第4話 旦那様が微笑んだ日
記憶をなくした奥様・ルシアの笑顔は、ゆっくりと屋敷に変化をもたらしはじめます。
けれど、最も距離のある相手――それは夫・クラウス。
冷え切った夫婦の関係に、少しだけ揺らぎが訪れる夕暮れ。
“氷の夫”と“ゆるふわ奥様”の初めての心の対話を描きます。
――その日、屋敷の中は妙に静かだった。
ルシアはいつも通り、ゆるやかな笑顔で使用人たちに声をかけながら回廊を歩いていたが、どこか空気が落ち着かない。
「なんだか、みんなそわそわしてる……?」
「それは、奥様。旦那様が本日、午後早くにご帰宅なさる予定だからでございます」
「えっ? 旦那様が?」
マリーの答えに、ルシアは思わず立ち止まる。
「お仕事が早く終わったの?」
「いえ、本日は帝都からご令弟が来訪されるとかで……そのご対応に」
「へえ~。旦那様に弟さんいたんだ」
「……奥様、以前までは親しげではなかったようで……」
「あー、またそんな“冷え冷え夫婦”エピソード……」
ルシアは肩をすくめながら笑った。
けれど、心の奥にぽつりと何かが浮かぶ。
(わたし、クラウスのこと、ほんとになにも知らないんだなぁ……)
◆ ◆ ◆
午後三時。
応接間に姿を現したクラウスは、相変わらず整った姿で、黒の燕尾服に眼鏡。
鋭い視線を誰にも向けず、無言で席についた。
そのあとに続いて入ってきたのが、彼の弟、エドガー。
「ルシア夫人、お噂はかねがね……って、ほんとに笑ってる!?」
「え? 初対面の人に開口一番それ言われるとは……!」
「いやいや、兄さんの奥さんって、あの“氷結の青薔薇”だったはずでしょ? こんなゆるふわ笑顔の女性だったなんて、帝都の誰も想像しないよ!」
「うふふ、いろいろあって、今は笑顔担当になったんです」
エドガーはとても気さくな人物で、兄とは正反対の柔らかさを持ち、冗談交じりにルシアとも和やかに話を続けた。
一方クラウスは、最初から最後まで無言。
一歩引いたところから、ルシアの言葉を聞いていた。
◆ ◆ ◆
夕刻。
応接間を辞し、ルシアはひとり回廊へ出た。
「……やっぱり、ちょっとさみしいな」
夫が近くにいるというのに、その距離が遠い。
彼が怒っていないことも、軽蔑されていないことも、なんとなく分かっている。
でも――
(やっぱり、ちょっとでもいいから、向き合いたい)
そう思っていた、そのとき。
「……ルシア」
振り返れば、そこにクラウスがいた。
「どうして、あんなにも自然に……笑っていられるのだ」
「……ん?」
「何もかもを忘れたというのに、まるで最初から“ここ”にいたように振る舞っている。過去に囚われず、後悔もせず。――それは、強さなのか?」
「ううん、違うよ」
ルシアはふわっと笑った。
「わたし、たぶん“弱い”から、考え込むとどんどん沈んじゃうの。でもね、笑うっていうのは、そういう沈んだ気持ちに“今は大丈夫”って伝えるおまじないみたいなものなの」
クラウスは目を伏せ、しばらく黙っていた。
だが、やがてぽつりと呟く。
「君が……変わってくれて、よかった」
「……え?」
「もしも、あのままだったら……私はきっと、いつまでも君を拒み続けていただろう」
その言葉に、ルシアは思わず見つめ返した。
「それって……わたし、嫌われてたってこと?」
「――違う。怖かったのだ」
「……こわい?」
「完璧な“氷の君”のようだった君に、私は何も与えられなかった。愛情も、安心も。君が微笑んだとしても、きっとそれは偽りだと思っていた」
「……」
「だが今、私はようやく……君の笑顔を“信じてもいい”と思える」
ルシアの胸が、じわりと熱くなった。
「じゃあ……これからは、いっぱい見せるよ。笑って、喋って、怒って、泣いて、――わたしの全部をちゃんと見てくれたら、きっとクラウス様も変わっていくから」
「……試すようなことを言うな」
「ふふっ、でも、クラウス様も……」
「……?」
「さっき、ちょっとだけ笑ってたよ」
「……」
「もう、ちゃんと見てるんだから!」
ルシアが照れながらそう言うと、クラウスはほんのわずかに、唇の端を緩めた。
「……おまえの観察眼には、敵わんな」
「えへへ、じゃあ今日の目標、達成です!」
夕暮れの光が、屋敷の回廊を金色に染めていた。
その光の中で、氷の夫婦の距離がほんの一歩、近づいた気がした。
これまで遠かった夫・クラウスとの間に、ほんの小さな橋がかかった回でした。
閉ざしていた心に、ルシアの笑顔が少しだけ届き始めたのかもしれません。
まだ完璧な夫婦にはなれなくても、“信じたい”という気持ちが生まれたこと。
それがこの物語にとって、大きな一歩となります。
次章では、さらに家族としての時間が少しずつ育まれていきます。どうぞお楽しみに。