第1話 目覚めたら奥様でした
氷結の青薔薇――
そう呼ばれた完璧主義で冷酷と評された貴族令嬢が、ある日、階段から落ちて目を覚ますと……別人のように“ゆるふわ癒し系奥様”になっていました。
前世のポジティブ精神がそのまま戻ってきた彼女は、混乱する屋敷をよそに、笑顔で「まぁいっか~」と乗り切ろうとします。
しかし、そこは冷たい夫に無表情な息子たち、そして完全に困惑する使用人たちに囲まれた“氷の館”。
第1章では、そんな彼女が初めて“新たな自分”として立ち上がり、少しずつ屋敷の空気に風穴を開けていく様子を描いています。
どうぞ、癒しと笑いの一歩目をお楽しみください。
「……あの……わたし、朝ごはんって食べてもいいですか?」
沈黙。
屋敷の食堂に集まった十数名の使用人たちは、一斉に固まった。
使用人長、侍女長、乳母、料理長、執事――全員が言葉を失い、ぽかんと口を開けたまま、誰ひとり返事をしない。
「……だめ? おかゆ、ちょっとだけとか……」
小さな声でそう尋ねたのは、つい数時間前に目を覚ましたこの館の“奥様”、ルシア・フォン・リューベンスその人。
水色の髪に、透明な青の瞳。まるで氷を纏ったような美貌の持ち主で、貴族社会では「氷結の青薔薇」と呼ばれていた女性――の、はずだった。
だが今目の前にいるのは、見るからに“柔らかくなりすぎた”青薔薇。
微笑んで、首を傾げ、はにかんで、ふんわりと語尾を伸ばすその姿は、以前の冷徹で完璧主義な奥様とは、まるで別人だった。
「……奥様、ええと、まずは、記憶のほうは……」
恐る恐る尋ねたのは、侍女長のマリー。
彼女は十年来、奥様付きを務めてきた忠実な人物だ。
「うん、なんかね、覚えてないことが多いの。名前とか、ここがどこかとか、わたしが誰なのかとか。でも、まぁ大丈夫だと思うの」
「……な、何が大丈夫なのでしょう……」
「なんとなく? 雰囲気で?」
微笑む奥様。
マリーは心底困惑した顔で後ずさった。
そしてそのとき、ドアが開く。
「奥様、旦那様がお越しになられました」
その言葉に、場の空気がぴしりと張り詰めた。
クラウス・フォン・リューベンス公爵――
黒髪黒目、背は高く、鋭い眼光を持ち、政務補佐官として帝国に仕える重鎮。冷酷非道とまで噂され、無表情を貫くことから「氷の参謀」とも呼ばれる人物だ。
「ルシア、どうやら意識は戻ったようだな」
「うん。おはようございます、旦那様♪」
……今、笑った?
しかも語尾が跳ねた?
クラウスはわずかに目を細めた。だがそれ以上は何も言わず、傍らの執事に視線を送る。
「経過報告を」
「はっ。奥様は一週間前、階段より転落。頭部を打撲、以後意識不明のまま本日まで経過。先ほどより覚醒され、侍女の問いかけに正常な受け答えは見られるも、記憶喪失の症状あり、とのことです」
「記憶喪失……」
クラウスはわずかに腕を組み、ルシアを見据える。
「ルシア。おまえは我が妻であり、三歳の長男と、生後半年の次男の母だ。それは理解しているか?」
「うん、さっき聞いた! びっくりしたけど、ちょっと嬉しいかも!」
「……何がだ」
「だって、旦那様って、めちゃくちゃ格好いいんだもん。わたしの好み、ピッタリすぎてびびった~」
周囲の空気が凍りついた。
執事が固まり、マリーが絶句し、料理長が咳き込んだ。
クラウスはというと――
「……ふざけているのか?」
「え? 違いますけど?」
にっこり笑った奥様。
「わたし、なんか大事なこと忘れちゃってる気がするけど――今ここにいて、あなたが旦那様で、二人の子どもがいるって、それだけでもう、なんか……幸せじゃない?」
クラウスは黙って、奥様を見つめていた。
数秒間、表情は一切変わらなかった。だが――
「……後ほど、医師と再度診察を。執務室に戻る。報告を怠るな」
そうだけ言い残し、彼は部屋を去っていった。
◆ ◆ ◆
その後、奥様は「おかゆ、おいしい~!」とぺろりと完食し、乳母に「息子に会ってみたいなぁ~」とリクエストし、ひとときの親子対面に挑んだ。
「はじめまして? って感じで、ユリウスくん?」
三歳の長男・ユリウスは、見た目が父そっくり。漆黒の髪、冷静な瞳。大人顔負けの無表情で、母親をまっすぐ見つめた。
「きみが、ママ……?」
「うん、たぶん! ママだよ~!」
「……変だよ。ママじゃないみたい」
「そうなの。わたしも、ちょっと変だなって思ってる。でもね、ママが変でも、ユリウスくんはママのこと嫌いにならないでくれると嬉しいなぁ~」
沈黙のあと、ユリウスはぽつりと答えた。
「……ちょっとだけ、様子を見る」
「わーい、ちょっと合格! ありがとうっ♪」
両手を広げてハグしようとしたら、すっと交わされてしまった。
「……うん、そうくるよね。分かる分かる~」
そう言って、ルシアは明るく笑った。
それは、かつて“氷結の青薔薇”と呼ばれたこの屋敷の奥様が、
誰にも見せたことのなかった――春の陽だまりのような笑顔だった。
最後までお読みいただき、ありがとうございました。
記憶を失った奥様が、なぜか超ポジティブで天然癒し系に変貌し、あっけらかんと「まぁいっか」と笑う――。
それだけでも周囲は驚愕ですが、さらに「旦那様、イケメンですね♪」と堂々と称賛してしまうあたりが、彼女らしさ。
本章では“家族の再構築”に向けた始まりとして、屋敷全体の戸惑いや、無表情だった長男との最初の一歩を描きました。
氷に覆われた家の中に、少しだけ“春の風”が吹いた瞬間でもありました。