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童痛  作者: 枕ヶ星
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前編:『猫は知らない』

 僕には、奇癖があります。

性的に酷く興奮すると、腹部に痛みが溜まるのです。はらわたを、地面に向かって引っ張るかのように。比重の大きな物体が下腹部に居座って、しばらくの間、僕を苦しめるんです。

おまけに、ノイズも付いてきます。

胃の中で「ズズズズ、ズズズズ…。」と、まるで古い洗濯機が唸るような奇怪な音が、骨を揺らし、奥歯を不快に震わせます。

この痛みとの初めての出会いは、九歳の頃でした。

僕が通っていた小学校は放課後になると、十六時半までの間に図書館が開きます。授業を受ける教室とは別の建物にあるため、図書館に行くためには一階まで下りて、渡り廊下を通過して旧館に入り、無機質な冷たい階段で三階まで上がる必要がありました。当時の小さな身体だと、これがとてもとても長い道のりに感じられたのでしょう。怖いもの知らずだった幼い僕は、二階の男子トイレの窓から渡り廊下の屋根に乗り移り、人目を忍んで走り切って、図書館の階下にあるトイレの窓から侵入していました。今考えると、よくそんな危なっかしいことが出来たなと、昔の自分の肝の据わり方に感服するばかりです。あと、なぜ一回もバレなかったのだとも思いました。当然、二階以上の教室からも旧館からも、ふと視線を送る人がいれば一目瞭然ですし、利用者がそれなりにあった二階の男子トイレから飛び移る際に、誰にも見られることなく行けたというのは、幸運と言いますか、見方を変えれば悪運強いと言えるのかもしれません。きっと、何かが上手いこと死角になっていて、僕の足元の薄氷の厚みを足していたのかもしれません。

とにかく、そんな危険行為を雨の日も風の日もやっていた訳ですが、僕がここまでして図書館に通うのには理由がありました。いや、好きな本があったとか、静かな場所で宿題をしたいだとか、そんなに純真な少年ではなかったです。

実は…、その図書館の司書をやっていた先生のことが気になっていたのです。両親よりも若く、当時の僕らよりも老いている。日常を送る上であまり接点の無い新鮮な年代の彼女に、恥知らずにも僕は好意を寄せていました。本を読むフリをして、花切れの上に彼女の顔を浮かべました。パソコンに向かって事務処理をしたり、返却された本を整理したりの一挙手一投足を、いつも陰ながら観察していました。黒く美しい長髪、緩いカーブを描いた頬と顎、透き通るような白い肌。タイトな膝丈のスカートに、茶色いウールのセータ。笑うと現れる頬骨のえくぼも、僕の冒険心を焚きつける燃料になったのです。

しかし、話しかけるような勇気はありませんでした。ですので、せめて顔くらいは憶えてもらおうと、僕は毎日一番になるように図書館目掛けて走りました。予定の無い日は、なるべく最後まで残りました。その甲斐あって、或る日、天は僕にご褒美を差し出したのです。

「ねぇ。君、いつも来てくとるよね。今日は何を読んどるん?」

彼女が話しかけて来ました。奇跡です。なのに、僕はまともに返事も出来ませんでした。読むフリ“だけ”してるのですから、当然です。喜びと驚きがオーバーフローした僕は、本を机に放ってその場から逃走しました。

「あっ、ちょっと! 走らんで!」

彼女の声も聴かず、無機質な階段を一つ飛ばしに駆け下りました。

旧館を飛び出した後、僕の胸は内側から太鼓でも叩いているかのように、激しく脈打っていました。残ったのは、驚嘆と歓喜、それと少しの後悔。燃え上がる感情の三つ巴が織りなす情熱的な憂いに対して、 僕は生涯それを“恋”と呼ぶことに決めました。

季節は、既に夏。蟷螂が産まれる頃だと、七十二候は謂うのです。


 翌日、僕は正規のルートを辿って、図書館に赴きました。

行きたい、けど、行きたくない。矛盾した感情があったからだと思います。久しぶりに下から眺める渡り廊下の屋根に新鮮さがあって、可笑しくなったのを憶えてます。旧館の重いドアを開くと、陰気な風が隙間から吹き出しました。いつも通りの無機質な階段は、心なしか数が多く感じました。三階へ到着し、深呼吸をしました。そして意を決し、ダークブラウンの木製扉を開けて、図書館に入りました。

日々、何の気なしに望む図書館の間取りが、この日は妙に厳かに視えました。厚ぼったい紺色のカーテンは、夕方の眩しい西日から書物を護っていて、それはまるで、母親が軒先に自然に咲いた野花を慈しんでいる光景と似ていました。床に向かって裾が広がっていく本棚は、幾千幾万の文字の重心を優しく逃がしているようです。

生意気にもセンチメンタルになっている僕の背中を、女性の声が叩きました。

「良かったぁ。いじけてないかと心配したよ。」

振り返ると、彼女が立っていました。先生は両手で段ボールを持って、ハムスターのような前歯とあの笑窪を僕に見せました。

「昨日は、ごめんなさい。本を…。」

「ううん。先生も急に声をかけてごめんね。帰りコケんかった?」

「大丈夫です。」

口を横に開き、彼女の笑顔に応える。

「うん! なら、よかった。あ、そうだ。これ手伝ってよ。」

「はーい。」

その日はどうした訳か、僕以外の児童が誰も図書館を訪れませんでした。また、奇跡です。離れた建物の一つの部屋に、僕らが二人。他の何にも代えがたい至福の空間が、旧館の三階にありました。

それから四ヶ月経っても、僕と先生の関係は健在でした。夏休みが間にありましたが、彼女へ対する想いは変化をすること無く、胸の中に在りました。

「休みよ、早く終われ」と願ったのは、後にも先にもありません。

休みが終わり学校へ行くと、先生は髪を切っていました。とはいっても、背中の半分まであった髪が、肩の辺りまで短くなった程度です。けれど、僕はそんな彼女が、愛おしくて堪りませんでした。

変遷を、ずっと隣で見ていたいというワガママな願望があったのです。

或る日のことでした。

その日は登校時から、強い風が吹いていました。昼前には雨が降り始め、段々と勢力を増し、昼休みに窓から校庭を見下ろすと、汚い色の川と湖が出来ていました。

放課後になってもその猛威は止まず、担任は、

「親が迎えに来るまで、皆この部屋にいなさい。」

と言いました。

先ほど出された宿題をしたり、友達同士でお喋りをしたりしているクラスメイトを他所目に、僕は彼女の事を考えていました。

そして、いてもたっても居られなくなり、他クラスの友達会いに行くと嘘をついて、例のトイレの窓から渡り廊下の屋根へ飛び移りました。

傘も差さず、タオルも持たず。ただ彼女の安否を憂いる気持ちだけを、引っ提げていました。今の僕は、これを勇気だなんて言い換えはしないでしょう。

菜園のバケツですらひっくり返す暴風に、何度か落とされそうになりました。ですが、その度に脳裏に彼女の顔をイメージして、無力な体を奮い立たせたのです。

やっとの思いで、僕は旧館のトイレの窓枠を掴みました。恐る恐る、丁寧に窓を開けました。

言い忘れてましたが、図書館の階下にあるトイレは男子トイレではありません。女子トイレでもありません。

古い建造物特有の、性差の識別の無いただのトイレです。男子用の小便器と、洋式の個室が五つずつ有ります。

僕が窓から侵入した時、入口に最も近い個室が閉まっていました。ですが、これはいつものことです。扉の経年劣化か、その個室はいつも閉まっています。

激しい風が窓を揺らす音と、雨が建物を打ちつけ震わす音で、声に気付くのに時間が掛かりました。

声、先生の声。端っこの個室から漏れる、彼女の声。

異質な、普段とは形質の違う、声。息切れ、呼気が激しく、鼻腔を擦過する音。小刻みに鳴る、何かが軋む音。

先ほども言いましたように。

怖いもの知らずだった僕は、穢れも恐れずに、トイレの床に手を着き、その聖域を覗きました。

最初に、タイルと扉の下部との僅かな隙間から、靴が見えました。直感的に、僕はそれが彼女のものであると分かりました。次に、力無く崩れている、あのタイトな膝丈のスカート。さらに、見たことの無い、群青色の下着。

そして、最後に見えたのは、震える彼女の脚。

僕は、急いで立ち上がりました。

口を両手で塞ぎ、肩を内側へギュッと寄せ、必死に存在感を消そうとしました。自分は、みてはいけないものを見て、知ってはいけないことを知ろうとしている感覚がありました。幸い、屋外の音は依然激しく、個室の中の彼女も気付いている素振りがありません。

静かにトイレを出て、静かに階段を上り、彼女が戻ってくるまで静かに待っていよう。咄嗟に判断し、上履きがタイルに柔らかく触れる方法を考えていました。

けれども僕は、先に自身の身に起こっている異変を感じ取っていました。

下腹部には、重量。

重い、大きな鉛の球がのしかかったかのような、重み。

そして、すぐ、痛覚。

にぶい、鈍い痛み。臍を中心として、同心円状に拡がっていく、痛み!

ノイズ。

ズズズズ、ズズズズ。

痛い。ズズズズ、ズズズズ。うっ。ズズズズ、ズズズズ。歩けない。ズズズズ、ズズズズ。脚に力が入らない。ズズズズ、ズズズズ。痛い。痛い!

洗面所と廊下の合間で、遂に僕は我慢の限界を迎え、苦痛の叫びを漏らしました。

「あー!痛い!痛いぃ!」

額を降りていく汗が、気持ち悪くて仕方がなかったです。

「重い!うぅ、うっ…。」

涙が、すぐそこにまで来ていました。

不安で、不快で、堪らなかったのを憶えています。だから、あの頼もしい声を聞いた時は、本当に泣きました。

「入野くん!大丈夫!?」

僕の後頭部の方から細かく足音を鳴らして、彼女がやって来ました。

「入野くん!分かる?私だよ!」

六度目の問いかけで、やっと返事をすることが出来ました。

「み、先生…。なんか、急に痛くなって。」

「大丈夫?立てる?保健室に行こう!」

「う、ん。」

先生の肩を借りながら、僕は旧館を後にしました。彼女からはいつもの甘い匂いと、鉄っぽい臭いがしました。

はっきりと記憶があるのはここまでで、気がつくと僕は、保健室のベッドの上で横たわっていました。カーテンの向こうからは担任の先生と保健室の先生、そして彼女の話し声がしました。何を話しているのかは、終始聞こえません。

僕は、ベッドの脇の棚に置いてある七体の兎の人形を呆然と眺めながら、ただ時間が過ぎるのを待っていました。

午後八時頃、母親が迎えに来る頃には、雷も雨も止んでいました。空には月が浮かんで、僕らの帰路を薄らと応援しています。事無きを得た街には、ただただ乾いた風が吹くだけです。

母親はこの日の暴風雨を、台風と呼びました。

「何が違うの?」と聞くと、

「本に書いてある。」と返されました。先生と言っていることは同じなのに、受ける心象が全く違うのは、恋をしているからだと僕は考えました。

校舎に作られた燕の巣は全壊しており、彼らは南へ帰っていきました。九月が下旬に入ったため、半袖だと寒いです。


あれから僕は、人が変わったように本を読むようになりました。先生が薦めた児童文学を片っ端から読みました。それには、罪滅ぼしの意味があったのかもしれません。

先生は、相変わらずでした。相変わらず、優しい先生でした。決して、あの聖域の中で悶えている女性とは違いました。

月曜日に十冊借りて、次の月曜日に全部読んで返す。というのを、毎週やりました。最初、先生は僕が適当に斜め読みしていると思ったそうですが、内容や感想を饒舌に語る僕の姿を見て、「はぇーっ。」と、感心していました。

「じゃあ、このシリーズの九巻はどんなお話?」

「先生。それ、八巻までですよ。」

「ちぇっ、引っかからないか。」

僕の隣の席で机に突っ伏す彼女を見て、僕は思いました。台風が去った以来、目が合わなくなってきている。

大変な危機感が、僕を襲いました。


母親が観ていたドラマのフレーズが、頭をよぎったのです。毎週土曜の、夜七時過ぎから放送される恋愛ドラマ。怒涛の展開を越えて物語の核心へと迫った、第六話。アンニュイな登場人物を演じる女優が、主人公へ向けて言った台詞。

「女の子の隠し事はね、気づいても言ったらダメなのよ。

上手に気付かないフリをするのが、良い男の良い気遣いよ。」

若過ぎた僕は、愚直にも行動に移した。

能天気を、無垢を演じた。

この日を最後に、渡り廊下の屋根に登るのを止めた。

気付かないフリだけでなく、気付けないフリもした方が良いと、そんな短絡的な思考です。彼女にも伝わったのか、僕たちは以前のような関係を取り戻せた。

と、当時の僕は信じて疑わなかったのです。


雪は溶けました。越冬を終える頃、校庭の脇に咲いている五本の桜には、無数の蕾が宿っていました。

僕はクラスメイトから、彼女が退職する事を聞きます。

担任は、「ことぶきたいしょく」と言っていました。この言葉の意味を知らなくて本当に良かったと、今になって思います。

四学年を締める終業式と退職する教員への送別式は、同じ場で催されました。みんな、彼女を思って泣いていました。教頭先生の粋な計らいで、特に仲の良かった僕らは少しだけ話す時間が設けられました。

彼女は例の笑窪を頬骨の上に浮かべながら、

「入野くん。君ほど集中力のある人を、私は初めて見たよ。これからもそれを活かして、たくさんのことを乗り越えてね!」

と、平気な“フリ”をした僕に、優しい餞別をくれました。

そして、職員室を去る直前、三石先生は僕にこのように耳打ちしたのです。

「お互いに、ずっと内緒にしておこうね。」

この発言の真意を、僕は知りません。いや、考えないようにしています。知らない方が良いことが世の中には沢山あることを、沢山学びました。「好奇心は猫をも殺す」とは言い得て妙であると思いますし、猫が殺されたと認知した人は、きっと心に深い傷を負うに違いありません。

先生。

僕は今日まで、猫をいっぱい殺しました。その度に、いっぱい泣きました。僕の壊れんばかりの悲痛な絶叫に対して、猫たちが理解を示す日は永遠に来ません。僕は殺した猫の亡骸を抱き締めながら、いつまでもいつまでも歩いてゆかねばならないのです。

橙色のユーストマの花束を抱え、薬指に銀白色の幸せを灯した彼女の姿は、僕の潜在的な女性への価値観に大きな影響を及ぼしました。直後、知らない男性と親し気にしながら校舎を去る光景は、半年毎に夢に見ます。

この日からおよそ二倍の生を越えた暁に「童痛」という名前を奇癖に与える訳ですが、もうしばらく話が続きますので、一旦ここら辺で休憩を摂りましょう。

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