第10話 そして、青薔薇は咲いた
あの日、階段から落ちて始まった“もうひとつの人生”。
奥様として、母として、人として――ゆっくり歩んできた道のりが、ついに一区切りを迎えます。
今の自分は、過去から逃げた結果ではなく、“選んだ現在”の姿。
家族に囲まれ、青薔薇のように咲く彼女の物語を、どうぞ最後までご覧ください。
春の気配がようやく屋敷を包み始めた頃。
リューベンス邸の中庭では、淡い青の薔薇が一本だけ、早くも蕾を開きはじめていた。
「青薔薇って、“不可能の象徴”なんだって、前の世界では言われてたの」
「ふむ」
クラウスが穏やかに頷く隣で、ルシアは腰をおろして薔薇を見つめていた。
「でもね、園芸家たちは“それでも咲かせてみせる”って、何十年もかけて作ったらしいよ」
「……まるで、君のようだな」
「え?」
「不可能と思われていたものに、笑顔で挑み続ける。“氷の家”と呼ばれたこの屋敷を、君は変えた」
「……うれしいな、それ」
◆ ◆ ◆
その日の午後。
ルシアのもとに、一通の手紙が届いた。
差出人は――帝都魔術管理院。
「……前世に関する“調査協力”?」
手紙には、記憶と魂の移動についての研究資料協力の依頼とともに、かつてルシアと似た現象を体験したという女性が一人、都にいると記されていた。
「……会ってみるべきでしょうか…」
ルシアはしばらく悩んだ。
けれど、彼女は静かに頷き、帝都へ足を運ぶ決意をした。
◆ ◆ ◆
その女性は、エレナと名乗った。
年の頃はルシアより少し若く、瞳の奥にどこか“よそ者の視線”を宿した人物だった。
「……わたし、目が覚めたとき、自分が誰だったかも、どうしてここにいるのかも分からなかったんです」
「私も、似ています。目覚めたら“奥様”でした。夫も子どももいて、何も思い出せないのに、“日常”が進んでいた」
二人の語る過去は異なっていても、感情の揺れは同じだった。
「……それでも、今は?」
「今は、“今の自分”が好きです。この場所も、人も、わたしの時間も――全部、大切に思えてるから」
エレナは、小さく微笑んだ。
「……きっと私たちは、過去から来たんじゃなくて、“未来へ行く途中”だったんでしょうね」
別れ際、ルシアは彼女の手をそっと握った。
「……ありがとう。話せてよかった」
「こちらこそ。“奥様”って、案外、強くなれますね」
◆ ◆ ◆
屋敷に戻ったルシアは、書斎の窓から庭を眺めながら、小さく呟いた。
「わたし、ここで生きていきたい。過去のわたしじゃなくて、家族と共に今の“奥様”として」
◆ ◆ ◆
その夜。
家族が揃って食卓を囲んだあと、クラウスがふと立ち上がった。
「……今日は、話がある」
ユリウスとミカエルが見つめるなか、彼はルシアの前に膝をつく。
「ルシア。私はこれまで、家の名に縛られ、義務と冷静を装い続けてきた。君との結婚も、感情を伴わぬものだった」
「うん……でも、今は違うよね?」
「――ああ。君が変わってくれたからだ。君がこの家に“温かさ”をくれた。笑顔で、言葉で、料理で、子どもたちとの時間で。私ができなかったすべてを、君がしてくれた」
ルシアは、手を口に当てながら目を丸くする。
「ルシア。どうか、これからも“この家の青薔薇”でいてほしい、愛してる」
「……!」
「不可能を越えた花のように――この家に、希望を咲かせてくれ」
ルシアは涙を浮かべながら、力強く頷いた。
「……うん、わたし、ずっと笑ってる。どんなに寒い日がきても、この家の中だけは、あたたかい春が来るように。私もクラウスを愛してる」
◆ ◆ ◆
季節が巡り、再び青薔薇が咲く頃。
ルシアは“奥様”として、母として、そしてひとりの女性として、確かにこの家に根を張っていた。
あの日階段から落ち、記憶を失ったあの瞬間。
それは終わりではなく、始まりだった。
不完全で、不器用で、でも笑顔を忘れない彼女がいたからこそ、氷の家には春が来た。
> 「――奥様、今日もごきげんですね」
「ええ。青薔薇も、咲いてくれたことですし」
> 「どうぞ、この先もずっと、ごきげんで」
「もちろん。今日も、明日も――ね♪」
氷のようだった屋敷に春が訪れ、かつて“青薔薇”と呼ばれた奥様は、やさしく微笑む“家族の中心”となりました。
前世からの記憶、過去の揺らぎ、それらすべてを越えて、今ここで生きることを選んだルシア。
不完全でも、笑って歩いていけば、ちゃんと花は咲く――
そう信じた彼女の“ごきげんな毎日”は、これからも続いていきます。
ご愛読、ありがとうございました。