、とこれから山へ登ろうとしていたと思われる人々は笑い合う。安堵の響きを持つ笑い声を尻目に、朔の表情は厳しかった。
彼は途方に暮れていた。彼以外、仲間は誰一人麓に辿り着いていない。嫌な予感に襲われる。
「おーい」
と、聞き慣れた声がした。擯だ。彼は万をおぶっていた。そのため到着が遅れたものと思われる。万は老体を引きずり、切り株に腰を下ろす。
「他の者は?」
「まだ来ていない」
「そうか……しばし待とうぞ」
万はそう言って荷物の中から団子を取り出した。老婆はそれを朔や擯に分けるでもなく、自分一人でぺろりと食べきった。
少しして、螢が現れた。彼女は今にも気を失ってしまいそうなくらい白い顔をしている。朔は彼女に駆け寄った。
「充と商は?」
勢い込んで朔は訊いた。
「商さまは途中ではぐれてしまって……。それで、朔さま……っ。充を助けて!」
螢は朔の袖を引っ張り大声で泣き出した。
朔の瞳孔が、これ以上ないほどに開く。
螢は包み隠さず全てを話してくれた。
――充が頂上付近にとどまっている。
朔の表情が強張った。朔の心境を察したのか、万が袖を掴んで首を横に振った。
「朔殿、気を急くでない。まだ山神が――」
「そうだぞ、いくらおぬしでも神の相手は……。おれ様も行くから、少し落ち着いて……」
しかし、朔は万や擯の止める声も聞かずに踵を返した。
「朔殿!」
「早まるでない、朔殿!」
「朔さまっ」
止める声が朔の背中にむなしく反響した。