第8話 思い出の中にいた人
ひとつの古い絵本が、ルシアの記憶を揺り動かします。
それは、前世の彼女が心惹かれ、今世でも偶然出会った不思議な本――
断片的に重なっていく“過去”と“今”。
そして彼女は、“帰る場所”とは何かを静かに見つめ始めます。
「ママ、これ、なんて読むの?」
ユリウスが差し出したのは、古びた童話の本だった。
厚手の布張りに金の装飾、表紙には『風の君と星の花』というタイトル。
「おばあさまのお部屋にあったの。勝手に持ってきちゃった」
「ふふ、大丈夫。じゃあ一緒に読んでみよっか」
ルシアはその本を手に取った瞬間、ふっと胸の奥がざわめいた。
――懐かしい。
それも、この世界のものではない、“もっと前の記憶”に触れたような感覚。
「……?」
手のひらが熱を帯び、心の奥に眠っていた記憶が、ゆっくりと浮かび上がる。
◆ ◆ ◆
それは、前世――市川千聖として生きていたころのこと。
会社帰りに立ち寄った古書店で、偶然手に取った海外の児童書。
翻訳もされていないマイナーな絵本だったけれど、挿絵のやさしい線と、寂しげな少年の姿に惹かれ、衝動的に購入した。
その本の中にあった、物語の一節。
> 『風の君は、星の花を摘みに行った。
それは、今はもう存在しない“帰る場所”の代わりに。
いつかまた、“忘れてしまった人”のために。』
(……わたし、この文章、知ってる)
思い出の断片が、静かに心を満たしていく。
◆ ◆ ◆
夜。
ルシアはその本を手に、クラウスの書斎を訪ねた。
「……ルシア?」
「この本、覚えてます?」
クラウスは一瞥し、そして頷いた。
「祖母が大切にしていた本だ。読める者は少なかったが……なぜ君がこれを?」
「……わたし、前の世界でも、この本を持ってたんです。偶然見つけた古書だったんだけど、なんだか、どうしても手放せなくて」
「……」
「でも、こっちの世界でも、同じものがあるなんて……おかしいよね?」
クラウスは本を手に取り、ゆっくりとページをめくった。
「それは、“共鳴”かもしれないな」
「共鳴……?」
「この世界と、君のいた世界――それぞれの“願い”がどこかで響き合った結果だ。あるいは……この本こそが、君がここに来た“きっかけ”だったのかもしれない」
「……でも、それなら――」
ルシアはそっと、胸に手をあてた。
「わたしは、“帰る場所”を探してここに来たのかな?」
「……」
「でも今は、ここがいいって、思ってるの」
クラウスは黙ってルシアの手をとった。
「――なら、それが答えだ」
◆ ◆ ◆
その夜。
ルシアは夢の中で、ふたたび“あの光の精霊”に会う。
> 『君は“花を摘みに行った”人だったんだね』
> 『忘れてしまった帰る場所も、願った人のことも、すべてを手放した君が……新しい場所で、また咲かせようとしている』
> 『なら、大丈夫。君は、正しく選んでいるよ』
夢の中のルシアは、はっきりと頷いた。
目覚めた朝、胸の奥が少し軽くなっていることに気づいた。
(“帰る場所”は、もうどこかじゃなくて――)
(“帰る人”がいるところだ)
ミカエルが寝ぼけた顔で手を伸ばし、ユリウスが「ママ、朝ごはん」と呼ぶ。
そこに、夫のクラウスが静かにコーヒーを差し出した。
「――おはよう、ルシア」
「……うん、おはよう。今日も、ごきげんです♪」
新しい朝が、また始まった。
共鳴するように繋がった一冊の本と、ルシアの心に灯った“帰る場所”という感覚。
それは場所ではなく、人に宿るものだと、彼女は少しずつ理解し始めた。
記憶や過去の真実が焦点となる一方で、確かに育ち始めた“家族の絆”。