プロローグ
貴族の夫人に転生したはいいものの、目覚めたら記憶がまるっとなくなっていました――。しかも二児の母で、夫は氷のような美形公爵。前世のポジティブ思考がそのまま戻ってきた令嬢は、「まぁいっか~」と笑いながら、冷えきったお屋敷に癒しの風を吹かせていきます。
本作は、転生&記憶喪失から始まる、超ポジティブ奥様による心と家庭のあったか再生劇です。
氷結と呼ばれた令嬢が、まわりを巻き込みながら“ごきげん家族”を目指して奮闘する、ちょっぴりコミカルで、心温まる長編物語――どうぞお楽しみください。
――あれ? わたし、死んだっけ?
「いたた……」
目を覚ました瞬間、まず口から出たのは、そんな呑気なひとことだった。頭の奥がずーんと重く、視界がまだ霞んでいる。何かに包まれている感覚と、遠くで誰かが呼びかける声。
「奥様っ! 奥様、目をお覚ましくださいませ!」
“奥様”って……え?
私、そんな呼ばれ方してたっけ?
そもそも、なんで“ベッドの天蓋”なんて見えてるの?
脳裏に残っている最後の記憶は、会社の古びた非常階段を駆け降りていたときのことだ。急いで戻らなきゃと焦って足を滑らせ、そのまま――
「……あっ、階段から落ちたんだっけ、わたし」
懐かしい記憶が脳裏をよぎる。そうそう、あのとき思ったのだ。「これ、異世界転生のフラグじゃん!」って。
それで目が覚めたら、やっぱりフラグ回収?
異世界なの? 夢? それとも死後の世界?
◆ ◆ ◆
「――奥様?」
目が覚めると、そばには可愛らしい侍女がひとり。大きな瞳に涙を浮かべ、顔色は蒼白。今にも泣き出しそうな声で私の手を握っていた。
「よかった……! 一週間もお目覚めにならなくて……!」
えっ、一週間?
しかもこの子、何? まるで少女漫画に出てくるメイドみたいな格好してるんですけど。レースのついた白いエプロンドレスに、三つ編みのおさげ、かすかに震える肩。
「ご気分は、いかがですか?」
「……うーん、まぁまぁ? ていうか……ごめん、わたし……」
私は彼女の目を見つめて、できるだけ明るく言った。
「――だれ?」
◆ ◆ ◆
その瞬間、彼女の顔から血の気が引いた。
しばらくの沈黙のあと、「い、いけません!」と立ち上がり、「お呼びしますっ!」と猛ダッシュで部屋を出て行った。
え、え? なんでそんなパニック?
慌てたって仕方ないじゃん。
記憶ないんだから。
でも、記憶喪失とか――なんかお約束すぎない? とか思っていたら、扉の向こうが騒がしくなった。
「急げ! 奥様が目覚められたそうだ!」「医師を呼べ!」「旦那様には、わたくしから!」
何この大騒ぎ……。
わたし何者??
――とりあえず、顔、見てみよっか。
そばにあった大きな鏡。少しの力で身を起こし、そっと覗き込む。
「……へえ。美人じゃん、わたし」
肩まで届く水色の髪。透き通るような肌に、涼しげなブルーアイ。少し儚げで、綺麗すぎて、なんか……氷のお姫さまって感じ?
「ふふ、悪くないかも」
でも、この顔、まったく覚えがない。
前世の私、市川千聖は、普通の事務職で、どこにでもいる地味女子だった。唯一の取り柄は、落ち込まないこと。
失敗しても、「まぁいっか」。
怒られても、「きっと相手も疲れてるのよね」。
お弁当忘れても、「パン買えばいいし」って。
そんなポジティブ脳みそで生きてたら、周囲に「逆に心配になる」って言われてたっけ。
でも、今の私は――
ガチャ。
部屋に入ってきたのは、まるで冬の空気をまとったような男性だった。黒髪、黒目、鋭い眼光。完璧なスーツにオールバック。眼鏡の奥の瞳がこちらを射抜く。
「……目が覚めたか、ルシア」
「……る、しあ?」
「……自分の名前も、忘れたのか」
彼は眉一つ動かさず、冷たい声で告げた。
「――妻として、母としての務めすら果たせぬなら、役割を降りることもできる」
え、なにこの冷徹ボイス。
まって、役割とか、妻とか、母とか……どういうこと?
「えっと……私、もしかして……奥様……です?」
「……ああ。“公爵夫人”だ」
しかも、夫人どころか――
「おまえは私の妻であり、二児の母だ」
「……」
あれ? なんか今、情報量すごくなかった?
え、夫?
子ども? しかも二人目って……
ちょっと待って、ついていけてないよ?
でも、不思議と――
「……まぁ、いっか」
なんとかなる。うん。
とりあえず、家族だっていうなら……仲良くしよ?
私はにこっと笑って言った。
「旦那様って呼べばいいですか? よろしくお願いしますっ」
その瞬間、彼の眉がぴくりと動いた。
――この屋敷に、新しい風が吹いた音がした。
ここまでプロローグをお読みいただき、ありがとうございました。
氷のように冷たく完璧だった奥様が、階段落ちで一転、“ゆるふわニコニコ系”に転生(?)したという、ありがちでいて、少し不思議な導入から始まりました。けれど、彼女の“前世ポジティブ”な価値観が、氷結の屋敷をどう変えていくのかが、この物語の軸になります。
冷徹な夫、距離のある子どもたち、戸惑う使用人たち……
すべてを「まぁいっか」の精神で包み込みながら、
「氷の家族」を「愛の家族」へと変えていく物語です。