世界を呪った理由と呪わなかった理由
私は魔女だ。
いったいいつだったのかさえ、定かでない昔。私は世界を憎み、呪った。
「ねぇ。君はどうして世界を呪わないの」
「んんー?」
料理中の養い子に問えば、気もそぞろな返事のみ。私が問いかけたというのに、包丁代わりに使っている右腕は止まらない。
養い子の右腕は、右だけ肘から下が剣になっている。左腕は普通の腕だが、これも養い子本来のものではない。両腕は、幼い頃に両親と共になくした。両腕がないのは不便なので、私が植えた魔法植物で補っている。
両腕と共に両親を切られ、村を滅ぼされた養い子。世界を憎み、呪ってもおかしくない境遇なのだが、養い子は魔女にはならなかった。私はそれが不思議でならない。
確かに世界を呪ったからといって、誰でも魔女になれるわけではない。魔力という素質がいるけれど、養い子の母親は魔女だった。素質はあるはず。
鍋の蓋が熱いスープの湯気で動き、コトコトと音を立てている。ふわりとした熱気と、食欲のそそる香りが狭い台所に充満している。養い子の右腕は音もなく動き続けている。
普段通りの緩やかな時間が流れていくだけ。
質問の答えはない。
「……」
どうやら養い子は、空返事をしただけで料理に没頭してしまったようだ。剣をまな板に当てず、かつ野菜の葉一枚の切り残しもないように、絶妙な加減で切っていく。
本人は知らないが、魔法植物で出来た養い子の腕は、魔力を帯びている。そのため丸太であろうが金属であろうが、破壊できないはずの魔女の心臓でさえ紙を切るよりも簡単に切ってしまえる。少しでも気を抜けば、まな板だけでなく台ごと切ることになるだろう。
であるから、ただ野菜を切るだけの作業に非常に神経がいる。ゆえに空返事になるのも仕方のないことであるのだが。
私が拾い、育てた子。いつか私を殺す予言の子。
拾った時、あんなに小さかった背中は私より大きくなった。何も出来ないと悔し涙を流していた子供は、何でも出来る青年に成長した。
スプーンで食べさせてやることも、着替えを手伝ってやることも、髪や体を洗ってやることも必要がなくなってしまった。
ずっと私の後をちょこちょことついてきていたのに、今は振り返りもしないで空返事。
全く、面白くない。
「うわっ!」
私はひょい、と横合いから養い子の手元を覗きこんだ。
「右側は危ないって!」
やっと右腕を止めた、養い子が叫ぶ。その慌てた表情と、私だけを映す黒い瞳に満足して、養い子の右腕をそっと撫でた。危うい位置に私がいるため、動くに動けないのだろう。養い子はじっとしている。
「ねぇ。君はどうして世界を呪わないの」
かつての私は人々のため、世界のために祈りをひたすら捧げていた。信じる者を、必ず神はお救い下さるのだと思っていた。
実際に私は癒しの力を使えた。神は私の祈りに応えて下さっていたと、そう信じていた。
だが人心を惑わせ、聖女を語った悪女だと、神官長さまに断罪された時。それまで私を聖女と崇めていた人々や、聖女候補たちが、口々に私の悪事とやらを暴きたてた。
どんなに違うと訴えても。真実を言っても。誰も取り合わず。ならばと神に祈っても、奇跡は起きなかった。
美しく神聖な、神官も聖女候補も、みな醜悪に顔を歪め、どす黒い感情を私にぶつけた。
真っ白い布地のようだった私に、落ちない汚れをなすりつけたのだ。
私はあなたたちのために祈ったのに。
あなたたちのために癒したのに。
あなたたちを信じていたのに。
全部私が悪いのだという。
ああ。呪わしい。憎らしい。
私は、世界を憎み、呪った。
呪いは神に届き。
私は魔女となった。
「……ああ」
きょとんと目を丸くしてから、養い子が罰が悪そうに顔をしかめた。
「ごめん。さっきその質問してたよな」
どうやら聞こえてはいたらしい。
「うん。それで答えは?」
「んー、そうだな」
遠くを見るように養い子が目をすがめた。当然そこには木の壁か、オリーブのオイル漬けや調味料のつまった瓶の並ぶ棚だけのはず。遠くに去ってしまった過去も、これからの未来も、偉人の哲学といったものもない。
養い子が導き出すのは、美しい善なる答えか。それとも私の理解の及ばないほど、狂気的な歪みか。
「俺が世界を憎まなかったのは、世界なんてどうでも良かったからかな」
「……どうでも良かった?」
私は目を見開いた。養い子の答えは、私の予想のさらに斜め上だった。
「うん。俺は世界なんかに興味がない。だから腹も立たないし。そもそも期待も信頼もしてないんだから、裏切りようがないんだ」
「なにそれ」
呆れた私は、眉間を揉んで寄っていたシワを伸ばした。やれやれ、とんだ肩透かしだ。
私が右腕から手を離したことで、養い子が料理を再開する。野菜を切り終え、鍋の蓋に左手を掛けた。
「魔女さん。スープ皿取って」
「はい」
皿を渡すが、養い子は蓋を開けずに、にやりと笑った。
「今日のスープ、何だと思う?」
「なに、急に」
養い子がスープを作っていた時、私は隣の部屋にいたので中身は知らない。だが匂いからして想像はついていた。このなんとも言えない食欲をそそる香りは、私の好きなスープに違いない。
「いいから。ヒント。魔女さんの好きなやつ」
「マトマトのスープ!」
養い子のヒントに確信を深め、私は高らかに宣言した。養い子が笑みを深める。
「ざんねーん! 不正解」
「ええっ」
腹が立った私は養い子を恨めしく睨んだ。
この匂いとあのヒントで違うだなんて、正解させるつもりがないのだ。
「ぷっ。あはははは」
不当な謎かけに私が怒っているというのに、養い子は吹き出した。
「ごめんごめん。実はさ」
ひとしきり笑った後、養い子が鍋の蓋を開けた。鍋の中でぐつぐつと煮えているのは、赤い色のスープ。マトマトのスープだ。
「騙したのね」
「うん。ごめんね。腹が立ったでしょ? これが俺の答えだよ」
「は?」
わけの分からない私はまばたきをした。養い子は今度こそ私から皿を受け取り、スープをよそった。
「今魔女さんが腹が立ったのは、この鍋の中身がマトマトのスープだって期待してたから。あと、俺のことを信頼してくれてたから。中身が違うって言われて、期待を裏切られた。さらに、俺に嘘を吐かれて‥‥‥つまり裏切られて腹が立った」
説明しながら、切っていた野菜と窯で焼いていた鶏肉を盛りつけた皿と、スライスしたパンの並ぶ皿を、鞘に仕舞った右腕も使って器用に運ぶ。
私は自分の分の皿を持って、養い子の後を鳥の雛よろしくついていった。
といっても狭い台所。すぐそこなのだが。
「いただきます」
腹の虫を刺激する香りと、かすかな湯気を立たせる料理を前に、着席した養い子が手を合わせた。養い子の母親がやっていた作法だ。顔立ちは母親に似ていないけれど、仕草の端々に友人の面影が垣間見える。
暇潰しの遊びが、本気になった彼女の。
「いただきます」
私も養い子に受け継がれた、亡き友人の作法に従った。
食事をとれることを神に感謝するのが一般的だが、私は憎き神に捧げる感謝など持ち合わせていない。食事や食材に感謝する、亡き友人の作法が性に合っていた。
赤いスープにスプーンを浸す。くたくたに煮込まれた野菜と塩漬け肉をすくい、口に入れた。塩気と酸味が優しく広がって、胃の腑にしみる。次にパンをかじった。パリパリと小気味よい音が弾け、もちもちふんわりとした中身が追随する。美味しい。
「美味しい?」
「美味しい」
鶏肉にも手を伸ばした。こんがりと焼けた皮がパリッと香ばしい。皮目の下から、肉汁がじゅわりと溢れた。
養い子の料理は、草と穀物を放り込んだだけだった私のものとは雲泥の差だ。
「良かった」
嬉しそうに笑った養い子が、スプーンを口に運ぶ。
「うん、美味い!」
自分の料理に破顔すると、肉と刻んだ野菜をパンに乗せて豪快にかじりつく。ただの愉しみとして食事をする私と違い、養い子は成長期だ。食べる量も私とは比べ物にならない。
「ねえ魔女さん。もし鍋から魔女さんの薬草粥の匂いがしてたら。蓋を開けてマトマトのスープだった時、腹が立つ?」
「立たない。むしろ不正解で嬉しいかな」
養い子が料理をするようになってから、私は薬草粥を作るのをやめた。ちゃんとした料理の味を知ってしまった今、あれは不味い。
「魔女さんは薬草粥、別に好きじゃないもんね。だから中身が違ってても、予想を裏切られても腹が立たない。俺にとっての世界は、薬草粥なんだよ」
私は別に薬草粥が好きでも嫌いでもない。鍋の中身が薬草粥ではなかったところで、腹は立たず、ましてや憎しみなど生まれない。
「でも魔女さんは世界を呪った。魔女さんは、世界を愛してたんだね」
眩しそうに、羨ましそうに、養い子が目を細めた。
確かに、かつての私は神を信じていた。私を慕ってくれていた人々を愛していた。
世界という鍋の中身は、私が信じ愛したものだと思っていた。蓋を開ければ、入っていたのは汚泥だったが。
信じていた。愛していた。期待していた。
だから裏切られて憎しみが生まれた。
なるほど。養い子の言は、真理ではないが一理ある。
すとんと腑に落ちたと共に疑念が涌いた。
「じゃあ人間は? 人間も薬草粥なの?」
「うん。人間も同じ」
養い子が苦く笑った。
「母も俺も黒髪黒目で、魔女の特徴を持ってたから。行く先々で石を投げられたりして追い出された。人間なんて信用できないし、好きにはなれなかったな」
意外だった。
ハーブやマトマトは養い子が作った畑でとれる。肉は森で動物を狩れば手に入る。
だがパンを作る粉や穀物は、魔法で姿を変えた養い子が近隣の町で買っている。
買い出しから帰ると、誰とどんな風に話をしただとか、楽しそうに語る。だから人間を好きなのだと思っていた。
「村長とその娘を憎んでいたんじゃなかったの」
村長とその娘は、養い子の母親‥‥‥私の元同胞であり友人で、元魔女を神聖教会に売った。神聖教会の聖騎士は村を滅ぼし、養い子の両親を養い子の腕ごと切った。
養い子は裏切った元村長とその娘を憎み、彼らに復讐した。養い子の理論からいけば、どうでもいいものに裏切られても腹は立たず憎まない。憎んだということは、養い子は彼らのことが好きだったということになる。
「憎んでたよ」
黒い瞳の奥に黒い炎が躍った。私はそれを美しいと思い、同時に胸の奥が醜く疼いた。
村長やその娘よりも、私を憎んでほしいという願望で。
ああ、世界は憎くて呪わしい。手ずから育てた養い子でさえ。
「あの二人は大好きな両親を殺したから」
両親を殺したから憎んだ。両親を殺していなければ、養い子はあの二人を憎まなかった。
「そう」
満ち足りた気分で私は微笑んだ。たった一言で胸の疼きは消えていた。
養い子との生活は発見と驚きの連続だ。
ただ吸って吐いていた空気が香り、光る。惰性で過ごしていた時間は流れを速め、味気なかった料理は多彩になった。読み終えていた書物は新しい物語のように見え方が変わった。
養い子との数年間、それまでの退屈だった日々が嘘のように一喜一憂している。
元同胞で友人の子。不死の私を殺せる、唯一の子。
世界を憎み呪った私は魔女となり、自然の理から外れて不老不死になった。
永遠を生きる魔女は、生きることに飽いている。暇潰しの遊びで、私と友人は賭けをした。どちらが先に人間を愛せるかを。
そして賭けは友人が勝った。
黒髪黒目の女と、その伴侶と子供。どこへ行っても厄介者の疫病神として嫌われていた。暴言や嫌がらせ、暴力さえ受けていた。満足に食べられず、暑さと寒さにさらされていた。
もう一度世界を憎んでもおかしくない理不尽の中で、かつて世界を憎んだ友人は幸せそうに笑っていた。
「君のお母さんは幸せだった?」
「さあ。幸せの基準なんて人それぞれだし。俺は子供だったし、よく分からないけど。記憶の中のお母さんはいつも笑ってた」
「そうね。いつも幸せそうにきらきらと笑っていた。眩しくて直視出来なかったくらいに」
最期の時以外は。
赤い旗と緋色の炎が躍ったあの日。聖騎士が友人の愛しい男を二つに裂き、銀を深紅に染めたあの時。血の涙を流しながら友人は言った。
『この子を助けて』
賭けは、勝者が何かを受けとるものだ。私たちが賭けたのは、勝者の願いを一つだけ叶える権利だった。
私は約束通り、子供を助けた。
友人を殺した聖騎士と、村を焼き蹂躙した聖騎士どもを魔法で消し炭にしてやった。子供を脅かす赤という赤を退けて、世界を黒に塗りつぶした。
子供を連れ帰り、優しい愛で包み育てた。
私は真っ赤なスープをすくって口に入れた。酸味と旨味が広がって、喉を温かく滑り落ちる。美味しい。
「明日も食べたいな」
食べることは生きること。生きることに飽いていた私が、いつの間にか明日を望んでいる。
「愛する魔女さんの望みなら。あー、でも、いくら好物だからって毎日は飽きるだろ。三日に一回な」
「好きなものは飽きないのに」
「いいなぁ。俺もマトマトのスープになりたいなぁ」
唇を尖らせて横を向くと、養い子がため息を吐いた。
もうなっているのだけれどね。
そう口にする代わりに、スープを飲み干した。
魔女は愛し愛されることで理に戻る。普通の人間になる。寿命に捕まり、やがて死を迎える。
理に戻っても外見は変わらないから、風邪でも引くか、年を重ねたら気づくだろう。その時の君の反応が楽しみだ。
呪わしい神よ、世界よ。ざまあみなさい。
私を殺すのは、お前たちの定めた運命や寿命なんかじゃない。
養い子への愛が、私を殺すのだ。