一
四方を山に囲まれた辺鄙な場所に、一つの集落があった。
圧倒的な力によって世を支配している天神国の端に根ざすその集落は、例年にも増して食物が不足していた。
それでも集落の者達は文句一つ零さずに笑顔を貼り付け、何とか暑い夏を乗り切った。しかし夏が終わりを告げる頃になると、集落における大半の家は非常に困窮し、口減らしを行なわねば冬を越せないかもしれない状況に追い込まれてしまっていた。
山々に隔離された集落である。山の実りが少なければ、冬を越すための備蓄を行なうことも出来ない。
山を越えた先にある大きな町に子供らを出稼ぎへ行かせるという方法もあったが、大人達はそれを良しとしなかった。奉公へ行かせるくらいならば、口減らしを行なった方がましだとの意見が大半を占めている。
閉鎖的な考えが、その集落には充満していた。
山は秋色に化粧し、風も少しずつ肌寒くなっていく。
空が海より青い日だった。
充はいつものように陽が昇ってすぐ、集落の北を走る小川へと向かった。左手に持った桶を空中に投げて遊びながら、目的の場所に辿り着く。彼女は小川の流れる一歩手前で立ち止まった。目的地には先客がいた。
――着物の袖からむき出しになっている、白く汚れなき象牙色の肌。深い茶色の腰まである長い髪と濃い睫毛に縁取られた瞳は朝陽を浴びて煌めいている。肌寒い秋風は、可憐な少女の絹の如き髪をたなびかせる。
充は自分の赤茶色をした長い髪をいじった。髪は陽に焼けてごわごわと軋んでいる。少女の指通りよさげな髪とはえらく違う。
「螢は今日もかわいいなあ」
「そんなことないわ」
「いいや。お前自身が気付いてないだけで、集落の中でも際だって美人だぞ」
「……」
水汲みを行なっている少女――螢に纏わりついている男は熱心に言葉を紡いでいる。今にも螢に抱きつきそうだ。
その様をじっと見つめていた充だったが、放っておくのも後味が悪い。第一、水汲みをするためにここまで来たのだ。踵を返して家へ帰るわけにもいくまい。
非常に不本意だが、充は螢と男の前に大股で突き進んだ。
「お、み、充じゃねえか……。おはよう」
「おはよう、烙。あたしも水汲みしたいんだけど……もう水汲みしたんだったら、さっさと帰りな」
腕を組んで不遜に言い放った。烙は口の中で何事か呟いたが、充が睨みを利かせると一目散に家へ逃げ帰った。充は特別腕っ節と背丈に自信がある。集落の男達は皆それを知っている。だから、充に逆らおうとする同年代の男は一人としていなかった。
邪魔な男を追っ払うことに成功した充は膝を折り曲げ、透き通った川の水を掬い上げて喉を潤した。それは起きしなの体に染み渡っていく。
「ありがとう、充。助かったわ」
「ううん。お礼を言われるほどのことはしてない」
螢は胸に手を当てて充に微笑みかける。
桶に水を汲んで、充は空を見上げた。空高く飛んでいる鳥のさえずりが聞こえてくる。
「烙には、ほとほと困っていたの。充が来てくれて良かった……」
普通だったら厭味に聞こえるだろう科白も、螢にかかれば純粋な科白となる。無垢な瞳は蝶よ花よと大切に育てられた姫だけが持ちうるものだ。充は心が温まるのを感じた。思わず口角が上がる。
螢は集落長の娘である。天真爛漫で可愛らしい螢は老若男女問わず集落の者全てに好かれていた。
充は彼女とそれほど親しくしていなかったが、よく父親に「螢さまを見ておくように」と言い含められているため、たびたび群がる男達から螢を助けてやっていた。
弱きは守るもの。
充が父親から教わった心構えだ。
「あたしはもう行くけど――家まで送ろうか?」
「やだ。そこまで距離があるわけじゃないでしょう。一人で帰れるわ」
「そっか……ならいいや。じゃあね」
「ええ」
今にも折れそうな細い手を振ってくれる螢へ笑顔を一つ送り、充は身を翻した。
家に帰り着くと、待ち構えていた母親に桶を渡す。母親は「ありがとね」と言って火を起こす。充が汲んできた水を鍋へ流し、その中に均した穀物と野菜を入れて蓋をした。しばらくすると、何とも言えないかぐわしい匂いが家中に充満してきた。
「ううん……」
鍋の具が放ついい匂いにつられたか、父親と弟妹達が薄い布団から頭を出した。
「ほらほら、もうご飯が出来ますよ」
母親はそう言って父親や弟妹達を揺り起こす。
家族は揃って朝飯に食らいついた。成長盛りの弟はよそった粥をぺろりと平らげ、物欲しそうな目で充の椀を見つめている。
充は嘆息し、少しだけだよ、と自分の粥を弟の椀へ移した。
「さっすが充!」
「呼び捨てにするなら、あげません」
ひょい、と弟の椀を取り上げて充はつんとそっぽを向く。
「あああ、ごめんなさい。もう呼び捨てにしませんから……姉上ぇえ……」
「わかったならよろしい」
充達のやりとりに参加せず、黙々と朝飯を食べていた妹が、母親へ椀を突き出した。
「母さん、私もおかわり」
「ごめんね。おかわりはないの」
「ええ、また?」
「そんなぁ」
妹二人が口を尖らせて文句を言った。
「――……食べられるだけありがたいと思え。集落の中には野菜の皮をも食べられずひもじい思いをしている者どももいるのだ」
普段は無口な父親が低い声で言い、眉根を寄せる。弟妹達は息を止めるように押し黙った。
粛々と食事は進んだ。
「……充」
「はい」
父親に名を呼ばれ、充は壁に立てかけてある木刀を二本取って家を出た。母親は前掛けで手を拭いながら、複雑そうな面持ちで充と父親を見送る。
充は朝飯を済ませて農作業を行なう前に、必ず父親から武芸を習っていた。剣術や弓術、柔術など、一通りは教え込まれている。どういう心構えでいるべきかなども厳しく叩き込まれた。
何があっても生き残れ。そう言われて充は育った。
幼い頃は他の子供達が綺麗な衣装を着て遊んでいるのを横目見、涙を流したこともあった。どうして自分だけこんな厳しくしつけられているのだろう、と。しかし、大人として認められる十五の年が近づくにつれて、良かったと思えるようになった。
充は集落にいる年頃の男女の中でもずば抜けて強い。それは誇りとして彼女の胸に燦然と輝いている。この集落では男女関係なく長子が家を継ぐことが決められている。それもあって、父親は充に対して厳しく接したに違いない。
「強くなったな」
父親の木刀を弾いた充に、父親は目元を和らげた。充そっくりのつり目が心なし垂れる。それを見た充は零れんばかりの笑顔を見せた。
「さて、農作業をするか」
「はいっ」
大きな父親の背中に充は続く。
燦々と照りつける太陽の下、充は畑を耕すことに集中していた。普通、女は家を守るものとして繕い物や洗濯、食事の準備などを任されるのだが、充の家は違う。充は男の仕事も女の仕事もさせられている。
充はそれが嬉しくて仕方なかった。少ない水を分け合って育つ穀物や野菜の艶を見ていると生きる力が湧いて来たし、繕い物をしながら集落の少女達とお喋りする時間もかけがえのない楽しみだった。
――あたしは贅沢者だ。どっちも経験出来るんだから。
「お前ももうすぐ、十五か」
畑仕事の途中、急に父親は呟いた。
「え、ええ。いきなりどうしたのですか?」
集落では秋神祭の日に一つ年を取るとの決まりがあった。あと三日に迫った秋神祭の日、充は十五の誕生日を迎える。
「いや――ふと思っただけだ」
父親は顎に伝う汗を拭い、充を見つめる。
「父さんは、お前こそ……――――だと思ってる」
父親の声は酷くくぐもっていて、よく聞こえなかった。彼の表情は固く強張っていた。
農作業も一段落つき、充は家の軒先で武器の手入れを行なっていた。木刀は湿気に弱い。ひびが入っていれば新しく作り直さねばならないし、切っ先が尖りすぎていても怪我する確率が高まるため削らねばならない。
充は柔らかな布で木刀や弓を拭き上げていた。
「み、ち、る!」
いきなり背後から肩を叩かれ、驚いた充は背後に佇んでいる少女を投げ飛ばしそうになった。
少女達は悲鳴を上げて尻餅をつく。集落の中でも裕福な家にある者達だ。同い年ということで、よく充を遊びに誘ってくれる。
「あ、ごめん」
面識のある少女達だとわかった充は頭を掻いた。
「もうっ。ひどいんだから! か弱い乙女になにするの」
頬を膨らませて少女は怒る。充はひたすら謝り、彼女達の機嫌を取った。
「で、用は?」
ようやく少女達の気分が上昇したと思われる頃合いを見計らって、充は訊いた。すると、少女達の中の一人が充の手を取って目を輝かせた。
「三日後にある、秋神祭へのお誘いよ」
「今年こそ、絶対一緒に行ってもらうから」
「充ちゃんも黙っておけばいけると思うわ。秋神祭には他の村や町からも見物人が来るし。そこでいい人見つけましょうよ」
年頃の乙女が考えそうなことだ。充は一気に鼻白む。
「――――行かない」
「どうしてっ?」
少女達は声を合わせて断った充へ詰め寄った。周囲の目を意識して化粧を施した少女三人を間近で見ると迫力がある。充は一歩後退する。
「真子ちゃん、螢ちゃん連れてきたよー」
ぴくりと充の耳が動く。
晴れやかな少女に手を引っ張られた螢と、充の視線が合った。螢は困惑しているようで、濃い睫毛に縁取られた大きな双眸を瞬かせている。
「ほら、螢も困ってるでしょ。放してあげなよ」
「ふふん。大丈夫だもん」
少女は勝ち誇ったように充を指さした。
「ちゃあんと螢ちゃんは秋神祭に行くって言ってくれましたー」
「わあ、ほんと?」
「螢が来てくれれば、男たちが声かけてくる数が上がるわ」
きっと、最後の言葉が本音だろう。
螢は眉をハの字にして充へ問いかけてくる。
「えっと……充も来るのよね? そう聞いたのだけど……」
「いや、あたしは――むっ」
充の口を少女達が塞いだ。
「うんうん! 充も行くわよ。螢が行くんだったら行くのよね? ね?」
鼻まで押さえつけられているため呼吸が出来ず。充の顔は真っ赤に染まった。無理矢理、少女の手を振りほどいて息をつく。
「良かったぁ」
螢は花が綻ぶように小首を傾げて目を細めた。ぽってりとした赤い唇から白い歯が見え隠れする。
「充が行くなら、絶対わたしも行くわ」
螢の背後に並んだ四人の少女達から、言い知れない重圧を感じる。断ろうものなら一生口を利いてやらないとでも言いたげだ。
秋神祭が開催される場所は集落からさほど離れていない。きっと両親も承諾してくれるだろう。祭りは夕方から始まる。農作業を終え、少し見物へ行くだけならば許されるはずだ。
根負けした充は嘆息した。
「いいよ。わかった」
やったあ、と少女達は手を握り合って飛び跳ねる。螢だけは状況がよくわかっていないようで、ぽかんとしていた。