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数多の神はその昔、自由気ままにこの世を歩いていた。
神々がこの世を練り歩かなくなってからも、その子孫達が国と、神の加護が宿っている秘宝を守り治める王となり、世は豊かなままであった。
しかし、幾多も存在する秘宝が災いを生んだ。
より強い神の秘宝を、と国々が争い始めたのだ。
ある国は争いを止めようとして消し去られ、ある国は争いに敗れて滅ぼされた。ある国は争いに勝利して沢山の秘宝を獲得し、領土を広げる。
そんな戦乱の世になってしまった。
気まぐれにこの世にやって来る神々は人々の愚かな争いを止めようとはせず、傍観を続ける。中には「面白そうだ」と自ら進んで力を貸す神さえいた。
恵まれた大地を荒野に、澄んだ風の匂いを血の臭いに、笑い声が絶えなかった町を泣き声が絶えぬ町へと変えてしまう争いは、一体いつまで続くのだろうか。
一つの国がなくなる度、一体どれ程の涙が流されているのだろうか。
…………一体、どれ程の命が毟られているのだろうか。
いつになれば皆気付くだろう、争いは何も生まぬということに。最後に行き着くのは虚無だけだということに。
神々が長い年月をかけて造り、歩いた美しい世の面影は薄れてしまった。
神々の宿る世は、荒れている。
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散りばめられた飴色の置物を薙ぎ倒しながら、少年は先へ先へと進んだ。
王宮に住まう一部の者しか存在を知らされていない地下の回廊は、厭味な程に静かな雰囲気を保っていた。
潮の匂いが鼻につく。
逸る気持ちを懸命に押し殺しながら、少年は剣の柄を強く握りしめた。一筋の光もない暗闇も、目が馴染んでしまえば恐怖など浮かばないものだ。
少年が走り続けた先にあったのは、一枚の扉であった。彼はその向こうに待ち構えているだろう光景に、気が挫けそうになりながらも重い扉に手をかけた。
扉の軋む音と共に、罵声や怒声が耳に轟いた。
扉一枚隔てた先の場所はもう、少年が知っていた場所ではなくなっていた。見事な飾りも柱も粉々に砕かれて、重い鎧を身に着けた兵士達が決死の形相で剣を振るっている。女官達は死から逃れようと走り回っていた。しかし彼女達は敵兵に壁側へ追い詰められ、ことごとく捕らえられてしまっていた。
喉元に脂汗が伝い、喉仏がゆっくりと上下する。
――少年は自分の他に役目を担える者がいないことを知っていた。だからこそ、この場へ戻ってきたのだ。全てを終わらせることが出来るならば、平和が戻ってくるのならば、それでいい。
覚悟を胸に、彼は敵の兵士の前へ躍り出た。
「この王宮を落としたいのなら、私と剣を交わすがいい。我こそは、この国の第三王子っ」
少年の一声で場の空気が高揚した。
味方は士気を取り戻し、敵は少年へと殺意を向ける。
少年は薄ら笑いを浮かべた。猛者は彼へと剣を振り下ろす。
降りしきる剣をさばきながら、少年は王宮の最奥へと敵を誘った。元より、最奥にある物を狙っていた敵方にとっては心湧き立つ誘いであろう。
最奥に向かうにつれて、空気の濃度が高くなってくる。少年は脳裏にちらつく影を振り払いながら、下唇を噛みしめた。
大粒の蒼い宝石が連なった腰帯が、涼しい音を立てる。体を圧迫する重厚な鎧が、まるで羽のように軽かった。感覚全てが麻痺していた。
刻一刻と、最期が迫っている。
最奥に続く道の終わりが見えてきた。
少年は泥に塗れた足で最奥の扉を蹴破った。部屋に安置されている物こそ、敵が欲してやまない――この国に祀られている神の秘宝である。
剣の形をしたそれを素早く掴み、少年は床に突き立てる。固い石で出来た床が甲高い声で啼いた。
潮騒がどこからともなく漂ってくる。少年は敵が自分に斬りかかってくるのを承知の上で目を閉じた。
死ぬ覚悟は出来ている。
いくら斬られても問題ない。神がこの身に降りてくるまで意識を保っていればいいだけのことだ。
しかし、いつまで経っても痛みが襲いかかってこない。
これはおかしいと思って薄目を開けると、薄茶の糸束が彼の鼻先を掠めた。
驚いて瞠目した瞬間、糸束は結った髪であることに気付いた。ただ一人で敵から少年を守った青年は、微かに笑みを見せて剣を下ろす。青年が握る剣の切っ先から血が滴った。
敵方は予期せぬ人物の登場に怯んでいた。
「何故、貴方がここに…………」
少年は震える声を絞り出して問うた。
「言ったろう、この国が危機に晒された時は必ずや救援にくると」
青年は少年の頭を軽く叩き、部屋を見回す。そして真剣な顔付きで言葉を紡いだ。
「なるほど、この部屋ならば神の匂いが残っているな。いいか、神降ろしは私が行う。この国を敵に渡すことだけは阻止しよう」
「何を言っているのですか。神降ろしは死を伴う大事。他国の王である貴方に頼むことなど出来ません。第一――――私はこの国を深海に沈めるつもりなのです。それ以外に、かの国からこの国を守ることなど出来ませんから」
青年は頷くと、部屋の中央に立った。言わずとも全てわかっていると言いたげな表情に少年は危機感を覚えた。
「神に愛されし海若国の第三王子。一つだけ、頼まれてくれ。私の娘を守って欲しい。……あの子が幸せになれるなら、これくらい容易いこと」
「馬鹿なことを! 貴方がこの国のために犠牲になって、どうして貴方の娘が幸せになれるというのですか!」
青年は至って厳かに佇んでいた。髪を振り乱して制止しようとする少年と対照的だ。
「戦が滅する。それだけが我の願い」
それだけ言って、青年は何も持っていない手を地へ置いた。冷たい石の床が盛り上がり、大地が顔を出す。
少年はせり上がってくる大地に上へと押し上げられた。細石や砂塵が舞う。少年は目を眇めて顔の前で腕を構えた。
じっと少年を仰いでいた青年の唇が湾曲を描いた。
―― イ キ ロ 。
言葉は大地の咆哮に呑まれて聞こえなかったが、青年の唇が象ったことを、少年はしっかりと瞼の裏に記憶した。
たとえこの国唯一の生き残りとなろうとも、青年の娘が幸せになるまでは死んだりしないと胸に誓う。
一筋の涙が、生々しい傷達の上を滑った。