第20話 部長と黄金竜
静かだ。ルイゼルの寝息と、焚き火の爆ぜる小さな音しかない。
いくら火を焚いていても、さすがに山の中腹は冷える。運良く風のない夜だったが、それでも肌寒さは変わらない。
スーツのジャケットはルイゼルが羽織ったままだ。さすがに眠っている彼女から取り戻すのは気が引ける。
俺はそこらで拾い集めた枝を焚き火に放り込み、火勢を強くする。
「ん……」
寝返りを打ったルイゼルの身体からジャケットが落ちた。襟をつかんで引き上げ、もう一度肩に掛ける。
寝息はすぐに一定のリズムに戻った。
ルイゼルが蔓を編んで作った篭から、果実を取り出す。甘酸っぱいそれを囓って、眠気と気を紛らわせた。
虫の声はしているが、鳥の声さえない。オークロードという恐ろしい存在が、この山から植物と昆虫以外の生命を追い払ったようだ。彼女の言っていた通り、確かにあまり危険はなさそうだ。
だからといって無防備に眠るような真似は、さすがにできないが。ガドルヘイムが危険な地であることだけは、もはや疑いようがない。
樹木を背に、ルイゼルの隣に腰を下ろす。
まだ彼女が眠りについて一時間も経ってはいないだろう。しばらくは眠れそうにない。そんなことを考えながら、胸いっぱいに夜気を吸い込み、空を見上げる。
日本の都会では絶対に見られない星空は、何度見上げても壮観以外の言葉が出てこない。数十秒おきに流れ星まで見えてしまうほどだ。
「ああ、帰りたくないなあ~……」
ルイゼルは日本に戻るつもりでいるようだ。おそらく彼女を日本に送った天啓機構とやらの賢者に、もう一度送らせるつもりで人類拠点を目指しているのだろう。
「ふー……」
俺はどうしようか。
日本に戻ったって、これまでと同じ退屈な地獄を繰り返すだけの人生だ。
こちらの人類がどんな状況下にいるかは、まだこの目で確かめていないからなんとも言えないが、それによっては残ってもいいかもしれない。ルイゼルだけを安全な日本に送ることができたなら。
ただ、せっかくできた友人らしき人間関係が壊れるのは、寂しくもある。
空を見上げながらそんなことを考えた瞬間だった。
チリ……。
微かな電流のようなものが、肌の上を走った気がした。
「静電気……?」
俺は反射的に立ち上がり、空を見上げる。俺たちが来た、魔族領域の広がる太陽が昇る方向の空――ではない。人類領域のある太陽が沈む方向の空でもない。
両者を分断するように広がる山脈の山嶺。魔族領域を仮に東と当てはめるなら、北だ。
目を凝らす。何も見えない。
「なんだ……?」
見えない闇から不安が押し寄せてきた直後、あからさまに本能が警鐘を鳴らした。毛穴が開き、ドバっと汗が噴出する。
オークロードの比ではない。それすら霞むほどの圧倒的存在感。
突風――!
「うわっ!?」
凪いでいた森に突風が吹いた。いや、突風が叩きつけられた。細い木々は薙ぎ倒され、木の葉は一斉に舞い上がり、俺は手で目を覆いながらルイゼルの腕をつかんだ。彼女とジャケットが飛ばされないようにだ。
焚き火だけが空に吹っ飛んで、火は完全に消失する。
「――っ」
突風がやみ、強風となったとき、俺は目を覆っていた手をゆっくりと下ろした。瞼を上げて、そうして大きく、大きく目を見開いていた。
心臓が大きく胸の内側を叩く。
「……」
眼前の空に、金色に輝く恐竜のようなやつがいたんだ。
体長はおよそ五メートルといったところだが、翼の端から端までなら、二十メートル以上はあるだろう。そいつが翼を上下させ、空中に浮いていた。それだけで吹っ飛ばされそうなほどの強風が巻き起こされている。ヘリのダウンウォッシュの比じゃない。
ゲームや漫画には疎い俺でも知っている。この生き物をなんと呼ぶか。
「竜だ……」
竜。すなわちドラゴンだ。神すら喰らうとされる最強の生物。
金色の竜は、真っ黒な瞳で俺を見つめていた。獣の目ではない。確固たる知性を持った目だ。黄金色の鱗の表面では、常に水色の電気のようなものがパチパチと爆ぜていて、わずかに発光している。
――……。
「……」
言葉が出ない。
すごい。震える。
恐怖じゃない。これは畏怖だ。俺は神にも等しい何かと、いまここで対面している。
恐怖と畏敬、そして歓喜。胸の鼓動がすごい。
「は、はは、ははは」
おそらくこの生物がその気になれば、俺など一秒で挽肉にされてしまうだろう。恒星魔法とて効かないのではないだろうか。肌でそれがわかる。
危険だ。わかっている。わかっているのに、嬉しい。目が離せない。一瞬でも長くこの時間を味わっていたい。
子供の頃、初めて見た景色のように。
色気すら感じる。ワクワクが止まらない。ガドルヘイムは神秘の世界だ。
「なんて美しい生物なんだ」
そう口に出した直後、竜は長い首をフイと反らせて俺から視線を外すと、次の瞬間には空を見上げ、彼女は翼で中空を叩いた。
突風、いや、もはや爆風だった。
風に全身を叩かれて吹き上がった俺は、ルイゼルの腕をつかんだまま後方へと大きく飛ばされた。とっさに彼女を両腕で抱きかかえ、かろうじて足から着地する。
「っと」
見上げた空に、もう彼の竜の姿はない。雷光色の尾を引いて空の彼方だ。
一瞬の邂逅だった。
まだ胸がドキドキしている。俺はどうやらあの竜に一目惚れしてしまったようだ。
「な、な、なん、です? いま、の?」
腕の中のルイゼルもまた、空を見上げていた。黄金の竜の去った空をだ。
困惑している。震えながら俺の身体に両腕を回し、抱きついていることにも気づいていないらしい。
「見たか? ルイゼルも見たよな? ガドルヘイムってすごいな! 竜までいるのか! 初めて見たよ! あんなにも美しい生物がいるなんて驚きだ……! ああ、スマホが生きてたら待ち受けにしたいのに……!」
生命の美しさというものを目の当たりにした気がする。
「竜……? 竜ってより、こ、古竜でしたよね?」
「知らんよ。ガドルヘイムはキミの方が詳しいだろ。なんか違いあるの? 年寄りの竜が古竜?」
ルイゼルがくわっと目を見開いた。
「わ、わ、わたしだって知りませんよ! 初めて見ましたもん! 古竜なんて伝承の中の生き物じゃなかったんですかっ!?」
「初めて? ガドルヘイム人なのに? あいつら普段は空飛んでないの?」
「いるわけないでしょ! そこらにうじゃうじゃいるワイバーンや竜人ならともかく、いまのは古竜ですよ!? それも神殺しの雷光竜エゼルギウスに見えました!」
「そんなに珍しいやつだったのか」
あいつ、めっちゃこっち見てたけど。
興奮したなあ。襲われてたら死んでただろうけど。それでも見られてよかった。
「おそらくガドルヘイムでも一体しかいません。それも、たったいま確認できたから一体と言っているんです」
「というと?」
「戦前からの天啓機構の調査では、数千年前には絶滅していたという報告書が上がっているくらいなんですよ」
「日本に恐竜が生きてた、みたいな?」
ルイゼルがコクコクとうなずく。
「ええ。それも生きた化石系の中途半端な連中ではなく、ティラノサウルスとかそういったゴリゴリの恐竜の方です! それくらいの大発見なんですよ!」
「おお~。何となく御利益とかありそうだなあ」
ルイゼルが頭痛を堪えるようにこめかみを押さえた。
「何事も起こらなければいいのですけどね。何かの凶兆とか」
「大丈夫だろ。なんか見た感じ、いいやつっぽかったし。いやぁ、今日はいいもん見れたなあ。マジでスマホで撮って待ち受けにしたかった」
気楽に返すと、ルイゼルがうめくようにつぶやく。
「これだから平和ぼけ民族はぁ~」
「ははは」
「ふふ。でも、そういうところ結構好きですよ。おかげでこちらも落ち着けますからね。慌てるのがバカバカしくなります」
俺は両手を腰にあてて、満面の笑みで口を開いた。
「じゃあやっぱ俺と結婚するか~」
「う~ん、考えときますね」
んん?
もうちょっと拒絶されるかと思ったんだが。
その後、見張りを変わってもらった俺は眠りについた。
んん?
黄金竜「(勇者なんて初めて見た。なんか御利益ありそう……)」




