伯爵令嬢のやり直し①
『リネット』
シャイルの声がする。
その声は強くたくましくなった二十五歳の彼のそれではなくて、まだ一緒に伯爵領で暮らしていた頃の、あどけない少年の声だった。
『シャイル様』
闇の中で、リネットは手を伸ばそうとして――やめる。
リネットは一度、彼の手を取った。夫婦らしいことはできなかったけれど、彼の妻になるという幼い頃からの夢は叶った。
もう、自分は十分に幸せだ。
だからこれ以上、シャイルに不自由な思いはさせたくない。
彼に手を伸ばしては、ならない。
『リネット様』
誰かが、呼んでいる。
そして水中からふわりと浮上するかのように、リネットの意識は闇から光の中へと向かっていった――
がくん、と大きな揺れによってリネットは目を覚ました。
「んっ……う、え?」
「お目覚めですか」
どうやらリネットは頬杖を突いたまま寝ていたようで、体が傾いで頭がぐらぐら揺れた。
(……ん? ここは……?)
目をこすったリネットは、辺りを見回して息を呑んだ。
リネットは、箱形馬車の中にいた。幼少期から乗り慣れているアルベール伯爵家の姉弟用の馬車で、リネットの正面には灰色のドレスを着てつややかな黒髪を一つに結った女性が座っていた。
「……ミラ?」
「ええ、おはようございます。ちょうどいい頃にお目覚めになりましたね。王都まで、あと少しです」
そう言って微笑むのは、リネットの侍女であるミラ。
シャイルが伯爵領を去ってから塞ぎ込みがちになったリネットのため、父が連れてきてくれたのが彼女だ。
リネットより五つ上のミラはアルベール領の名士の娘らしく、最初は世話係としてそばに付いて一緒に勉強をした。そしてリネットが十八歳で王宮に上がることになった際にもお付きに志願して、侍女として一緒に来てくれることになった。
だが。
(……あ、れ? ミラ、少し若い……? それに――)
「ミラ、お腹が……」
「お腹?」
リネットが呟いたため、ミラは不思議そうに自分のお腹に手をやっていた。
王宮で最後に見た彼女のお腹は、丸く膨らんでいた。もうすぐ産み月になるので、静かな場所で出産してほしいと思っていたのだが。
(ちょっと、待って。戦争は……というか、ここってどこ!?)
「ミ、ミラ。今って……?」
「……ぼうっとされているのですか? これからリネット様は王宮に上がられるのでしょう。……よかったですね。エルドシャイル殿下とも再会できるはずです」
ミラは微笑んでから、鞄から手鏡を出した。
「王都に入る前に、身だしなみを」と差し出されたそれをリネットは受け取り、おそるおそる鏡面を覗き込む。
そして、小さく息を呑んだ。
(……わ、私、若い頃の顔をしている……!?)
二十二歳になったリネットは戦時中のため化粧もまともにできず、顔もかなり痩せていた。肌つやも悪かったし、短く切った髪もばさばさになっていたはずだ。
それなのに鏡に映る自分の顔は、つやつやとしている。ふわふわの癖のある赤茶色の髪は長くて、唇も荒れていない。それによく見ると、がさがさになっていた手もふっくらしていて、戦いのために深爪なくらい切っていた爪もほどよい長さだ。
(これは……まさか……まさか……)
「ミラ。今日は……何年何月何日?」
震える声で尋ねたためかミラは不思議そうな顔をしつつ――四年前、リネットが王宮使用人になるべく王都に向かっている日付を教えてくれた。
(……どういう、こと!?)
ミラが冗談を言うとは思えない。
現に今のリネットは若い頃の見目をしているし、ミラも過去の姿のままだ。それに窓の外に見える王都近郊の風景も、戦時中とは全く違っていてのんびりとしている。
(私は……四年前に戻っている……!?)
信じられない。
信じられないが、こっそり手のひらを抓ると普通に痛かったし、体中の感覚もはっきりしている。
これは、夢ではない。現実だ。
(魔法……なのかしら? でも過去に戻る魔法なんて、聞いたことがない……)
王子妃となってがむしゃらに魔法を鍛えた際にあらゆる魔法の書物も読んだが、過去に戻れる魔法なんてものはどこにも書かれていなかった。
(私は本当に、過去に戻っている……? それも、シャイル様と再会する日よりも前に……?)
ふと、目を瞬かせる。
今のリネットは、十八歳。ということは、王太子の急死後にシャイルの命令に背いて王宮に残ったあの日を、やり直せるのではないか。
それどころか、二十歳のときにデュポール侯爵によって殺害された王太子・エリクハインは健在だ。
王太子の暗殺を防ぐことができれば、継承問題も起きない。シャルリエ王国が二派に分かれて二年間にわたる戦争を起こすこともないのだ。
(もしかすると、誰も死なない、誰も後悔しない未来を今度こそ歩めるのでは……?)
どういうわけかリネットは四年前に戻り、しかも二十二歳で戦死した記憶を引き継いでいる。十八歳の頃の無力な小娘だった自分とは違う。
(デュポール侯爵の企みを、阻止できれば――!)
そこまで考え、ふっと冷静になる。
(もし阻止できたとしても……私は、シャイル様のそばにはいない方がいいかもしれないわ)
クリスフレアたちはリネットとシャイルの結婚を祝福してくれたが、この婚姻を快く思わない者もたくさんいたし、嫌がらせも受けてきた。
(あれは、戦時中だったから結婚できただけ。もし平和な世になったら……王子様と伯爵の娘が結婚するメリットなんて、存在しない)
リネットは一度、大好きな人と結婚するという夢を叶えられたのだ。
二度目の人生でも同じことを願うのは、罰当たりだろう。
(……シャイル様。あなたには今度こそ、幸せになってもらいたい)
シャイルだけではない。
王太子とクリスフレアの親子にはずっと健康でいてもらいたいし、エルマーも長生きしてほしい。
一度目の人生の彼はミラが妊娠していることを知らないまま戦死したので、今世でも二人が結ばれるのなら是非とも、皆の祝福のもとで結婚してほしい。
(そのためにできることを、探そう!)




