第9話 部長は鈍い
人に出会わん。まったくだ。
行けども行けども波打つ広大な草原。北海道よりも景色に変化がない。太陽はすでに沈み始めている。空が赤く染まれば、草原も色を変える。
「へぇ~、綺麗なもんだなあ」
「何をのんきなことを言ってるんですか。まずいですよ。夜になってしまいます」
「草の上なら寝やすそうだ。燃えそうな枯れ草や枝もいっぱいある。あ、虫とか苦手系? 俺は――」
俺の言葉を遮って、ルイゼルがジト目で言った。
「こんなところで寝たら、一生起きられなくなりますよ」
「寝心地がよくて!」
「……」
しまった。またつまらないボケを言ってしまった。叱られてしまう。
だが。
ルイゼルの手の甲が俺の胸にペシっとあてられた。
「んなわけあるか~い」
珍しいつっこみを入れてきたな。関西人みたいだ。
なんだかガドルヘイム人なのに、俺より日本人してるんだもんなあ。
「はっはっは」
「おほほほほ。……ちっ」
なんで舌打ちしたの!?
当初はガドルヘイム言語を俺に教えながら歩いていたルイゼルだったが、太陽が傾いてからは、なぜかずっと早足だ。歩きながら続けてきた語学の授業も、いつの間にかしなくなった。どうやら焦っているらしい。
「初めて徒歩で縦断するんですが、相当広いですね、この平原。馬でもいたらいいのですが。エレメイア平原って名前だったかしら。魔族領の端です」
「景色と同じで綺麗な名前だな。灯りの少ない世界なら、きっと夜には満天の星空が見えるんだろうなあ」
「きっしょ」
「なんでそういうこと言うの……!?」
わかっている。ああ、わかっているさ。わからないふりをしてあげているだけだ。
女性が無言で急いで探すものと言えば決まっている。トイレだ。
しかしこの分じゃ間に合いそうにない。
「あ~、ちょっと離れたところで後ろを向いて耳を塞いで待ってようか?」
「はあ? 何で……?」
何で!? ああ、わかったぞ。
「異世界人はそこらへんあまり気にしないのか」
そりゃそうだよな。公衆トイレとかなさそう世界だ。いちいち気にしていられないのかもしれない。
「はあ。何を気にしないんです?」
「そっか。わかった。じゃあ俺のことは気にせず、大自然に向かってフリーダムに――」
言葉を止めた。違和感だ。
いや、おかしい。そういった事柄に本当にフリーダムな世界だったら、なぜいま早足なんだ。俺は彼女の速度に合わせるように歩いている。慣れたもんだ。都会じゃこれくらいが普通の速さだったから。
「腹でも減った? フリーダムに」
「フリーダムな空腹って何ですか……。そりゃ減ってますよ。減ってますが、そんなことを考えている場合じゃありません。へたをすれば次の食事にありつく前に、わたしたちが食事にされる可能性があります」
「オーガ?」
「それに限らずです。魔族や魔物には、夜になれば活動を開始する種族が多いんです」
魔が先につく生物の大半は、大なり小なり人間に害を及ぼすものらしい。なるほど、彼らが活発に動き出すのが夜なのだとしたら、確かにこの隠れるところもないエレメイア平原でのんびりキャンプファイヤーもないだろう。
ふぃ~、あっぶねえ~。
もうちょっとでトイレのことを口走るところだった。ただでさえガドルヘイムに来てから暴落している俺の評価が、もうちょっとで底付きするところだった。
日本にいた頃は一定以上の評価だったはずなんだが。
そんなことを考えていると、ルイゼルが諦めたように立ち止まった。
「だめですね。今日中に平原を抜けるのは難しそう。これ以上は進まず、薪になりそうなものを集めましょう」
「わかった。あ、でも火を焚いたら明かりで寄ってきたりするんじゃないか。こちらの居場所を教えているようなもんだし」
相当遠くからでもバレてしまう。
ルイゼルがうなずいた。
「魔族なら火を恐れないので寄ってきますが、魔物は知性が低いので、火を吐く種族以外は近づいてこなくなります。まあ、どちらがいるかは運ですね。見たところオーガ砦以降は魔族の居住区はありませんでしたし、火を吐く魔物よりは火を吐かない魔物の方が圧倒的に多いですから」
「確率的にってことか」
「ええ。そんなわけでわたしはこちらを探しますので、天ヶ瀬さんはあちら側の薪を探して持ってきてください。一晩燃やしてもなくならない程度に集まったら、ここに戻ってきましょう。あまり遅くなりそうでしたら、無理はせず。目印は、えっと……」
ルイゼルが右手の人差し指と中指をそろえて、下から上へとヒュっと振った。途端に彼女の足下の土が盛り上がり、小さな砂山のように盛り上がった。
「ここで」
「便利だな」
「真似をすればよいのでは?」
俺も同じように指二本をそろえて振ってみた……が、何も起こらなかった。
「天ヶ瀬さんにも得手不得手があるようですね。火は操れましたし、シルフが懐いたから風もある程度は操れるようになるのでしょう。土は苦手なのかな」
「そうらしい。何度やってもできそうにない」
「ざまぁ」
「ざまぁて……」
さらさらの砂を壺にしろと言われているような、妙な感覚だ。
「水は試してみなければわかりませんね。といっても近くに川がないと試しようもないですが」
何度やってみても、脳内の歯車が噛み合いそうにない。
それでも白紙のパズルを解くように続けていればいずれはできるだろうが、まあそこらへんはルイゼルに任せた方がよさそうだ。
俺にできないことがあったのが嬉しいようで、あからさまに機嫌よくなってるし。
「そういえば喉が渇きましたね。オーガ砦のときから何も飲んでいません」
「ああ。ビジネスバッグが無事ならペットボトルのミネラルウォーターがふたり分あったんだが、砦で目を覚ましたときにはバッグそのものがなくなってた」
外回りのときには、自分と部下の分をいつも用意している。
熱中症には注意が必要だから。
「仕方ありませんね。明日の朝一で川を探しましょう。これだけの平原が緑を保っているということは雨がよく降る地域でしょうし、水源もそう遠くないところにあると思います。最悪、魔法でとことんまで穴を掘れば泥水なら出てくるかと」
「おお、頼もしい~……」
「でっしょー!」
得意げな顔で薄い胸を張った。
ガドルヘイムに来てよく見るようになった表情だが、可愛らしい。
「では手分けしましょう」
「いや、待て。薪集め中に危険はないのか?」
「……ぅ……。そ、そりゃあリスクはありますけどー……」
話していた間に、もう日が暮れていた。
夕焼けが薄闇になり始めている。
「天ヶ瀬さんは風と火の魔法を使えるじゃないですか」
「風はさておき、火は平原を死滅させてしまいかねんが」
オーガ砦の惨状を見ればなあ。
「うう。でも、手分けした方が早い……」
「安全には代えられないと思うが」
部下の安全を守るのは上司の勤めでもある。
戦闘力に関しては、器用に様々な魔法を操るルイゼルよりも、魔法出力のバカ高い俺がいた方が確実に安全だ。まあ、あの恒星魔法じゃ、先述の通り平原を死の大地に変えてしまいかねないが。
「効率を重視しましょう。日暮れまでに間に合わなければ意味がありません」
「だが襲われた場合、間に合う間に合わないの話ですらなくなってしまう」
それでもルイゼルは頑として首を縦には振らない。
「なあ、ルイゼル。俺はそんなに頼りにならないか?」
「そ、そんなことは言っていません。ただ……その……」
「ルイゼル、キミが心配なんだよ。そりゃあ俺じゃ魔法を暴走させちまう可能性はあるけど、キミが一緒ならある程度までは制御してくれるだろうし、敵の殲滅という意味では――」
ルイゼルが唐突に大きな声を出して、俺の言葉を遮る。
「そうじゃなくって!」
驚いた。それはまるで、悲鳴のような拒絶だったから。
言葉に詰まる。
彼女の語気が強すぎて、俺は二の句を継げなくなってしまった。
ルイゼルは苛立たしそうに、髪をかきむしっている。
拒絶があまりに強い。異常なほどにだ。嫌われたもんだ。
さすがに少し傷つく。そんなに嫌だったか。
だが、ルイゼルは。
「ああん、もう~……」
頬を赤らめ、唇を尖らせてつぶやく。
「よ、用を足したいんですぅ……。こんなこと言わせるまで食い下がらないでくださいよぉ……」
「あはい。ごめんなさい」
真顔で謝った。
結局、俺は後ろを向いて耳を塞ぎ、彼女の用足しを待ってから、一緒に薪を集めた。
夜の始まりは、非常に気まずい空気だった。