第一話 事故に巻き込まれた女性
「江端先輩、お疲れ様です」
「ええ、お疲れ様ね」
定時を過ぎた室内を、後輩女性が挨拶をしながら出ていった。
一瞬だけニコリとしてから、私は目の前のパソコンに意識を集中した。
江端凛、二十九歳。
生まれつき色素が薄い栗毛のセミロングが特徴で、学生時代はよく髪を染めているかと教師に聞かれていた。
そして、もう一つ特徴的なのが私の身長だった。
小さい頃から何故か身長が伸びず、今でも百五十センチに届かなかった。
スタイルは普通くらいあると思うのだけど、何かにつけてこの身長がネックだった。
童顔も合わさってか、未だに学生に見られることもあった。
町で職務質問されたことも多々あり、もはや諦めの境地にあった。
そんな私は、早くに両親を交通事故で亡くし、祖父母の手で育てられた。
しかし、その祖父母も社会人になって独り立ちしたタイミングで相次いで病気で亡くなった。
生まれながらの環境もあったので早く大人になりたいと思い、努力に努力を重ねた。
それこそ、学生時代は数多くのバイトもこなして自分で学費を捻出した。
しかし、幾ら努力をしても大人になったらなったで本当に大変だった。
そこそこの会社に入って後輩にも恵まれたけど、とにかく上司運に恵まれていなかった。
昔の「根性でどうにかなる」とか「気合が足りない」などの根性論で話をするので、本当に手に負えなかった。
昔の自分の成功体験ばかり話すので今の時代に全く合わず、私ばかりでなく後輩も辟易していた。
残業当たり前と言っている割には自分だけさっさと帰るので、私がいつも後始末をしていた。
連日残業ばっかりなので土日は溜まった家事をすることに費やしてしまい、いつの間にか月日が進んでいた。
今なら上司を呪い殺せそうだなと思いつつ、私はキーボードを叩いていた。
「よし、これで終わりと。はあ、また社長に報告しないとならないのか……」
キーボードを叩き続け、ようやく出来上がった資料を更に上の上司に送った。
本来は上司が出さないといけない資料だったので、社長に確認してもらわないとならない。
こうしてパソコンを片付けて部屋を出ると、もうすぐ終電の時間だった。
駅へ歩きながら明日は休日だし何をしようかなと思っていたら、目の前の大衆居酒屋からよく知っている人物が出てきた。
二人とも酔っ払っているのか、腕を組みながらかなり上機嫌だった。
「ぶちょー、この後どうしますかー?」
一人は定時で上がったはずの後輩で、もう一人は私に仕事を押し付けた張本人だった。
この二人に接点があるとは思わず、私は頭を打ちのめされたかの衝撃を受けた。
後輩はまさに可愛らしい女性といえる容姿とスタイルの持ち主で、ちょっとぶりっ子が入っていた。
対して、上司は脂ぎった中年男性そのもので、仕事の態度もあってか私の中のイメージは最悪だった。
そんな二人が放った一言により、私は更なる衝撃を受けることに。
「ぶちょー、あの資料を先輩にやらせて良いんですか?」
「いーんだよ、社長にも適当に話をしてあるし、ぜーんぶ俺の手柄だ。いちいち口うるさいが、仕事だけはできるからな」
「キャハッ、確かに先輩は口うるさいですよね! 仕事だけしか取り柄ないですし!」
ガタッ。
私は、呆然としながら手にしていたバッグを落としてしまった。
バッグを落とした際に意外と大きな音を立てたのか、目の前にいた酔っ払い二人組が何だろうかと振り返った。
「「あっ……」」
呆然とする私と目が合った瞬間、酔っ払い二人組は一瞬で酔いが覚めたかのような真顔に変わっていた。
そして、急に滑稽なほどあたふたし始めた。
「あ、あのあの、せ、先輩、これは……」
「り、り、り、凛君、これ、これは、その……」
慌てだした二人を見て、私はなんだかどうでもいいと思ってしまった。
私のやったことは全部意味がなかったんだと、そう理解してしまった。
私は落としたバッグを拾い、呆然としながら二人の横を通り抜けようとした。
何にも考えられず、この後どうしようかなとぼーっとしていた。
しかし、ここから事態が一気に急展開を迎えることになった。
「り、り、凛君、待ってくれ!」
ガシッ、ズルッ、ドン!
「あっ!」
「えっ?」
上司が、焦った表情をしながら急に私の前に立ちふさがったのだ。
しかも、結構勢いよく私にぶつかってきた。
私は小柄なので、大柄な上司の圧力を支えきれず上司ごと後ろに押し倒されてしまった。
ガツッ!
「あっ……」
「痛た……」
何故か私に覆いかぶさるように倒した上司が痛がっていたが、私は後頭部を思いっきり強打したのに全く痛みがなかった。
ぬるっとしたものが後頭部を伝わったが、その感覚も直ぐに失せた。
そして、急速に意識が無くなっていった。
ああ、命が尽きるのだと直感で把握した。
なぜこうなってしまったのだと、せめて少しでも幸せでいたかったと、来世は幸せに慣れるのかなと、そう思ってしまった。
「キャーーー!」
私が聞いたのは、後輩の金切り声のような大きな悲鳴だった。
それを最後に、私の意識はぷっつりと切れてしまった。