伯爵令嬢に迫る影⑤
自室の鏡台に向かって座っていたリネットは、ふと部屋のドアが叩かれる音を耳にして顔を上げた。
今日は、王宮のホールで舞踏会が開かれている。
リネットがシャイルの護衛として付き添うのはもっぱら彼が王宮の外に出るときだけで、今晩のように王宮内での催事の場合はそばにエルマーを付け、他の護衛魔法使いたちに会場内の巡回をさせることになっていた。
そういうことで今日のリネットはシャイルの護衛としての仕事はなく、日中は舞踏会のための準備をするべく、ごく普通の王宮使用人として清掃や調理の補助、客室の準備などを行った。
王宮使用人頭――通称マダムも、「今夜用事がない人は自室で待機すること」と指示を出していた。多くの貴族が訪れるので、使用人ごときが王宮内をふらふらするのは望ましくないのだ。
当然、本日リネットの部屋を訪問する者もいないはずだ。まだシャイルも会場にいる時間だろう。
「ミラ、様子を見てきてもらっていい?」
「かしこまりました」
来客対応はミラに任せ、念のために部屋着ドレスの上に一枚ガウンを羽織ってからリネットは鏡に触れた。
「……何もなければ、いいけれど」
懸念すべきはデュポール侯爵と――ついでにブール伯爵子息であると、シャイルにもクリスフレアにも言っている。
二人も、「自己防衛のためにも、当日の夜は部屋から出ないように」と言っていたし、シャイルは用事が終わるとエルマーを寄越してくれるそうだ。さすがに部屋に招き入れることはできないが、おやすみの言葉くらいは交わせるはずだ。
(……そうだ。お茶でも飲んで、ちょっと気持ちを落ち着けよう)
いつもミラが淹れてくれるので、たまにはリネットの方からミラに一杯淹れてあげたい。これでも茶を淹れるのは得意な方だった。
そういうことで鏡台の前の椅子から腰を上げたリネットは――ダン、という音を耳にして振り返った。
(……今の、何? 物がぶつかる音?)
音がしたのは、ミラが応対しているドアの方。
ごくっと唾を呑んでドアの方に向かったリネットは――開け放たれたドアの前に立つ男を目にして、小さく悲鳴を上げた。
「こんばんは、アルベール伯爵令嬢。……聞き分けの悪い侍女なら、廊下で寝ていますよ」
そう言ってニヤニヤ笑いながら室内に足を踏み込んでくるのは、やたらけばけばしい衣装を纏った男――ブール伯爵子息・ナルシスだった。
「な、何ですか!? ミラに何を――」
「おっと、逃げないでくださいねー」
笑いながら迫ってくるナルシスから逃げようとリネットはリビングの壁際まで後退するが、すぐに腕を掴まれてしまった。
直後、ナルシスはジャケットの胸ポケットから出した鎖のようなものを素早くリネットの手首に巻き付けた。その途端、リネットの体の中に満ちていた魔力がぎゅっと圧縮されたかのように息苦しくなる。
「こ、これって、魔法封じの……」
「ええ。……アルベール伯爵令嬢はおぞましい魔法を使うとの噂ですからね。こうでもしないと抵抗を――ぎえっ!?」
ささやきながら首筋を撫でられたため、リネットはナルシスの太ももを容赦なく蹴り飛ばした。
運動が苦手なリネットの蹴りごときでは大の男は倒せなかったが、それでも少しは牽制になったようで相手はおどおどしていた。
「な、なんて野蛮な! これだから辺境育ちの山猿と言われるのですよ!」
「山猿で結構です。……いきなり女性の部屋に押し入って拘束する変態に比べれば、ずっと可愛らしい称号でしょう?」
ナルシスの顔を睨み上げながらリネットが言い放つと、彼は冷や汗を掻きつつもくくっと笑った。
「なるほど、なるほど。……どうやら僕の未来の花嫁は、おてんばなくらいが愛らしい女性だったようですね」
「……。……誰が、何ですって?」
リネットが聞き返すと、ナルシスはふっと笑ってその場で頭を垂れた。
「リネット・アルベール伯爵令嬢。僕と結婚してくれませんか?」
「嫌です」
言葉と同時にちょうどいい位置にあった肩を蹴り飛ばすと、不安定な格好だったナルシスは「うわっ!?」と悲鳴を上げながら転がった。
(冗談じゃない!)
その隙にリネットは身を翻し、手首に回された魔封じの鎖を外そうとしながら廊下に向かう――が、途中でがくんと体が後ろに引っ張られた。
振り返らずとも、ナルシスがリネットのドレスのスカートを掴んでいるのだと分かり、かっと顔が熱くなる。
「へ、変態!」
「なんという言い草ですか!」
「私は、求婚の際に手を拘束してスカートを掴んでくるような男性となんて、絶対結婚したくありません!」
「ぐっ……! ふ、ふふ。いいのでしょうかね? ここであなたが抵抗すれば、あなたの大切な侍女がひどい目に遭うかもしれないのですよ?」
ぐいぐいと引っ張られるスカートをどうしようかと考えていたリネットは、その言葉にはっと振り返った。
ナルシスは床に倒れてリネットのスカートを引っ張るという情けない格好だったが、その顔には勝利の笑みが浮かんでいた。
「アルベール伯爵令嬢、あなたではエルドシャイル殿下の妃になれない。それはあなた自身が一番よく分かっていらっしゃるのでは?」
「……どうせ、私とあなたが結婚することで結果として、エルドシャイル殿下とクリスフレア殿下をくっつけようと企んでいるのでしょう?」
「ええ、ご名答。あなたが他の男のものになれば、さすがにエルドシャイル殿下も正気に返られるでしょう」
「正気じゃないのはあなたの方です。……あなたはクリスフレア殿下の口から直接、エルドシャイル殿下を異性として慕っていると聞いたことがあるのですか? その逆も、あるのですか?」
「ありませんが、見ていれば分かりますとも」
(う、うわぁ……! 本当の本当に、話が通じない人!)
なぜか自信満々に言われて、リネットは心底ぞっとした。
リネットにとっての永遠の敵はデュポール侯爵で、その他国王なども嫌な異性として認識している。だが、彼らとはまた別の方面でこの男はろくでもない。
ナルシスがスカートを掴んだまま立ち上がったため、リネットはぎょっとしてスカートを引っ張るが、これ以上引くと布地が破けそうだと悟ってナルシスを睨んだ。
「……何が私たちのためになるかは、私たちが決めます。妄想癖も凄まじいあなたが決めることではありません!」
「そうでしょうか? ……伯爵令嬢と王子が結ばれて、誰が幸せになれると? 一時は幸せだとしても……いずれエルドシャイル殿下が責められるのでは?」
そうささやかれた途端、リネットの心臓がほんの少しだけ不安を訴える。
リネットと結婚することで、シャイルが責められる。
それは――実際、一度目の人生で立証済みだった。




