はあ!? 辛いときを支え続けた、わたくしと婚約破棄ですか?
「アイシャ、君との婚約を破棄する!」
きらびやかな舞踏会の真っ只中。
一瞬の沈黙ののち、会場にざわめきが走る。
ヤコブ・シュバイツ侯爵は高らかに宣言した。傍らには、伯爵令嬢のリアナが寄り添っている。
「理由を……理由を、お聞かせ願えますか?」
絞り出すような声で、アイシャは尋ねた。
「ふん、そんなことも分からんのか! だから捨てられるのだ!」
「っ……!」
アイシャは、ぎゅっと唇を噛みしめる。
「うふふ……。ヤコブ様のお気持ちが理解できない方に、侯爵の妻など務まりませんわ」
リアナが嘲笑するように言い放つ。
(長い間、ヤコブ様の辛い時期を支え続けてきました。ようやく幸せになれると思っていたのに……。こんな仕打ち、あんまりですわ)
「理由すら説明していただけないのですね?」
「当然だ。これから関係がなくなる者に、説明など必要ない」
その時だった。
場の空気を読んだように、ヤコブの母が現れる。
「……お義母様!」
「アイシャさん。ごめんなさいねぇ」
彼女は申し訳なさそうな顔をしてみせる。
「ヤコブがどうしても婚約を解消したいって言うものだから。私も止めようとは思ったのだけれど……男の決意って、母親にも止められないものなのよ」
笑みを浮かべたまま、義母は軽く肩をすくめる。
誰にも角が立たないように笑い、責任を負おうとしない。先を考えず、その場しのぎで取り繕うだけ……。
アイシャは、そんな義母に落胆した。
「あなたには感謝しているのよ。本当に助けられたわ。だから恨まないでね、ね?」
まるで悪いのは自分ではないと告げるような声音だった。
アイシャは傷ついた。
しかし、それ以上に激しい怒りが込み上げていた。
「……かしこまりました」
短くそう告げると、アイシャは優雅に一礼し、背筋を伸ばしたまま会場を後にした。
◇
伯爵令嬢のアイシャは、幼い頃にヤコブと婚約した。
しかし、彼女の未来は決して明るいものではなかった。
ヤコブの父は次々と領地改革を打ち出すも悉く失敗し、十五歳のヤコブに早々と当主を押し付け、己は失踪。
ヤコブが継いだ頃には、侯爵家の財政はすでに傾き、領民は疲弊し、屋敷の使用人すら辞めていく。
若くして背負った重圧に、ヤコブは精神を病み、ほとんど引きこもり同然。侯爵家主催の舞踏会でさえ姿を見せない日々が続いた。
――この局面を打開したのが、アイシャだった。
幼い頃から才女と名高く、学問にも経済にも通じていた彼女。それを誇ることなく、ただ婚約者とその家のために尽くした。
不正を洗い出し、税制を整え、商人と取引を再構築。夜更けまで書類に向かい、睡眠すら削って、日々ぎりぎりまで働き続けた。
その姿を見て、義母は声をかける。
「アイシャさん、本当に助かっているわ。無理だけはしないでね? あなたまで倒れたら困るもの」
その言葉に、アイシャは穏やかに答える。
「一日も早くシュバイツ侯爵家を立て直し、お義母様とヤコブ様にご安心いただきたいのです」
そう言って、健気に微笑んだ。
やがて、奇跡は起きた。
領地は復興し、街は賑わい、人々は笑顔を取り戻す。
「さすがヤコブ様!」
「若くして改革を成功させるとは!」
――もちろん、彼はそれを当然の評価だと思い込んだ。
そして、自分の力だと勘違いしたまま──
あの舞踏会の日、婚約破棄を宣告したのだ。
◇
婚約破棄から数日後。
王城の一室。アイシャは緊張した面持ちで紅茶を口にしていた。
対面するのは、この国の若き宰相ルベルト。鋭い眼差しを持ちながらも、その声音は意外なほど柔らかい。
「率直に申し上げます。――あなたの力をお借りしたい」
静かな宣言に、アイシャは瞬きをした。
「わたくしに……ですか?」
「ええ。実は、国政が停滞しているのです。流通も、税制も、どこかで歪みが生じているようで……。だが、どう手を入れても上手くいかない……。そんな折――シュバイツ侯爵家が、見事に立ち直ったとの報告を受けました」
ルベルトは軽く息を吐き、苦笑する。
「最初は、ヤコブ殿の才覚という話でした。しかし、調べるうち――あれは、あなたの手腕だと確信しました」
「……まあ」
アイシャは小さく首を傾げ、微笑だけを返した。
否定もしない。誇りもしない。ただ、事実を事実として受け止める眼差し。
(やはり、この方だ)
ルベルトはそう確信していた。
「他人の婚約者を国政に関わらせるなど、許されることではありません。だから、依頼を見送っていたのですが……」
「わたくしが婚約破棄された――というわけですね」
ふっと、アイシャが冗談めかして微笑む。
しかし、その奥には、確かな痛みが潜んでいるのを、ルベルトは見逃さなかった。
「……失礼ながら、その愚かな判断に、私は救われたことになります」
彼は頭を下げた。
「どうか、この国をお助けいただけませんか?」
少しの沈黙ののち、アイシャはゆるく息を吐いた。
「――分かりましたわ。ただし、わたくしは目立つことが得意ではありません。裏方でよろしければ」
「もちろんです」
そこからの日々は、目覚ましいものだった。
流通網は整理され、無駄な税制は改められ、腐敗した役人は一掃された。
どれほど大きな成果があっても、アイシャは決して、自分の功績を口にしない。
「ルベルト様のお考えが優れていたからですわ」
そんなふうに微笑み、功績は常にルベルトへと差し出した。
(――どうして、この方が捨てられた)
そう思うたび、ルベルトの胸の奥がざわめく。
気付けば、敬意だけでは説明できない感情が、静かに、しかし確実に彼の中で育ち始めていた。
◇
一方、シュバイツ侯爵家は、驚くほど早く凋落していった。
かつて賑わった商人たちは離れ、交易は滞り、税収は激減。屋敷の維持すらままならず、領民の不満は膨れ上がる。
そして、ついに――。
「宰相閣下! どうかお助けください!」
王城の執務室に飛び込んできたのは、ヤコブとリアナだった。
かつて傲慢な光を宿していた瞳はすっかり濁り、豪奢だった衣服も、今はただのみすぼらしい飾りにしか見えない。
「領地がもう限界なのです! 財政も私どもの生活も、何もかも……!」
必死の叫びに、ルベルトは静かに視線を上げた。
「すでに調査は済んでいます。あなた方の怠慢と無能によって、領地が危機に瀕したことも」
冷ややかな声。
そして、その横に――アイシャが立っていた。
「……!」
ヤコブも、リアナも、言葉を失った。
「ど、どうして……君が、ここに……」
「まさか、王城で働いていたなんて……」
恐怖と焦燥が混じった声。
ルベルトは書類を置き、宣告した。
「王命により、シュバイツ侯爵領は没収。今後、国の管理下に置かれます」
「ば、馬鹿な! それでは俺は……!」
しばらくの沈黙の後、リアナが口を開く。
「……ヤコブ様。わたくしとの婚約は白紙にさせていただきますわ。没落貴族と結婚する義理はありませんもの」
リアナは冷たく吐き捨てた。
「リアナ!? 待ってくれ!!」
だが彼女は振り返らない。
残されたヤコブは、その場に崩れ落ちた。
「……もういやだ……全部なくなる……どうしてだ……」
ぶつぶつと呟く彼の目に、やがてアイシャの姿が映る。
「アイシャ……! 君だ! 君なら助けられるだろう!? 頼む、戻ってきてくれ! 俺を、シュバイツを――」
しがみつく腕は震え、涙と鼻水で顔はぐしゃぐしゃだった。
だが、そのみっともない姿の前に、アイシャは一歩も動かない。
代わりに、ルベルトが静かに告げた。
「――彼女は、私の婚約者だ」
その瞬間、ヤコブの顔から血の気が引いた。
「な……に……?」
「あなたが手放した宝を、私は何よりも大切にする。もう二度と、あなたの手に戻ることはない」
「いやだあああああああ!!」
ヤコブは悲鳴を上げ、涙を撒き散らしながら、廊下へ駆け出していった。
◇
それから間もなく、王城の廊下でアイシャは呼び止められた。
「……アイシャさん」
振り返ると、そこに立っていたのは、かつての義母だった。
気品を取り繕ってはいるものの、焦りが滲んでいる。
「お願いがあるの。ルベルト様に、どうかお話ししてほしいの。領地の没収だけは、何とか――」
必死に縋る声。
しかし、アイシャの瞳は静かだった。
「お断りいたします」
ぴしゃりと切り捨てられ、義母は息を呑む。
「ど、どうして……あなたは優しい子だったでしょう? 以前のように――」
「以前のわたくしは、ただのお人好しでした」
アイシャの声音が、凛と冷たいものに変わった。
「婚約破棄をすると知ったとき、あなたがヤコブ様を止めていれば、わたくしは婚約者として領地を守り続けたでしょう。領民も、家も、救われた可能性は大いにあったのです」
義母の肩が震えた。
「でも……私は、あの子の意思を尊重しようと……」
「違いますわ。あなたは“誰にも嫌われたくない自分”を守っただけでしょう?」
義母の顔色が、さっと青ざめる。
「誰にでもいい顔をして、責任を持とうとしなかった。その結果が――今、目の前にある現実です」
そこで、アイシャは深く一礼した。
「どうか、現実からはお逃げにならないでください」
義母は唇を震わせ、言葉を失う。
次の瞬間――
「きぃぃえぇぇええ!!」
義母は錯乱したかのように叫んだ。
「わ、私の……せい……? 私……私のせいなの!? ち、違うわ! そんなはずない! 悪いのは――あなたよ!!」
義母はアイシャへ掴みかかろうと手を伸ばす。
「あなたが悪いの! 全部、あなたのせいよ! 私は何も間違っていない!!」
その瞬間、衛兵が駆けつけ、義母の両腕を押さえ込む。
「離しなさい! 私は悪くない!! 私は……ただ、ヤコブのために……!」
なおも喚き続ける義母を、衛兵は静かに連れ去っていった。
◇
柔らかな陽光が差し込む王城の庭園。風が花々を揺らし、ほのかに甘い香りが漂う。
アイシャは静かに紅茶を口に運ぶ。
その隣には、穏やかな眼差しを向ける男――宰相ルベルトがいる。
「また一件、問題が解決したよ。君のおかげでね」
「わたくしは、少しお手伝いしただけですわ」
控えめに微笑むアイシャ。
その言葉に、ルベルトは小さく笑った。
「そういうところも、私は好きなのだがね」
「……も、もう。人前で仰らないでくださいませ」
頬をほんのり染め、慌てて視線を逸らすアイシャ。
ルベルトはそっと、彼女の手に自分の手を重ねる。
「君にはもう、無理をしてほしくない。これからは、一緒に笑いながら未来を作っていこう」
「……はい。ルベルト様」
風が花びらを舞い上げる。
それは、まるで二人を祝福しているかのようだった。
リアナは、他人の婚約者を奪った女として噂が広まり、社交界では誰からも相手にされず、惨めな日々を送っています。
最後までお読みいただきありがとうございます。
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