第2話 魔法とおじさん
牢獄内の衛生状態はお世辞にもよろしくなさそうだ。石壁も石畳も、端の方は苔むしてしまっている。湿度が高くて気持ち悪いし、ちょっとカビ臭い。
入り口には錆びた大きな鉄扉が一つあり、覗き窓には鉄格子が設置されていた。その隙間から見えるものと言えば、夜のような暗さに揺れる、頼りない炎の灯りくらいのものだ。
気になるのは鉄扉の大きさだ。ちょっとした金持ちの邸宅の門くらいある。ゴリラでも通るのだろうか。
スマホは事故の衝撃せいか、あるいは地下にいるせいか、どこにも繋がらなくなっていた。会社にも取引先にもだ。完全に遮断されてしまっている。
でもひとつわかることがある。珍しく頭がすっきりしているし、全身が軽く感じられることから、俺は相当長い間、ぐっすりと気絶――眠っていたらしい。
謝罪をすっぽかすとは、取引先はさぞやカンカンだろう。髪の毛の乏しい太った社長の顔を思い出して、思わずため息が出た。
「はぁ~……」
牢の端には藁が敷かれており、そこにカジュアルなOL服のエルフィンが眠っていた。俺たちをここにぶち込んだやつが誰かは知らないが、閉じ込めるにしても男女同室というのはいかがなものか。ちなみに運転手の姿はない。
「交通刑務所じゃないよな。そもそもこっちは車を当てられた被害者だ」
俺は眠ったままのエルフィンに視線を向けた。
あまり気は進まないが、無事を確認する必要がある。躊躇う理由は、人当たりのよい彼女だが、俺にだけいつもつっけんどんな態度を取ってくるからだ。それも、不思議と彼女が部署にきた初日からだ。
だが状況が状況。背に腹は代えられん。
俺は彼女に歩み寄って膝をつき、躊躇いがちにその肩に触れ、そっと揺らした。
「エルフィン。おい、エルフィン。起きてくれ」
「ん……んん……」
瞼が微かに揺れる。まつげが長いな。男の理想を体現すべく、完璧に整えられた人形みたいだ。惜しむらくは、胸だけが残念な感じだ。
彼女は寝ぼけ眼で俺の顔を見て、突然勢いよく上体を起こし、崩れた体勢のまま後ずさった。
「~~っ!?」
みるみるうちに、肌が赤らんでいく。
それが怒りのせいなのか、あるいは寝顔を見られた羞恥かはわからん。わからんが、ちょっと色っぽい。
「……っ、ハラスですよ、天ヶ瀬部長!」
少し考える。答えが出ない。尋ねてみた。
「鮭?」
「セクシャルなやつです!」
「ああ、セクハラのことかあ」
天ヶ瀬は俺の名だ。天ヶ瀬湊。
俺は両手を挙げて首を振った。
「いや、なんもしてなぁ~い」
「本当でしょうね……?」
半眼で俺を睨んでいる。
なんでそこまで俺を警戒するんだ。これが俗に言う「生理的に受け付けない」というやつだろうか。実際にやられると結構傷つくんだが。
俺はため息交じりにつぶやく。
「ケガはないか?」
「ケガ?」
「事故ったんだよ。会社から出てすぐタクシーが。覚えてないか」
しばらく黙考して、唐突にエルフィンはカッと目を見開いた。そうして、自身の金色の頭を両腕で抱える。
「あー……ああああっ!」
「思い出したか」
エルフィンが俺のネクタイをつかんで顔を寄せた。
いや短い方をつかむな。首が絞まる。ぐぇぇ。揺するな。
「死にましたよね? わたしたち死んじゃったんですよね!?」
「……いま……死に……そう……」
何を寝ぼけたことを言っているのか。
俺はネクタイの隙間に指を入れて、弛めながら口を開く。
「生きてるよ。不思議と無傷で」
「死んだんですよ!」
「生きてるだろ。足もある。お互いに」
俺はエルフィンのすらりと長い足を指さす。スカートが膝上あたりまでめくれている。
エルフィンが慌てて裾を下ろした。
「ちょっと。見ないでくださいよ。ハラスです」
「正しくはセクハラな。……いや、いまのは違うよ? そういうアレじゃないからね?」
「あと幽霊に足がないなんて言ってるのはステレオタイプの日本人だけです」
ステレオタイプで悪かったな。
「今日は特に容赦がないな……」
そこでようやく気づいたように、エルフィンは周囲を見回し始めた。真剣な表情でだ。
「ここ、どこです?」
「俺が聞きたい。もしかしたらキミがすでに知っているかもしれないと思って起こしたんだが」
どうやら先に目覚めたのは俺だったようだ。
「……」
彼女は俺の質問には応えず、何かを考え込んでいるかのようだ。
「まさか……でも……」
「何か知ってるのか?」
「……」
今度は無視かあ。若い娘に無視されると堪えるなあ。だっておっさんだもの。
仕方なく俺は鉄扉に歩み寄り、覗き窓の格子をつかんだ。炎の灯りが揺れているということは、少なくとも建物内には誰かがいるということだ。
考えたって答えのないことなら、さっさと聞いてみるのが早い。
咳払いをして。
「誰かいませ――」
「だ……ッ!?」
突然背後から口を塞がれた。手でだ。
エルフィンだ。彼女がなぜか突然俺を羽交い締めにするように背中から引き倒したんだ。耳元で焦燥感に駆られたエルフィンの囁き声がした。
「だめ……ッ、お静かに……ッ、眠っているふりをして……ッ」
「あ、ああ」
ものすごい剣幕だ。
不承不承、俺は先ほどと同じ位置に移動して寝転ぶ。薄目を開けてだ。エルフィンも同じように藁の上に寝そべった。
そうしなければならなかった理由は、すぐにわかった。
薄目で見た鉄扉の格子から覗いた顔が、まるでお伽噺に出てくる鬼のようだったからだ。それも大きさが半端ない。人間の頭部の倍はあるだろう。つまり覗き窓全体が、小さな覗き穴に思えるほどの大きさだ。
そこから察するに、この鬼っぽい人の体格は――……。
「~~っ!?」
息を呑む。
そいつは毛むくじゃらで角が生えていて、下顎から突き立つように上顎まで届く牙が二本ある。やつはぎょろりとした眼球で俺たちを一瞥して去っていった。
こっわ……。心臓バックンバックン鳴ってる……。
その足音が完全に消えてから、エルフィンと俺は同時に身を起こす。
「……いまのは?」
「オーガ族です。――ああ、やっぱり事故で死んでたんだ。強制転移を仕掛けられてたのね」
独り言のように、エルフィンがつぶやいた。
「おが屑?」
「オーガ族です。笑えもしないようなしょうもないオヤジギャグを挟まないでください。今時ダジャレなんて言われた方はイライラします」
きっつい……。
「オーガ族ってなに?」
「人喰いの魔族です。生きた人間を頭から囓って食べるのが大好きな種族です。味付けは恐怖と悲鳴らしいです」
何を言っているのかさっぱりわからん。わからんが、あの頭部の大きさでは肉体は熊くらいか。実際に可能なのだろうなと思えてしまう。
こっわ……!
俺は一縷の望みを託して彼女に聞いてみる。
「ヤのつく自由業をやっていらっしゃる、ちょっと強面のお方とかではなく?」
「そもそもが人間じゃないです。てか知らないんですか? オーガなんて、日本でもゲームや漫画や小説なんかの創作物にいくらでも出てくるじゃないですか」
彼女の言い分では、あれらは古き時代に異世界から現実世界へと運良く帰還できた人々が伝えた、実在の生物らしい。それらが創作物として、現代まで世界に伝わっているのだと。
寝ぼけてんのかな?
そんな俺の感想をよそに、彼女は続ける。
「昨今じゃ異世界転生や異世界転移を題材にしたお話なんて珍しくもないのに、ほんとに仕事のこと以外何も知らないんですね。部署のみなさんが言ってましたよ」
知りたくなかった。知りとうなかった。
俺、そんなこと言われてたんだ。
「なんか、すまん」
だめ。油断すると涙出そう。
「部長は仕事以外何もしてこなかったの? あんなに娯楽に溢れた楽しくて安全な世界で生きてきたのに? どうして?」
子供の頃は勉強ばかりやらされて、ゲーム機なんかは買ってもらえなかった。
言っちゃなんだが、すべての家庭用ゲーム機をファミコン、ゲームをピコピコと呼んでしまう老人たちと知識に大差はないと自負している。
「どうしてって、それは……」
「いえ、いいです。興味ないです」
すんごい冷たい。今日は特に冷たい。
「じゃあなんで聞いたんだよぅ」
「そんなことより、急いでここから逃げましょう」
また無視かあ。おっさんは寂しいといじけてしまう生き物だというのに。
「このままじゃふたりとも食べられてしまいます。――ちょっと失礼」
エルフィンが右手を挙げて、俺の耳元で指先をパチンと打ち鳴らした。
意味がわからず、俺は視線を彼女へと戻して――気がついた。
「あ……」
耳だ。金髪の直毛から、長い長い耳が生えた。
それだけじゃない。OL服だったはずなのに、一瞬で着替えられている。薄緑を基調とした可愛らしいチュニックだ。けれども日本ではあまり見ない、不思議な形状をしている。
まるで妖精のような可憐さだ。
「な――っ!?」
「自分にかけていた幻術魔法を解きました。実はわたし、こっちの世界出身のハイエルフなんです。エルフィンは名前ではなく“エルフ族の”という意味です」
俺はあんぐりと口を開けて見とれてしまった。
なるほど。ルイゼル・エルフィンは、エルフ族のルイゼルということか。いや、そんなことよりもだ。
俺は拍手をする。
「なんというすごい手品……! 世界びっくり人間に出演できそうな早着替えだ。だが感心しないな。男の前で堂々と服を脱ぐだなどと破廉恥極まりない」
エルフィン――いや、ルイゼルが歯を剥く。
「幻術魔法って言ったでしょうがっ! わたしを見る人はOL姿の幻覚を見るだけです! だからそもそも着替えてません! あとナチュラルなハラスはやめてください! それと世界びっくり人間的な番組は昭和で終わってますからぁ! これだからおじさんは!」
きっつぅ。
だが俺はいつものように笑顔の仮面を貼り付ける。
「そ、そっか。まあ、魔法だったのならセーフだな、うん」
生着替えじゃなかったのは残念だが。
ルイゼルが不満げに両手を腰に当てた。
「リアクションおかしくない!? 現実出身なら手品より魔法の方が遙かに珍しいでしょ!?」
あ、ほんとだ。生着替えじゃなかったことの残念さが勝ってしまった。
しかし今日は珍しく表情が豊かだなあ。
本日の更新はここまでです。