七
「なんだってぇっ――げほっ」
宿屋の一室。擯は呑んでいた酒を零して咽せた。
万も料理をつついていた箸を止め、朔も茶を飲むのをやめる。
螢が宮の関係者と思われる者にかどかわされたということが三人に与えた動揺は凄まじいものがあった。特に擯など、そわそわと部屋の中を回り始めてしまった。
「……擯殿、落ち着いて座って頂けないだろうか」
「これが落ち着いていられるかってんだ! 商、お前がいながら――」
「商様は悪くありません」
ぴしゃりと充が言い放った。
「――……あたしのせいです」
「いや、私がもう少し早く二人を見つけていれば、このような事態には……」
「もう良い。誰に責任があるかといえば、わしに一番の責がある。充と螢を二人で行動させるという判断を下したのはわしじゃて」
万も苦虫を潰したような顔で俯いた。
「昼時に、問屋の主人から聞いた『都内や近郊の美しい娘達が、宮へ連れ去られている』という噂は本当だったようだな」
落ち着いた声色で万は言った。
充は歯を食いしばる。
「オレも有力な情報を得たぞ。今月は天神国王の第一子……第一王子の十八回目の生まれ月らしい」
擯の言葉を聞き、朔は額に手を当て、困ったように息を吐いた。
「あっそう。それじゃ、晦日まで……あと十二日間が、俺達が螢を助けられる限界ってわけか」
朔の言に対し、万も擯も商も首肯する。
「晦日まで? 何故?」
充だけが、その理由を理解できなかった。朔は充に向き直り、かみ砕いた説明をしてくれる。
「第一王子の十八回目の生まれ月……成人を祝う月に、王は献上された娘達の中から気に入った者がいれば側室として宮の奥へ迎え入れられるんだ。その、螢をさらった奴は、『さるお方が』螢を気に入ったと言ってたんだろう? じゃあ、間違いなく螢は側室として迎え入れられるはず。そうなったら、取り返すのは困難だ。、むしろ、宮の奥に隠されてしまったら手の出しようがない。絶望的なんだ」
「今なら、側室候補として扱われてるだろうから、比較的日の目をみることができる場所にいるだろうけどね」
と、朔は付け加える。
衝撃が全身を駆け巡った。宙に浮いているような気分になる。
「おい……」
気遣わしげに商が声をかけてくるも、それに答える余裕などない。
充と商以外の三人は、早速どうやって螢を取り戻すかの作戦を練り始めた。
「困ったものよ……。地祇国の血脈を受け継ぐ者がいなければ、連合軍はまとまりがつかぬだろうて」
万の言葉が充の胸を抉った。彼女の言っていることは尤もなことた。朔や擯も何も反論しない。
充は俯き、目の奥から込み上げてくる塊を必死に堪えようと歯を食いしばった。
その時――。
「本当に、螢殿がいないと無理なのか?」
唐突に、商は言った。
「何が地祇国の王族本流の血だ。別に地祗国王族本流の血を引く者などいなくとも、連合軍はまとまる。擯殿もいるんだ。武力高しと有名な火神の申し子である擯殿の名のもとに集まる国はごまんといるだろう」
彼の主張に気分を良くしたのか、擯は腕を組んで顎を上向かせる。
「ま・まあな。たしかに、俺やお前が参戦するならって連合軍へ投じる気でいる国は多い……」
朔は一瞬戸惑ったような表情を見せたものの、探りを入れる視線を商へ向けつつ黙っていた。
そんな商へ万は反論する。
「そなた達が思っている以上に、地祗国が復古するのならば、と馳せ参じる国は多いのじゃ。西の水神国とてそうじゃ。擯……ことごとく火神国と仲が悪い水神国じゃが、地祗国王に連なる者を担ぎ出すのならば、連合軍へ下ると言っておる。よって、地祇の申し子である螢の存在は必要不可欠」
「地祇の申し子、か」
万の反論に、商は冷淡な笑みを浮かべる。
「彼女はお荷物でしかない。申し子といえど、現に何の役にも立っていないではないですか」
小気味いい音がした。
反射的に、充は商をぶってしまった。しんと静まり返る一同の視線が充へ集まる。瞳のふちに涙を滲ませ、彼女は踵を返した。
充は宿屋の裏手にある川縁に腰を落とし、商を打った自身の手を見つめた。
商をぶった掌が痛い。父との鍛錬でもっと痛い思いをしたことはたくさんある。しかし、今まで味わってきた痛みより何より、商をぶった掌が痛かった。心が、痛む。
螢を悪し様に言われた怒り、商のような身分の高い者をぶってしまった恐怖によって心が痛いわけではない。
――あれは、あたしの心。
そう。商の言葉は、充が心の片隅で思っていた言葉だったのだ。自分は、螢をお荷物だと考えてしまっていた。
充は自嘲の笑みを浮かべる。
(あたしは、なんて愚かなんだろう)
じゃり、と地面を踏みしめる音がした。振り向かなくてもわかる。風の匂いが鼻孔をくすぐる。――商だ。
彼は小さく丸まって座り込んでいる充の背に背中合わせで座った。
「すまん」
小さな声で商は謝罪の言葉を吐いた。
「俺は、思ってしまったんだ。――君が、申し子だったら、と――」
商の言葉に、ぐっと空を見上げる。空には薄雲がかかっており、遠く陽の玉が沈み込もうとしていた。
「……商様、見てて」
充は螢から預かった短剣を懐から取り出すと、強く差す夕陽にかざしてその柄を握る。
――何も起きなかった。螢がこの短剣を握った時に起こったような、商が扇を握った時に起こるような神事は、何も。
充は自嘲げに笑んだ。
「これが、答え」
自分は申し子なんかじゃない。大きな流れの中で、右往左往することしか出来ない脇役なのだ。
――ようやく割り切れた。もう、迷わない。
「正気づいた?」
ひょっこり、朔が姿を見せる。彼の黒曜石のように煌めく瞳が充の心を炙り出す。
本当は、と充は歯切れ悪く言葉を止めて唇をしめらせた。朔と商は黙って耳を傾けている。
「本当は、少しだけ信じてたの。きっと、あたしには何かがあると」
螢よりも武には自信があるし、何かしら特別な役割があるのではないか、と心の奥底では思っていた。
――そんなことは、なかったけれど。
「さーてと」
出し抜けに、朔が言った。
「螢が宮に囚われてちょうど良かった」
彼は笑った。
「天神国王は、各国の神の秘宝を宮内に隠し持ってると聞く。それを奪い返す、絶好の機会じゃないか。運が良いよ、俺達は」
彼の言葉は充の悲しみにささくれ立った心によく染みた。
――刻一刻と、時は迫っている。
一つの騒動はさらなる騒動を呼び起こすもの。
小さな騒動は……やがて来る大きな騒動の、前触れ。