第五十七話:数時間の迷宮、数ヶ月の日常
ツヨシが調査員を連れ、歪みを修正しながら塔の入り口まで戻ってきた時、彼は妙な違和感を覚えた。
入り口の石材に、登る前にはなかったはずの「苔」がびっしりと生い茂り、風に乗って流れてくる空気が、出発時の湿った春の匂いではなく、枯れ葉の混じった秋の乾いた匂いに変わっていたからだ。
「……嫌な予感がするな」
塔の一歩外へ踏み出した瞬間、ツヨシの耳に飛び込んできたのは、アルフの絶叫だった。
「先生ーーーーーーッ!! 生きてた! 本当に生きてたんだ!!」
駆け寄ってきたアルフは、以前よりも背が少し伸び、何より顎にうっすらと髭を蓄えていた。ツヨシは目を丸くする。
「アルフ君、その髭はどうしたんだ? それに、ずいぶんと……ワイルドになったな」
「何言ってるんですか先生! あなたが塔に入ってから、もう半年ですよ!!」
「……半年?」
ツヨシは手に持っていた懐中時計を見た。針は入り口を入ってから三時間しか進んでいない。
「相対性理論の計算を誤ったか。局所的な歪みの緩和には成功したが、塔全体が持つ『時間の遅れ』の係数が、私の想定の数千倍だったというわけか……」
ツヨシが冷静に物理的な自己批判をしている間にも、次々と信じられない光景が目に飛び込んできた。
ハプニングその1:愛弟子の「村長代行」就任
アルフは、ツヨシがいなくなった混乱を収めるうちに、その指導力を買われ、近隣の村々をまとめる「若き指導者」として担ぎ上げられていた。
「先生がいなくなって、みんなパニックになったんです。だから、先生の教えを思い出して僕が指揮を執るしかなくて……。今じゃ、隣の領主とも対等に交渉するハメになってるんですよ!」
ハプニングその2:ツヨシの家が「聖域」化
ツヨシが住んでいた開拓地の家は、帰らぬ賢者を待つ村人たちによって、なぜか「賢者の聖堂」として祀られていた。
「先生の残した農具や実験器具は、今や村の宝物です。掃除も毎日欠かさずされていますし、なんなら若い連中が『賢者の知恵を授かろう』と、勝手に家の前で座禅を組んでますよ」
ハプニングその3:未踏の収穫祭
ツヨシが一番楽しみにしていた、自身が改良した「異世界ジャガイモ」の初収穫は、すでに三ヶ月前に終わっていた。
「先生……すみません、我慢できなくて食べちゃいました。めちゃくちゃ美味かったです」と、申し訳なさそうに語る開拓民の男。
「……私の、私のジャガイモが……。一番美味しい獲れたてを、ビールと一緒に楽しむ計画が……」
ツヨシは膝をついた。物理法則には勝てたが、人生の楽しみという「時間軸」においては、完敗であった。
「先生、落ち込んでる暇はありません! 先生がいない間に、隣国との国境問題や、新種の魔物発生の相談が山積みなんです! 『賢者が帰ってきた』と知れ渡れば、明日には行列ができますよ!」
アルフに手を引かれ、ツヨシは呆然としたまま歩き出す。
「……アルフ君。私はただの定年退職した元教師なんだがね。悠々自適な生活はどこへ行ったんだ……?」
「先生が教えた物理のせいで、この地域の文明レベルが上がりすぎたのが原因ですよ! さあ、役場(元・ツヨシの家)へ行きますよ!」
ツヨシの「静かな隠居生活」は、時間の歪みを越えた先で、さらに騒がしいものへと変貌していた。




