第七十六話:文化祭の夜と、刻印の少女
文化祭の喧騒が、遠くで心地よい残響となって響いている。
ドワーフたちの酒盛りの声を聞きながら、ツヨシは一人、村の外れにある展望台で夜風に当たっていた。
「……ふぅ。やれやれ、これだけの人数を動かすのは、現役時代の修学旅行以来だ」
腰を叩きながら独り言をつぶやくツヨシの背後に、気配もなく、一台の馬車が停まった。
それはハーピーが報告した豪華な馬車ではなかった。窓もなく、漆黒の塗装が施された、不気味なほど静かな馬車だ。
1. 王都からの「迷子」
馬車の扉が開き、降りてきたのは銀髪の老人だった。その胸元には、学術院の最高位を示す「賢者の天秤」のブローチが光っている。
「……元、日本国の教諭。ツヨシ殿ですな?」
ツヨシの背中に冷たいものが走った。
この世界に来て数年。自分の前世の職業と出自を、これほど正確に言い当てた者は初めてだった。
「どなたかな。うちの村は、不法侵入者にはリザードマンの警備隊が厳しいんだが」
「失礼。私は学術院の特務司書、アルバス。今日は貴殿に、ある『返却物』を届けに参りました」
アルバスが手招きすると、馬車の中から一人の少女が震えながら降りてきた。年齢は十二、三歳といったところか。ボロボロの修道服を纏い、その瞳には光がない。
2. 少女の腕に刻まれた「数式」
「彼女は……?」
ツヨシが歩み寄り、少女の汚れを拭おうとした時、彼女の腕の包帯が解け落ちた。
そこにあったのは、刺青ではない。
皮膚に直接焼き付けられたような、鮮明な**「数式」と「化学記号」**だった。
それも、この世界の魔法言語ではない。ツヨシがかつて黒板に幾度となく書いた、現代科学の数式だ。
「……アインシュタインの場の方程式か? なぜ、これを」
「彼女は『記憶の器』。我々学術院が、過去にこの世界へ訪れた『異邦人』たちの知識を保存するために作った生体図書館です。しかし、彼女の容量は限界に達した」
アルバスは冷酷に告げる。
「知識が溢れ出し、彼女の精神を壊し始めている。これを解読し、整理できるのは、同じ知識体系を持つ貴殿以外にいない」
3. 新たな「宿題」:科学と魔法の融合
少女が突然、激しく咳き込んだ。
その口から漏れ出たのは言葉ではなく、光り輝く「数式」の断片だった。それが周囲の魔力と反応し、小さな爆発を引き起こす。
「ツヨシさん、何があったの!?」
異変を察知したリーザやドワーフの面々が駆けつけてくる。
「……みんな、下がってろ! リーザ、救護班を呼んでくれ。この子は病気じゃない、知識に溺れているんだ」
ツヨシは少女を抱きかかえた。
かつて、落ちこぼれと言われた生徒たちを見捨てなかった時と同じ、強い眼差しが戻っていた。
「学術院のじいさん、一つ教えてくれ。この子にこんな非人道的な真似をしたのは、あんたらか?」
「我々だけではない……この世界の『理』そのものが、異邦人の知識を求めているのですよ」
アルバスはそれだけ残し、闇に消えるように馬車を走らせ去っていった。
4. 開拓村、第二フェーズへ
手の中に残されたのは、意識を失った少女と、彼女の肌に刻まれた膨大な現代文明の遺産。
ツヨシの「悠々自適な引退生活」は、ここに来て大きな転換点を迎えた。
この知識を放置すれば、少女の命はない。
しかし、解読して村に広めれば、この静かな村は瞬く間に「科学の聖地」となり、列強諸国の争奪戦に巻き込まれるだろう。
ツヨシは、深夜の職員室のような静寂の中で、少女の腕の数式を見つめた。
「……どうやら、最後の教鞭を執らなきゃならんらしいな」




