第4話 部長は天才
俺の返事を待たずして、彼女は立ち上がった。先ほどまでの悲壮感などどこ吹く風で。
「さて、そうと決まれば、ここから逃げましょう」
なるほど。これがサバサバ系とか言われる女性か。やっぱ違うか。いやもうわからん。
「返事まだしてないけど、どうやって?」
「こう見えてもわたし、少々魔法が使えるんですよ。ふふん。――あ、いまのは謙遜ですよ? 実はかなりの使い手なのです」
ルイゼルが得意げに薄い胸を張って右手をあてた。
あってB。推定Aカップだ。美人なのに所々惜しい部分が垣間見れる。
「でもそれって幻を見せられるだけなんだろ。催眠術程度じゃないか」
「まさか。当然、他にも使えますよ。これでも連合の中ではかなり優秀な方だったんですから。連合内部には天啓機構っていう軍部とは別の独立した頭脳組織があるのですが、そこの七賢者にも数えられていましたし。末席ですけどね」
連合って人員不足なんだな。もちろん声には出さなかった。
まあ、なんにせよ、この牢獄から出られるならそれに越したことはない。
俺も彼女に倣って立ち上がる。えっこらせっと。
彼女は鉄扉まで歩み寄ると、長い耳をぺたりと扉につけた。
「……周囲に足音や話し声は聞こえませんね。いまから魔法を使いますけど、驚いて声とか出さないでくださいよ」
「わかった」
そうつぶやくと、彼女は右手の掌をくるりと天井に向けた。その直後、掌から炎が一気に立ち上った。それは牢の中の気温を猛烈な勢いで引き上げて、天井にまで到達する。
おお、これはすごいぞ。
不満げな表情で、ルイゼルが俺に視線を向けた。
「ちょっとは驚いてくださいよ」
「どっちだよ。さっきは驚くなと言ってただろ」
「むー……。これが乙女心です」
「違うなあ~。だいぶ性格変わってきてるなあ~」
ルイゼルが不満げに吐き捨てる。
「そりゃあ会社じゃ猫くらい被りますよ。仕事ですもん」
「俺の前では虎を被ってなかった?」
「うるさいです。集中するんで黙ってて」
「そういうとこだぞ……」
彼女が五指を曲げる。すると縦横に広がっていた炎が、徐々にその幅を狭くしてきた。やがて炎は橙色からほのかに薄まった白へと近づき、拳大にまで圧縮される。
「よし、と。ちょっと下がっててください」
「ああ」
そうして彼女は鉄扉の鍵穴へとそれを押しつけた。鉄の溶ける臭気が漂い、溶岩のように鉄が溶け出す。やがて押しつけられた彼女の手が通路側へと貫通する頃、持ち手や鍵穴を完全に溶かされた鉄扉はギィと音を立てて開いた。
「行きますよ」
ルイゼルが耳を立てながら鉄扉の外を覗き、扉の隙間からするりと廊下に出た。俺は慌てて彼女を追う。歩くたびに足音の響く革靴が、いまは鬱陶しい。
広い廊下だ。幅はおよそ四メートル、天井までの高さも同じくらいある。オーガ族の体躯に合わせて造られているのだろう。恐ろしい話だ。
だが、幸いにもオーガ族の姿はない。少なくとも牢獄からは抜け出せた。
ルイゼルが薄い胸を張る。
「ざっとこんなもんですっ」
俺たちは廊下にできた影を伝うように、身を屈めながら走る。だがいくらも行かないうちに、俺は何かを踏みつけた。パキリ、と砕ける音が響いた瞬間、ふたり同時に足を止めて身を縮めた。
しばらく待ったが、音はオーガ族には届かなかったようだ。ルイゼルが安堵の息を吐いて、じっとりとした目線を俺に向けた。
「す、すまん」
「……いえ、そのことではなく。彼らはわたしのようなエルフと違って、音に敏感な種族ではないですから。えっと、それより、足下は見ないことをおすすめします」
うひょー。見るなと言われれば見たくなる。
言われた瞬間にはすでに、俺は視線を下ろしていた。よく見えない。真っ暗で広い廊下に松明の炎が揺れているだけだから、とにかく薄暗いんだ。
目をこらすと、白い棒のようなものが足下にあった。ふたつに割れている。どうやらこれを踏んでしまったらしい。
俺は屈み込んで拾おうとして、直前で手を止めた。
「……!」
それは骨だったんだ。よく見れば、そこら中に散乱している。頭蓋もあった。形状から察するに猿や人。それも大小様々だ。大人も子供もか。
ルイゼルの話を信じるなら、人間……だな。
骨はすでに人体のように繋がってはおらず、関節ごとにばらまかれ、砕かれ、無秩序に転がっているだけだ。
「……」
骨の側には玩具が転がっていた。車輪のつけられた木製の鳥だ。子供がヒモで引いて遊ぶものだったのだろう。
恐怖以外の真っ黒な何かが、体内の奥深くでざわりと蠢いた。肌が粟立ち、ざぁと音を立てて血がのぼっていく。
このとき俺はどんな顔をしていたのだろう。少し慌てたように、ルイゼルが囁いた。
「天ヶ瀬部長、どうか冷静に。落ち着いてください」
「大丈夫だ。人喰いってのをあらかじめ聞いといてよかった」
「……本当に? 大丈夫?」
「ん? ああ、うん」
ルイゼルが薄い胸をなで下ろす。
だが実際にこうして犠牲者を目の当たりにすると、なかなかにくるものがあるな。どうやら彼女の言う通り、人間にとってこの世界ガドルヘイムはかなり危険な地のようだ。
人骨に両手を合わせ、頭を下げる。
「死にゲーみたいな世界か……」
俺は視線を上げてルイゼルに尋ねた。
「なあ、さっきルイゼルが使った魔法って、練習したら俺にもできるのか?」
「立ち止まっている時間はありません。進みながら説明します」
「わかった」
立ち上がって走り出す。可能な限り骨は踏まないように、足下に気をつけながら。
しかし、あらためて思う。こんな危険な世界なら、何かしら力はあった方がいい。例えば先ほど彼女が見せてくれた魔法のような。
「さっきの魔法って、こんな感じで出してたっけ?」
俺は彼女の魔法発動を真似て、右の掌を天井へと向けた。
ルイゼルが苦笑する。
「残念ながら人間族には魔法が使えません。体内に魔力を蓄えることのできる魔族とエルフ族にしか、純粋な魔法使いは存在しないのです」
「へえ、そうなのか。なんか出そうな気がしたんだが」
掌は沈黙したままだ。
「ですが、人間族には似て非なる力として、魔術というものがあります。あなたが学ぶべきはそちら側かと」
「へえ」
ハンドサインで俺を止め、彼女は柱の陰から周囲を見回す。耳を立てて動かして。
ハンドサインが変わった。一緒に走り出す。
「ただし魔法と違って魔術は、自身の外なる魔力をかき集めるための呪文詠唱と、集めた魔力を一時的に格納するための触媒となる杖や本が必要になります。だからどうしても威力は弱く、発動も遅くなってしまうのです。ふふん、所詮は劣化魔法ですね」
「勝ち誇った顔してる」
「そりゃあ、こちらの世界ではわたし、めっちゃくちゃ優秀な方なので。天ヶ瀬部長は逆のようですけどー」
幼少期から、なんにでもくそ真面目に取り組む姿勢を叩き込まれたため、大体のことはできたんだがなあ。勉強も、スポーツも、もちろん仕事もだ。
周囲はそれをすごいと驚いてくれるが、俺にとってはただ、できないことをできるまでやり続けるだけのことだったんだ。
コツをつかむまで。無地のパズルのピースをひとつひとつ、確かめながら当てはめていくように。根気よく。
けど、さすがに魔法は無理か。
と思ったとき、カチン、と頭の中で何かがハマった気がした。
「……なんかわかったかも。いけそうだ」
「あはは、いくら潜在能力が高くても絶対に無理ですよ。種族の垣根はそう簡単には超えられませ――」
直後――。
掌が熱を帯びた。しゅうと音を立てて白煙が上がった直後、最初に小さな火花が散ったのが見えたと同時に大炎があふれ出す。
まるで火山の噴火だ。
「うわっ!? なんか出たッ!! 怖っ!!」
「きゃあっ!!」
それも、先ほど彼女が見せた炎の魔法よりも、さらに大きく。
天井に当たって広がり、跳ね返って壁を伝い、空間を食い荒らして術者である俺をも呑み込み、牢獄前の廊下を水のように這い回って走り出す。壁も天井もだ。
「あ。やべ」
出し方は理解した。でも制御できんわ、これ。
もはや辺りは地獄、火の海だ。
「ちょ、ちょ、ちょっと! 天ヶ瀬部長!」
とっさの判断だったのか、ルイゼルは両手をクロスして透明の壁のようなものを作り、炎を防いでいる。
一方、炎の中に突っ立っている俺は。
「止めて! 早くこれ止めて! 熱ッ……あ、あれ? 熱……くない……ぞ……?」
「それは術者だからです! てかなんで魔法使えるんですかっ! 人間でしょ!? それもあなた、ガドルヘイム出身ですらないんですよ!?」
「キミのを見てたら、できそうな気がした」
ルイゼルは餌をついばむ金魚のように、口をパクパクさせていた。
炎はなおも広がり続け、もはや廊下の奥に見える上り階段をも駆け上がっていく。
「ま、まあいいです。もうわかったんで、そろそろ――」
「すまん、制御できん」
「……は? 自分でやったのに!? オーガ族にバレちゃいますよ!? わたしの結界だって長くはもちませんし、わたしまで灼く気ですかっ!?」
「そんなこと言われても――」
その瞬間、階上からこの世のものとは到底思えないほどの、凄まじい悲鳴が聞こえてきた。たぶん、俺たちをここに閉じ込めたオーガ族とやらの悲鳴だ。
やばいやばいやばいやばい。放火魔になっちゃう。




