第8話 エルフの嫉妬
シルフちゃんは俺から唇を離すと、今度は俺の周りを楽しげに舞う。足下を中心にして、軽い上昇気流が発生した。スーツの裾とネクタイが、ふわりと浮き上がる。
涼しくて気持ちいい~……。爽やかぁ~……。
「はは、こりゃすごいな」
ひとしきり俺の周囲を飛び回り、シルフちゃんは空へと消えていった。
なかなか貴重な経験をした気がする。そんなことを考えながらルイゼルに視線を戻すと、彼女はじっとりとした目で俺を見ていた。
すこぶる機嫌が悪そうだ。
「なに?」
「小さな女の子が好きなんですか?」
「……ああ? ああ、なんかやたらと懐かれてたな。あれ? もしかして嫉妬してる?」
「屁に似た寝言はトイレでどうぞ」
「ごめんなさい」
ひどい。
「半分の倍ほどはあたってますが」
「そうなんだ……」
んん?
じゃあ屁に似た寝言じゃないじゃん! てかなんだよ、その言い回しは?
「え? ルイゼルはやっぱり俺のこと好きなの?」
彼女はなぜか俺を小馬鹿にしたような笑みを浮かべている。だがしばらくの後、ルイゼルはため息をつきながらうなだれた。
「はあ~……。なんで言葉も通じないのに契約してんですか……」
「誰と? 取引先なら、今頃激おこだと思うぞ」
あ、だめだ。仕事のこと思い出したらテンション下がった。
「シルフとですよ。どうやって手懐けたんですか? 精霊と親和性の高いエルフ族でさえ、契約まで達するのに時間がかかるのに」
契約。あのキスのことかな。
「あれなら一方的にされただけだぞ」
「むかつく……」
どうやら彼女はシルフと契約をするまでに、相当な苦労があったようだと推察される。
ああ。確かに好きの嫌いのって話じゃないな。魔法の才能の話だったか。
「嫉妬って魔法の才能の話? 魔法でミニ恒星創ったり、シルフちゃんが俺にすぐに懐いたりしてるから?」
「そうですよ? 他にありますー? あ、なんでしたっけぇ? わたしがあ? あなたをぉ? 好きぃ? でしたっけ? まあカッコイイわ、すっごい自信をお持ちなのですねえ。ぷぅーくすくすっ」
「俺はいま、先ほどの迂闊な発言を死ぬほど後悔している」
「ですよねー!」
ルイゼルは実に楽しそうだ。
俺も楽しいぞ。
「恒星魔法はわからんが、シルフちゃんの件はほら、俺が長年営業マンやってたからじゃないかな。他人に取り入るのは結構得意分野だし」
うわ、納得できていないのか、今度はすんごい目で見てる。
いかん。いかんな。あの視線。
このままでは性癖が歪みそうだ――!
「あと、なんでわたしはルイゼルなのに、シルフはシルフちゃんなんですか?」
「へえ? ああ!」
やっと理解した。
魔法的な嫉妬が半分と、もう半分は敬称的な嫉妬だったか。
いい歳して勘違いが恥ずかしいな。ルイゼルのような若い美人が俺に惚れるわけないと、頭ではわかってるんだが。
「オーケー。ルイゼルちゃんって呼んだ方がいい?」
ルイゼルが腰に片手をあてて吐き捨てた。
「やめてください薄気味悪いですとんでもなく」
「もうなぁ~んだよぅ……」
「けれど本当に人間だとは思えませんね。先ほどの恒星魔法といい、シルフとの親和性の高さといい、ハイエルフから見ても桁外れです。見た目ではわからないものですね。顔も姿も服装もただのビジネスマンなのに」
勇者のポテンシャルってやつか。
あまり自覚はなかったが、俺という人間は結構すごい人だったのかもしれん。だからもっと褒めてほしい。
だがルイゼルは素っ気なく。
「とりあえず連合の拠点を目指しましょうか」
「場所は?」
「シルフにでもお尋ねになればいいんじゃないですかあ? はぐれたらそうしてください。彼女たちは契約者の問いにはちゃんと答えてくれますから。わたしと違って」
俺はパタパタと顔の前で手を振る。
「や、言葉が一切通じないんだが」
ルイゼルが「ああ」とうなずいた。
「すみません。数年間日本にいたのですっかり忘れていました。ガドルヘイムでは日本語はほぼ通じませんね」
「そりゃそうだろ」
外国だもん。外惑星かも。
「わたしのようにある程度古文書を通じて学んでいる者もいますが、それほど数は多くないです。例えるなら、ハワイの現地人で関西弁が通じる割合程度しかいません」
「説明わっかりづら……」
やはり日本とガドルヘイムは、昔から何らかの関係性があるようだ。
「ですが、公用語が使えないのは困りますね。拠点まではしばらく歩きますので、その間にある程度まででも覚えてもらうしかなさそうです」
「わかった。よろしく頼む、ルイゼル先生。いやさ、女教師ルイゼル」
「卑猥な響きに言い直すのはやめてください。ハラスです」
「ごめんなさい……」
耳がピコピコ上下に動いた。
先生と呼ばれたのが嬉しいのだろうか。得意げな顔がかわいらしい。
「仕方ありませんね。では太陽の降りる方向に向かいながら少しずつ」
彼女が指さす。
「東西南北的な指標はないのか?」
「日本に比べればまだだいぶ若い文明なので。太陽と月、星の位置で――って何してるんですか」
俺は腕時計をなるべく水平に保ち、時針を太陽に向けた。
だが、ふと気づく。
「あ。だめだ。ガドルヘイムは一日あたり何時間だ?」
「さあ? 正確にはわかりません」
「時計のない世界か。まあ、しょうがない」
諦めた。二十四時間であればある程度の方角はわかりそうなものだが、指針がないのではどうしようもない。
清々しいほどに何もわからない。いままで培ってきた知識が何一つ通用しない。
だが、それがいい。それが楽しい。覚えることがいっぱいだ。
「何を笑ってるんですか」
「何でもないよ」
空を切り取るビルはない。吸い込まれそうなほどの広さだ。青い空と緑の平原は、どこまでも続いている。それを見ているだけで気分が晴れるってもんだ。
ああ、気持ちいいなあ。
「まあ、のんびり行きましょう」
「そうだな。せっかくの観光だ。時間はいくらでもある」
「またそんなことぉ~……。時間があるっていっても、人類が滅びるまでですからね?」
彼女と並んで歩き出す。
ふと、彼女が立ち止まった。
「ああ、それと」
「?」
言いにくそうに咳払いをする。
「聞かれる前に言っておきますが、わたしの嫉妬の残り半分の話は忘れてください。連合拠点に到着したら嫌でもわかることなので」
「ん? 魔法的なことと、シルフちゃんにだけ敬称つけるのはずるいって話だろ?」
「……何です、それ? 後半の」
え? 違うの?
ルイゼルが額に手を当てて、ため息を吐いた。だがやがて顔を上げると、半笑いでこうつぶやく。
「いえ、そうです。それです。ふふ、どうでもいいことなので忘れてください」
「わかった。ルイゼルちゃんって呼ぶよ」
「ひっ!?」
ひっ!? って……。
「部長に――あ、んんぅ。天ヶ瀬さんにそう呼ばれると鳥肌立つんでやめてください」
「あはい。ごめんなさい……」
叱られた。謝ってばっかりだな。
俺が苦笑いで拝むように右手を立てると、ルイゼルが少し慌てたように付け加えた。
「だって寂しいじゃないですか。突き放されてるみたいで」
「そう?」
「そうですよ」
「少しは親しんでくれてるってことか。そりゃあいいね」
ルイゼルが悪戯な笑みを浮かべる。
「実は会社にいた頃からですよ。ガドルヘイムのことがあったので、天ヶ瀬さんの前では態度に出しませんでしたが。謝罪行脚の同行も、他の女性社員の手前、休みがちなわたしに気を遣って誘ってくださってた部分があったでしょ? 仲間はずれにされないようにとか?」
「……」
思わず言葉に詰まってしまった。
ルイゼルが人差し指を立てる。
「必要なかったんですよ。催眠術みたいな魔法があるから、日本で他人に取り入るのは簡単ですからね」
「そうか」
「でも、ありがとうございます。嬉しかったです。ああ、こういう人が勇者なんだ~って」
俺は。報われた気がしていた。不覚にも彼女の言葉が胸に染み入った。
だからだろうか。
いまこの瞬間、俺自身が彼女に惹かれた気がする。初めてだ。
だが。それでも。
俺は視線を地面に逃がしてつぶやく。
「考えすぎだ。キミを連れていけば大体の取引先は許してくれるからだよ。美人は得だ」
「はいはい。言い訳は歩きながらで。行きますよー。あ、でも美人ってとこは認めます」
歩き出した彼女を追いながら、俺は後頭部を掻いた。
「言い訳て……」
「ふふ、まあまあ」
しかし、どうやら彼女の嫉妬の残り半分は、少なくとも敬称のことではなかったらしい。彼女の言う通り拠点到着で自然に知れることなら、残念ながら浮いた話でもなさそうだ。
隣を歩く端正に整った横顔からは、何も読み取れそうにはない。
まあ、いまはいいか。楽しいし。