「おはよう」より先に恋の音が聞こえた
中学に上がる頃、マンションの隣に女の子が引っ越してきた。
伊香保文香、俺と同い年で来年から同じ中学へ通うらしい。
親からは『ほら、ちゃんと挨拶しなさいよ』と言われたけど俺は女子と話すなんて軟弱だと無駄に気取っていたせいで挨拶をしなかった。
隣の子も引っ込み思案というか昼休みと放課後はすぐに図書室に閉じこもるような奴だったので向こうからも挨拶をしてこなかった。
だけど、なぜか毎朝学校へ行く時間は被る。
どうも母さんたちが中学まで複数人で歩いて行った方が安全だからと時間を合わせているらしい。
「………」
「………」
マンション3階の通路で顔だけ合わす、頭も下げない。
一度挨拶を逃すとずーっと決まずくて俺はタイミングを逃し続けていた。
挨拶も無いので会話も始まらない。おはようの一言が上手く口から出てこない。
同じ中学校なのでもちろん同じ通学路。
会話もしないでただ気まずいまま学校へ向かって歩く。
もう夏休み目前。一学期も終わるのにずっとこの調子だ。
気まずくて勇気を出して挨拶をしてみようと思ってはいるんだけどなかなかできない。
いや、ほら…挨拶しないのが当たり前なのに突然するとか、気まずいじゃん?
でも話しかけたら意外と話が弾むかもしれない。
昨日のテレビ面白かったよな。マンガ何読んでる?図書館で何しているの?
そう声を掛けたらどんな風に返事をしてくれるだろう。
迷惑がるかな?楽しそうに返事をしてくれるのかな?
気になるなら話しかければいいのにそれができない。
一度タイミングを逃すと勇気がいる、当たり前になってしまった今を変えるのは勇気がいる。
いつものように悩み続けているうちに学校へ着いてしまった。
ああもう、気になるなら話しかければいいのに…
喋らないまま一緒に教室に入るとあいつは女子に囲まれる。
どんな会話をしているんだろう?気になるけどさすがに会話を盗み聴きするのは気持ち悪いしそんなに気になるなら話しかければいいんだ。明日こそはきっと挨拶…できるといいなぁ…
♦伊香保文香side
「今日も一言も話せなかったよ…」
私は隣に住む男の子、竜崎蹴人くんがとても気になっている。
サッカー部に入って1年生なのに練習試合で大活躍してて夏の大会にもレギュラーで出るらしい。
そんな気になる男の子と未だに会話の1つどころか挨拶の1つもできていない。
最初に引っ越しの挨拶をしたときに彼はプイとそっぽを向いてしまってそれ以降気まずいのだ。
男女が仲良くするのはちょっと気まずいなあと私も思うのでその態度は分からないでもない。というか現在進行形で私からも声を掛けれていないので同罪だ。
それはそれとして恋愛相談と言う名の『私は気になる人に挨拶の1つもできないヘタレです』とクラスメイトに報告する儀式は終わりにしたいものだ…
「はぁー…毎日一緒に登校してくる方が恥ずかしいでしょうに」
「最初にちょっときっかけがあれば大丈夫だから、また明日頑張ろ!」
「早く告っちゃえばいいのに☆」
最初は『隣に住む男の子と友達になりたい』だったのに気づけば恋愛相談だと言われ、私もだんだんそんな気がしてしまって。そう意識したら一緒に毎朝歩く時間がもうドキドキして止まらなくなって…いやー別に好きとかじゃ……好きかもしれません、はい…
「つーかもう、明日にでも声かけて友達やら恋人やらなっとかないと夏の大会でサッカー部の応援行きづらいんじゃない?」
「私に名案あるから任せんしゃい☆」
わかってる、分かっているんです…でもドキドキするし挨拶すらタイミングを逃し続けているのでどう声をかけたものか…もう名案とやらに頼りますか…
その提案は気まずい現状を今より少ない勇気で打破できるものの…それはそれで勇気のいる方法でした。
♦竜崎蹴人side
翌朝、また玄関を出ると伊香保は顔を赤くしてぐいっと、メモを1枚突き出してきた。
初めて見る行動に面食らいながら受け取ると文字が書いてあった。
『サッカーの応援に行きたいです 伊香保文香』
俺が読むやいなやこっちを見ずに伊香保は歩き出してしまった。
どういうことだこれ!?待て待て、追いかけて伊香保を見ると顔も耳も真っ赤でじとーっとした目を…俺に合わされる。
「へんじ」
「えっ」
「返事は?行っていいの?」
「お、おう!来てくれると、嬉しい」
「ーーー!!」
ああああ俺もなんで嬉しいなんて言っちゃったよ!
ほら、伊香保めっちゃ恥ずかしがってるじゃん!赤いままぷるぷるしてるじゃん!!
通学路で会話とか初めてだったから動揺して本音が出たんだよ!本音ってなんだ!?
友達、友達に応援に来てもらえて嬉しいだけだから!女子とか関係ねーし!!
変に意識してしまって伊香保から目を逸らすように横に並んで歩いた。
挨拶も会話も無くて静かな世界で、ずっとドキドキしている胸の音だけが聴こえた。
……今日はずっとこのまま…学校へ着かなければいいのにな。
この時のメモをずっと保管していた事を竜崎文香に知られるまであと13年。




