第五十三話:海割れは「物理の計算」から始まる
砂漠を緑に変えた「ツヨシ先生」の噂は、ついに海を越えた。
次に彼を訪ねてきたのは、海上に浮かぶ島々で構成される海洋国家「アクアリス」の若き女王、セリアだった。
「先生、我が国の海が死にかけています。海流が乱れ、魚は姿を消し、巨大な渦潮が島々を孤立させているのです。海神の怒りを鎮めるための供え物も尽きました……」
ツヨシは老眼鏡をクイと上げ、地図を一瞥した。
「海神の怒りねぇ……。女王様、海図を見る限り、これは単なる『カルマン渦』と『深層海流の停滞』ですよ。怒っているのは神様じゃなくて、水の流れが悪くて窒息しかけているプランクトンたちです」
ツヨシはまたしても、隠居用の温泉旅行の準備を放り出し、チョーク(魔法で硬化させた石灰岩)を手に取った。
【実験1:巨大な渦潮を「整流板」で手なずける】
アクアリスの海を塞ぐ、直径数百メートルの巨大渦潮。船を飲み込むその絶望の渦を前にして、ツヨシは怯むどころか「良い教材だ」と目を輝かせた。
「いいですか。水の流れが障害物に当たると、その後ろに交互の渦ができる。これがカルマン渦です。なら、障害物の形を変えてやればいい」
ツヨシは土木魔法の使い手たちに指示し、海流がぶつかる岩礁の形状を、魔法で「流線型」に削り取らせた。さらに、特定の角度で水を逃がす「整流板」を海底に沈めた。
「物理学の基本です。抵抗を減らせば、荒波は穏やかな運河に変わります」
数日後、船を破壊し続けていた死の渦は、嘘のように消滅した。女王セリアは、静まり返った海面を見て「神が海を割った……」と震えたが、ツヨシは「ただの引き算ですよ」とあくびをした。
【実験2:深海への「熱対流」ポンピング】
魚が消えた原因は、海水の循環が止まり、栄養豊富な深い場所の水が上がってこないことにあった。いわゆる、海の「富栄養化」の逆、餓死状態である。
「水は温まれば上がり、冷えれば下がる。『熱対流』です。中学校でやりましたね? 水槽の隅にインクを落として温める、あの実験の規模を少し大きくするだけです」
ツヨシは砂漠で開発した「太陽光蓄熱魔石」を、巨大なコンクリート製の「煙突」に詰めて海底に沈めた。
魔石が発する熱によって、海底付近の冷たい水が温められ、上昇気流ならぬ「上昇海流」が発生する。
「これで深海の栄養が表層に運ばれる。数日もすれば、理科室の金魚鉢みたいにプランクトンが爆発的に増えますよ」
【実験3:海を割るのではなく「浮力を操る」】
最も困難だったのは、沈没寸前の孤立した島を救うことだった。地盤沈下により、満潮時には家々が水に浸かってしまう。
「島を持ち上げるなんて、どんな大魔法を……!」と息を呑む民衆の前で、ツヨシが用意したのは、大量の空の樽と、魔物の皮で作った巨大な「風船」だった。
「神様に頼んで海を割ってもらうより、アルキメデスの原理を使う方が安上がりです。物体が押しのけた水の重さだけ、上向きの力――『浮力』が働く」
島の下に魔法で風船を潜り込ませ、そこに空気(気化魔法による酸素)を送り込む。
ギギギ、という音を立てて、島全体がゆっくりと数メートル浮上した。それはまさに、科学が起こした「現代の奇跡」だった。
【放課後の休息】
一ヶ月後。アクアリスの海は、かつてないほどの豊漁に沸いていた。
女王セリアは、ツヨシに国家最高顧問の座を用意したが、彼はすでに港の桟橋で釣り糸を垂らしていた。
「先生、次はぜひ我が国の気象操作を……」
「おっと、授業はここまでです。これ以上は『大学院レベル』になりますからね。まずは自分たちで、その海流計の数値をグラフにまとめなさい。宿題ですよ」
ツヨシは、女王から貰った最高級の干物をかじりながら、水平線を眺めた。
これでようやく、静かな隠居生活に戻れる。そう確信していた。
しかし、空の彼方から、巨大な飛空艇がツヨシの頭上に影を落とした。
「天上の王国」の使者が、深刻な顔で降りてくる。
「ツヨシ殿とお見受けする。……重力の乱れにより、我が浮遊島が墜落しかけているのだが、貴殿なら『理科の実験』で直せると聞き及んでいる」
ツヨシの釣り竿が、パキリと音を立てて折れた。
「……重力? それはもう物理の範囲だろうが。文系の神様、私をいつになったら退職させてくれるんですか?」
ツヨシの叫びは、またしても世界を救う予感と共に、潮風に流されていった。




