第10話 部長とフラグ
長い夜がきた。
どこまでも広がる平原は闇の海に呑まれ、そこにくつろぐ俺たちの周囲にだけ頼りない焚き火の橙色がぼんやりと浮かんでいる。
夜の船乗りも、こんな不安な気持ちなのだろうか。
薪の爆ぜる音だけが、風のないエレメイア平原に漂っている。空にはプラネタリウム並みの数の星があるが、その光は地上を照らすほどではなかった。
たぶん、星明かりや月明かりの旅なんてものは、ロマンチストな作家が考えたシチュエーションなのだろう。街灯のない夜の闇はそれほどまでに深い。
ルイゼルは俺の隣で寝息を立てている。
最初の見張りを買って出たのは俺だ。彼女の顔に疲労の色が見えていたから。
俺は転がしてきた石を背中に置いてもたれかかり、夜の空を見上げていた。
時折不気味な声が響き、浮かぶ星を遮るように大きな影が上空を飛ぶ。たぶん、あれらがルイゼルの言う魔物なのだろう。こちらを認識していないはずはないが、焚き火のおかげか近寄ってこない。
当初は鳴き声が聞こえるたびに身を固くしたが、しばらくすると慣れた。昔から新しい環境に適応するのは早い方なんだ。親父も俺と同じで会社人間だったから、子供の頃から転校をしまくってたからなあ。
俺は薪を拾って焚き火にくべた。
パチ、パチと、焚き火が爆ぜる。
「……」
風に乗って獣臭がした。
風上から気配が近づいてくる。俺は掌を上に向けた。けれどしばらく停滞したあと、それはゆっくりと去っていった。
「魔物がだいぶ寄ってきてますね」
ルイゼルの声に緊張を解き、視線を戻す。上体を起こした彼女は、大あくびをしながら両腕を持ち上げ、背筋を伸ばしていた。
「ああ、すごい臭いがしたな」
「いえ、それではなく、すでに結構な数に囲まれてますよ」
ルイゼルが両方の長耳の後ろに手をあてて、目を閉じてから首を回した。
「息づかいの数から察するに、遠近三百六十度合わせて七体か八体はいるんじゃないでしょうか。知性体や火を噴くタイプがいないのはラッキーです。群れもいません」
「ラッキーて……」
そう言われると気が気じゃなくなってくるんだが。よく眠れるな。
ルイゼルが目を開けて、俺に視線を向けた。
「ラッキーですよ? 彼らがわたしたちを狙っているから、他の魔物――火を恐れないタイプの魔物が寄って来づらくなってるんです。狩り場の縄張りみたいな状況って言えばわかります?」
「わかるけどさぁ」
ある意味、俺たちを喰おうと狙っている魔物が、俺たち自身を守ってるってことか。いやもう何が何やら。
「まあそれでも、竜種や魔族、他にも上位の魔物なんかが来たら、取り囲んでる彼らも逃げちゃうでしょうけどね。その場合は焚き火では防げません」
「そうならないことを祈るよ。無事に朝を迎えたらガドルヘイムの神さんに感謝だな。そうだ、朝食も考えなきゃならん。さすがに腹が減ったし、喉も渇いた。ただの水でもおいしく感じられそうだ」
ルイゼルが「あはは」と笑った。
「もう、一気に死亡フラグを立てまくるのやめてください。ほんとに死にゲーみたいですよ。まあ、こっちはゲームと違って生き返れませんが」
「そんなつもりはなかったんだが。……んじゃいっそ俺と結婚するか!」
もちろん冗談だ。最強の死亡フラグというやつで。
けれどルイゼルは即座に返してきた。
「ん~。気が向いたらね」
「ははは」
「ふふ」
笑うと綺麗だ。
炎の明かりで微かに見えているだけなのに、綺麗だと思う。例えるなら一枚の絵画だ。薄暗さが独特の雰囲気を醸し出している。
ひとしきり笑って、ルイゼルが口を開いた。
「見張り、代わりますよ」
「ああ、そのことなら別に疲れてないぞ。加齢で体力が落ちてしまったとはいえ、一徹二徹くらいならまだ大丈夫だ。慣れてるからな」
「ああ、ここにも魔物がいたわ……」
「どこ!?」
「そこ」
俺は彼女の指さす先、俺の背後を振り返った。夜の闇しかない。
や、わかってる。わかってるんだ。誰が魔物だ。真顔で俺を指さすな。この若者が。せめて企業戦士と呼んでくれ。と言おうとした瞬間だった。
「――っ!」
バッと、ルイゼルが顔を上げた。
目を見開き、耳を立てる。
「どうした?」
「魔物が一斉に散りました。何か近づいてきてるかも。天ヶ瀬さんが死亡フラグ立てたから」
「ええ、俺のせいなの?」
「焚き火! 薪をくべてください! 朝まで保たなくてもいいから全部!」
俺は大慌てで薪を炎に放り込んでいく。
地面に頬をつけて息を吹きかけると、炎が爆ぜながら勢いを増した。ついでに足下にあった乾いた草をがむしゃらに放り込む。
煙と炎がさらに勢いを増す。
「どう?」
「だめです。来てますね。火を恐れていません。大きいな。でも姿が見えないと対処の考えようも。ああ、こっちは剣もないのに……」
「俺が吹き飛ばそうか?」
恒星魔法なら炎に耐性があろうがなかろうが、大抵の魔物とやらは消し飛ばすことが可能なはずだ。
「だめですよ。平原丸焼け以外にも、オーガ砦の一件で、すでに魔族が動き出しているかと」
「へ?」
「何を驚いた顔をしてるんですか。天ヶ瀬さんは敵の一拠点を兵士まるごと消し飛ばしたんですよ。とっくの昔にわたしたちには追っ手が放たれてるはずです」
「あ、ああ。そうか。確かに。あまり考えてなかったが、戦時下だったな」
「ええ。なのでここであなたの魔法を使ったら、居場所や逃走の方向を魔族サイドに教えてしまうようなものです」
確かに。
夜に小型とはいえあんな威力の恒星が弾ければ、どこからだって見えてしまう。焚き火とは規模が違いすぎる。
あちらさんサイドからすれば、俺は脱獄大量殺戮犯だ。確かにリスクの方が遙かに高い。
「逃げる?」
「暗闇の中で逃走してはぐれたら、お互いもうどうしようもないです」
「そっか……」
地響きがした。オーガ砦のものより大きな地響き。それはまるで、岩石を地面に叩きつけているかのような足音だ。
「竜種かも……」
「つ、強い?」
「魔族以上に危険です。もし上位の竜種であれば、火に大きな耐性があります。恒星魔法を直撃させても倒せるかどうかといったところだと思ってください」
「ええ、あれで死なない生物がいるの!?」
つぅと、額から浮いた汗が伝った。
オーガと対面したときに感じられた自信や万能感が、いまは感じられない。視界が闇に包まれていて、敵の姿が見えていないからか、あるいは潜んでいるのがオーガ以上に危険な敵だからなのか。
ルイゼルが早口でつぶやいた。
「わたしがやります。もし最悪の状況に陥ったと判断した場合にだけ、天ヶ瀬さんは恒星魔法をぶっぱしてください」
「え、俺がいくよ! 危ないだろ!?」
女性に先陣を切らせるのは抵抗がある。そんなことを言っていられる場合じゃないのはわかっているが。
「ですがもう他に方法が――」
「キミが逃げろ。俺が残ってなるべく引きつける。ヤバそうなら恒星ぶっ放してみて、それでダメなら俺も後を追う。太陽の沈む方向だろ。なぁに、生きてりゃまた会える」
ルイゼルが口を開き、動きを止めた。
俺の頭頂部――いや、それよりさらに上を凝視している。
俺は恐る恐る振り返った。
「~~ッ!?」
息を呑んだ。
そこには巨大な岩を積んで造られた、体長にして五メートルはあろうかという巨人が、真っ赤に染まった感情のない瞳で俺たちを見下ろしていた。
鉄骨ほどの太さと長さのある右の腕部を振り上げてだ。
「避け――!」
ルイゼルの叫びと同時に、やつはそれを俺たちの頭上へと叩き落としていた。




