後日談 『氷の補佐官と、ごきげんな奥様』
かつて「氷の補佐官」と呼ばれた男が、心を動かされた日々。
これは、彼女――“ごきげんな奥様”と出会い直した、ひとりの夫の物語。
――あれは、ほんの少し前のことだ。
ルシアが階段から落ちて、目覚めたとき。
私はすぐに気づいた。
彼女は、変わった――いや、“変わってしまった”のだと。
表情。声。言葉の選び方。歩き方。
すべてが、かつての“氷結の青薔薇”とは別人だった。
冷静に判断すれば、戸惑いと不安が先立つはずだった。
だが私の胸に生じたのは、奇妙な安堵だった。
――やっと、彼女が笑ったのだ。
◆ ◆ ◆
最初は戸惑った。
いや、それ以上に困惑していたのは周囲だっただろう。
あの完璧主義の奥様が、ニコニコと「まぁいっか〜♪」と笑う姿。
眉ひとつ動かさず命令していた人物が、星型にんじんを誇らしげに出す姿。
……ふざけているのか、と何度思ったことか。
けれど――
「おかえりなさい、クラウス様っ。今日も“かっこいい”ですね!」
その無邪気な言葉に、私は何度、感情を揺さぶられたことか。
誰もが彼女の変化を“異変”と見なす中で、私は思った。
――今、目の前にいるこの人が、ようやく“自分で在る”ことを許されたのだと。
◆ ◆ ◆
ある日、私は彼女に言った。
「私にとっては、過去の君ではなく、“今の君”がすべてだ」
それは、私自身の救いでもあった。
私はずっと、愛し方を知らなかった。
政務と義務に心を凍らせ、夫として、父としての顔を置き去りにしてきた。
それを変えてくれたのは、間違いなく――彼女だ。
温かな手で子どもたちを包み、何気ない日々を愛し、
私の冷たさを、笑って溶かしてくれた。
◆ ◆ ◆
そして、今。
「クラウス様、今日も帰ってくるの、ちょっと遅いかな~って思ってました♪」
夕陽が差し込むサロンで、彼女は椅子に座って微笑んでいた。
「ただいま、ルシア」
「おかえりなさい、旦那様。……それとも、今日くらいは、“クラウス”って呼んでもいいですか?」
「……ああ。君の好きなように呼べ」
彼女はちょこんと立ち上がって、まるで秘密を打ち明けるみたいに、
私の胸にそっと手を当てて、上目遣いで囁いた。
「クラウス……今日も、好きです」
その瞬間、私は完全に敗北した。
戦略も冷静さも、理性すら溶かしていくこの人に。
「……ルシア」
私は彼女の細い肩を抱き寄せ、額にキスを落とした。
「私も、君を愛している。……これからも、ずっと」
「うん。今日も、明日も、“ごきげん”にね?」
「……ああ、そうしよう」
たとえ世界が変わっても、記憶が塗り替わっても――
この人の笑顔が、私のすべてだ。
そう思えることが、人生最大の幸福だと、今ならはっきり言える。
◆ ◆ ◆
かつて“氷結の青薔薇”と呼ばれたその人は、
今やこの屋敷の“春の象徴”として、すべてを包み込む存在になっていた。
そして私は、ようやく“夫”として、その隣に立てた気がした。
理屈も責務も超えて、「彼女が笑っていること」こそが何より大切だと気づいた日。
クラウスの想いは、ようやく“言葉”になりました。
これからも彼女と共に、“あたたかい日常”を育んでいくのでしょう。