第五十六話:相対性理論の迷宮
塔の境界線を越えた瞬間、ツヨシの視界は歪んだ。
鼓動が驚くほどゆっくりに感じられ、自分の呼吸の音が、海底に沈んでいるかのように重低音で響く。
「……なるほど。これが『固有時』の感覚というわけか」
ツヨシは後ろを振り返った。
外で見守っていたアルフたちの動きは、逆に恐ろしいほどの速さで加速している。まるで早送りされた古い活動写真だ。一秒、二秒と経つごとに、外の世界では太陽が空を駆け抜け、影が目まぐるしく伸び縮みしている。
「先生! 止まって見えます!」
アルフの声が聞こえたが、それは極端に高い金属音のような、超音波に近い鳴き声に変換されていた。ドップラー効果に近い変調だ。
「聞こえんよ、アルフ君。私の一歩は、君たちの数時間に相当するのだから」
ツヨシは杖を突き、塔の螺旋階段を上り始めた。
一階上がるごとに、時間の遅延はさらに激しさを増していく。
三階に到達した時、ツヨシの目の前に、半透明の「残像」のようなものが現れた。
それは、数日前にこの塔に入ったきり戻らない調査員たちの姿だった。
彼らは止まっているのではない。あまりにも時間の流れが遅いため、外から見れば静止しているように見え、内側では「過去の自分」と「現在の自分」の境界が曖昧になっているのだ。
「光の直進性が曲げられている……。空間そのものが、中心部に向かって高度に湾曲している証拠だ」
ツヨシは教え子たちに相対性理論を説いた時のことを思い出していた。
『重い天体のそばでは、光さえも曲がる。それは光が曲がっているのではなく、光が通る道(空間)そのものが歪んでいるからだ』
彼は懐から、魔力を帯びた数枚の「鏡」を取り出した。
「魔力もエネルギーの一種。ならば、この空間の歪みを逆位相の魔力波で打ち消せば、局所的に時間の流れを正常化できるはず」
ツヨシは空中に魔法陣を描くのではなく、数式を書き連ねる。
「$G_{\mu\nu} + \Lambda g_{\mu\nu} = \kappa T_{\mu\nu}$……アインシュタイン方程式を、この世界の魔力定数で書き換える!」
彼が放った魔力は、物理学的な「干渉」を引き起こした。
ぐにゃりと歪んでいた景色が、バキバキと音を立てて矯正されていく。
「ふぅ……。歳を取ると、時が経つのが早く感じるとは言いますが、これほどの実感は御免被りたい」
歪みが緩和された空間で、ようやく意識を取り戻した調査員がツヨシを見て目を見開いた。
「あ、あなたは……? 私はついさっき、入り口を入ったばかりで……」
「君にとっては数分前のことだろう。だが、外ではもう三日が経っている」
ツヨシは苦笑いしながら、調査員の肩を叩いた。
「さあ、授業は終わりです。この塔の最上階にある『時計の狂い』の正体を見に行きましょうか」
ツヨシの視線の先、塔の頂上からは、重力崩壊を思わせる禍々しくも美しい紫色の光が漏れ出していた。




