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第六話 世界が変わるとき

「あれ? 長谷川さん、お出かけですか?」

打ち合わせのため自社ビルを出た長谷川に声をかけたのは玉城だった。

どうやら玉城も今、大東和出版を出てきた所らしい。


「ああ、うちのグルメ雑誌の仕事、まだ続いてるんだね、玉城」

ゆっくりではあるが、足を止めずに話す長谷川。

「そりゃあ僕の生命線ですからね、『グルメディア』は。切られたら困りますよ」

長谷川の横に並んで歩きながら玉城は苦笑した。

「コラムはどう? 書けそう?」

「食文化について猛勉強中です。でも逆に素人っぽさがいいらしいですよ。その方が若い子に親近感持たれるって」

「そうだね、あんたからウンチクは聞きたくないね」

「それって個人的意見でしょう」

並んで歩きながら玉城は少し拗ねたような声を出した。


「そうだ長谷川さん、先日はごめんなさい、誘いを断って。また飲みにでも行きましょうよ」

今度は長谷川が苦笑した。

「仕事のつきあいは終わったんだから、社交辞令はいらないよ」

「そんなつもりで言ったんじゃないですよ」

玉城はふと、不思議な表情をして長谷川を見た。

「・・・何かありました?」

「どいつもこいつも。私の顔には『何かがあった』って書いてあんの? 何もないよ。まったくね」

長谷川は無愛想に言い、真っ直ぐ前を見ながら足を速めた。


そう、まったくこれと言ってイライラの原因になるものは無かった。

それが長谷川を余計にイラ立たせる。

玉城はそんな長谷川をやっぱり不思議そうにチラチラと見ている。


「・・・そういえば、もうそろそろですよね、グリッドの新刊号の発売。もう刷り上がりましたか?」

「ああ、そうだった。あんたにも送るよ。今持ってきてたら良かったね。いい仕上がりだったよ。ありがとうね、玉城」

「あ・・・はい! こちらこそ!」

玉城が、照れくさそうに、嬉しそうに笑う。まるで先生に褒められた小学生のようだ。

長谷川はそんな玉城を面白そうに見つめながら言った。

「リクの言ったとおりの反応をするね、あんたは」

「なんですか、それ」

「あんたもちょっと寂しくなるんじゃない? 仲よかったからさ」

「え? 寂しいって?」

キョトンとして玉城が聞く。地下鉄の入り口を通り越しても長谷川はそのまま真っすぐ歩き続けている。

“あれ? 降りないんですか?”と言いたげな玉城の視線にも、長谷川は気付かない。

「何って、取材終わってさ、リクとも会わなくなるじゃん」

長谷川は歩き続ける。地下鉄の降下口を過ぎたことに全く気付いていない。

その辺りから雑居ビルは消え、美しくデザインされた大企業のビルが誇らしげに立ち並んでいる。


「え?・・・取材が終わると、何で会わなくなるんですか?」

「ん?」

「なんで?」

玉城はやはり、不思議そうに長谷川を見る。

長谷川はそこで足を止めた。

「なんでって・・・取材が終わったから」

「え? どうしてどうして? 会っちゃいけないんですか? いや、とくにあいつは会いたがらないと思いますけどね。押し掛けちゃいましょうよ。たまには連れ出してね、飲みに連れて行ったりしようと思ってるんです。長谷川さんも誘いますからね。一緒に行きましょう」

屈託のない、という言葉はまるで彼の為にあるように楽しそうに笑顔でしゃべり、そして続けた。

「あ、これは大人の社交辞令って奴じゃないですからね」


長谷川は玉城をみつめた。

「・・・そうか」

そして、周りの景色を見渡した。

自分が駅を通り過ぎてしまったことに、今やっと気付く。

何か重いものが内側でサラサラ溶けて行く音が聞こえた。風が揺らす、街路樹の音と重なる。

何か、無性に可笑しくなった。

「そうか」

長谷川は笑った。何か込み上げてくる嬉しさがあった。


「何? どうしたんですか、長谷川さん」

「いや、何でもない。そうか、じゃあ、誘って貰うよ。ただ、あのひねくれ鳥は簡単に誘いに乗らないんじゃないかな。渡り鳥みたいな奴だからあそこに定住するかもわかんないよ。今だってふらりと何処かに消えちゃったし」

「消えたって?」

「私がグリッド送るって言ったのにさ、しばらく帰らないからいいってさ。まったく可愛く無いよ」

玉城はハッとしたように長谷川を見た。

それは一連の長谷川の憂鬱を見抜いた目だったが、長谷川は気付かない。


「ああ、そう言うことか」

玉城が堪えきれずに笑う。

「何よ」

「いや、ごめんなさい。あのね、リクが消えた理由は簡単ですよ。原因は長谷川さんなんだから」

「は? なんで私?」

「個展したらって言ったんでしょ? リクに」

「言ったけど」

今度は長谷川がキョトンとした。

「する気になったんですよ、彼。だから只今制作中なんです。たぶんいろんな場所を飛び回ってね」

「だけどあいつは個展なんてやらないって言ったよ?」

「長谷川さんが見たいって言ったから」

玉城はニコリとした。

「あなたに見たいって言われたからって、リクが言ってました。あれだけ佐伯さんが勧めても腰を上げなかったのにね。佐伯さん、ものすごく焼き餅焼いてるんじゃないかな。きっといい絵を描きますよ、彼」


またもやサラサラと音がした。街路樹のハナミズキは揺れてはいないのに。

ムクムクと内側から熱を帯びた塊が胃の辺りから生まれて、心地よい嬉しさに変わっていく。

そんな感覚、初めてのことだった。


その時ふと、目の端に見覚えのある人物を捕らえて、ほんの少し長谷川はそちらに気を取られた。



「ねえ長谷川さん。そろそろ気が付きましょうよ」

全然別な一点を見ている長谷川に玉城が言った。

「気付くって?」

「リクへの気持ち」

長谷川がやっと玉城に目を向けた。

「何よ、それ」

「何か落ち着かないとか、ソワソワ、イライラしません? 気が付いてるでしょ?」

「ああ」

長谷川が笑った。

「ずっとそうだよ。腹立たしいほどにね」

「そういうの、何だか分かりますよね」

玉城はやさしいカウンセラーのような口調になっていた。


「ああ、・・・何か今、分かったよ」

「分かったんですか? やっと!」

「母性本能ってやつだね。知ってるか?」

玉城の目が点になる。

「そりゃ・・・きっと小学生でも知ってます」

「そいつだよ。何か心配なんだよね、あのバカが。居たら居たで煩わしいのに、手が届かないと大丈夫かと心配になる。ちゃんと食べてんのか、とか、人とうまくつき合えてるのか、とか。こういうの、まったくそれじゃない?」

「いや、あの・・・それは、長谷川さん」

玉城は焦る。

「もうグリッドの特集も終わるしね。私のするべき事は終わってしまった。してあげられることも、もうない。親って寂しいもんなんだろうね。まあ、8つしか歳は変わらないんだけどさ」

“ちがう、そうじゃない。気付こうよ長谷川さん”

けれど、何か吹っ切れたような、爽やかな表情の長谷川にそれ以上何も言えずに、

玉城は口をつぐんだ。


「じゃあ玉城、ここで。私ちょっと用事を思い出したから、先に行ってよ」

そう言うと長谷川は手を軽く挙げてさっき見つめていた方向に歩いて行ってしまった。

“じゃあ”と、別れ際ににこやかに挨拶をするようになった長谷川。

玉城は軽快に去っていく敏腕編集長を見つめながら、クスリと笑った。


『恋』はあの人を変えてしまうんだろうか。

でも、あの人は、あの人のままでいてほしいな。

そんなことを思いながら。 



           ◇


「あれ? あの人、柳さんのボスじゃないですか?」

そう赤木が指さす方向を見たときにはもう遅かった。


振り向いた柳の前に突然現れた大きな黒い影は、その胸ぐらを掴み、右脇に滑り込んだ。

「何だ?」と声を上げる暇もなく、その影に左足を払われ右手を掴まれた。

一瞬の出来事だった。フワリと体が宙に浮く。重力が消えた。

そう感じた瞬間、世界がぐるりと回った。

灰色のビルと、空の薄いブルーが混ざり合って目の前を回転する。

落ちる! 咄嗟に身を固める。体が落ちるのと同時に柳は左腕でバンと地面を叩いた。


「よし、覚えてたね、受け身」

聞き覚えのある太く軽快な声に視線を上げると、長谷川がニヤリとして上から柳を覗き込んでいた。

ポカンとしている赤木の顔も見えた。慌てて体を起こす柳。

「長谷川さん!」

「また会ったね。約束したろ? 次会ったらワザ掛けてやるって。どう? 体は忘れてなかったろ。この感覚」

長谷川が笑った。

以前とは違う、突き抜けたような笑顔だった。

「冗談だったんだけどさ、ビルの前であんたらが今にも死にそうな顔してたんで、ついワザ掛けたくなった。どうだった? 久しぶりの背負い投げ。釣り手と引き手のバランスが大事なんだよね。思い悩んだらダメ。“ここ”と思ったら最後まで一気に回転させる。『柔より剛を制す』。小さな力が自分より大きな力に勝つんだよ。私、この技が好きでね」


柳はぐっと唇を引き締め、長谷川を見た。

なぜか、地面を叩いた腕の痛みが懐かしくて心地いい。

「長谷川さんは・・・何かあったんですか?」

「うん、何かあったんだと思う。きっとね。グダグダ悩んでたって仕方ないんだけどさ、その悩んでる時間っていうのも、きっと大事なんだよ。きっかけを掴むためにさ。そしてね、ちょっとのことで世界はポンと変わるのかもしれない」

長谷川はポンと柳の肩を叩いた。

「たぶんそうなんだよ、柳」

柳はドキリとした。


「次に何処かで会ったときには、その死にそうな顔から影が消えてることを祈るよ。いろいろ人生大変なんだろうけどさ。何か“違う”って気付いた時が変わり時なんだよ、きっとね。・・・あ、ごめん、私も仕事中なんでね。じゃあね。またどっかで会おう! 仕事、がんばってね」

長谷川はそれだけ早口で言うと腕時計をチラリと確認し、軽く手を振り来た道を戻って行った。


少し口を開けたまま長谷川を見送る二人。


赤木がやんわり口を開いた。

「柳さん・・・」

「なんか、びっくりしたな」

「はい。・・・でも、なんか、いい人ですね」

「うん、そうだな。投げられたけど」

「そうですね、投げられちゃったけど」

赤木が笑う。

「でもさ・・・あの人にはもしかしたら全部お見通しなのかもしれないな。俺らの事なんて」

柳が長谷川が去っていった方角を向いたままつぶやいた。


「なあ、赤木」

「なんですか?」

「世界はちょっとのことでポンと変わるかな」

「さあ、どうでしょうね。でも、あの人は変われたって感じの顔してました」

「変えてみるか」

「え?」

「ポンとさ」

「マジっすか。血、見ますよ? きっと」

「受け身は得意だからさ、俺」

柳は笑った。


「じゃあ、俺もついていきます」

赤木もつられて笑う。若者らしい、いい笑顔だと柳は思った。


まだきっと間に合う。世界が変わるきっかけは、この手の中にきっとある。

自分にとってたった一人のボスが、そう教えてくれた気がした。


手に握っていた写真を封筒ごとグシャリと丸めてポケットに突っ込むと、柳は乾いた空気を思い切り吸い込んだ。

行こう。陽の当たる場所へ。



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