第9話 騒がしき来訪と、試される日常
家族としての時間がゆっくり育つなか、リューベンス邸に思わぬ来客が現れます。
訪れたのは、クラウスの従姉であり、名門ゼルグレイ家の女主人――エリザベート。
鋭い視線と高い格式。奥様“視察”という名の試練に、ルシアはどう向き合うのか?
“過去を知る者”との邂逅が、今の彼女の在り方を静かに照らします。
春を告げる風が、雪解けの音を連れてくる頃。
リューベンス邸にも、ようやく暖かさが戻りつつあった。
ミカエルはつかまり立ちを覚え、ユリウスは読み書きに夢中になり、クラウスは家族の時間をわずかでも確保しようと努力し始めていた。
「うんうん、いい傾向……すごくいい……!」
と、ルシアが満足げに日記を開いたその矢先――
「奥様、たいへんですっ!」
マリーが慌てて部屋に飛び込んできた。
「今朝届いた文に、急な来客があるとのことです!」
「来客……? どなた?」
「クラウス様の、従姉君――エリザベート様でございます」
「……え?」
◆ ◆ ◆
エリザベート・フォン・ゼルグレイ。
クラウスの母方の従姉にあたり、現在は王立外交官として帝都で活躍する才女にして、名門貴族ゼルグレイ家の女主人。
公爵家出身ながら、厳格・冷徹・完璧主義を地で行く人物であり、リューベンス家とは浅からぬ縁があるものの、ルシアが嫁いで以来一度も顔を見せていなかった。
その彼女が、なぜいま――?
「しかも、奥様の様子を“視察”したいと仰っております」
「視察……!?」
◆ ◆ ◆
数時間後。
エリザベートは実際に現れた。
漆黒のドレスに身を包み、鋭く引き締まった顔立ちに隙のない所作。
見る者すべてを威圧するような、完璧な気品と立ち居振る舞い。
「久しぶりね、ルシア夫人。お噂はかねがね……階段から落ちて“別人になった”と聞いたけれど?」
「ええ、なんだか、落ちたらふわっと柔らかくなりました!」
にこっと笑って答えたルシアに、その場の空気が凍りつく。
エリザベートの視線が鋭くなる。
「あなた、昔のようにクラウスを補佐するつもりはもうないの?」
「んー……“補佐”って、政務的な意味ですか?」
「当然です。あなたは公爵家の夫人、帝国の顔でもある。それを忘れないで」
「わたしは、家の中を“あったかくする”係でいたいなあって思ってます♪」
「甘い」
ぴしゃりと断言されても、ルシアはにっこり笑ったまま。
「でも、“甘い”って言われたときに、すぐムッとしないで、まず“うん、そうかも”って笑ってみるのも、すてきだと思います」
「……何を言っているの?」
「わたし、いろんな人と笑ってごはんを食べて、お茶をして、子どもと遊んで、旦那様と同じ景色を見て――そうやって、毎日ちょっとずつ“家族になる”のが、今の目標なんです」
エリザベートはしばらく沈黙したあと、冷たい瞳で言った。
「あなた、面白いわね。昔のあなたなら、そんな言葉は口にしなかった」
「でしょうね。記憶もないし、性格もまるっと違うみたいなんです」
「それを“異常”と思わないの?」
「うーん、“異常”っていうより、“出会い”かな。新しいわたしに、出会えたって思ってます」
エリザベートは、扇子を静かにたたんだ。
「なるほど。少なくとも、“仮面”をつけていた昔のあなたよりは、今のほうが“生きている”わね」
「……え?」
「ふふ。安心しなさい、破綻の気配はないわね。――家族として、様子を見に来ただけよ」
◆ ◆ ◆
その夜、ルシアは書斎でクラウスと向かい合っていた。
「エリザベート様、なんだかんだで優しい人でした」
「彼女なりに君を心配していたのだろう。かつての君は、“無理をしていた”ように見えたと、私にも言っていた」
「……うん、なんとなく、わかる気がする」
「それでも、彼女が“今の君を認めた”というのは、何よりも大きい」
「クラウス様は、どう思った?」
クラウスはほんの少し、目を細めて答えた。
「――私は、君が笑っていられる今の暮らしを守りたい」
「……うん。ありがとう」
ルシアはそっと手帳を開き、今日の出来事を記した。
> “昔を知る誰か”に会うのは、やっぱりちょっと怖い。
でも、“今の自分”を認めてもらえたのなら、それで十分だと思う。
そして最後にこう書き添えた。
> わたし、少しずつ、ちゃんとこの家の“奥様”になれている気がする。
かつてのルシアを知る人物に対し、“今のわたし”を堂々と見せることができた彼女。
笑顔と真心で向き合った先に、思わぬ理解と信頼が得られた今回。
誰かに認められることより、自分を偽らず生きていること――
それが、真の「家族」になる第一歩なのかもしれません。
次章では、ルシアの過去と未来が交差する、運命の再会が待ち受けています。