第15話 野獣の襲来
翌朝、早々に発つことにした。追われる身としては、やはり一つところに長く留まるべきではないからだ。
あいにく水筒はおろかペットボトルさえないが、ルイゼルが水の精霊であるウンディーネに命じて、大量に水を含ませてくれた。実際に貯水と濾過ができるのは実に助かる。
「そう言えば、ウンディーネがいるならエレメイア平原を土系の魔法で掘って出てきた泥水でも濾過できたんじゃないか?」
いま俺たちの背後には、パンパンに膨らんだウンディーネがヨチヨチと歩いてついてきている。丸くなりすぎて歩きにくそうだ。これはこれで可愛らしい。
しかしそうなると歩みが遅くなる。魔物に襲われたときに逃げ切れるかどうか。まあ、魔物は出現するかわからないが、渇きは必ず訪れるから仕方がない。いざとなれば抱えて走るしかないだろう。
ちなみにこのウンディーネは、ルイゼルと契約をしている個体のようだ。
「無理ですよ。限度があります。ウンディーネの水色が濁ってしまうほどの泥水だと、あの子の濾過機能もすぐにダメになっちゃいますから、繰り返し使えませんもん」
「浄水器のフィルターみたいなものか。それって取り替えはできるのか?」
できないとしたら、とても気の毒だ。
ウン泥ネになっちゃうからネッ! とか言うとまたオヤジギャグだと叱られるんだろうな。漢字文化って悩ましいや。
「取り替えはできませんが、綺麗な水に全身を浸してあげれば、勝手に汚れを排出して綺麗な半透明に戻りますよ。なので何度でも使えます。へそを曲げない限りは」
「ははは。この子もシルフも、一応生き物だもんな」
「現象生物です。厳密にはわたしたち生物とはちょっと違う存在ですよ。でもちゃんと感情はあります。ガドルヘイム語も理解していますしね」
俺はウンディーネちゃんを振り返る。
えっちらおっちら、一歩ごとに左右に揺れている。泳ぐのは得意だそうだが、地上を歩くのは苦手なのかもしれない。
「そっか。よろしくな。ウンディーネちゃん」
――コポコポコポ……。
喉の奥から気泡の爆ぜる音のようなものがした。心なしか表情が柔らかく見える。
俺はルイゼルに尋ねる。
「なんて?」
「エロい目で見ながら気安く話かけてんじゃねえ黙っててめえの仕事だけしてろこの愚図男が、と」
俺は膝から崩れ落ちた。
「……」
「うふふ、冗談です。喉が渇いたら言ってくださいね、と」
なんでそんなひどい冗談言ったの!? ねえっ!?
「まだ続きがあります。あなたの性癖に合わせて、どこからでもお水を出せますから直接お口をつけてどうぞ、と」
俺はルイゼルを指さして叫んだ。
「女性だからって何言っても許されると思うなよ!」
「あれ? なんでわたしが言ったってわかったんです?」
「そんくらいもうわかるわ!」
まだ寝食を共にして推定一日二日?だが、ルイゼルのことは少し理解できた気がする。
「怖い……。わたしのことに詳しくなり始めてるこの人……」
「こっちのが怖いわ」
しかし、ウンディーネちゃんは気立てもよい上に素晴らしく高性能だな。
日本に連れて帰ればオフィスなんかでは重宝されそうだ。いや、なんで俺はビジネスで考えてしまうんだ。
ルイゼルにガドルヘイム言語を教わりながら、ただただ広いエレメイア平原をふたりと一体で歩いていく。途中、遠目に何度か魔物らしき群れを発見したが、俺たちはそのたびに遠回りをして戦いを避けた。
勝てないからというわけじゃない。
もしも食える魔物であれば、多少の危険を冒してでも戦うべきなのだが、いまは危険よりも消耗の方が怖いのだと、ルイゼルはそう言った。実際問題それから数日歩き続けても、平原の終わりは見えてこなかった。
食べられる野草で飢えを凌ぐのにも限界がある。川だってそうそう見つかるもんじゃない。ウンディーネ汁も残り少ないのか、精霊は初対面時より小さくなっている。
平原の終わりを見たのは、そんなときだ。
「山だ……」
「山ですねえ」
平原から林に変わり、しばらくすると前方に山が見えてきた。それも左右に広がる山脈だ。迂回はできそうにない。
「ガドルヘイム山脈です。人類領域はあの向こう側にあります」
「向こう側って……登るしかないのか。結構高いぞ」
こちとら水と野草と芋と泥魚だけで、ほとんど歩きっぱなしだ。
正直言って体力はあまり残っていない。ルイゼルも目の周囲に隈ができてしまっている。たぶん俺もなのだろうが。
「でもまあ、樹木は豊富だから木の実ならありますし、小川もあるはずです。獣もいますし、平原よりは食べ物に困らないかと」
「それはいい」
それから半日。進む林が、徐々に登り坂へと変化していく。
確かに木の実はあった。アケビっぽいものや、リンゴっぽいものもあった。甘みは日本のものと比べるべくもなく薄いが、驚くほどうまく感じられた。
ふたりして夢中で食べた。
どうやら山脈の麓に入ったようだ。木々の他にもシダ植物などが足下に蔓延り始めている。歩きづらくなってきた。
暖かかった陽光も樹木に遮られ、徐々に肌寒くなってきた。湿度は高いが、気温が低めなのがせめてもの救いか。しかし夜は冷えそうだ。
「寒くないか?」
「ええ。いまは平気です。……あれ? もしかしてスーツのジャケットを貸そうとか思ってくれていたりします?」
挑発的に笑って、ルイゼルが俺のジャケットの袖を指先でつまんだ。
「キミが加齢臭を気にしないというのならな」
「わおっ、さすが天ヶ瀬部長。紳士ですね。じゃあ、寝るとき布団代わりにしたいんでそのとき貸してください」
「へいへい。……敷くなよ?」
「ちっ、掛けます」
なぁ~んで舌打ちするかなぁ? まあ気持ちはわかるけどさ。
草原と違って岩場だ。クッションになる草も少ない。枯れ葉でも集めるしかなさそうだ。虫とかいそうで嫌だな。
「天ヶ瀬さん」
「ん?」
ルイゼルが俺の肩をつかんで足を止める。
耳が動いている。俺には風の音と木の葉のざわめき、それに鳥や虫の声しか聞こえていないが、どうやら彼女は違うようだ。
目つきが鋭くなっている。
「……何かたくさんの足音がします。すでに捕捉されてますね。まっすぐに向かってきてる。山脈に入ったときから見られてたのかも」
「え……」
そこまで言われて、ようやく俺の耳にも届いた。
長く伸びたシダ植物が激しく揺れる。前方から側方、そして後方へと回り込むように。
ほとんど無意識に、俺たちは背中を合わせていた。俺は彼女に尋ねる。
「……山ごと削っていい?」
「だめです。せめて人類領域側の下りに入ってからじゃないと、やはり目立ちすぎます。へたをすればわたしたちのせいで、魔族の追っ手を人類領域に呼び込んでしまうことになりかねません」
「だよなあ」
とはいえ、正直なところさほど危機感はない。なんとなくだが、不思議とまたなんとかなるんじゃないかと思っている自分がいる。
平和ボケで生物的本能が死んでしまっているか、あるいは――……。
オーガ砦を吹き飛ばした恒星魔法に、ルイゼルの助けが必要とはいえ岩石をも砕ける拳だ。いまさらちょっとやそっとの敵が出てきたところで。
「……ッ」
ルイゼルが小さな舌打ちをした。
どうやら彼女には敵の正体がわかったようだ。尋ねたところで教えてもらっても、俺には聞き覚えなどないバケモンなのだろうが。
危機感はないが、気は引き締めておいた方がよさそうだ。
「厄介なやつ?」
「ええ。とても。オーク族は、とてもスケベな魔物です」
「へえ。……ん? なんて?」
そう尋ねた直後、そいつらは一斉に草むらか頭を出した。
薄汚い茶色の豚――いや、どちらかと言えば猪だ。やつらには牙がある。そいつらが二足ですっくと立ち上がった。
でかい。腰から胸あたりまでの高さのシダ植物に隠れられるくらいだから、もう少し小柄かと思ったが、ツキノワグマくらいの大きさはあるんじゃないだろうか。
前脚に蹄はなく、発達した四本の指で器用に棍棒や石斧を持っている。あきらかに敵意をこちらに向けている。
チリと、空間が焦げ付いた。これが殺気というやつだろうか。
ルイゼルが静かに告げる。
「彼らは雑食の魔物です。負ければ天ヶ瀬さんは喰われますよ」
「うへえ……」
「そしてわたしたちエルフはもっとひどいことをされます。スーパーハラスです」
「スーパーで売ってる鮭の腹身」
「エロい方です。そうなったときは天ヶ瀬さんが身代わりになってください」
「い~や~だ~……」
「ならくだらないオヤジギャグ言わないでください」
見た感じ、オークとエルフではまったく共通点のなさそうな種族のように見えるが。何にしても勘弁願いたいね。
「ただ、同時に――」
ルイゼルが口元から垂れた涎を手首で拭って、ギラリと目を光らせた。
「彼らの肉は美味ですよぉ。とってもぉ」
「ほう」
俺は両手の指をポキポキと鳴らした。
それは勝っても負けてもおいしいな。




