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第1話 部長はいつも疲れている




 昔からNOと言えない性格だった。

 当然のように押しつけられる仕事を、残業を駆使して睡眠時間を削りながら処理していくうち、能力が高いと上役に勘違いされて異例の出世を果たした。

 結果として、出世レースで追い抜いてしまった元上司や先輩方からやっかまれ、さらに押しつけられる仕事の量は増えていった。

 それでも、俺は仕事をこなし続けた。


 そして勤続二十年。振り返れば、辞める機会は婚期をも道連れに過ぎ去っていった。

 疲労だけが無限に蓄積していく。人間の限界とはどこにあるのか。なまじ肉体が頑丈だったおかげで、倒れて休むことさえもままならない。

 それは現在進行形で(いまも)だ。


 肩で電話の受話器を挟みながら手に持った書類の束に目を通し、もう片方の手で部下に指示を出しつつ、気障ったらしくウィンクなんかをして見せたりして。


 ――なんだって? 取引先をシステムダウンさせてしまった? ははは、それは先方もさぞやお怒りだろう。謝罪には俺がいくよ。

 ――心配するな。平行してバックアップから修復もしておくから。

 ――なんだ、まだプレゼン資料ができていなかったのか。会議まで三時間だろ。仕方ないな、移動がてら手伝うよ。

 ――おっと、謝罪用の菓子折の用意をしておいてくれ。いや、買いに行くではなく、俺のロッカーに何種類か常備してあるから取ってきてくれるだけでいい。

 ――また例の人からのクレームか。OKわかった。後ほど対応するから、本日中に折り返すと伝えておいてくれ。

 ――俺がやるよ。

 ――俺がいる。

 ――俺がいく。

 ――んもう、とにかく全部俺がやるからぁ。


 ……どうかしている。

 もはやNOと言えないどころか、完成してしまった完璧社会人パーフェクトビジネスマンとしてのキャラ付けで自らを追い込んでしまっている始末だ。

 そして深夜に帰宅。

 ひとり暗い部屋の角で壁にもたれ、うつろな目をして三角座りだ。


 このままでは死んでしまう。先日も風呂でうっかり眠って溺れかけたばかりだ。そうでなくとも排水溝に詰まる髪の毛の量が増えている気がする。

 こんな状態で、何年経過したことか。でも人前に出ると笑顔の仮面を貼り付けてしまう。口癖のように大丈夫だと言ってしまう。

 ああ、まったく悩ましき悪癖よ。



「部長? 天ヶ瀬部長?」

「……」

「天ヶ瀬さ~ん」



 何度か名を呼ばれて、虚空を漂っていた意識が戻った。

 どうやら立ったまま微睡んでいたらしい。



「……んぁ!? ああ、ああ。どうした?」



 反響する声と排気ガスの臭い。会社の地下駐車場だ。そうか、取引先への謝罪にいくんだった。

 隣には部下が立っている。背筋のピンと伸びた、美しい女性だ。



「タクシーもうきてますよ。忘れ物ですか?」



 ふと気づくと、俺の前には会社に呼んだタクシーが到着していた。

 俺が虚空を見つめたままいつまで経っても乗り込まないものだから、運転手は困惑した表情を浮かべている。



「それとも、天ヶ瀬部長ともあろうお方が、珍しくお疲れですか?」



 珍しくないんだなあ、これが。常に疲れてんだよ。性格的に弱みを見せられないだけのことで。

 俺はニカッと笑って見せる。



「まさか。よし、行こう」

「はい」



 彼女の名はルイゼル・エルフィン。帰化したヨーロッパ人だと言っていたか。三年ほど前にうちの部署に彼女がやってきたときには、それはもう驚いた。

 金色の長い直毛に、雲ひとつない晴れた日の空のような色をした瞳。肌は透けるように白く、手足はすらりと長い。おまけに鈴を転がすような愛らしい声だ。それでいて物腰は柔らかで、気さくに誰にでも分け隔てない態度や仕草を見せた。

 世の中には完璧な美女というものが存在するものだなと、初対面時ではそんなふうに思った。


 たぶん部署の独身男性は、全員が色めき立ったのではないだろうか。

 事実、彼女が部署入りして以降、何かしら水面下で動いていたらしき男性社員が数名、会社から去っていった。何があったかなど、想像に難くない。

 まあ、独身とはいえ四十も半ばにさしかかった俺には、もはや色恋沙汰など蚊帳の外の出来事ではあったのだが。


 短所といえば華奢で病弱なことくらいだろうか。もっとも、彼女の人生を支えたいと願う男性社員からしたら、それは仕事の肩代わりや気休めの言葉などの話題を作れる都合のよい隙にも見えていたのだろうが。

 とにかく彼女は会社を休みがちだった。それでいて、彼女との未来に夢破れた男性社員は次々と会社を去る。


 おかげで当時の俺の負担はいまの比じゃなかった。とはいえ、恵まれた容姿に関してはエルフィンに責任があるわけではないし、間違いなくそれは長所だ。彼女をめぐる人の移動が落ち着いたあたりで、俺の生活はもとに戻った。

 “めっちゃしんどい”から、“しんどい”にだが。

 それでも俺にとってエルフィンの巻き起こす現象は、悪いことばかりではなかった。彼女のおかげで救われたことも少なくはないんだ。


 それは、今回のような謝罪の場へのエルフィンの同行だ。

 とびきりの海外美人を前にして感情的に怒鳴り散らせる日本人の男というのは、滅多にいない。むろん程度や損害額にもよるところだが、大抵は謝罪時にエルフィンを同行させるだけで平穏無事に切り抜けられる。



「いつも悪いなあ、エルフィン。謝罪の場にばかり駆り出して」

「いえ。わたしは休みがちでみなさんに迷惑をかけてしまっていますし、これくらいは別にかまいませんよ。それに日本でなら、謝罪で命まで取られることはないでしょう」



 彼女は真顔でこんなことを言う。流暢な日本語でだ。

 ヨーロッパと聞いていたが、一体どこの紛争地域からきたのやらだ。あるいは、死生を論じるほど病弱なのだろうか。

 まつげ、長いな。横顔が異様に整っている。他のやつのところでは時々微笑む様子も見られるのだが、俺がいるときはいつも鉄仮面のような真顔だ。



「天ヶ瀬部長こそ、あいかわらず損な役回りをされていますね。他人の尻拭いはそんなに楽しいのですか?」

「あー……。まあ、手伝った方が早く終わるから……」



 そんなもん楽しいわけがない。俺は休みたいんだ。何も考えず一日中寝ていたい。それよりどこかへ行ってしまいたい。自分を知る人間のいないところに行って、もう帰ってきたくない。

 こんなこと言ったって仕方のないことだ。

 俺と会話をしていても、エルフィンは興味なさそうに窓の外を眺めている。まだ地下駐車場なのにだ。流れる景色もあるまいに、よほど俺とは相性がよくないと見える。



「そうですか。やはりあなたは変人ですね。理解できない」



 外国人ってのは、言葉をオブラートで包まない。クールビューティー。それが彼女に対する部署共通の認識だ。

 俺は苦笑いで濁す。



「勘弁してくれ。言い方がキツくて傷つく」

「あら、繊細。ですがご安心を。謝罪の場では言葉もわきまえますので」



 おっと。珍しく俺の前で笑った。

 まあ、見えたのは窓に映った顔なんだが。



「はは、ぜひそうしてくれ」



 先ほど、彼女は物腰柔らかで、気さくに誰にでも分け隔てない態度や仕草を見せた、と言ったが、ひとつだけ訂正しよう。

 どういうわけかエルフィンは、俺だけを異様に警戒しているように思える。言葉の端々に拒絶のトゲを感じるのだ。これ以上近づくな、とばかりに。

 嫌われるようなことをした覚えはないのだが。謝罪の場に駆り出すこと以外は。口ではなんと言ったところで、やはり同行は嫌々なのだろう。仕事なんてそんなもんだ。


 エルフィンが運転手に行き先を告げると、タクシーは走り出した。地下駐車場の地面でスキール音を鳴らして曲がり、ゆっくりと公道への坂道を上がっていく。

 安全運転第一だ。この運転手は何度も頼んだことのあるベテランだから信用できる。

 だが、いくらこちらがそれを心がけていたところで、向こうから突っ込んでくるもらい事故だけは防ぎようがない。


 ……いや、実際になかったな。


 ああ、ようやく思い出せた。

 あの日、あのあと、俺たちの身に何が起こったのかをだ。

 狭い石造りの部屋で、俺の声だけが反響する。



「そうだそうだ。そうだった。思い出したぞ。タクシーに乗って会社から出たところで、猛スピードで突っ込んできたトラックに衝突されたんだ」



 衝突の直前。それが避けられないと判断した瞬間、俺はとっさにシートベルトを自ら外し、エルフィンを庇った。

 謝罪への同行を彼女に頼んだのは俺だ。これは本来、彼女の仕事じゃあない。だから彼女だけは助けなければならないと、そう思ったからだ。

 覆い被さる寸前、息を呑み、見開かれた彼女の大きな青い目には、俺の姿が映っていた。その直後に鉄の拉げる轟音がした。

 覚えているのはそこまでだ。


 そうして。

 気絶から目を覚ました俺が最初に見た光景たるや――……。



「んで、結局どこだ、ここは?」



 湿った石畳と石壁の、まるで中世の時代で使用されていそうな、じっとりと湿った蒸し暑い牢獄だった。

 なんか逮捕されてるぅ~……。


次話は22時頃投稿予定です。

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