第1章:ネイルと粘土と熱帯魚
か〜なしい、熱帯魚。
か〜なしい、熱帯魚。
アヤは歌うように呟きながら、粘土で作った魚の肌にネイルチップを押し付けていた。
指先から剥がした、ラメ入りのピンク。100均で買った子供用のネイル。
それは、恋をしていた頃の色だった。
恋が終わった今、粘土の魚に貼り付けることで、過去を鱗に変えていく。
最初に使ったのは、母のネイルだった。
暗い赤。端が欠けていて、少し血の色に似ていた。
母が男に捨てられた夜、無言で剥がしたネイル。
アヤはそれを拾って、こっそり保管していた。
「悲しい鱗」と名付けて、魚の胸びれのあたりに貼り付けた。
材料が足りない。
ネイルがきらびやかであればあるほど、魚は熱帯魚みたくなる。
でも、アヤの手元にはもう、自分のネイルも母のネイルも尽きていた。
そこで、アヤは拾い集めた。
バスの座席の隙間。電車の床。駅のベンチ。
誰かが落としたネイルチップ。誰かの忘れ物。誰かの剥がれた感情。
青いネイルは、就活に失敗した人の涙かもしれない。
黒いネイルは、夜の仕事帰りの女性の疲れかもしれない。
金のネイルは、誰かの誕生日の夜の忘れ物かもしれない。
アヤはそれぞれに物語を想像しながら、粘土の魚に貼り付けていく。
魚は、誰でもない誰かになっていく。
母の悲しみ。自分の恋。他人の痛み。全部が混ざって、歪な熱帯魚になる。
「か〜なしい、かなしぃ熱帯魚…」
アヤは歌う。呪文のように、祈りのように。
部屋の隅には、ネイルの空き袋が散らばっている。
母のもの。自分のもの。拾ったもの。全部が混ざって、色とりどりの記憶になる。
アヤには父がいない。
母とは同居しているけれど、会話は少ない。
母は夜遅く帰ってきて、朝は早く出ていく。
アヤは、母の背中を見ながら育った。
魚の目に、小さな黒いネイルを貼る。
それは、母の目に似ていた。
「おかあさん…」
アヤは小さく呟いた。
誰にも聞こえない声で。
そして、粘土の魚を見つめながら、アヤは眠りについた。
夢の入り口は、魚の目の奥にあった。
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アヤが母のネイルを拾ったのは、台所の床だった。
夜中、冷蔵庫の灯りだけがぼんやりと部屋を照らしていた。
母は泣いていたわけではない。ただ、静かだった。
男の名前も出さなかった。
アヤは、母が何も言わないことの方が怖かった。
床に落ちていたネイルは、赤くて、端が欠けていた。
それを拾ったとき、アヤは「これは母の涙のかけらだ」と思った。
本当は涙なんて流れていなかったのに。
その夜から、アヤはネイルを集め始めた。
母の洗面台に残された古いネイル。
自分の机の引き出しにしまっていた、使いかけのネイル。
そして、街で拾った、誰かのネイル。
ネイルには、感情が染み込んでいる。
塗ったときの気持ち。剥がしたときの気持ち。
それを魚の鱗に見立てて貼ることで、アヤは“誰か”になれる気がした。
母はアヤの作品を見ない。
「自由課題、進んでる?」と一度だけ聞いた。
アヤは「うん」とだけ答えた。
それ以上の言葉は、どちらにもなかった。
母の爪は、今は何も塗られていない。
素爪のまま、仕事に行き、帰ってくる。
アヤは、母がネイルを塗らなくなった理由を知っている。
でも、それを聞く勇気はなかった。
粘土の魚は、どんどん歪になっていく。
鱗の色がバラバラで、形も不揃い。
でも、アヤはそれが“本物の熱帯魚”に近いと思っていた。
「きれいじゃなくていい。思い出がある方が、いい」
アヤはそう思いながら、最後のネイルを貼り付けた。
それは、母が最後に塗ったネイルだった。
薄いベージュ。控えめで、目立たない色。
それを魚の尾びれに貼ったとき、アヤは少しだけ泣いた。
「か〜なしい、熱帯魚…」
歌うように、呟くように。
その夜、アヤは母の寝室の前で立ち止まり、
ドアの隙間から、母の背中を見た。
母は寝ていた。
でも、アヤにはその背中が、魚のように見えた。
静かに、ゆっくりと、泳いでいるようだった。
アヤは自分の部屋に戻り、粘土の魚を見つめた。
そして、目を閉じた。
夢の中で、魚は泳ぎ出す。
誰かの涙を鱗にして、誰かの記憶を尾びれにして。
アヤはその魚に名前をつけた。
「おかあさん」と。
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